箕輪初心●群馬沼田【川田城】&『加沢平次左衛門』

下川田城は沼田氏の一族川田氏が築いたと伝えられ、下川田町
字五段田にある。断崖城であるが本丸を断崖に寄せることなく、
本丸は東西100m、最大幅75mの五角形をなし、堀をめぐらし、
帯郭を構えた特異な構造である。東に半月系の小郭がつき、薬
師堂があり、加沢平次左衛門の墓もある。沼田氏系図には沼田
景久―川田景信―信光 ―信清―光清―光行とあるが、天文21
年(1552)北条氏の沼田進攻により滅亡したのであろう。
(天正10年(1582)武田氏滅亡後、)城主は山名信濃守義季
から祢津幸直となり、沼田城西の守りとして、真田勢、北条
勢の激戦地となり、山名主水ほか地侍が多く討ち死にした。
天正18年(1590)北条氏滅亡後、真田信幸が沼田城主とな
り、一領国一城により廃城となった。
 (★現地案内板)
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■訪問記・・・平成24年(2012)4月14日、
丸沼高原スキー場でスキー&白根温の入湯泉→川田城に向か
った。川田城は沼田市下川田町にある。

沼田ICの前を通り、沼田市街を抜け、国道145号を南西
に向かう。新薄根橋を渡る。左奧には川田城が見える。
坂を登り、T字路を左折する。川田のシダレザクラ&川田
神社の大欅を右に見ながら、進む。川田城内だから、沼田
市川田公民館に車を停めさせてもらうのもいいが、下川田
町交差点の信号の手前、150mから、左折した・・・。
そして、近所に人に情報を聞いた。。
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 (★山崎一氏の縄張り図)
下って2軒目の家の庭に看板があった。
①郭・・2軒目の家
 看板・・・上記の内容
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②二の郭の東側・・・3軒目~4軒目の家:塩野宅
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③本の郭・・・4軒目の家の奧
  ★一段高くなっている。5角形である。
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 ・本丸奧からの眺め・・・
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④北郭の遠望
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④本郭の北西の堀
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⑤本郭の北東の堀・・腰郭も見える。
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⑥二の郭の北部分
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⑦北側からの本郭・帯郭

⑧東の郭・・・川田公民館方面
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⑧東の郭・・・川田公民館の裏
 加沢平次左衛門の墓 
 ★」加沢記」を書いた人物である。
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⑬二の郭~細郭
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 帯郭から急斜面を下ると水田が広がっていた。
 なだらかに利根川方面へ下っている。

⑭薬師堂からの北西の部分
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★現在の川田公民館~北は遷流寺、東は薬師堂にまで
 の広大な地域であった。


◆◆ 川田城のHp ◆◆
武蔵の五遁さん(★松井田城でお世話になりました。)
http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-661.html

◆◆ 川田城の歴史 ◆
・室町時代・・川田城は三浦系沼田氏6代景久の4男:川田
       四郎景信が分家した際に築いた(伝)。
・応永13年(1406) 群馬郡国分の村上出羽守に攻撃。
阻止・・・。
       川田信光・信清・光清と続いた。
・天正7年(1579) 小田原の北条氏康の3男:氏邦の侵攻
・天正8年(1580) 真田昌幸の進攻で、川田氏が滅亡。
         真田が再興し、山名信濃守を城主。
・天正10年(1580)同10年から15年までは北条勢の来攻で戦乱が続き、
・天正15年(1585)山名信濃守の子:山名主水ほか多くが討死。
         真田氏家臣:小林文右衛門が住んだ。
・天和元年(1681) 杉木茂左衛門の直訴→沼田藩は改易。
    真田伊賀守の家臣:加沢平次左衛門が一角に住んだ。
(★沼田市教育委員会の看板・加沢記)

川田神社の欅
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川田のしだれ桜
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★明日は、不明?

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