箕輪初心◆箕輪城№101『落城悲劇:藤鶴姫の死』

★永禄9年(1566)、武田信玄の攻撃で箕輪城落城。長野業盛は
持仏堂に籠もり、「陽風に 氷肌(むめ)も桜も散り果てて
名のみ残れる みわの郷かな」
と辞世の句を詠み、自刃した。
 『藤鶴姫』 には、長野業政夫人説&長野業政次男:氏業=業盛
の妻の説がある。しかも、高崎市旧倉渕で自害した話&武田
信玄が美人なので妾にしようとして甲斐につれて行った話等、
訳の分からぬ戦記物や伝説が交錯している。そんな藤鶴姫の
ことをもう少し詳しく紹介しよう。

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【1】 箕輪初心の箕輪城創作秘話「長野氏業&藤鶴姫」
★永禄9年(1566)、武田信玄は15000の兵で箕輪城を囲んだ。
箕輪城兵は城主長野業盛以下わずか1500人。10倍の敵が
迫ってきたのである。大手口には山県昌景、馬場信房・・・。
搦手口は武田勝頼、原胤元、内藤昌豊といった信玄旗下の猛将
達がいる。長野家の家老:藤井友忠がわずかな兵を率いて城外
に打って出た。搦手口の攻撃軍を襲った。戦勝をあせった武田
勝頼と藤井友忠の一騎打ちになった。一時は武田勝頼を討ち取
る寸前まで行ったが、多勢に無勢。勝頼を助けにきた原胤元に
背後に回られ、藤井友忠は原胤元に斬られてしまった。・・・
藤井友忠は家臣に助けられ、業盛の元に出向いた。
「殿、戦況は極めて不利でござる。」・・やがて、箕輪城の大
手口(現在の搦め手口)・二の郭が落とされた。「もはやこれ
まで。・・・と観念した城主:長野業盛はの玉置山の持仏堂
に入ると、父:長野業政の位牌を拝んだ。そして、
「春風に梅も桜も散り果てて 名のみ残れる箕輪の山里」
落城は旧暦9月29日=新暦11月2日。
 春風?・・・軍記・戦記の嘘っぱちが分かるのが。

 と、長野業盛は辞世の句を詠んだ。父:長野業政の遺言通り、
降伏せず、自刃したのだった。多くの配下も殉死した。

 しかし、落城直前に長野業盛は、妻の藤鶴姫と一子亀寿丸を
家臣に城外に逃がすように命じておいたのだった。

 2歳の亀寿丸は家臣:青柳金王らが背負い、密かに箕輪城を
抜け出た。榛名白川を渡り、川向こうから和田山(箕輪城の
南南西約2km)の極楽院に行った。そこで匿われた。
また、長野業盛の妻:18歳の藤鶴姫も、佐藤信正ら数人
の家来とともに箕輪城を脱出した。藤鶴姫は越後上杉謙信の
家の出なので、倉渕~地蔵峠~松井田~信濃~越後春日山城
にいこうとしたのである。藤鶴姫は箕輪城→金敷平→善地→
十文字→榛名:鷹留城近くに辿り着いた。しかし、既に、こ
こには、武田信玄の手に落ちていた。
 真田昌幸家臣:湯本某が気づき、追っ手を差し向けた。姫
達は倉渕落合で湯本の手下に囲まれてしまった。家来が
「姫、お逃げ下され、」
と姫を先に逃がし防いでくれた。
 藤鶴姫は倉渕まで逃れることができた。1人で地蔵峠を越え
ようとしたが、女の身では峠を越えるのは困難きわまりなかっ
た。倉渕の高野谷戸で少しだけ体を休めた。すると、
「お~い。」
と呼ぶ声を聞こえた。姫はもう追っ手がそこまで来ていると
思ったのだった。しかし、その声の主は追っ手からどうにか
逃れてきた家来だった。姫は薬師堂内に入った。戸を閉じ、
「これをかぎりぞ。・・・もはや、これまで、無念。業盛様、
お家再興の夢はかないませんでした。お許し下さい。・・・」
と、夫:長野業盛を思い出しながら、短刀を抜いた。そして
首に短刀をあて、ぐさっ・・・「痛い。」自害してしまった。
 姫は家来の声を敵と思いこんだのだった。
何たる悲劇。Oh, my God・・。
佐藤信正は姫に近づき・・「姫様~、」と、泣き崩れた。
佐藤信正は高野谷戸に墓を造り、姫の霊を供養したのだった。


これは箕輪初心の勝手な創作なのだ。
 長野業政妻なら「お方様~~。」
 長野業盛の妻なら「姫~。」と呼べばよかったのに・・・
 敵がいたから、「お~い、」なのかな?
 箕輪城落城後の悲劇だった。



【2】 「蓑輪軍記」・・江戸時代初期1660年以降?※群書類従
「業盛の御内室十八に成ける。村上天皇の末葉なりと云」として
甲府に連行された後、信玄に殺された。
「信玄いきどふり芙蓉の莟み終にちらす」

村上天皇説はかなり信憑性に欠ける。


【3】 「長野記」・・編集・訳は昭和か? 清水儀平氏
1) 「氏業=業盛の室上杉氏は、故の扇ヶ谷頼良(定正男)女なり。
 妙齢十八、芳顔美態、櫻桃容を耻ぢ、楊柳姿を嫉む。當時美人の
 聞あり。幼児の安否気遣ひ農家に潜む。晴信聞きて之を物色し
 金を以て之を購はんと欲す、人之を
 告ぐる者あり。獲られて甲斐に至る。・・・。」

山内顕定&上杉憲政に仕えた長野業政が扇ヶ谷上杉定正の
 娘を妻あるいは息子の嫁にするはずがない。また、上杉定正
 には嫡子がいない。上杉定正は太田道灌の甥:太田朝良を養
 子にしているのだ。つまり「頼良」なる者の名はないのだ。


2) 「晴信、氏業の室上杉氏の容色を知り、妾たらしめんと欲す。
 夫人之を知りて民家に隠れ忍ぶ。たまたま晴信の部下之を知り
 て迫る。夫人逃れて三の倉に長野原に行かんと欲す。敵の迫る
 急なるや。到底逭る能ざるを知り、遂に自刃して死す。・・・
 長野氏室の墓あり・・・。」

では、この上杉氏は誰なのだろうか?可能性は平井城で北条氏邦
 殺されたはずの上杉憲政の子どもということになる。死んでは
 いなかった。年齢から考えて、ぴったしするのであるが・・。

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【5】群馬郡誌・・大正14年
「長野業政夫人越後上杉家の養女にして、入りて業政の夫人とな
れり。・・・城脱出後、三ノ倉にて自害。従兵:佐藤信正は墓石を
たて長く姫の菩提を弔わんとその霊をまつれり。」

藤鶴姫=長野業政夫人としている。後妻か側室かは不明である。
小泉伊勢守秀綱の妹も含め、最低4人は正妻~妾がいたであろう。

◆◆ 箕輪初心●長野業政の政略結婚 ◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201010/article_11.html

斎藤勲説+近藤義雄氏の初期説
「妻・妾6~7人・姉・娘12人・・関係は推測でわからない?」
0)母・・・・沼田顕定の娘の説
   (野口泰彦「小説箕輪城」・上州路など)
1)妻・・・・上杉憲政の妹の説(池波正太郎「剣の大地」)
2)側室6~7人?不明・・・
★大胡城{前橋市}・上泉伊勢守信綱の妹(池波正太郎)など
      →上泉城の立て看板・系図で○○腹の???とある)


武田信玄が美女を戦利品として、当時で30歳~50歳過ぎ
 の「叔母さん~婆」の長野業政の室を捕らえて連行とは
 結構無理がある。ちなみに、
武田信玄は大永元年(1521)11月3日=12月1日生まれ。・・・
ということは、1566ー1521=45 44歳なのだ。
 正妻は上杉朝興の娘 
 継室は左大臣:三条公頼の次女。
    姉は細川晴元室、妹は顕如の妻。
 1号は信濃小県の禰津元直の娘
 2号は諏訪頼重の娘(新田次郎は湖衣姫。井上靖は由布姫)
3号は油川氏の娘
ちなみに武田信玄の側室は6人。
 そのうえ高坂昌信とは男色の関係だったらしい。



【6】上州の史話と伝説
「落城に際しては婦女子の途連は禁じられたが、女房衆は極楽
院で自害、業盛室は甲府に連れ去られて打ち首、もう一人先主
業政の室・藤鶴姫も後室(後妻)とは云え自害。・・・藤鶴姫は、
業盛に「そなたさまは上杉の出、この箕輪、最後の一兵まで武
田と戦いましたること越府に告げる人は居りませぬ」と諭され
脱出を計る。その時、姫は三十を一つ二つ越えたばかりでした。」

藤鶴姫は31~32歳だった。変ですね。


【7】倉渕説『長野業政夫人:藤鶴姫→長野業盛夫人:藤鶴姫」
1)旧倉渕村指定史蹟:長野業政夫人:藤鶴姫説
でも、旧倉渕村高野谷戸にある「藤鶴姫の墓」は旧倉渕村文化
財である。旧倉渕村の公式記録では、墓の主は長野業政夫人
となっているのである。現在は高崎市指定文化財である。
永禄4年(1561)、長野業政が死亡。藤鶴姫が妻だとすれば、
未亡人のお方様で30~50歳前後。「姫」とは到底言い難い。


しかし、・・・いつのまにか。
2)旧倉渕村の「藤鶴姫墓所の由来」の現地説明看板
   昭和48年11月の案内板&石碑・・・・
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「箕輪城主長野右近之進業盛夫人藤鶴姫は上杉家の娘として生
まれ幼名を「つる代姫」と呼び、たぐいまれな美貌の姫でした。
歳の春城主業盛夫人となり民衆政治を志す業盛をたすけ貞淑の
誉高くその美しさと優しさは箕輪の花と仰がれ平和郷の光であ
りました。
時は戦国乱世の真只中、天下制覇の野望にもゆる甲斐の武田信
玄は要衝箕輪城の攻略をはかり上野に大軍を進め猛攻を加え激
戦数か月、長野方は衆寡敵せず無念にも落城、城主長野業盛は
夫人藤鶴姫を越後上杉家に逃し自刃いたしました。
姫は夫の遺志をつぐべく従臣数名と共にひそかに途を三の倉街
道にとり、途中の藪をきりひらき、当地高野谷戸までたどりつ
き小憩いたしました。と、はるか南の小坂より我が名を呼ぶ武
士姿数名を追手と思い違い「これをかぎりぞ」と薬師堂内に入
り心静かに花の生涯を断ったのです。時に永禄6年(1563年)
6月15日 姫19歳の妙齢。従臣と墓主は姫の御霊をねんご
ろにこの地に葬祭したのでした。今でも当初の坂を「かぎり坂」
-がき坂―と呼び、南方の落ヶ沢の坂を「ひとこえ坂」と呼び
伝えております。又悲運の姫の墓をけがすと鼻血が出ると言い、
厚く礼拝すると美人になると言い伝えられております。」
 四百十年忌慰霊祭に当り  
       昭和48年11月 地元関係者一同 記


結果・・三の倉の「藤鶴姫の墓」伝説の考察とまではいかないが。
1)藤鶴姫は氏業妻か長野業政の室=妻であろう。
2)藤鶴姫は上杉憲実の身内であろう。

藤鶴姫は旧倉渕村で、自害したのを信じたい。  
 三ノ倉で自害したのが長野業盛の新妻の藤鶴姫であり、
 箕輪城で武田信玄晴妾に所望されて拒否して斬られたのが
 長野業政の娘?または養女ということにしておこう。
 これで、謎が深まった。





【8】2月17日の箕輪城
二の丸
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・防空壕が埋まった。
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・本丸へ
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・本丸&松下稲荷曲輪の間・・・チップが入った。
★今回はくずのよいなチップではなかった。
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・新郭・・・・遠くは本丸。
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★明日は、倉渕の城か高崎の城かな?





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