箕輪初心★松尾芭蕉⑨【笈(おい)の小文】前編

貞享4年(1687)、松尾芭蕉は44歳になった。前年の暮れに、
父母の墓参のため、伊賀へ帰省した。年が明けて、元禄元年
(1688)、松尾芭蕉は伊賀から高野山→吉野の西行庵→奈良→
須磨・明石を旅行した。この紀行文は『笈(おい)の小文
(こぶみ)』と名付けられた。

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 (★関係ない句)

■貞享4年(1687)の冬~5年(1688)の秋の芭蕉旅
 春の伊勢→花の吉野→須磨明石
 もともと、この紀行文にタイトルはない。
 『大和紀行』・『卯辰紀行』・『芳野紀行』・『大和後の行記』
 ・『須磨紀行』・『庚午紀行』などと名付けられていた。
◆◆ 芭蕉と伊賀 生誕360年 ◆◆
http://www.ict.ne.jp/~basho/footmark/oinokobumi.html

貞亭4年(1687)44歳
【1】松尾芭蕉の『笈の小文』
「造化にしたがひて造化にかへれ」
  =「自然に従い、自然に帰れ」の話

▲前半部分
【百骸九竅(ひゃくがいきゅうけい)の中に物有り。かりに名付
けて風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすものの風に破れやす
からん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終(つひ)
に生涯のはかりごととなす。ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)
せん事を思ひ、ある時は進んで人に勝たむ事を誇り、是非胸中
にたたかふて、是が為に身安からず。暫(しばら)く身を立てむ
事を願へども、これが為にさへられ、暫(しばら)く学んで愚を
暁(さとら)ん事を思へども、是が為に破られ、つひに無能無芸に
して只(ただ)此の一筋に繋(つなが)る。】

★意味・・・ここに百の骨と九つの穴を持つ人間の体があり、
この体の中に何物かがいる。仮に名付けて風羅坊と言っておこ
う。風羅と名付けたものは、うすもの=軽薄な男故、自分は
が風によって破れやすいようなはかないものであると言えるで
あろう。
彼(自分)は、狂句(=俳諧)を好んですでに長く久しく、
ついに生涯をかけた仕事として生計を立てている。ある時
は、(俳諧が)嫌になって放り出そうと思ったり、ある時は、
進んで人に勝って誇ろうとも考えたりしちゃう。是非=善悪
が胸の中で葛藤していて、これがために心の落ち着かない。
あれこれと思い悩んで安堵できない日々を送ってきたのだ。
また、ある時は仕官(=伊賀上野の藤堂新之介家臣)して
立身出世することも願ってみた=夢見たが、
結局は狂句(=俳諧)への執着心=こだわりに妨げられた。
また、一時、(臨川寺の仏頂禅師から)仏教を学んで、自分の
愚さを悟るようなことを思って挑戦したけれど、やはり狂句
(=俳諧)への執着心=こだわりのために志(=仏の道)の挫
折を余儀なくされ、とうとう無能無芸でただ俳諧一筋の人生
となってしまったのだ。
私見・・前半は俳諧の魅力にはまった馬鹿な自分を嘲笑し
ながら自分の俳諧人生を客観視している。
「小池にはまってさあ大変。どじょうは出て来て、今日は」
みたいな表現である。「俺は、出世も諦め、仏の道も諦め、
徘徊=俳諧しかできないダメ男。俳諧への執着心=こだわり
のために、徘徊師=俳諧師しかできないの自分を嘲笑すること
で、俳諧の魅力を浮かび上がらせているのである。
これが、松尾芭蕉のパラドックス的な説明テクニックだと
「鹿島詣」からの一連の流れである分かった。



▲後半部分
【西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於け
る、利休が茶に於ける、其の貫道(かんどう)する物は一なり。
【しかも風雅におけるもの、造化に随ひて四時(しじ)を友とす。
見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずといふ事なし。
像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花に
あらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化に
したがひ造化にかへれとなり。】

★意味・・西行の和歌、宗祗の連歌、雪舟の絵、利休の茶に
おいても、それぞれの道は別々であっても、これらの人々の
貫いているものはみな同じで一貫性がある。道はただ一つ。
それは風雅の道である。
しかも、風雅(俳諧においても)の道は神仏が作り出した
自然に従って、四季の移り変わりを友とている。
それ故に、目に見える物では花が風雅に見えない物はなく、
心に感じ思う物では月が風雅に思わないことはないのだ。
もし、花が風雅に見えないなら野蛮人であるに等しく、
花を風雅と思えないなら、鳥や獣の類であると言えるだ
ろう。自分は夷狄(=野蛮人)であることをやめ、鳥や獣で
あることから離れ、神仏が創造した自然に従って、(風雅の道)
自然に帰れと考えた。 自然に帰らねばならないのである。

夷狄(いてき)は、古代中国の中華思想における異民族への
 蔑称を意味する。日本では、蝦夷・東夷・南蛮人・毛唐など
 が蔑称に当たる。差別用語である。
だから、野蛮人の世界観から抜け出ると同時に、鳥獣のセンスから
離れて、「自然に帰れ」なんて、なんかルソーみたいだな。
また、「我思う故に我あり」 みたいだな。


★後半・・・西行の和歌、宗祗の連歌、雪舟の絵、利休の茶など、
優れた風雅の人物を時代ごとに列挙してている。
①西行=平安末期、平清盛のお友達。藤原秀衡の親戚。
②宗祗=戦国時代、美濃郡上八幡?群馬に2回来たのだ。
③雪舟=室町時代中期。山口→京都。
④千利休=戦国末期。先祖は新田一族。織田・豊臣の家臣
「風雅の道は永遠に不滅である」と主張しているのである。
松尾芭蕉=江戸中期。「風雅の道」を継ぐ者は私なのだ。 
松尾芭蕉は、西行の和歌、雪舟の絵、宗祗の連歌、利休の茶
に匹敵する『松尾芭蕉の俳諧』を夢見ていたのだった。



【2】 門出【神無月の初、空さだめなきけしき、身は風葉の行方なき
  心地して、

『旅人と わが名よばれん 初しぐれ 』
              また山茶花を宿々にして 】
★意味・・初しぐれが降りそうな空模様である。私は旅人と
 呼ばれてみたいものだ」
 「風雅な旅」なのかどうかは分からないが、何かを極めたい
 という気持ちが伺える句である。
 陰暦10月の初めは天候は不安定だった。
 私は風来坊のように行方が定まらない旅をするのだ。 

 
【岩城の住、長太郎と云もの此脇を付て、其角亭において関
 送りせんともてなす。】

★意味・・磐城に住んでいる長太郎という者が「また山茶花が
咲く宿」句意の脇句を付け、其角亭での送別の意図を込めた。
※「関送り」は京都の人が伊勢神宮に行く際に「逢坂の関」
まで送っていくことを指している。拡大解釈されたのだ。
「越すに越されぬ 逢坂の関」
 
「 時は秋 よし野をこめん 旅のつと 」
★意味・・今は秋。旅立つには寒い。旅の包み物=持ち物は
吉野に着くのは桜の頃だろうから、4月を見込んで用意して
行くがよいだろう。吉野の土産には吉野の桜のを詠んだ句を
いっぱい詰めて帰って来てほしい。


【此句は露沾公 より下し給らせ侍りけるを、はなむけのはじ
めとして、旧友、親疎、門人等、あるいは詩哥文章をもて訪ひ、
或は草鞋を料に包て志を見す。かの三月の糧をあつむるに一芥
の力を入ず。紙子・綿子など云もの、帽子、したうづやうの物、
心々に贈りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。或は小舟
をうかべ、別墅に設し、草庵に酒肴たづさへ来て、ゆくへを祝し
、名残を惜みなどするこそ、故ある人の首途するにも似たりと、
いと物めかしく覚られけれ。】

★意味・・この句は露沾公が、芭蕉に下さったものだが、旅立
ちの句を餞をはじめとして、旧友、知人、門人など、詩歌持って
訪れてくる者、あるいは、草鞋や餞別を包んで志を表す者などが
いた。三ヶ月分の糧=食い扶持を集めるにも苦労がなかった。
紙に渋を塗った衣服・真綿を入れたちゃんちゃんこ・帽子=
布帽・足袋など、心のこもったの贈り物が集まったので、霜や雪
の寒苦を凌ぐのに心配はいらない。
 ある者は小舟を浮かべ、別荘で送別会を設定してくれ、草庵に
酒肴を携えて来て、旅の行方をを祝し、名残を惜しむなどして
くれる。まるで、由緒正しい立派な人の門出にも似ていて、大変
物々しく感じられるのだ。
※露沾公・・盤城平7万石藩主:内藤政栄。傍池亭・遊園堂
 和歌は武者小路実隆に師事。俳諧は西山宗因の門下。
 北村季吟・松尾芭蕉・宝井其角ら多くの俳人と交流。
 松尾芭蕉のスポンサーの1人である。

★「野ざらし紀行」では、死の覚悟までした。
 「笈の小文」では、盛大な見送りを受けている。
まるっきり、違う状況になったのだ。
 松尾芭蕉は「風雅への道」の憧れを強く持っていたが、
 厭世的な気持ちが交錯したのかもしれない。
 しかし、松尾芭蕉は自分が俗世間から高く
 評価されるのは、嬉しかったであろう。



【そもそも道の日記と云ものは、紀氏・長明・阿仏の尼の、
 文をふるい情を尽してより、余はみな俤似かよひて、其糟粕を
 あらたむることあたはず。まして浅智短才の筆に及ぶべくもあ
 らず。
 其日は雨降、昼よりはれて、そこに松あり、かしこに何
 と云川ながれたりなど云こと、たれたれも云べく覚侍れども、
 黄奇蘇新のたぐひにあらずは云ことなかれ。されども其処々の
 風景心に残り、山館・野亭の苦しき愁も、且は噺の種となり、
 風雲のたよりとも思ひなして、わすれぬ処々、跡や先やと書集
 め侍るぞ、猶酔るものゝ妄語にひとしく、いねる人の譫言する
 たぐひに見なして、人また亡聴せよ。】


★意味・・・そもそも旅の日記というものは、紀貫之、鴨長明、
 阿仏尼が古い旅情を述べつくして以来、ほかは俤は似かよっ
 ていて、その糀粕を越えるには至っていない。ましてや浅知恵
 も才能もない者の文が及ぶはずがない。
 その日は雨が降ったとか、昼から晴れたとか、そこに松があっ
 たとか、あっちに??いう川が流れていたということは、誰で
 も覚えて書けそうに思われるけれども、黄山谷のような奇山や
 蘇東披のような新鮮さの類でなければ書いてはならない。
 けれども、旅の所々の風景が心に残り、山荘や野宿の辛い旅
 の思いも、一方では話の種になり旅の記録になるかと思う。
 旅先での便りと思い直して、忘れられない所など、後先なく
 書き集めることは,さらに酔った者のたわ言に等しい。寝て
 いる人のうわ言の類と見なして、人の話を聞き流すべきである。
 
 ★松尾芭蕉は自分には文才がないと卑下しているとも取れるが、
  松尾芭蕉は紀貫之などを凌ぐ紀行文を書きたかったのだ。
 


【3】道の日記:鳴海
10月25日 江戸を出立。
○江戸~~~東海道を行く。

○40次 尾張の鳴海宿
■11月4日  鳴海宿。(名古屋市南区?鳴海)
  歌枕として千鳥の名所。
○芭蕉門下:下里知足邸に滞在。
  千代倉という屋号の造り酒屋の当主で富豪である。
「鳴海」の歌人:飛鳥井雅章公の鳴海宿に泊まった。
《飛鳥井雅章公(あすかゐまさあきこう)の此の宿にとまらせ
 給ひて、「都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてゝ」と
詠じ給ひけるを、自らかゝせたまひて、たまはりけるよしをか
たるに、~~~》

★意味・・・飛鳥井雅章公がこの鳴海にお泊りになったおりに、
「今宵、鳴海の浜辺に至ると、海を隔てていっそう都が遠く思
われる」とお詠みになった。その歌を自筆にお書きくださって、
頂戴した事情を語ってくれたので、~~~
飛鳥井雅章公は、京都より遠ざかった旅路の心細さを詠んだ。

『 京までは まだ半空や 雪の雲 』
★意味・・・京の都への道中の途中なのだが、まだ半分
 の旅程を残している。しかも雪の雲が立ちふさがっていて、
 暗雲立ちこめる天気になおいっそう心細い気がしている。
江戸を旅立ってきたものの、京まではまだ道半ば、遠いなあ。
 空には雪雲がかかっている。前途多難な旅愁を詠んだのだ。

◆◆箕輪初心★織田信長『桶狭間の戦い前哨戦』 ◆◆
  =家康の信長攻撃』 ◆◆
・天文17年(1548) 第2回の小豆坂の戦い
 ○今川義元
  鳴海城(愛知県名古屋市緑区)
  大高城(愛知県名古屋市緑区大高)
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  沓掛城(豊明市沓掛町)   
 ○織田信長
  ①鳴海城対策・・丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築城。
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  ②大高城対策・・丸根砦、鷲津砦を築城。
   鳴海城、沓掛城との連絡を遮断。

◆◆ 箕輪初心★織田信長『桶狭間の戦い』 ◆◆


※この近くは、太古~明治時代まで海であった。
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・千句塚公園の松尾芭蕉の句碑
 『 星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥 』
  貞享4年(1687)11月、松尾芭蕉が寺島安信宅での歌の
  記念に自分自身で建てたものである。
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・天林山笠覆寺・・・笠寺観音
・泉増院の千鳥塚碑
『 星崎の 闇を見よや 啼千鳥 』 芭蕉翁  
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★城回りで忙しく、寺に寄る時間はなかった。残念。 
 
○熱田
【みかはの国保美と云処に、杜国が忍びて在けるを訪んと、
先越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋ね帰りて、
其夜よし田に泊る。】

松尾芭蕉は三河の保美の杜国に会おうと思い立った。
25里(100km)も引き返した。鳴海宿を越え~~~。 
やっぱ、松尾芭蕉は忍者みたいだ。


○吉田宿泊

『 寒けれど 二人ねる夜ぞ たのもしき 』
★意味・・寒いけれども気の合った友と二人寝る夜は
 楽しい。
 しかし友達が、越人or杜国のどちらか不明である。
 松尾芭蕉は、越人と寝ながら杜国を思っていたかも
 しれない。


『 冬の日や 馬上に氷る 影法師 』
冬の日ざしを浴びた 自分は馬上に凍りついた影法師の
ようである。季語は2つある。「冬の日」と「氷る」である

【あまつ縄手、田の中にほそ道ありて、海より吹上る風いと
 寒き処なり。】

★意味・・豊橋から田原にかけての渥美湾に沿った天津縄手という
 所がある。田んぼの中の細い道に海から吹き上げる
 風は大変寒い場所であった。

 


【4】伊良古崎→名古屋
【保見村より伊良古崎へ一里ばかりも有べし。三河国の地つゞき
にて、伊勢とは海隔たる処なれども、いかなる故にか、万葉集に
はいせの名所の中にえらび入られたり。此洲崎にて碁石を拾ふ。
世にいらごじろと云とかや。骨山と云は鷹を打処也。南の海のは
てにて、鷹のはじめてわたる所と云り。いら古鷹など哥にもよめり
けりと思へば、なをあはれなる折ふし、】

※「いらごじろ」は伊良湖岬で産した碁石貝のことである。
※「骨山」は伊良湖岬の高峰。かつては鷹狩の場所であった。

○保美・・・杜国と伊良湖岬へ。
『 鷹一つ 見付けてうれし 伊良湖崎 』  
★意味・・伊良湖岬で鷹を一羽見つけたので、うれしい
なあ。。鷹ではなく、杜国にあったからである。
杜国と会い、この先の旅で合流しようと思ったであろう。
 
○鳴海宿
○熱田11月21日~24日 
○熱田神宮参拝。
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 熱田御修覆
『 磨直す 鏡も清し 雪の花 』
★研ぎ直した鏡の清さの中に映る雪が花のように散って見える
なんて神々しい清らかさなのだ。
3年前は野ざらし紀行で、熱田神宮を訪れた時は、熱田神宮は
荒廃しきっていた。でも、立派に修復された熱田神宮を訪れ、
感動を句にしたのである。  

【蓬左の人々にむかへとられて、しばらく休憩するほど、】
★熱田神宮を蓬莱宮と言った。蓬左とは蓬莱宮の左という意味
で、現在の名古屋である。
★名古屋の人達に迎えられて、~~~。

『 箱根こす 人もあるらし けさの雪 』
★今朝、この雪の中、箱根を越す人もあろうに、大変だのう。
この糞寒いのに・・・。これから雪の中箱根を越えなけ
ればならない人もいるというのに、自分は名古屋の
人達に温かく迎えられて幸せだ。

○ある人の会
『 ためつけて 雪見にまかる 紙子哉 』昌碧亭
★意味・・・紙でできた「紙子」なる旅の衣の折り目を
 正しく直して雪見に参るとしよう。

「いざゆかん 雪見にころぶ 所まで」
★意味・・さあ。行こう。雪見で転んでしまう所まで~~
いつまでも雪見をしていたいのだ。  

○或人興行= 防川亭の俳席?
『 香を探る 梅に蔵見る 軒端哉 』
★意味・・軒下で梅の香りが匂ってくる先を探っていたら
立派な蔵を見ることができた。



【5】旧里=伊賀上野
○名古屋
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【此間、美濃・大垣・岐阜のすきもの訪ひ来りて、哥仙あるは
 一折など、度々に及ぶ。師走十日余り名護屋を出て旧里に入ん
 とす。】

★意味・・・この間に~~~名古屋滞在中に俳諧を好む者が
 訪ねて来て歌仙三十六句から成る連句や一折十八句を
 作ることも度々であった。12月10日過ぎに名古屋を出発
  し、故郷:伊賀上野に向かった。

『 旅ねして 見しや浮世の 煤はらひ 』
★意味・・旅寝を重ねて月日の立つのを忘れていたが、浮世
 (世間)では煤払いをしているのを見て、ああ、もう師走に
 なったのだ。

【桑名よりくはで来ぬれば」と云日永の里より、馬かりて杖
つき坂のぼるほど、荷鞍打かへりて馬より落ぬ。】

『 かちならば 杖つき坂を 落馬かな 』
★意味・・馬を借りて乗って行ったら、杖つき坂で馬から落ちて
しまった。情けなや。杖つき坂は徒歩(かち)ならば杖をついて
坂を上るのに、馬に乗ったばかりに落馬した。かっこわりー。
変な句。季語が入ってないぞ。超駄作?語呂遊び?

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 (★鈴鹿山脈の御在所岳から東海道が見える。)

伊賀上野
12月下旬~越年
 『 旧里や  臍の緒に泣く としの暮 』
★伊賀ドライブインで見た句はこれだった。
 西○氏に「松尾芭蕉は、墓の墓参りに来て
 母と繋がっている臍の緒を家で見て、 
 泣いたのだと思います。「臍の緒に泣く」という
 表現がぐっときますね。年の暮れに~~」
 と説明した。私には最高傑作に感じられた。
★松尾芭蕉は久々に実家に帰り、自分の臍の緒を見つけた。
44年の歳月を経た徘徊=俳諧流浪の自分・・・
今は亡き父母のありがたさに泣けたのだった。


 
■貞亭5年(1688)45歳
●伊賀上野の家
【宵の年、空の名残をしまんと、酒飲夜ふかして、元日寝
 わすれたれば、】


★意味・・大晦日の宵の空の名残を惜しもうと酒を飲み、
夜更かしして、元日は寝過ごしてしまったので
1月1日  
『 二日にも ぬかりはせじな 花の春 』
★意味・・・二日にも抜かるようなことがないように
 朝きちんと起きて、初春の花の息吹を味わいたいなあ。
 


○小川風麦亭
『 春たちて まだ九日の 野山かな 』
★意味・・立春後、まだ九日しか立っていない野山は、まだ冬の姿
 を留めながらも、かすかに春の気配が感じられるのだ。
野山の微妙な雰囲気を誰もが想像できるように表現した詩的な句だと思う
  
『 枯芝(芝枯)や やゝ陽炎の 一二寸 』
★意味・・枯れた芝が冬の姿を留めている。かすかに陽炎が
立っているのだ。
 
●伊賀上野
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 (★伊賀上野城は天守閣はなかったのだ。)
12月下旬~越年
 『 旧里や  臍の緒に泣く としの暮 』
★伊賀ドライブインで見た句はこれだった。
 西○氏に「松尾芭蕉は、墓の墓参りに来て
 母と繋がっている臍の緒を家で見て、 
 泣いたのだと思います。「臍の緒に泣く」という
 表現がぐっときますね。年の暮れに~~」
 と説明した。
★松尾芭蕉は久々に実家に帰り、自分の臍の緒を見つけた。
44年の歳月を経た徘徊=俳諧流浪の自分・・・
今は亡き父母のありがたさに泣けたのだった。

 
■貞亭5年(1688)45歳
●伊賀上野の家
【宵の年、空の名残をしまんと、酒飲夜ふかして、元日寝
 わすれたれば、】
★意味・・大晦日の宵の空の名残を惜しもうと酒を飲み、
夜更かしして、元日は寝過ごしてしまったので、・・・
1月1日  
『 二日にも ぬかりはせじな 花の春 』
★意味・・・二日にも抜かるようなことがないように
 朝きちんと起きて、初春の花の息吹を味わいたいなあ。
 


○小川風麦亭
『 春たちて まだ九日の 野山かな 』
★意味・・立春後、まだ九日しか立っていない野山は、まだ冬の姿
 を留めながらも、かすかに春の気配が感じられるのだ。
野山の微妙な雰囲気を誰もが想像できるように表現した詩的な句だと思う
  
『 枯芝(芝枯)や やゝ陽炎の 一二寸 』
★意味・・枯れた芝が冬の姿を留めている。かすかに陽炎が
立っているのだ。
 

2月初旬  
【5】新大仏寺・伊勢
○伊賀発→伊勢神宮へ向かった。
○上野の郊外阿の波庄まで旧友:宗七・宗無を同伴した。

【伊賀国阿波ノ庄と云所に、俊乗上人の旧跡あり。護峰山
新大仏寺とかや云名ばかりは、千歳のかたみとなりて、伽藍
は破れて礎を残し、坊舎は絶て田畑と名のかはり、丈六の
尊像は苔のみどりに埋れて、みぐしのみ現然とをがまれさせ
給ふに、上人の御影はいまだ全くおはしまし侍るぞ、其代の
名残うたがふ処なく、涙こぼるゝばかり也。石の蓮台・獅子
の坐などは、蓬・葎の上に堆く、双林の枯たる跡もまのあた
りにこそおぼえられけれ。】
※俊乗上人は鎌倉時代の僧で東大寺を再建した。
★意味・・・(津に出る長尾峠の麓に)阿波ノ庄という場所に
俊乗上人の旧跡がある。護峰山新大仏寺とか言われているが
名ばかりで長年のかたみとなって、伽藍配置は壊れて礎石の
みを残し、宿坊は絶えてしまって田畑と変わって、一丈六尺
(約5m26cm)の仏像は苔の緑に埋まっていて、ご尊顔だ
けをはっきりと拝めさせていただくだけの荒廃ぶりであった
が、(俊乗)上人の御像はまだ朽ちずにいらっしゃる。
創建当時の名残が感じられて、涙がこぼれるばかりである。
仏像の蓮台・獅子の台座などは、まるで釈迦が入滅した時に
枯れたという沙羅双樹を目の当たりにするような様子であった。 

『 丈六に 陽炎高し 石の上 』
★意味・・一丈六尺もある仏像が実際には顔しか見えないが
仏像が石の上に立っている姿がうつつ幻のように見えたのだ。
かつては、隆盛を誇った仏像が~~~。

○伊勢神宮参拝

○伊勢滞在・・・伊良胡崎の杜国と合流。

○伊勢山田の中津益光亭

○伊勢内宮参拝
『 何の木の 花とはしらず 匂哉 』
★内宮の神前に「2礼・2拍・1礼をしていると、何の木か
分からないが、清らかな香りがしてきたのだ。なんと気高い
ことか。
「何事の おはしますかは 知らねども 
 かたじけなさに涙こぼるゝ」
西行のの歌を踏まえて詠んだ俳句と解釈されているそうだ。
 
『 裸には まだきさらぎの あらし哉 』
★意味・・裸になるにはまだ如月=2月の嵐で糞寒い。
 自分なら絶対やらないよ~ん。
 平安時代の増賀上人は伊勢神宮参拝の折に袈裟を
 乞食に与え、裸で下向したという故事を踏まえて詠ん
 だ句だそうである。


○伊勢滞在・・・伊良胡崎の杜国と合流。

○嵐朝宅・・・杉山杉風宛の書簡を執筆。
 父三十三回忌に伊賀に戻ることや濁子一家への伝言。
『 紙ぎぬの ぬるともをらん 雨の花 』
   
【7】子良の館・笠の落書
【神垣のうちに梅一本もなし。いかに故有ことにやと、
神官などに尋侍れば、只何とはなし、おのづから梅一本
もなくて、子良の館のうしろに一もと侍るよしをかたり
伝ふ。】

★内宮に梅の木が一本もない。その訳はどういう理由で
あるかと神官などにお聞きしてみたが、「ただなんとなく。
これといった訳はないです。自然に梅は一本もなくて
子良の館の後ろに一本ありますと伝え聞いています。」

『 御子良子の 一もとゆかし 梅の花 』
★意味・・神官に仕える子良(巫女)の清楚な感じ
と子良のいる館にだけある梅の花のすがすがしい香りが
なんて良いのだろう。おじさんは若い子大好きじゃ。
なんて特別な思いが感じられるのは、私だけだろうか?
「変なおじさん、変なおじさんたら、~~。志村さんてか?」


『 神垣や おもひもかけず 涅槃像 』
伊勢神宮の神垣で、思いもかけず、釈迦の涅槃像
を見つけたてしまったのだ。伊勢神宮の敷地内なのに
不思議だなあ。神仏習合の神宮ではないはずだ。
「変な神宮、変な神宮、~~伊勢神宮てか?」

 

○園女亭
『 のうれんの 奥物ぶかし 北の梅 』
『 梅稀に 一もとゆかし 子良の舘 』
『 御子良子の 一もと床し 梅の花 』


○龍尚舎(=伊勢山田の神官で和学者)
『 物の名を 先とふ荻の わかばかな 』
★意味・・萩の若葉は伊勢では何て言うのですか?
『 物の名を 先とふ蘆の わか葉哉 』
『 物の名を まづとふ萩の 若葉哉 』
※萩の若葉・芦(アシ)の若葉と和学者に問いかけた。

○網代民部雪堂亭。伊勢の神官の息子。
「 梅の木に 猶やどり木や 梅の花 」網代民部雪堂
『 梅の木に なをやどり木や 梅ノ花 』
★意味・・梅の木になおもやどり木のように梅の花が咲い
ている。親子の絆を感ずるのだ。寄生虫のような意味では
ないだろうな。きっと。


○草庵会
『 芋植て 門は葎の わかばかな 』
★意味・・里芋を植えて出て来たの若葉と門の所にある
葎(むぐら)の若葉が出迎えてくれるちょっと荒れた草庵
だなあ。こんな感じかなあ?
葎(むぐら)=カナムグラ・ヤエムグラ・かわらまつば
 などがある。


○二乗軒
『 やぶ椿 かどは葎の わかばかな 』
『 いも植て 門は葎の わか葉哉 』
 
○菩提山
菩提山神宮寺・・・伊勢度会郡朝熊山の西の尾
神宮寺の開祖は行基とされるが、廃墟となっていた。
『 山寺の かなしさ告げよ ところ掘り 』
『 此山の かなしさ告よ 野老掘 』
★意味・・・この山寺の悲しい没落の歴史を教えて欲しい
と野老掘=自然薯=山芋(とろろ)堀をしている年老いた
髭爺老に頼んだ。やっぱり、悲しすぎる。
野老は根のひげ根を老人のひげに見立てた言い方だそうで
ある。(★辞書より) 水戸黄門のような髭ではないのだ。
正確には山野に自生する山芋に似た蔓草だ。
私の地区では「おにいも」と呼んでいる。しかし、
「おにいも」は苦いので、食べない。葉が互生なのだ。
私の家では、山芋はあんず(根の頭の部分)たくさん植え
て栽培している。猪にプレゼントしてるのだ。
というより、勝手に食べられちゃうのだ。

 
○楠部
『 盃に 泥な落しそ むら燕 』
 
○外宮の舘
『 神垣や おもひもかけず 涅槃像 』
 
○神路山
 『 はだかには まだ衣更着の あらし哉 』


★参考文献等
①芭蕉文集(新潮社)
②新芭蕉講座第八巻紀行文篇(三省堂)
③芭蕉記念館Hpなど多数。



★明日は、【笈の小文】後半だ。
 紀行文&俳諧の訳がめちゃ難しいのだ。
 母が短歌をやっていたので、だいたい分かるが、
 勝手な解釈&思い込み・感違いが多々あると
 思われる。なにとぞ、ご容赦を~~~。
 勉強しすぎちゃって、疲れたよ~ん。
 伊勢の写真が古すぎて使えなかったのだ。

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