箕輪初心●箕輪城№87飯森康広説「長野方業=長野業政?」

平成24年(2012)12月1日、群馬県埋蔵文化財:飯森
康広氏の講演会があった。「長野氏と箕輪城を取り巻く風景」
と題した講演会である。飯森康広氏は高崎市箕郷町の出身で
群馬県埋蔵文化財で活躍されている。『吾妻川沿いの城:地域
文化』や『北関東の城』『館林市史』の編纂執筆にも携わって
いる。飯森康広氏は講演会の中で5つの新説を公表した。
「長野方業=長野業政」説&「長野時代は並梯式縄張り説」
には、驚いた。大変よく研究されているだ。とにかく凄い。

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◆◆ 箕輪初心●吾妻の城・・飯森氏の調査6城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201201/article_11.html

◆◆ 箕輪初心●箕輪城関係の本4冊飯森氏 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201109/article_21.html
★北関東の城・・・飯森氏共著
★箕輪城の長野業盛の子:亀寿丸・・・浦野家文書


◆◆ 箕輪初心●三島根小屋城&浦野一族 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201202/article_17.html




飯森説の系図
                 
①浜川・・・長野為兼=為業   
          ↓
②室田・・・   業尚=尚業→憲業・・・・・業氏?
                    ↓
③箕輪              方業=?・・・業政→氏業

④厩橋:長野周防守?・宮内少輔→賢忠→・・・・・道賢
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【1】飯森説「長野左衞門尉為兼=長野左衞門尉為業である。」
この説には、異論がある。
箕輪初心私見「乙業・業尚父子と為兼・房兼とは、
 同時代の人物である。長野氏には、2つの流れが
 あったのではないか?」と考えている
①山内上杉氏に仕える「本家筋属系」・長野乙業・隆業
 ・業尚系が長野氏の「業」がつく主流。
■嘉吉元年(1441) 結城の合戦の終結 長野周防守・・
 「守」がつくので本家筋。乙業では?
 長野乙業の子:業尚(尚業?)は、関東管領:上杉
  顕定の執事に抜擢。
★箕輪初心私見「1位長野業尚 2位小幡一族、
 いじけた長尾一族は足利成氏に味方した。」
長野業尚は浜川から下室田に居を移し、鷹留城を築いた
 と伝えられている。
しかし、長野業尚に関しては系図以外にその存在を語る
 確実な史料はない。(★群馬県史)
②山内上杉氏に仕える一揆旗頭「分家系」・・・
 長野為兼・房兼系の長野氏勢力→
 1477年戦死・1504年戦死で没落?        
将軍足利義政から御内書を発給された長野左衛門尉は為兼。

 
※峰岸純夫氏の説・・・「兼」→「業」への下克上説

永享10年(1438)に起った永享の乱後の
 結城合戦(1440)。
長野氏は上野一揆の一員として、周防守・宮内少輔
・左馬介の3名が参陣し、結城方武士の首をとる戦功を
あげた。
★箕輪初心私見「長野周防守は、長野乙業(守がつくの
で本家筋)ではないかと考えている。


・長野宮内少輔は厩橋系の2代目(★「前橋の風土記」)

※近藤義雄先生説
長野氏は上野一揆として編成。
関東管領の上野守護山内上杉氏の軍事力の一翼を担っていた。

■応仁の乱・永享の乱→戦国時代
 「上州旗揚げ一揆・・・下克上の時代」
■享徳3年(1454)年~文明14年(1482)享徳の乱
■文明3年(1471)享徳の乱で功績のあった長野左衛門尉は
 足利義政から感状(感謝状)をゲット。
箕輪初心私見「1470年代には、長野氏と小幡氏は
 上野国人層の有力武将に成長。」

■文明8年(1476)関東管領山内上杉氏の家臣長尾景春
 鉢形城を築城。
 (武蔵鉢形城城主&上野旧子持村の白井城主)
長尾景春の乱・・・鉢形城に立て籠もり、上杉氏と対立
山内上杉(平井城)VS 古河側の長尾景春+長野為兼  

■文明9年(1477) 
 広馬場(榛東村:箕輪城から北北東4km)の戦い
 山内上杉(平井城) VS 古河側長尾景春+古河公方
旧榛名町白岩砦:長谷寺→×←旧榛東村←渋川:白井)
  (★関東古戦録)
戦国時代・・近くて安心な城=箕輪城の築城。
 従って、私個人しては、箕輪城築城は文明9年(1477)
 以前に原型が造られたのであろう。浜川から見ると、
箕輪城の出っ張りはよく見える。井野川&烏川の間に
 挟まれた地形なのだ。また、鷹留城は詰め城として
 築城されたのではないかと考えている。

 



【2】飯森説「長野方業=長野業政」
   ・・・あるいは業政の父である。」

飯森康広氏は「長野方業=長野業政であると思われます。」
と、言われた。
まさなり=なりまさ・・名前が逆になっている。これは、
鷹留城主:長野尚業=長野業尚と同じようなものだと思った。

飯森氏「いずれにせよ、いままで、長野方業(まさなり)は、
厩橋城主で長野業政の叔父と考えられていましたが、
米沢の上杉家文書では、
①大永7年(1527)11月27日・・
 箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・白井長尾景誠
 の排除を徳雲軒と謀る。
②大永7年(1527)12月16日・・ 
 箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔とともに総社城
 を攻めすすめる。 
③天文4年(1535)4月
 □(長野方業) 榛名神社に制札を出す。(榛名神社文書)
長野左衞門太夫方業は箕輪城に在城したことが、上記の
2文書から判明しました。」
つまり、長野方業=長野業政であることが分かったとなる。 

これは、凄いことだ。新事実だ。
  一線級の文書資料だと分かった。

 



【3】箕輪城の永禄期の話
長野業政→★長野氏業=業盛→亀寿丸
浦野安孫氏の文書・・・★紙質が最高。
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◆◆ 箕輪初心●浦野安孫氏の文書 ◆◆



【4】高崎市の浜川の砦群
①矢島砦
飯森氏「こんな残りのいい中世館はない。」
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実は、私は発掘調査の現地説明会に行っている
のだ。もう35年前かな。浜川のファミリーマート北西300m
の所にあるのだ。
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・北新波砦&満勝寺砦・北爪砦・寺の内砦・
・・・・浜川砦
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そのほか、乙業館と住吉城(沖町)と井野館があるよ。


【5】箕輪城の発掘調査
①南虎口
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②西虎口
③北虎口
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④御前曲輪の橋台
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⑤郭馬出
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【6】箕輪城の縄張りの変化
飯森説「並梯式→囲梯式→複雑な縄張りへ
 高崎市の文化財保護課係長:秋山太郎氏は、発掘調査
 第8集で、箕輪城の縄張り変化を3つに区分した。
飯盛康彦氏は、この調査を元に
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①長野時代・・・並梯式であったのではないか。
私は階梯式だと思った。 
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 福島武雄氏のS46年の推測が正しいのではないかと説明した。
②武田時代~・・囲梯式に変化したのではないか?  
  武田信玄は真田幸隆に命じて、箕輪城の改修をした。
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③北条~井伊時代・・複雑な縄張りへ
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【7】飯森説「大手虎蹈門~鍛冶曲輪中程~本丸へのコース」
①山崎一氏説&近藤義雄説
大手虎蹈門~鍛冶曲輪の右側→三の丸門→二の丸→
 本丸南虎口のみの道であった。

②秋山太郎氏の説「大手虎蹈門~本丸へのコース
  は3コース・・・発掘調査を根拠。
★大発見である。
「本丸北虎口の門が一番で大きい・・・。
大手虎蹈門→鍛冶曲輪→三の丸→蔵屋敷→通仲曲輪
木橋→御前曲輪→本丸北虎口と考えた。もちろん、
蔵屋敷→木橋→本丸西門もある。
しかし、本丸北虎口が一番大きいからメインは御前
曲輪経由であろうと考えたのである。

③飯森康弘氏の説
 大手虎蹈門→鍛冶曲輪の中央→通仲曲輪の境→
 蔵屋敷→木橋→本丸西虎口の推測を発表した。
今の虎蹈門口から道だけ想定していたので、
 蔵屋敷への登り方を推定するなんて、凄い。
  この説にはビックリした。
  しかし、よく考えると三の丸の高さ4.1mの石垣、
  特に、野面積みの中にある見せる笑い積みの
  ビッグな石&三の丸の石垣のある門の必要性が
  なくなるので、この説には反対である。

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また、郭馬出から出撃ルートは大堀切の左橋から
 下る道があったのではないか。北へは大堀切の
 中を下り、搦め手口に行くコースがあったのでは
 ないかともパワーポイントで説明された。
 


飯森氏の講演会は最高に面白かった。
 しかし、山崎一氏や近藤義雄説・の説を覆すのは、
 大変である。



飯森氏に、今日のお礼を言った。
「浦野家の文書の件、その節はありがとうございまし
た。浦野安孫氏にも偶然会いました・・・。」

ブログに今日の記録を載せるお願いをしなかった。
まずかった。勝手に掲載させて下さい。





【8】西原巌氏の話「木俣&松下稲荷曲輪」
「群馬歴史散歩の会に「井伊直政」の原稿を書いた時、
①山崎一先生や近藤義雄先生の書いた「木俣は木の又ように
別れた場所であるとした。」でも、原稿木俣は井伊の家老
の木俣がいた場所です。彦根城でも、木俣は西の丸に月
20日通ったと記録にあります。と説明して納得して
もらった。
②稲荷曲輪でも、近藤先生派の方々が、「稲荷曲輪は近藤
先生たちの説なので、原稿を書き直してくれと言ってきた。
だから、大正15年に斉藤平治郞さんの箕輪城興廃史を
見せて、納得してもらった。
★「絶対に、木俣は木俣守勝の屋敷で、稲荷曲輪は松下
源太郎の屋敷だったと思います。郭は26~7あるので、
重要地点には、家老クラスを配備したと思いますよ。
と公民館のジオラマを見ながら、私は答えた。

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西原氏「箕輪城のブログを全部印刷しました。」
とおっしゃった。
★「ありがとうございます。」と別れた。
◆◆ 箕輪初心●箕輪城の木俣守勝 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_1.html

◆◆ 箕輪初心●箕輪城の松下源太郎 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_24.html

◆◆ 箕輪初心●箕輪城の稲荷曲輪 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201209/article_29.html

◆◆ 箕輪初心●箕輪城きつねの嫁入り ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_1.html

◆◆ 箕輪初心★井伊直政の町=高崎高校VS近江高校 ◆
http://53922401.at.webry.info/201203/article_28.html


井伊氏の家臣団
元禄4年(1691)・・・
筆頭家老・・木俣家10000石。
      ※徳川譜代。強制的に井伊直政の家臣に配属
次席家老・・庵原家5000石
      ※北条氏照家臣:狩野一庵の子:主膳(氏照落胤)
3席家老・・長野家4000石 
      ※箕輪城の長野業政業盛の子孫。養子:業親子孫。
家老・・④河手家4000石
      ※井伊直政姉:春光院の嫁ぎ先の家系。
    ⑤西郷家3500石
      ※徳川家康臣:西郷元正の子。西郷局の従兄弟。
    ⑥中野家3500石
      ※井伊直氏の弟:中野直房を祖とする家系。
    ⑦小野田家3000石 ※
    ⑧横地家2600石 ※
    ⑨三浦家2500石 ※
    ⑩宇津木家2500石
      ※上野の玉村の領主。
      北条氏滅亡の時、玉村にいた。→井伊家へ
    ⑪貫名家2300石
      ※井伊良直の弟:貫名政直を祖とする家系。
    ⑫新野家2000石
      ※井伊直政を助けた譜代重臣の家系。
    ⑬脇家2000石  
       ※
    ⑭岡本家1950石
      ※上野の富岡の領主。
       上野長野家と親戚の家系という説も系図にはある。
      小幡重貞の家老:重臣
    ⑮松下家????石
      ※井伊直政の養父・継父松下清景の家系。


【9】矢島砦の確認



【10】箕輪城ボランティア15:00~17:00
①愛知県犬山市2人・・30分
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②清水インダストリーの方
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③本丸下&稲荷曲輪の間
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杉の木が取り除かれた。




★明日は、井伊直政について書こうかな?

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