箕輪初心●群馬【後閑城2回目】&後閑城の歴史詳細

後閑城は1回目には半分程しか散策して
いないので、春の桜の頃に来たいなと思いつつ、
昨日のブログが物足りず、晩秋の来訪になった。
今回は西駐車場からの散策で、じっくり観察した。

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■訪問記・・・②平成24年(2012)11月23日

【1】後閑城
○南からの遠望
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●縄張り図①・・・山崎一氏
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●縄張り図②・・・安中市教委
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○後閑小学校の東には、東駐車場入り口。
  後閑小学校の校庭を見ながら、100m程
  行くと、西駐車場入り口がある。

○北郭の下の部分
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●西駐車場
①西第3郭=西駐車場である。30台は駐められる。
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○案内板の縄張り図
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○西郭3段&本丸の眺め
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○トイレ横からのスタート
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②西第2郭
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③西第1郭・・本丸下
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④北大堀切堀・・・本郭&北郭の堀
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○北郭のコースに進んだ。
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⑤北郭堀跡・・・西に妙義山
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⑥4段の腰郭
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○一番下の北3腰郭から登った。

⑦北の二重堀切
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⑧北郭・・スズメバチ出没で立入禁止
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でも、今はいない。
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○北郭から本丸を眺めた。
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○北大堀切~東郭を見ながら下る。


⑨東郭下の2段の郭
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○大手口=東駐車場&二の丸&東郭の分岐
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⑩本郭&二の丸の大空堀
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 ★非常に整備がされていて、分かりやすかった。

⑪二の丸櫓台・・・櫓台が復元されている。
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⑫二の丸
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⑬二の丸下の郭
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○戻る

⑭東郭・・・
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 ★本当はここが二の郭で、
  二の郭は三の郭だと思った。

○5mの土塁を見ながら、本丸に登った。

⑮本丸・・・
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○看板
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○ジオラマ表示
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・本丸から北郭を望む。
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・本丸から西郭・妙義山方面を望む
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○百庚申
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・中央部
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・西郭からの本丸入り口
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▼下城・・・東郭~大堀切~

○工事用道路・・本来はなかったそうである。

⑯南郭
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○西第3郭

今回は、散歩コースで、回った。
 いいコースで、あった。
 縄張りは素晴らしい構造であった。
 


●出土したかわらけ
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 (★安中ふるさと学習館)    



◆◆ 後閑城の歴史 ◆◆
・嘉吉元年(1441) 信濃の芦田城主・御嶽城主:
      依田(あしだ)内匠頭忠政が築城開始。
  ※結城の合戦に、信濃小笠原正透3000の同心として
   芦田右衛門佐=依田光玄(=忠政=満春)
  結城氏朝と合戦での戦功で後閑に定住した説
     (★富岡武蔵氏の調べ)
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・文安4年(1447)後閑城が7ヶ年で完成。
     (★坪井家文書)

・文安5年(1448) 依田政友(=昌朝)が長源寺を創立。
(★立科町史・重田家文書)
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・文明2年(1470) 依田信濃守全棟(=政知)が
 長源寺に、三ツ木(中後閑)・下郷(下後閑)に所領を
 寄進。(★安中市史:長源寺文書;西上州の中世)
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 ①芦田光玄=忠政→②政友(=政知=昌朝=全棟)
 →③光慶(徳昌)
 →全真→全賀(弟)→全真の子:信盛→虎昌
   →昌忠→将監(弟)→盛繁

・天文年間 依田光慶は、箕輪城主長野業政の11女を
   室として嫁にした。長野業政の同心になった。
 ★ちなみに、長野業政は天文元年(1531)箕輪城を継承。


・天文7年(1538)依田光慶が板鼻鷹巣城に移った(伝)。
 ★長野業政は依田光慶=徳昌(板鼻古城)に移動を
  命じた説。 依田光慶=依田徳昌軒。 

・・・北条政時の時代は不明???・・・


・弘治元年(1555)新田信純が長源寺に寄進。
(★長源寺文書・西上州の中世:安中市教委)
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  ・中央は後閑信純
  ・左は後閑久純
  ・右は後閑忠政?
  (★中島興十郎氏:西上州の中世より)


・弘治2年(1556)北条政時を滅ぼした新田景純の子
    :伊勢守信純がに在城。
 ※新田義貞の子孫説と新田岩松の子孫説がある。
 (★安中市教委は、岩松子孫説である。
  

 
 
 ※ちなみに「後閑城の依田氏に新田が侵攻」説がある。
    (★「丹生城の歴史」)  
 →しかし、依田新八郎(光慶)は鷹ノ巣城(安中市板鼻)
   に在城中。(★安中市教委)

・永禄3年(1560)長尾景虎の第一回関東出陣は、近隣の
     高田氏・安中氏が従軍。
    
    新田信純(真純と改名)と小幡信実らは武田に従属。
    後閑信純は甲斐の名族上条氏の名を継ぐことになり、
    上条真純と名乗ったともいう。

・永禄6年(1563)★おそらく、新田は箕輪城攻めに参加?

・永禄9年(1566)  箕輪城落城。

・永禄10年(1567) 新田真純を後閑城に入城。
   「後閑」を称したと伝わる。
     (★『上州故城塁記』)
   新田姓→後閑姓に改称説は有力。 

 8月後閑信純の名で、武田信玄に起請文を提出。

・永禄12年(1569) 武田信玄の今川氏真への攻撃
   新田信純が戦死?


・天正7年(1579)
武田勝頼から後閑家への文書
  (★京都大学総合博物館所蔵)
 「上条伊勢入道=後閑信純の所領を息子の
 後閑弥太郎・上条善次郎に分割することを許可。」
  ①後閑弥太郎(後形部少輔)・・・後閑城
  ②上条善次郎(後宮内少輔)・・・甲斐の上条領主。
  ③一族の後閑下野守・・・・・・・・・総社の蒼海城。


・天正10年(1582年)3月 武田氏が滅亡。
   織田信長の部将:滝川一益が箕輪城に入城。
   その後、関東管領として厩橋城=前橋城に入城。
   後閑氏は・・・★おそらく、滝川一益配下となった。
   上条宮内少輔は、後閑姓に復して、箕輪城に
   妻子を置いた。 
 
 6月2日 本能寺の変・・・織田信長の死亡。
   神流川の戦い・・・
    滝川一益 VS 北条氏邦
   →滝川の敗戦・・・清洲会議遅刻。  
   →北条の勝利・・・西上州の支配。


・天正11年(1583)後北条氏から両後閑氏宛ての書状
 出陣の際の両後閑の配下の員数を定めた内容の書簡
  ※両後閑氏が後北条氏の幕下にあったことを示している
    (★「後閑文書」)
 
 ①新田真純の次男:後閑重政(形部少輔)・・・後閑城
  ・・・北条氏邦に所属
 ②新田真純の3男:元上条信久(宮内少輔)
  ・・・北条氏邦に所属。

 ③新田真純の長男?または一族:後閑信重は
   厩橋(前橋城)の上杉謙信配下の北条(きたじょう)
   高広に従属。
  (★「日本城郭体系」)  

※①・②・③について、他説もある。
  
・天正12年(1584) 北条(きたじょう)高広が北条氏を攻城。
  
  北条(きたじょう)高広は後北条氏になびく。
      
  北条氏政は②後閑重政・③後閑信久に厩橋在番を命じた。
  

・天正18年(1590)小田原の役
 ②後閑重政・③後閑信久は小田原城に篭城。
 →後閑城は空城となった。
 
 ①後閑又右門衛門尉(=後閑下野守か、子供)は
  松井田城:大導寺駿河守政繁の指揮下。
  蒼海城から松井田城へ守備隊として入城。
 
  
 上杉景勝・真田昌幸は松井田の愛宕山城から攻撃。
 松井田城:大導寺駿河守政繁が降伏。
 →箕輪城の道案内。

 ※後北条氏の滅亡
 →後閑城は、廃城。
                            
 ②後閑形部少輔と③宮内少輔は不明。
 
 
 井伊直政が箕輪城に入城。
  高崎・安中、後閑の地も治めた。
  井伊家中に後閑善兵衛・新兵衛の名がある。
  ②形部少輔と③宮内少輔の子と推察され、
 後閑氏はともに井伊家に仕えた
  (★安中市史)



(★現地案内板・安中市教育委員会
  安中市史・安中市教委「西上州の中世」
  ・富岡武蔵氏のレポート・ウキペディア等より)





★明日は、上野村の諏訪山&黒澤家の紹介だ。

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