箕輪初心●群馬旧尾島町8『岩松館=青蓮寺』源義国~岩松代々の館

れいこねえさんから、トランペットのマースピースのプレゼント
があった。ありがどうございます。大事に使わせていただききます。

新田氏・足利氏の始祖:源義国が岩松館を創築し、子:新田義重、
孫:義兼の3代が居館していたされる。新田義兼の没後、譲状に
より、未亡人の新田尼に所領が安堵され、新田尼は岩松館に居館し
たと考えられている。貞応3年(1224)、新田尼は孫の岩松時兼に
館と岩松郷を譲渡し、嘉禄2年(1226)には鎌倉幕府は岩松時兼を
地頭職に任じている。岩松時兼以降、岩松氏が代々この館に居館し
たと考えられる。
現在の青蓮寺境内を中心とした地域には、義国神
社や岩松尚純の墓やその跡があり、南には岩清水八幡宮を勧請した
と伝えられる岩松八幡宮がある。
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◆◆ 箕輪初心●群馬旧尾島『9城一覧』 ◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201302/article_28.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「新田館」=新田義重館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_1.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「徳川館」=徳川義季館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_4.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「長楽寺&世良田館」=世良田頼氏館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_5.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「満徳寺」=徳川義季の娘 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_6.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「安養寺館=明王院」=新田義貞の館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_7.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「大舘館」=大舘宗氏の館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_9.html

◆◆ 箕輪初心●群馬「堀口館」=堀口貞満の館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_10.html





【1】岩松館・・・尾島町岩松「青蓮寺」          
■訪問日・・・平成22年(2010)5月30日(日) 
 岩松地区の青蓮寺が岩松氏の居館の跡である。
①青蓮寺は山門が非常に立派である。

②案内板
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②本堂
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③遺構・・寺の背後の北側である。しかし、藪が凄い。
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 東西に土塁と堀が一直線に延びている。
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 しかし、東西および南側の遺構はすでに失われている。

③案内板
  「寺の門前にある岩松館跡公園の発掘調査で、掘立柱の建物跡が
  多数発掘されている。」とのこと
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義国神社
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「源義国の孫足利矢田判官義清が、平家追討に出陣するにあたり寿永
2年(1183) 山城国山背野中西寺に祖父義国等の供養のため奉納した
大般若経の奥書に、上野国新田住式部大夫加賀介従五位下義国とある。
・・・(中略)・・・
当公園内からは発掘調査によって、中世のものと考えられる柱穴の底
部を石で突きかためた基礎をもつ堅固な堀立柱の建物跡が多数発見さ
れており、有力者の居住跡の可能性が高い。時兼以後岩松氏が代々居
館したものと思われる。」
(★『現地案内板』)
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岩松尚純の墓がある。
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岩松八幡宮


◆◆ 源義国~岩松氏の歴史 ◆◆
【1】岩松館時代
岩松館跡=青蓮寺は新田氏と足利氏の祖である源義国による創建と
伝わり、元々はこの地より東にあったが鎌倉時代初期に源義国が
晩年に居館跡に移したという。この岩松館には源義国から新田義
重と新田義兼までの3代が居住していたと考えられている。
・建保3年(1215)鎌倉幕府は新田義重の嫡男:義兼の譲状に基づき、
その妻である義兼後家=新田尼を岩松、下今居、田中郷の地頭職に
任じた。新田義兼&新田尼の娘は足利義純に嫁ぎ、新田時兼と田中
時明を儲けた。が、足利義純は鎌倉幕府の執権北条氏によって謀殺
された。新田時兼は畠山重忠の未亡人である北条時政の娘を娶り、
畠山時兼を名乗るようになったため、新田尼は前妻との子である
新田時兼兄弟を勘当した。しかたなく、畠山時兼は新田氏を名乗る
ようになった。その後、貞応3年(1224)には、新田尼は孫:時兼に
岩松館&岩松郷を譲渡し、2年後の嘉禄2年(1226)、鎌倉幕府は
岩松時兼を岩松郷の地頭職に任じた。
 (★新田岩松:峰岸純夫・・正木文書:群馬県史資料編)
後家:新田尼は孫:時兼に所領を譲り、時兼が岩松郷の地頭職とな
った。岩松氏の開祖である。それ以後、岩松館は岩松氏代々の居城
となった。
 鎌倉時代末期、岩松経家は新田一族の惣領である新田義貞の挙兵
に従った。
 鎌倉幕府を倒した後、建武の新政では足利高氏(尊氏)に従って
いる。
 南北朝の争乱期には、岩松氏は、新田氏没落後は新田一族の惣領
としての地位を固めた。新田義宗と惣領職を2分した。
 室町時代には、上杉禅秀の乱で、岩松満純(妻は禅秀の娘)が鎌
倉公方足利持氏との合戦で敗れ、鎌倉で斬られた。岩松満純の甥:
持国が家督を継いだ。岩松持国は足利持氏に味方していた。
永享の乱が起こると、岩松満純の遺児:家純が6代将軍:足利義教
のもとで岩松氏を再興した。こうして岩松氏は二派に分かれた。
岩松家純は岩松持国父子を謀殺して、岩松氏を継いだ。
文明元年(1469) 岩松家純は太田金山城を築いて居城とした。
岩松館→太田金山城になった。
 

【2】太田金山城時代
・文明元年(1469) 新田一族であった岩松家純によって築城。
厳密には、家臣:横瀬国繁が築城
・享禄元年(1528) 横瀬(由良)成繁・国繁親子が支配。
・天正12年(1584) 新田郡は北条氏支配と変わった.
◆◆ 箕輪初心★宇津木一族 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_16.html
★高山一族も加わった。由良時代である。
 高山一族・宇津木一族は金山城にいた。
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
太田金山城が落城・・・廃城となった。


【3】桐生に疎開時代
岩松明純は鉢形城に寄宿した。京都へ・・・
岩松本尚純子孫は桐生に疎開



【4】岩松陣屋時代・・・旧尾島町世良田
理由は・・新田岩松の惣領:
 世良田館や新田館から近い。国道354号線世良田交差点の
 すぐ東にある。立派な民家の門の脇に館跡を示す標柱がある。
 北に水堀跡が用水路となって流れている。

 ※新田氏の執事:船田善昌の居館跡(伝)。
・元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府より楠木正成討伐の命を受
 けて河内へ出陣した。執権北条高時を討ち、鎌倉幕府を倒幕す
 る考えを最初に船田善昌へ相談した(伝)。船田善昌は
 後醍醐天皇の子:護良親王に北条氏追討の令旨をもらった。
 船田善昌は新田義貞の挙兵に従軍し倒幕に成功した。
  南北朝の争乱期も南朝の新田義貞に従って戦った。
 建武3年(1336) 足利尊氏の軍勢と戦い討死している。
戦国時代に由良家家臣:大沢氏の居城が置かれた。
江戸時代・・・新田氏後裔の岩松陣屋が置かれた地でもある。

岩松陣屋・・
 岩松守純によって築かれた陣屋である。世良田公園の西が陣屋
 跡で現在は水田と住宅地となっている。 水田の中に土塁跡のよ
 うな高台が残っている。
※戦国時代に新田源氏の岩松守純は横瀬→由良成繁氏に太田金
  山城を奪われた。・・・岩松氏が没落。
 ※天正18年(1590) 徳川家康が関東に入封。
  岩松守純は徳川家康に召し出されて新田氏系図の譲渡を迫られ
  た。しかし、岩松守純は拒否した。お家再興はなったが、知行
  20石の旗本となった。新田姓を名乗ることも許さなかった。
  しかたなく、中世の世良田今井の古城を修築して居館とした。

   この屋敷が岩松陣屋である。
 岩松氏は豊純、秀純と続いた。
 寛文3年(1663)4代将軍:徳川家綱の時に200石を加増され、
下田島に移った。


【5】下田島城時代
 寛文3年(1663)岩松秀純が200石の加増を受けたのを機に陣屋を
新田郡下田島に移した。これが下田島城=岩松城である。
 戦国時代に由良氏によって築かれた中世の古城を利用した。
 枡形の虎口や櫓台を持つ古城を居館として近世を生き抜いた。
 
※下田島城は東武伊勢崎線の木崎駅のすぐ南に位置している。
 太田西女子校→太田フレックス高校の敷地になっている。 



★明日は、岩松氏の詳細かな?



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