箕輪初心●太田『台源氏館』=新田義貞誕生の地説

★『台源氏館』には「新田義貞卿誕生地之碑」と石碑が建っている。
『吾妻鏡』によれば、政義は寛元2年(1244)京都大番役として在京中、
幕府の許可を得ず突然出家をしたしたため、幕府の咎めを受けて所領
を没収され、(上野国)由良郷別所(群馬県太田市別所町)に蟄居す
ることになった。当時「新田荘由良郷」とよばれており、13C中頃~
14C前半新田氏本宗家の拠点となっていたと考えられている。

新田政義→政氏→基氏→朝氏→新田義貞と続く。」
(★新田荘遺跡のパンフレット)
新田荘遺跡の「円福寺」の東400~500mの所にある。現在
の北之庄公園である。 
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○新田荘遺跡「円福寺」「十二所神社」は群馬県旧太田市
西部の別所町にある。旧新田町の反町館の2km東に当たる。
さらに東に4~500mほど行った場所が新田義貞公誕生地
「台源氏館跡」である。円福寺までは、ぐちゃぐちゃで、3回も
道を聞いたので、わからなくなっちゃった。ナビがなかったのだ。
とにかく、分かりづらかった。住宅街の一角にあった。
後で分かったことだが、北之庄公園だった。


①北之庄公園・・・松・芝生・四阿屋・人・・
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②石碑「新田義貞卿誕生地之碑」
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③説明案内板
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台源氏館跡 新田義貞誕生伝説地
ここは太田市由良町(字北之庄)に当り、古くから太平記を飾る郷土
の武将:新田田義貞公の誕生の地と伝えられてきた。義貞公は正安
正安三年(1300)ころにここで生まれ、やがて反町館で青年期
をむかえ、
元弘三(1333)5月8日、生品神社で鎌倉幕府打倒の旗をあげ
たと伝えられる。
 公はその後、後醍醐天皇に仕え建武新政の要人として活躍した
が、暦応元(延元3・1338)年閏7月2日、福井の燈明寺畷
(なわて)で壮絶な最期を遂げたという。享年は38と伝えられる。
この館跡は巨艦跡の土塁の一部を整備して、昭和十三年(1938)
8月26日(陰暦の閏7月2日)、二基の石碑が建てられて義貞公誕生
の地とされたものである。
なお、義貞公誕生地はここの他に、反町館説、世良田新田館(総持寺)
説、榛名町里見郷説などがあり、不詳なところが多い。


◆◆ 箕輪初心●旧新田町『新田館』=新田義重館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_1.html

◆◆ 箕輪初心●旧新田町『安養寺館』=新田義貞館説 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_7.html
★新田義貞の生まれた場所の各説の詳細を記載した。


【1】「新田義貞公の生まれ育った館」
1)台源氏館説

2)反町館説

3)世良田新田館(総持寺)説

4)榛名町里見郷説・・・・・・榛名町教育委員会
               里見の郷の会 
●光明寺(高崎市榛名町)
  幼名は小五郎。小五郎砦もある。
  旧榛名町上大島には安養寺がある。
新田朝氏の養子なった説
    (★根拠は里見系譜・新田正伝記)
     ※尊卑分脈には記載がない。 

 「里見大炊守義忠の五男:新田太郎朝氏の養子
 小太郎」(★宮下過去帳の注記)
 「新田一族」筑波大学:山本隆志著P45


【2】「新田義貞公の成人後にいた館」
1)反町館説・・・・・・・・・・太田市教育委員会
少数説

2)世良田新田館(総持寺)説・・・
山崎一氏「群馬県古城塁祉の研究」
太田市教育委員会

3)大舘館説・・・・・・・・群馬大学教授:尾崎喜左雄先生

4)安養寺館(明王院)説・・都立大学名誉教授:峰岸純夫先生
太田市教育委員会の最近の説


★明日は、脇屋義助だ。

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