箕輪初心●群馬【後閑城①】&長源寺&満行寺

【1】後閑城は大変整備状況が非常によい。でも、1回目は
半分程しか散策していない。春の桜の頃に来たいな。

【2】長源寺は、後閑城2代目:依田政知の
開基で、新田信純は中興の祖である。墓もある。
2007年のNHKドラマ「風林火山」では、
長源寺で山本勘助が真田幸隆に助けられた。

【3】満行寺は、源義国の開基で、新田信純は
中興の祖である。源義国の墓?供養塔もある(伝)。

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◆◆ 箕輪初心●安中の城35城一覧 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_11.html



■訪問記・・・①2006年?
○西からの遠望
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●縄張り図①・・・山崎一氏
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●縄張り図②・・・安中市教委
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●東駐車場・・・★西駐車場の方が良かったかな。
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○左のコースに進んだ。
①堀跡の部分だ。
②二の丸の空堀
 非常に整備がされていて、分かりやすかった。
③二の丸・・・素晴らしい構造である。
櫓台が復元されていた。
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④本丸・・・5mの土塁を見ながら、本丸に登った。
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 看板や表示が細かい。
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・本丸から二の丸方面を望む
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・西郭からの本丸入り口
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★暗くなったので、西郭方面には行けなかった。
 




●出土したかわらけ
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 (★安中ふるさと学習館)    



【2】長源寺=依田政知&依田全棟・新田信純の菩提寺
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①2007年のNHKドラマ「風林火山」では、
「長源寺で山本勘助が真田幸隆に助けられた。」と
 まことしやかな放送があった。
 勘助は50歳以上のはずだ。私も解らない?
②2010年安中市「真下家所蔵文書」発見
山本勘助=山本菅助の武田晴信の押印のある
 文書で、天文17年(1548)年、武田信玄は
 山本菅助に戦功を認め、知行を与えた。
 (★安中市教委「西上州の中世」より)


【3】満行寺=源義国の帰依&新田信純の中興
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①地蔵菩薩・・群馬県重文(平安時代)
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②木造5体・・安中市重文(鎌倉末期)
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③源義国の供養塔?(伝)
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奧様が親切でした。感謝も申し上げます。

◆◆ 後閑城の歴史 ◆◆
・嘉吉元年(1441) 信濃の芦田城主・御嶽城主:
      依田(あしだ)内匠頭忠政が築城開始。
  ※結城の合戦に、信濃小笠原正透3000の同心として
   芦田右衛門佐=依田光玄(=忠政=満春)
 結城氏朝と合戦。
  勝利の証として、後閑に定住した説
  (★富岡武蔵氏の調べ)
・文安4年(1447)後閑城が7ヶ年で完成。
     (★坪井家文書)
・文安5年(1448) 依田政友(=昌朝)が長源寺を創立。
(★立科町史・重田家文書)
・文明2年(1470) 依田信濃守全棟が長源寺に、
   三ツ木(中後閑)・下郷(下後閑)に所領を寄進。
      (★安中市史:長源寺文書)
   芦田光玄=忠政→政友=政知→光慶
   →全真→全賀(弟)→全真の子:信盛→虎昌
   →昌忠→将監(弟)→盛繁

・天文年間 依田光慶は、箕輪城主長野業政の女を
   室として嫁にした。同心になった。
 ※長野業政天文元年(1531)箕輪城を継承。

・天文7年(1538)依田光慶が板鼻鷹巣城に移った(伝)。

・・・・ 北条政時の時代は不明

・弘治元年(1555)新田信純が長源寺に寄進。
(★長源寺文書)
・弘治2年(1556)北条政時を滅ぼした新田景純の子
    :伊勢守信純がに在城。
 ※新田・・・新田義貞子孫説と新田岩松子孫説がある
  新田姓→後閑姓に改称説)   
 ※「後閑城の依田氏に新田が侵攻」
    (★「丹生城の歴史」)
   →そして、依田新八郎(光慶)は、鷹ノ巣城
     (安中市板鼻)に在城
  (★安中市教委)
・永禄3年(1560)長尾景虎の第一回関東出陣は、近隣の
     高田氏・安中氏が従軍。
    
    新田信純(真純と改名)と小幡信実らは武田に従属。

・永禄6年(1563)おそらく、新田は箕輪城攻めに参加?
・永禄9年(1566)  箕輪城落城。
・永禄10年(1567) 新田真純を後閑城に入城。
    後閑城に入城して「後閑」を称したと伝える説
     (★『上州故城塁記』)
・天正10年(1582) 武田氏が滅亡。
  ①新田真純の長男:信重は厩橋(前橋城)
    の上杉謙信配下の北条(きたじょう)高広に従属。
  ②新田真純の次男:重政・・北条氏に所属
  ③新田真純の3男:信久・・北条氏に所属。
   ※共に後閑と呼ばれた。

・天正12年(1584) 北条(きたじょう)高広が北条氏を
      攻城。北条(きたじょう)は後北条氏になびく。
      両後閑は厩橋城に在番。

・天正18年(1590)小田原の役
      両後閑氏は小田原城に篭城。
      後閑城は松井田城・小諸城の大道寺駿河守政繁
      の指揮下。
      北条氏の滅亡とともに廃城。
                            
(★現地案内板・安中市教育委員会冊子
   ・富岡武蔵氏のレポート等より編集)




★明日は、後閑城の2回目の訪問、
  細かく城を見物しようと思う。

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