箕輪初心●群馬【厩橋(まやばし)城→前橋城へ】
★群馬県庁での前橋城案内は、パンフレットが2つだけしかな
かった。前橋市史が必要だったな。厩橋城築城は長野氏であ
るが、長野賢忠なのか長野方業なのか不明である。また、築
城年代も不明である。結構、遺構が少なかった。
(★県庁のパンフレットより)
(★瓦・・北橘村の埋蔵文化財の展示品)
(★発掘調査時の写真・・県庁)
◆◆ 箕輪初心●群馬:前橋の城38城一覧 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_19.html
■訪問日・・・多数
きっかけは石倉城の一部だったと伝わっているそうである。
はじめは利根川の左岸に各曲輪を並べた連郭式の縄張りだった。
酒井氏の時代
文久3年(1863)に再築城され、本丸を中心とし、渦巻き状
に二の丸、三の丸を配した渦郭式縄張りだった。利根川に西の
崖上に3重3階の天守閣が築城された。
現在の群馬県庁が本丸、市役所が二の丸、地方裁判所が三の丸で
ある。
①県庁北の高い土塁。
○案内板
○歩道橋近く
○土塁の上
★ここが櫓台跡だと分かった。
②県庁裏脇の土塁
③利根川脇の天守台跡&崖
●前橋城遺構・・・県庁のパンフレット
徳川家康は「関東の華」と称え称えた前橋城は、武田と上杉
の興亡の舞台となった「厩橋城」をその前身として、慶長6
年(1601)に封ぜられた譜代筆頭の酒井氏の代に「前橋城」と
改められた。寛延2年(1749)には姫路にいた松平氏が転封と
なった。しかし、相次ぐ利根川の氾濫で本丸の崩壊が進んだ
ため、松平氏は川越に移り、一時期廃城になった。その後、
慶応3年(1863)に再築され、藩主が帰城したが、まもなく明
治維新を迎えたが、まもなく明治維新迎え明治14年(1881)
正式に群馬県庁になり・・・・。」
・・・・・中でも。。
江戸時代初期酒井氏の頃、三の門の石垣や三の丸御殿の庭園
、井戸の中から出土した『高須隼人』名を記した木簡は特筆
されるものである。」
発掘調査時の写真
近くの遺構
◆◆ 厩橋=前橋城の歴史 ◆◆
・嘉吉元年(1441)結城の合戦
長野周防守・同宮内少輔首級1つ、
長野左馬助首級2つを挙げる。(★鎌倉持氏記)
※群馬県埋文の飯森康広氏「長野周防守・同宮内少輔
は、厩橋系の創始者ではないか?」
★箕輪初心「宮内少輔系が厩橋系と認識していた。」
・文明3年(1471) 享徳の乱
長野左衛門尉、上杉顕定の注進により、
将軍(足利):義政から感状ををもらう。
(★御内書符案)
・文明9年(1477)針谷原の戦い(文明の乱)
長尾景春方:上州一揆旗本:長野長野左衛門尉為兼
(業)、針谷原に討ち死に。
★長尾景春の乱の五十子→用土原の戦いの一部
(★現埼玉県寄居町)
①久保田順一氏説=群馬県史&個人の著書など
「長野長野左衛門尉為兼は長野為業である。」
②峰岸純夫氏の説・・「兼」→「業」への下克上説
③箕輪初心の説・・2年前に、分家説を公表
長野の「業」系=本流&長野の「為」系=分流説
★長野為兼は長尾方なので、分流だと考える。
長野業尚は1477年広馬場の戦いで、長尾勢と
対戦しているからである。
④群馬県埋文の飯森康広氏の説
「長野左衛門尉は浜川の長野為業であろう。」
榛名町の鷹留城の長野尚業(★業尚)の息子で
浜川に在住したのであろう。
(★飯森康広氏の箕輪城資料より)
★まさなり=なりまさ・・名前が逆になっている。これは、
鷹留城主:長野尚業=長野業尚と同じようなものだと思った。
飯森氏「いずれにせよ、いままで、長野方業(まさなり)は、
厩橋城主で長野業政の叔父と考えられていましたが、
米沢の上杉家文書では、
①大永7年(1527)11月27日・・
箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・白井長尾景誠
の排除を徳雲軒と謀る。
②大永7年(1527)12月16日・・
箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔とともに総社城
を攻めすすめる。
★長野賢忠は箕輪城主:長野方業とともに蒼海城主:
長尾顕景を圧迫した。
③天文4年(1535)4月
□(長野方業) 榛名神社に制札を出す。(榛名神社文書)
「長野左衞門太夫方業は箕輪城に在城したことが、上記の
2文書から判明しました。」
つまり、長野方業=長野業政であることが分かった。
・永正元年(1501)長享の乱 立川原の戦い
山内上杉方 長野孫六郎房兼(業)
立川原に討ち死に。(★松陰私語)
★ここのも、「兼」が登場する。
・永正3年(1503)長野賢忠、橋林寺に寺領寄進
▲15世紀末・・1490年とも? 石倉城を築城
箕輪長野氏一族の長野左衛門尉方業(固山宗賢)が
箕輪城の支城として築城された現在の利根川対岸の
石倉城がその始まりであるとされる(伝)。
・天文3年(1534)石倉城築城時に低地帯を台地の東に流れて
いた利根川の本流の氾濫により流路を変え石倉城の水路
に流れ込み、本丸・二ノ丸などを崩壊させてしまった。
当時の城主長野賢忠(長野方業、法号・固山宗賢)が
残った三の丸を拠り所に再築した城が、後に厩橋城と
呼ばれるようになったという(伝)。
(★ウキペディア)
※関八州古戦録「石倉砦の争奪」では、
蒼海城の長尾忠房が用水路:久留間川を利根川から
引き、9年かかって石倉城を建設した。完成は長尾景道
の時であった。しかし、洪水で本丸・二ノ丸が崩壊。
三の丸を利用し、長尾景道の孫:長尾景忠=賢忠が
厩橋城を造り直した。
★しかし、ウキペディアの説では、石倉城が300mも
あり、現在の利根川の両岸の高さが同じ位ということから
考え、県庁が三の丸という説は無理があると思われる。
従って、あるとすれば、久留間川=現利根川を挟んで2つの
石倉砦のような砦が存在したことになる。約300mも
離れているので、あり得る考えになるとは思う。
●厩橋長野氏の系譜ははっきりせず、厩橋の長野氏で
築城者とみられる初代の人物も、法号の固山宗賢と
しか判明しない。
●固山宗賢に関わる説
①固山宗賢=長野賢忠=長野方業(★ウキペディアの説)
②固山宗賢=長野賢忠で、息子が長野方業。
(山崎一氏・近藤義雄氏)
③固山宗賢=長野賢忠で、
長野方業(まさなり)=長野業政(なりまさ)。
(飯森康広氏の新説)
◆◆ 箕輪初心●箕輪城:飯森康広氏の新説 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_2.html
→学説上で明らかなのは長野氏によって、厩橋城が築城され
たのみである。
(★ウキペディア)
・天文10年(1541) 長野賢忠の勢力は膳・山上にも及んだ。
金山城を攻めて敗れてから勢力を失った。
・天文20年(1551) 後北条氏の侵攻
平井城主:上杉憲政が北条氏康に攻められた。
→上杉憲政は上野国を脱出・・・
越後春日山城へ亡命。
厩橋城も北条氏に包囲され開城、長尾賢忠も越後国へ逃れる。
長野賢忠が長尾景虎(後の上杉謙信)を頼りに越後へ移
ったという(伝)
・永禄2年(1559)
長尾景虎(上杉謙信)が攻め落とし、北条氏から奪回。
長尾賢忠が再び厩橋城主に復帰。
・永禄3年(1560) 長尾景虎の第一次関東出兵
→13回の上杉謙信の関東出陣の際の駐留拠点
12月 長尾景虎の伊勢崎:那波顕宗への攻撃
厩橋長野氏(彦太郎とその叔父)の馬が列を崩し、
景虎に謀反と思われ、誅殺(栗原1996)
10月14日 厩橋彦太郎・大胡右馬允が生害。
500余人死。
(★栗原1996+峰岸純夫氏)
※彦太郎は長野方斎(方業・賢忠=長野業政叔父)
嫡子宮内太夫・叔父大胡は長野一族→
(+高崎市史の見解)
(★13回上杉謙信の関東出陣の際の駐留拠点。)
・永禄6年(1563)北条・武田の連合軍に攻め落とされる。
長尾景虎(上杉謙信)が再度攻め落とし奪回。
厩橋城の城代として越後北条城主:北条(きたじょう)
高広を置いた。
北条高広は一時謙信に叛き小田原北条氏に通じたが、
越相同盟の際に上杉方に帰参した。
・元亀2年(1571) 上杉謙信は厩橋城を出て、武田方の箕輪城主
:内藤昌豊と対陣。・・
上杉謙信が撤退。
上杉謙信は厩橋城で越年
・元亀3年(1572) 1月3日 北条高広に命じて武田方の石倉城
を攻略。
武田軍が後詰を派遣した。
北条高広は石倉城を破却。
川を挟んで両軍が対峙。
・天正6年(1578)上杉謙信が死去。
御館の乱・・・上杉氏の跡目相続を巡り勃発。
北条高広と子:景広は北条氏康実子:上杉三郎景虎を応援。
北条景広は討ち死
→北条高広は厩橋城に帰った。
・天正7年(1579) 北条高広は武田勝頼に攻められ、降伏開城。
・天正10年(1582) 織田信長の武田攻め
・3月天目山の戦で、武田氏が滅亡。
武田氏が滅亡後、滝川一益に開城。
その後、織田信長家臣の滝川一益が城主に。
・6月 本能寺の変・・・→神流川の戦
後北条氏が滝川一益を攻め勝利
後北条氏の配下に。
一益は神流川合戦で北条氏邦に完敗。
厩橋城の高広は小田原北条氏につき、上杉を離反。
上杉謙信に許された後・・・
御館の乱で、謙信養子北条6男の景虎側につく。
一益は神流川合戦で北条氏邦に完敗し関東から撤退、
厩橋城と高広は小田原北条氏に降った。
・天正18年(1590) 小田原の役
浅野長政らの軍勢に攻められ落城。
小田原北条氏が滅ぶ。
徳川家康は譜代の平岩親吉を厩橋に置いた。
平岩親吉が厩橋3万3千石を拝領し城主に。
平岩氏に嫡子なかった。
・慶長6年(1601) 平岩親吉の移封。
→酒井重忠が城主。
酒井重忠が大改修を行い天守を建設。
・慶安2年(1649 前橋城に改称。
・寛延2年(1749)酒井氏が播磨国姫路藩に転封。
姫路より松平朝矩が15万石で前橋城に入城。
・明和4年(1767)利根川の浸食。
本丸が崩壊の危機
松平氏は前橋入封までに10度の転封を経験して
借財が多く、城を修築するだけの力はなかった。
(★ウキペディアより)
・明和5年(1768) 松平朝矩は幕府の許可を得て武蔵川越に
移転。一旦前橋城は廃城となった。
→前橋には川越の支藩として陣屋が置かれた。
・明和6年(1769) 三重櫓の天守閣、大手門などが取り壊さ
れ廃城。
・以後、前橋城は明治維新まで越前松平家の城となった。
領民の前橋城再建・領主帰城の願いは強く、再三にわたり
松平家に帰城が請願された。
・文久3年(1863)~3年3ヶ月~
川越藩主:松平直克は幕府にの許可で前橋城の再築を開始。
領民による出資や労働奉仕
・慶応3年(1867)3月完成。
松平直克が入城・前橋藩が再興。
・明治維新 本丸御殿(後の群馬県庁舎)を残し破壊。
★参考文献
①箕輪城関係の本多数・・・群馬県史他
②飯森康彦氏の論文
③「上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)
④「関東三国志」(学研「戦国群像シリーズ」)
⑤現地解説板
⑥ウキペディアなど
★明日は石倉城かな?
かった。前橋市史が必要だったな。厩橋城築城は長野氏であ
るが、長野賢忠なのか長野方業なのか不明である。また、築
城年代も不明である。結構、遺構が少なかった。
(★県庁のパンフレットより)
(★瓦・・北橘村の埋蔵文化財の展示品)
(★発掘調査時の写真・・県庁)
◆◆ 箕輪初心●群馬:前橋の城38城一覧 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_19.html
■訪問日・・・多数
きっかけは石倉城の一部だったと伝わっているそうである。
はじめは利根川の左岸に各曲輪を並べた連郭式の縄張りだった。
酒井氏の時代
文久3年(1863)に再築城され、本丸を中心とし、渦巻き状
に二の丸、三の丸を配した渦郭式縄張りだった。利根川に西の
崖上に3重3階の天守閣が築城された。
現在の群馬県庁が本丸、市役所が二の丸、地方裁判所が三の丸で
ある。
①県庁北の高い土塁。
○案内板
○歩道橋近く
○土塁の上
★ここが櫓台跡だと分かった。
②県庁裏脇の土塁
③利根川脇の天守台跡&崖
●前橋城遺構・・・県庁のパンフレット
徳川家康は「関東の華」と称え称えた前橋城は、武田と上杉
の興亡の舞台となった「厩橋城」をその前身として、慶長6
年(1601)に封ぜられた譜代筆頭の酒井氏の代に「前橋城」と
改められた。寛延2年(1749)には姫路にいた松平氏が転封と
なった。しかし、相次ぐ利根川の氾濫で本丸の崩壊が進んだ
ため、松平氏は川越に移り、一時期廃城になった。その後、
慶応3年(1863)に再築され、藩主が帰城したが、まもなく明
治維新を迎えたが、まもなく明治維新迎え明治14年(1881)
正式に群馬県庁になり・・・・。」
・・・・・中でも。。
江戸時代初期酒井氏の頃、三の門の石垣や三の丸御殿の庭園
、井戸の中から出土した『高須隼人』名を記した木簡は特筆
されるものである。」
発掘調査時の写真
近くの遺構
◆◆ 厩橋=前橋城の歴史 ◆◆
・嘉吉元年(1441)結城の合戦
長野周防守・同宮内少輔首級1つ、
長野左馬助首級2つを挙げる。(★鎌倉持氏記)
※群馬県埋文の飯森康広氏「長野周防守・同宮内少輔
は、厩橋系の創始者ではないか?」
★箕輪初心「宮内少輔系が厩橋系と認識していた。」
・文明3年(1471) 享徳の乱
長野左衛門尉、上杉顕定の注進により、
将軍(足利):義政から感状ををもらう。
(★御内書符案)
・文明9年(1477)針谷原の戦い(文明の乱)
長尾景春方:上州一揆旗本:長野長野左衛門尉為兼
(業)、針谷原に討ち死に。
★長尾景春の乱の五十子→用土原の戦いの一部
(★現埼玉県寄居町)
①久保田順一氏説=群馬県史&個人の著書など
「長野長野左衛門尉為兼は長野為業である。」
②峰岸純夫氏の説・・「兼」→「業」への下克上説
③箕輪初心の説・・2年前に、分家説を公表
長野の「業」系=本流&長野の「為」系=分流説
★長野為兼は長尾方なので、分流だと考える。
長野業尚は1477年広馬場の戦いで、長尾勢と
対戦しているからである。
④群馬県埋文の飯森康広氏の説
「長野左衛門尉は浜川の長野為業であろう。」
榛名町の鷹留城の長野尚業(★業尚)の息子で
浜川に在住したのであろう。
(★飯森康広氏の箕輪城資料より)
★まさなり=なりまさ・・名前が逆になっている。これは、
鷹留城主:長野尚業=長野業尚と同じようなものだと思った。
飯森氏「いずれにせよ、いままで、長野方業(まさなり)は、
厩橋城主で長野業政の叔父と考えられていましたが、
米沢の上杉家文書では、
①大永7年(1527)11月27日・・
箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・白井長尾景誠
の排除を徳雲軒と謀る。
②大永7年(1527)12月16日・・
箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔とともに総社城
を攻めすすめる。
★長野賢忠は箕輪城主:長野方業とともに蒼海城主:
長尾顕景を圧迫した。
③天文4年(1535)4月
□(長野方業) 榛名神社に制札を出す。(榛名神社文書)
「長野左衞門太夫方業は箕輪城に在城したことが、上記の
2文書から判明しました。」
つまり、長野方業=長野業政であることが分かった。
・永正元年(1501)長享の乱 立川原の戦い
山内上杉方 長野孫六郎房兼(業)
立川原に討ち死に。(★松陰私語)
★ここのも、「兼」が登場する。
・永正3年(1503)長野賢忠、橋林寺に寺領寄進
▲15世紀末・・1490年とも? 石倉城を築城
箕輪長野氏一族の長野左衛門尉方業(固山宗賢)が
箕輪城の支城として築城された現在の利根川対岸の
石倉城がその始まりであるとされる(伝)。
・天文3年(1534)石倉城築城時に低地帯を台地の東に流れて
いた利根川の本流の氾濫により流路を変え石倉城の水路
に流れ込み、本丸・二ノ丸などを崩壊させてしまった。
当時の城主長野賢忠(長野方業、法号・固山宗賢)が
残った三の丸を拠り所に再築した城が、後に厩橋城と
呼ばれるようになったという(伝)。
(★ウキペディア)
※関八州古戦録「石倉砦の争奪」では、
蒼海城の長尾忠房が用水路:久留間川を利根川から
引き、9年かかって石倉城を建設した。完成は長尾景道
の時であった。しかし、洪水で本丸・二ノ丸が崩壊。
三の丸を利用し、長尾景道の孫:長尾景忠=賢忠が
厩橋城を造り直した。
★しかし、ウキペディアの説では、石倉城が300mも
あり、現在の利根川の両岸の高さが同じ位ということから
考え、県庁が三の丸という説は無理があると思われる。
従って、あるとすれば、久留間川=現利根川を挟んで2つの
石倉砦のような砦が存在したことになる。約300mも
離れているので、あり得る考えになるとは思う。
●厩橋長野氏の系譜ははっきりせず、厩橋の長野氏で
築城者とみられる初代の人物も、法号の固山宗賢と
しか判明しない。
●固山宗賢に関わる説
①固山宗賢=長野賢忠=長野方業(★ウキペディアの説)
②固山宗賢=長野賢忠で、息子が長野方業。
(山崎一氏・近藤義雄氏)
③固山宗賢=長野賢忠で、
長野方業(まさなり)=長野業政(なりまさ)。
(飯森康広氏の新説)
◆◆ 箕輪初心●箕輪城:飯森康広氏の新説 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_2.html
→学説上で明らかなのは長野氏によって、厩橋城が築城され
たのみである。
(★ウキペディア)
・天文10年(1541) 長野賢忠の勢力は膳・山上にも及んだ。
金山城を攻めて敗れてから勢力を失った。
・天文20年(1551) 後北条氏の侵攻
平井城主:上杉憲政が北条氏康に攻められた。
→上杉憲政は上野国を脱出・・・
越後春日山城へ亡命。
厩橋城も北条氏に包囲され開城、長尾賢忠も越後国へ逃れる。
長野賢忠が長尾景虎(後の上杉謙信)を頼りに越後へ移
ったという(伝)
・永禄2年(1559)
長尾景虎(上杉謙信)が攻め落とし、北条氏から奪回。
長尾賢忠が再び厩橋城主に復帰。
・永禄3年(1560) 長尾景虎の第一次関東出兵
→13回の上杉謙信の関東出陣の際の駐留拠点
12月 長尾景虎の伊勢崎:那波顕宗への攻撃
厩橋長野氏(彦太郎とその叔父)の馬が列を崩し、
景虎に謀反と思われ、誅殺(栗原1996)
10月14日 厩橋彦太郎・大胡右馬允が生害。
500余人死。
(★栗原1996+峰岸純夫氏)
※彦太郎は長野方斎(方業・賢忠=長野業政叔父)
嫡子宮内太夫・叔父大胡は長野一族→
(+高崎市史の見解)
(★13回上杉謙信の関東出陣の際の駐留拠点。)
・永禄6年(1563)北条・武田の連合軍に攻め落とされる。
長尾景虎(上杉謙信)が再度攻め落とし奪回。
厩橋城の城代として越後北条城主:北条(きたじょう)
高広を置いた。
北条高広は一時謙信に叛き小田原北条氏に通じたが、
越相同盟の際に上杉方に帰参した。
・元亀2年(1571) 上杉謙信は厩橋城を出て、武田方の箕輪城主
:内藤昌豊と対陣。・・
上杉謙信が撤退。
上杉謙信は厩橋城で越年
・元亀3年(1572) 1月3日 北条高広に命じて武田方の石倉城
を攻略。
武田軍が後詰を派遣した。
北条高広は石倉城を破却。
川を挟んで両軍が対峙。
・天正6年(1578)上杉謙信が死去。
御館の乱・・・上杉氏の跡目相続を巡り勃発。
北条高広と子:景広は北条氏康実子:上杉三郎景虎を応援。
北条景広は討ち死
→北条高広は厩橋城に帰った。
・天正7年(1579) 北条高広は武田勝頼に攻められ、降伏開城。
・天正10年(1582) 織田信長の武田攻め
・3月天目山の戦で、武田氏が滅亡。
武田氏が滅亡後、滝川一益に開城。
その後、織田信長家臣の滝川一益が城主に。
・6月 本能寺の変・・・→神流川の戦
後北条氏が滝川一益を攻め勝利
後北条氏の配下に。
一益は神流川合戦で北条氏邦に完敗。
厩橋城の高広は小田原北条氏につき、上杉を離反。
上杉謙信に許された後・・・
御館の乱で、謙信養子北条6男の景虎側につく。
一益は神流川合戦で北条氏邦に完敗し関東から撤退、
厩橋城と高広は小田原北条氏に降った。
・天正18年(1590) 小田原の役
浅野長政らの軍勢に攻められ落城。
小田原北条氏が滅ぶ。
徳川家康は譜代の平岩親吉を厩橋に置いた。
平岩親吉が厩橋3万3千石を拝領し城主に。
平岩氏に嫡子なかった。
・慶長6年(1601) 平岩親吉の移封。
→酒井重忠が城主。
酒井重忠が大改修を行い天守を建設。
・慶安2年(1649 前橋城に改称。
・寛延2年(1749)酒井氏が播磨国姫路藩に転封。
姫路より松平朝矩が15万石で前橋城に入城。
・明和4年(1767)利根川の浸食。
本丸が崩壊の危機
松平氏は前橋入封までに10度の転封を経験して
借財が多く、城を修築するだけの力はなかった。
(★ウキペディアより)
・明和5年(1768) 松平朝矩は幕府の許可を得て武蔵川越に
移転。一旦前橋城は廃城となった。
→前橋には川越の支藩として陣屋が置かれた。
・明和6年(1769) 三重櫓の天守閣、大手門などが取り壊さ
れ廃城。
・以後、前橋城は明治維新まで越前松平家の城となった。
領民の前橋城再建・領主帰城の願いは強く、再三にわたり
松平家に帰城が請願された。
・文久3年(1863)~3年3ヶ月~
川越藩主:松平直克は幕府にの許可で前橋城の再築を開始。
領民による出資や労働奉仕
・慶応3年(1867)3月完成。
松平直克が入城・前橋藩が再興。
・明治維新 本丸御殿(後の群馬県庁舎)を残し破壊。
★参考文献
①箕輪城関係の本多数・・・群馬県史他
②飯森康彦氏の論文
③「上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)
④「関東三国志」(学研「戦国群像シリーズ」)
⑤現地解説板
⑥ウキペディアなど
★明日は石倉城かな?
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