箕輪初心●群馬【伊勢崎城&旧伊勢崎の11城一覧】

【1】伊勢崎城→伊勢崎陣屋 
■訪問記・・・平成22年(2010)2月14日
●伊勢崎城は広瀬川東岸の崖端上に築かれた城で、伊勢崎
市街地の西部に位置している。
①武家通りの一方通行を周り3回も廻った。
②再スタートは市立図書館からだった。正門近くには、
大正4年(1915)に建てられたという「旧時報鐘楼」がある。
北小学校沿いに車を進めながら「ここが本丸か」とつぶやき
ながら、3度目の「武家門通り」を通った。
③同聚院の総門の駐車場で地元の方が地図を見ながら、説明し
て下さった。
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「同聚院の総門は、最初に伊勢崎藩を立藩した藩主:稲垣長茂
の屋敷門であった。」と推定されているそうだ。
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「伊勢崎北小が陣屋跡だった。同聚院この辺りは、曲輪町の名の通り、
武家屋敷があった。この寺の門が屋敷の門だよ。」
周辺地区は曲輪町で武家屋敷の郭だった。

「広瀬川が堀の代わりさ。」~~~
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④同聚院の北側は堀跡の地形が残っていた。
来る途中に、わき水の流れている昔ながらの堀があったなと
思い出した。あそこが堀切りかと思った。
この寺の北の深さ5m程で、幅15~20mの溝である。

「城の碑何か、ありませんか?」と質問した。
「赤石小学校という碑くらいしかないですよ。」
と答えてくれた。
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⑤小学校の敷地には遺構は何も残っていない。
発掘調査は進められているのだろうか?

⑥「旧時報鐘楼」
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◆◆ 伊勢崎城の歴史 ◆◆
・室町時代 古くは赤石城と呼ばれていた。
      戦国時代の状況については不明な点が多い。
永禄3年(1560)
・ 『那波宗俊』の支配。
足利義氏、北条氏康の勢力を背景に以下の城を縄張りとしていた。
那波城(堀口城)・・・伊勢崎市立第2中学校の北西
今村城・・・・・・・広瀬川右岸(西岸)稲荷町
赤石城・・・・・・・伊勢崎市立北小学校周辺

12月 長尾景虎(上杉謙信)軍により、
    今村城及び赤石城が落城。
    那波氏の終焉。

・永禄4年(1561)『由良成繁』が城主。
  上杉謙信の命により、那波一跡を知行として支配)する
  こととなった。
  由良成繁は、戦勝は『伊勢神宮』の御加護であるとし、
  赤石郷を伊勢神宮へ寄進した。

 ※伊勢崎の「伊勢」の発祥ではないかと考えられてい
  るそうである。

・永禄9年(1566) 上杉謙信から別離し北条氏と同盟を結ぶ。
  伊勢神宮へ寄進した赤石郷を玉村町樋越原と交換。
  伊勢崎城の築城か?

・天正元年(1573)12月27日の由良成繁書状
『上杉勢に城郭の北の「神のがけ(崖)」(伊勢宮の崖)から
火矢を射かけられ、力丸安芸屋敷・安俣方屋敷などにつき
ささり、そこから火災が発生した。折からの北西風にあお
られ、乾曲輪・東曲輪を残して消失した。』というのである。
→本丸を中心に、乾曲輪・東曲輪などの諸郭が囲んていた。
江戸時代 酒井氏の伊勢崎城の元が出来上がっていたと考え
られる。江戸時代の伊勢崎城は、鍵の手(★枡形状)に曲が
る西町を本町の通りの接点の近くに大手の虎口をとり、東に
は旧大手であった虎口が開いており、ここには馬出しと隠し
郭が構築されている。この土塁上に櫓台が置かれ、東には
紺屋町の通りがある。  (★伊勢崎市史より)
(★由良成繁が桐生城「藤井紀伊守」にあてた書状)

・天正15年(1587) 後北条軍に伊勢崎を占領された。
 那波顕宗は上杉景勝を頼った。

・天正18年(1590) 那波顕宗(かげむね)は、上杉景勝の
 配下として参戦した。「陸奥(岩手)九ノ戸の合戦」で
 戦死した。
 ★那波一族の旧領回復の夢は途絶えた。

・慶長5年(1600) 「関ヶ原の合戦」
徳川方が勝利。
・慶長6年(1601)『稲垣長茂』が入封。
 大胡藩牧野氏の家老:稲垣長茂は、論功行賞で伊勢崎藩
 1万石で入封した。
  ・稲垣長茂は荒廃していた城を再建するため、まず同聚院に
   入り初代藩主として城下町形成に取り組んだ。
・ 稲垣長茂及び2代重綱(しげつな)の在位は、16年。

・元和2年(1616) 稲垣氏が越後国の藤井へ転封
→『酒井氏』の領有。
 元和~天和(1616~1681年の65年間)
  前橋藩酒井氏(忠世、忠行、忠能、忠清)が領有となった。
最盛期には、12万2500石の大名となった。
酒井忠清は大老職に就いた。

・天和元年(1681)酒井忠寛(酒井忠清次男)が2万石を分与
 され、伊勢崎藩城主となった。

・以降、明治元年(1688)までの188年間酒井氏が治めた。
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(★山崎一氏の縄張り図)


【2】那波城・・・堀口町(現名和小学校)
■訪問記・・・平成22年(2010)2月14日
玉村から旧日光例幣使街道柴宿を通り伊勢崎に入った。
伊勢崎市立名和小が本丸で、周辺地区は郭だった。
東上野で勢力を誇った那波氏の居城那波城も今は耕地整理
により完全に消滅してしまった。 現在、伊勢崎市立第二中
学の西側に名和幼稚園がある。この幼稚園の南側の道路脇に
那波城の石碑が建てられているだけとなってしまった。
◆◆ 那波城の歴史 ◆◆
・天文年間(1532~1554) 那波宗俊によって築城。
大江広元を祖とする那波氏の城である。
・天文年間(1540~)に築城?
  平城で防御にはむいていない城であった。
 
・天文10年(1541)  那波宗俊は厩橋城主:長野賢忠らと共に
    金山城の横瀬泰繁を攻撃。
       →境城主:小柴長光の離反により敗死。

・永禄3年(1560) 上杉謙信は那波城を攻略。
         →北条高広を城代。

・永禄6年(1563)  北条高広が厩橋城代。
       那波宗俊(=那波宗元?)の甥:顕宗が
       北条高広の妹を正室にした。

・永禄9年(1566) 那波宗安は那波家に見切りをつけてこの地を
  去り、武田信玄に従軍した。武田信玄の先方となった。
  若田ヶ原から里見一族の城:高橋氏の守る雉郷城(旧榛名町)
  &安中一族の支配下の礼応寺城(安中市秋間)を攻略した。
  高浜の戦いでも活躍した。その後の箕輪城合戦でも活躍した。

天正3年(1575) 長篠の戦い 
武田勝頼の家臣として出陣 5月21日
  徳川家康の重鎮:酒井忠次率いる東三河衆の他、織田軍:金森
  長近などの与力、また鉄砲500丁を持たせた計約3000名という
  連合軍の大部隊(★『信長公記』約4000名)が、密かに豊川を
  渡河。尾根伝いに南側から後方へ回り込むと、翌日の夜明けに
  鳶ヶ巣山砦を後方より強襲した。鳶ヶ巣山攻防戦によって武田
  方は、河窪信実(勝頼の叔父)三枝守友、五味貞成、和田業繁
  (高崎和田城)、名和宗安、飯尾助友などが討死した。

・天正6年(1578)  上杉謙信の死。→小田原北条氏家臣。
・天正10年(1582)  神流川の戦い  
          那波氏は北条につき、滝川一益と戦さ。
・天正13年(1585) 那波氏は垪和芳賀守に人質変更依頼。
          馬見塚対馬守他4名→山王堂兵庫頭他4名
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃→北条氏滅亡。
          徳川家康家臣:松平家乗が那波1万石で入封。 
・慶長6年(1601)   徳川家乗が美濃岩村城に移封。→



【3】茂呂城 美茂呂町3512・・・退魔寺
■訪問記・・・平成22年(2010)2月14日
●那波城を後にし、茂呂城に向かった。一段高い場所にある
飯福神社が城だと思った。絶対、ここだと確信した。
地元の方に尋ねると「退魔寺です。」と教えて下さった。
やっぱり、ポイントは川かなあ?と思った。
①退魔寺の看板には「延安4年(1371)に茂呂勘解由が~~?」
 とあった。
②茂呂城は広瀬川東岸の河岸段丘を利用して築かれた城だった。
 自然を利用しているなあ。
③現在、退魔寺境内が本丸、
 山門から東側が二の丸、
 境内の北側に三の丸・北曲輪があった。
 本の丸以外の曲輪群は住宅地であった。・・・
④資料「飯福明神の東側辺りに大手があり、空堀が残されいる
  とのこと。」・・・やはり、感が当たっていた。 

◆◆ 茂呂城の歴史 ◆◆
・永禄年間(1558~ )那波氏によって築城
          那波氏の勢力が後退した後、金山城方が
          占拠して根岸三河が在城。 
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻め。
          →小田原北条氏滅亡。・・・・茂呂城が廃城。


【4】今村城   稲荷町下今城
・天正12年(1582) 6月 織田信長の死
   ・北条氏の領国に編入。→厩橋城に北条城代。
      城番衆に国人衆が組織・・・・
    →那波衆は馬見塚など有力家臣4人が人質。
・天正15年(1585) 今村城主:那波氏の人質の人数増加
     山王堂兵庫頭など4人。
 (北条家朱印状・・宇津木家文書・・大阪城天守閣蔵)

【5】植木屋敷・・・下植木(道灌屋敷) 

【6】富塚城・・・富塚町

【7】岡屋敷・・・波志江町岡屋敷 

【8】波志江館・・・波志江町下波志江 

【9】中屋敷・・・波志江町中屋敷 

【10】原之城・・・豊城町2751





★明日は、伊勢崎「那波城&那波無理之介」の話?

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