箕輪初心●群馬安中【板鼻城】=螺旋式の城構造

★板鼻城は安中市板鼻にある。①板鼻城は、板鼻の実相寺
の裏山で、『板鼻古城団地』・新築マンションの南の丘
にある。②北西に徳昌屋敷、③南西~西には鷹ノ巣出丸、
碓氷川の絶壁である。④南は板鼻宿、③東には小丸田出
丸がある。
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(★東郭からの高崎遠望)


◆◆ 箕輪初心●群馬安中の城35城一覧 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_11.html




■訪問記・・平成24年(2012)11月17日
【3】小丸田出丸
 現在の聞名寺・聞名寺保育園の北の裏山である。
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 古くは、板鼻城の出丸で、江戸時代には元板鼻藩:
 里見家の陣屋があった場所である。板鼻中学校の
 敷地にもなったが、今は老人福祉施設になっている。
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・館長さんやスタッフの方々の話
「本丸は、新築マンションの脇を登った場所。」
 と教えていただいた。スタッフの方の畑や親戚の方
 の家も城の一部であった。
「東山道は、100m東に走っていた。」
 と教えて下さった。
※江戸時代初期に、里見讃岐守が1万石で領有し
 小丸田出丸に陣屋が置かれた。
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●東山道
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【1】板鼻城
○中世から戦国時代にかけての城。
本郭に向かって竪堀が螺旋状に配置される
群馬では「螺郭式」の構造は特異な形状の城である。  
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(★山崎一氏)
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(★安中市教委)

○新築マンションを右に見て登る。
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○後で、聞いた話
 「曲がり角の畑は、陶芸同門の須藤さんちの畑」
 「この一角の団地に陶芸同門の平石さんちの
 前の家があった。」・・・


①本郭・・・(太田宅)
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★鉄塔付近も本郭である。
本郭櫓台の標高は169m。
 ・・・入って行けない
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 ★西郭からの本郭の眺め

②本郭内堀・・・堀の中の家(久住宅)
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※本郭を取り囲む内堀の底面が畝状であったことなど、
 堀の形状の一部が明らかとなった。
 (★大工原豊氏の論説より)

③西の郭・・・元葡萄畑
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※畑の持ち主夫妻の話
「本丸は、あそこのお宅から鉄塔の所」
「その家は本丸の堀を埋めて造った。」
「遠見石・・団地の南から細い道が実相寺方面
 に向かっている。一つだけの墓の所を登る。
 昔、烽火台あとかもしれない。とにかく
 眺めがよかった。」
と、教えて下さった。
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④西の郭の堀・・・葡萄畑西
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⑤西郭下に腰郭が2つある。
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・鷹ノ巣神社~鷹ノ巣出丸の遠望
・鷹ノ巣神社方面
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・板鼻城の本丸からは西への視界が鷹ノ巣出丸
 の丘陵で遮られている。
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▼戻って、
○北の郭跡
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団地東へ・・・

⑥東郭の下の腰郭
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⑦東郭
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本郭内堀からの延長の横堀
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古墳の方円部
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⑨遠見石=本郭櫓台・・・古墳の石の
★藪が凄すぎていけない。

※畑の持ち主さんの話
「高崎~筑波山まで見えましたよ。」
実相寺裏山からの眺め
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★★ 縄張りの特徴 ★★  
板鼻城は、螺旋構造になっている。まるで、バラの
花びらのようになっている。
本丸にはそう簡単に進めない構造だ。
戦時には、竪堀&横堀が堀が全て戦闘用で、矢や鉄砲
 を撃つための壕である。
 
平時には、堀を道路として利用した。
岩櫃城の拡張工事をした真田昌幸・武田流の築城
第一人者:馬場美濃守信房・早川某(武田信玄→
北条氏邦→井伊直政配下)や山本勘助など、
武田信玄の支配下で戦略を生かした縄張りと考える方が
構造から考えて妥当であろう。こんな構造は、長野業政
の関係の城は西上州にはないからである。



【3】鷹ノ巣出丸
①南西・・鷹ノ巣神社
 「宮司の息子さんは医者になったので、今はいない。」
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②西・・・鷹ノ巣出丸
鷹ノ巣出丸は断崖の上にあるので遺構が残存。
鷹ノ巣出丸から上がる狼煙は、西の安中城、南の天王
 山城=間仁田古城、南西の磯部城と文殊寺砦へと送った
 と言われている。
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鷹ノ巣出丸は単独で砦の役割を果たせる構造ではない。
猛禽類の「ちょうげんぼう」が飛んでいたので、
 鷹ノ巣城と言ったのであろうか?20年位前は、
 何回か見た。



【4】板鼻古城
板鼻古城は依田徳昌軒の屋敷があった場所である。
 『徳昌屋敷=とくじょうやしき』「古城屋敷」と呼ば
 れている。
関東管領:上杉顕定が八幡荘に持っていた館は徳昌屋敷の
 敷地で、付近の海竜寺では顕定の母親の法要が営まれるなど
 古文書が残されているそうである。



【5】板鼻宿・・・※江戸時代
・実相寺
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①南・・・板鼻宿
※皇女:和宮の宿泊地
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※江戸時代には、飯盛女を置く妖しい宿が7軒あった。
  親戚の家もその一つである。

②南西・・・碓氷川。





◆◆ 板鼻城の歴史 ◆◆
○本城の築造時期、城主など確実な記録はない。
しかし、戦国時代の築城で、3つの説がある。
箕輪城主:長野業政が後閑城主:依田光慶に築城
 させた説

・文明2年(1470) 依田信濃守全棟が長源寺に、
   三ツ木(中後閑)・下郷(下後閑)に所領を寄進。
      (★安中市史:長源寺文書)
   芦田光玄=忠政→政友=政知→光慶
   →全真→全賀(弟)→全真の子:信盛→虎昌
   →昌忠→将監(弟)→盛繁

・天文年間 依田光慶は、箕輪城主長野業政の女を
   室として嫁にした。同心になった。
 ※長野業政天文元年(1531)箕輪城を継承。
・天文7年(1538)依田光慶が板鼻鷹巣城に移った(伝)。

武田信玄が安中を平定後、築城させた説 
※上野古城塁記・・・
 「武田信玄の家臣:依田六郎の居城である。
  武田信玄と長野業政が3度板鼻で戦った。」
 しかし、この時にはまだ城がなかった。
  武田信玄が西上州安中を入手してから築城したの
 ではないかという説である。
中山道が整備される前までは、東山道が通っていた。
武田信玄からすれば、磯部城→八幡平陣城→安中城
(野尻)→鷹ノ巣出丸西→板鼻古城北→小丸田出丸北
・・・箕輪城侵攻のコースに当たる。
武田信玄が若田原・八幡原の戦いでは、少林山西の山に
仁をとっている。東に下れば、・鎌倉街道上ッ道にも行
ける場所である。

 
箕輪城落城後、武田信玄が築城させた説。
※山崎一説
 文献の検証からこの説を採っている。
★城の構造(上記)からも考えられる。
※上野志・・・
安中市の板鼻城と倉渕村の大戸城との関連から、
 ・・・考えられる。
岩櫃城(真田)→大戸城(浦野)→板鼻城(依田)
 となる。



◆◆ 発掘調査 ◆◆
1986年に、安中市教委が発掘調査。
本郭内堀、東第2郭、西第2郭、西第3郭の一部と
これに付随する堀、虎口などが見つかり、内耳土器、
灯明皿、板碑、陶器片(常滑、瀬戸、美濃など)、
磁器片(景徳鎮、伊万里など)、古銭(皇宋元寶、
洪武通寶など)が出土。
(★『板鼻城遺跡』 安中市教委 1987)
(★山崎一「板鼻城の成立と歴史」『古城遺跡』 
 安中市教委 1988)
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 (★安中ふるさと学習館)




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