箕輪初心●愛知「清洲城2回目」 =織田信長の城

織田信長の城として有名である。永禄3年(1560)の桶狭間
への織田信長の出撃が清洲からであった。また、天正10
年(1582)6月2日本能寺の変で織田信長が死んだ後の織田
家の家督相続を決める「清洲会議」が清洲城で開かれた。
1回目は平成22年(2010)4月29日~5日間の高知県:
柏島ダイビングツアーの帰りに、清洲城を散策した。
2回目は平成24年(2012)5月27日の群馬県立歴史博
物館の旅行であった。

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◆◆ 箕輪初心●清洲城1回目=織田信長の城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201103/article_5.html

◆◆ 箕輪初心●織田信長の桶狭間進軍コース ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201206/article_3.html


2回目訪問記・・・平成24年(2012)5月27日
○朝、大高城・鷲津城・丸根砦・鳴海城遠望・善照寺砦
 ・中島砦・鳴海宿を散策した。
08:40にルートイン名古屋で合流し、清洲城に向かった。
09:20清洲城の駐車場に着いた。
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清洲古城跡・・・織田信長時代の清洲城の主郭。
織田信長の城として有名である。
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 「復元された石垣」
 「清洲古城跡」石碑
 「右大臣織田信長公古城跡」の石碑・・・
  石碑がある場所が本丸土塁跡と言われている。
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★天正10年(1582)6月2日本能寺の変で織田信長が死んだ。
織田家の家督相続を決める「清洲会議」が清洲城で開かれた。
上野国の前橋城にいた滝川一益は、箕輪城にいた武田氏の
家臣を人質を開放したが、味方にはならなかった。
結局、北条氏邦との2度目の神流川の戦いで敗れ、清洲に
戻った。遅刻しちゃったのだった。
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◆◆ 箕輪初心●箕輪城:滝川一益 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201010/article_33.html


織田信長が死ななければ、上杉景勝・直江兼続などは
 滅亡していただろうなんて、思いながら~~~散策。
越中の柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政は
魚津攻めを進行中であった。信濃の森長可は松本城から
春日山城を目指しただろうし、上野の滝川一益は厩橋城から
越後の坂戸城(上杉景勝の生まれた城)経由で春日山城攻撃
になっていただろう。上杉景勝はラッキーだったのだ。
豊臣秀吉の推した三法師が家督を継ぎ、安土城へ行く。
清洲城にはその補佐役の織田信雄が入城することになった。
しかし、徳川家康と手を組んだ織田信雄は小牧・長久手の戦い
以降、豊臣秀吉によって追われることになった。


★元和元年(1615)織田信雄は、徳川家康から大和国宇陀郡&
上野国甘楽郡5万石を与えられた。小幡で群馬唯一の大名
庭園:楽山園を造った。雄川堰は見事である。織田家の治水
技術・大名庭園の造りの技術を群馬に伝えたことになる。

◆◆ 箕輪初心●小幡城祭り&楽山園 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201204/article_10.html

②大手橋・・
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清洲城
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清洲城は、ど派手で、かっこいい天守閣である。
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○桜組のお姉さん
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清洲城館長の話
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 「平成元年に復元されたものです。
 清洲城主は・・・織田信長公です。織田信長公は、ここから桶狭間
 に出撃しました。清洲会議もここで行われ、・・・織田信雄は、
 清洲城に天守閣を築きました。・・・
 福島正則→松平忠吉→徳川義直へと続きました。
 慶長12年1607年、徳川義直は名古屋城を新しく築き、
 清洲城は200年の歴史を終えました。
 廃材や石垣などは名古屋城に転用されたと言われています。
 名古屋城の清洲櫓=西北櫓は、清洲城の天守を移築したもの
 と伝えられています。
・・・4階建てです。展望もいいですよ。
 それでは、ゆっくりご覧下さい。」

 ★館長さん、ありがとうございます。

1階・・・歴史のパネル・瓦など
★撮影禁止で残念。

2階・・・清洲城&清洲城下のジオラマ&ビデオ
 ★ビデオとジオラマが連動していて、楽しい。
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兜・鎧・刀などの武具
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 ビデオ・・・織田信長が桶狭間の戦いへの出陣前のシーン
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 火縄銃体験シアター・・・
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3階・・・再現した人形やしゃちほこなどが展示。
  NHK大河ドラマで、「江~~」が着た服
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4階・・・清洲城再建の歩み

展望台・・すぐ横を、新幹線やJR東海道線が通っている。
     電車が好きな方が喜んでいた。
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⑤芸能文化館
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⑥天守閣入り口・・・桜組

⑦清洲城広場・・・小さな公園。

⑧濃姫の像・・・・
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○大手橋を渡った。左折した。

清洲公園の信長像・・・26才の信長の銅像
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⑩清洲古城跡公園
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我々は、清洲城を後にし、熱田神宮、名古屋城正門前で
 昼食、桶狭間へと進んだ。



◆◆ 清洲城の歴史 ◆◆
・応永12年(1405)尾張国の守護職:斯波義重が下津城(稲沢)
       の別郭として建てられたのが始まりである(伝)。

・文明8年(1476) 足利政権は尾張守護所の下津城(稲沢)消失。

・文明10年(1478)守護所を清須に移転=清須が尾張の中心地。
         京都や鎌倉の往還と伊勢街道の交通の要所
         →尾張の政治・経済の中心地として繁栄。
     斯波義敏の時の内紛で守護代:織田氏が入城。
     一族の織田信秀が居城した。
     織田信秀が古渡城に本拠を移すと、織田信友が入城。

・弘治元年(1555)織田信長は叔父:信光と謀り、守護代:織田
      信友を殺害。織田信長は清洲城を本拠地とし、
       織田信長が那古野城から清洲城に入城。
   ●尾張を統一掌握した頃の清須城は守護館。
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・永禄3年(1560) 【桶狭間の戦】
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      織田信長が清洲城により出陣。
     →今川義元を撃破。
     →織田信長は清須から天下統一へと歩む。
◆◆ 箕輪初心●織田信長の桶狭間進軍コース ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201206/article_3.html

・永禄4年(1561) 織田信長が松平元康(=徳川家康)と和議。

・永禄5年(1562) 織田信長が松平元康と会見。姻戚関係を締結。

・永禄6年1562) 織田信長は東美濃攻撃の拠点:小牧山城を築城。
◆◆ 箕輪初心●小牧山城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201206/article_5.html

・永禄10年(1567) 織田信長が東美濃国岐阜城に入城。

・天正3年(1575) 織田信長は家督を長男:信忠に譲渡。
           尾張・美濃を授与。
           織田信長は家臣:佐久間信盛宅に居館を移動。

5月21日 長篠設楽原の戦い
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  織田信長・徳川家康連合軍3万8000
    VS 
  武田勝頼軍1万5000。
  勃発地・・・三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)。
決戦地・・・設楽原&有海原(★『藩翰譜』、『信長公記』)
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・天正4年(1576) 織田信長は安土城に入城。
◆◆ 箕輪初心●安土城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201101/article_12.html

・天正10年(1582) 織田信長は京都本能寺の変で自刃。(49歳)
          織田信長長男:信忠は二条城で死亡。
         織田家の家臣は清洲城で会合。=清洲会議
(★滝川一益は箕輪城・前橋城から出陣。北条氏邦と対決。
     神流川の戦いで敗戦・・・清洲会議に遅刻した。
     ちなみに、滝川一益の所領は蟹江城&長島城である。)       
    「織田信長の後継者を次男:信雄(のぶかつ)」
     ・・・所領は尾張。
     
     ※清須城の城郭は天守を築城。
    ※城下町・・東西1.6km、南北2.8km

・天正11年(1583) 豊臣秀吉は織田信雄に長島城を授与。
     →織田信雄は尾張・伊賀・北伊賀の5郡を領有。

・天正12年(1584) 織田信雄は清洲城で徳川家康と会見。
     →徳川家康は、小牧・長久手の戦いの間、
       清洲城に駐留。

・天正13年(1585) 大地震発生。長島城が崩壊。
        →織田信雄は清洲城に移転。修理造営。

・天正14年(1586) 豊臣秀吉と徳川家康の和議が成立。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉は織田信雄に徳川家康の旧領岡崎
          に転封命令。
        →織田信雄が拒否。
         豊臣秀吉の怒りを買って改易。
         下野那須説・下野国烏山説に流罪。
         +佐竹氏に預かり。出家。織田常真と号した。
        →豊臣秀吉の甥:羽柴秀次が清洲城主。

・文禄4年(1595) 豊臣秀次が処刑。
         →福島正則が清洲城主。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い・・・
      東軍の最前線の城として重要な軍事拠点となった。
     徳川家康は福島正則を安芸の広島に転封。
        →徳川家康4男:松平忠吉を武蔵国忍城から
          清洲城主に移封。

・慶長12年(1607) 松平忠吉(家康4男)が江戸で病死。
        →徳川家康9男:徳川義直を甲斐:甲府城から
         清洲城主へと移封。
        徳川家康は義直幼少のため甲府城代平岩親吉に
         犬山城3万石を加増。
        平岩が清洲城で国政の代行。

・慶長14年(1609) 徳川義直が清洲城に入城。
         徳川家康は名古屋遷府令を発令。
     ※清洲は人口6万人とも。(★パンフレット)

・慶長15年(1610)清洲越
      清洲からの藩士・寺社・町人などの名古屋移住。
     →尾張の政治・経済の中心は清須から名古屋へ移動。
  、   清須城と城下町は姿を消滅。
     →名古屋城築城に清須城の資材が再利用。
     名古屋城御深井丸(おふけまる)の西北櫓は、
       清須城天守の古材(伝)。
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・慶長17年(1612) 名古屋城天守閣が完成。

・慶長18年(1613) 清洲越しが完了。

・慶長19年(1614) 名古屋城本丸御殿完成。

・元和元年(1615) 徳川義直が、清洲城から名古屋城に移封。
         大阪夏の陣

元和元年(1615)7月 徳川家康から織田信雄は大和国宇陀郡&
   上野国甘楽郡5万石を与えられた。
   群馬唯一の大名庭園:楽山園を造った。
   ★平成24年に復元終了。雄川堰が凄い。
群馬に治水技術・大名庭園などを伝えたのだ。
   養蚕など産業育成にも力を注いだ。

◆◆ 箕輪初心●小幡城祭り&楽山園 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201204/article_10.html

・天明3年(1783) 清洲代官所が設置。

・天保4年(1833) 清洲代官:朝田藤三郎が周辺に石垣を設置。

・弘化4~5年(1847~48) 竹田晨業が「右大臣織田信長公古城跡」
         の碑を建立。
・弘化4~5年(1862) 林國次郎が「清洲城墟碑」を建立。

・平成元年(1989) 「清洲城」天主閣・芸能文化館・
          清洲城広場を設営。
 (パンフ・織田信長の本・雑誌多数・清須市Hpを参考に作成)

◆◆ 清洲城(清須市) ◆◆
http://www.city.kiyosu.aichi.jp/01syokai/shisetsu/50.html

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