箕輪初心●群馬:みなかみ【宮野城】=ホテル湖城閣

群馬県みなかみ町の猿ヶ京の関所の信号から西の入った
突き当たりの湖城閣が宮野城である。今までに、7回、湖城閣の
湯に入った。ほとんどが苗場や神楽スキーの帰りである。露天
風呂から、赤谷湖&相俣ダムのできる前の湖でなかった戦国時
代の長尾景虎を想像した。関東出兵13回中、猿ヶ京に立ち寄っ
たのは、何回だろうか?真田幸隆との抗争を考えると、越後から
三国峠越えは3回かな?などと年号との照合から勝手に考える。
後の数回は謙信尾根→清水峠越えで、数回は越年で厩橋城で
あろう。
・・・etc.
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訪問記⑤・・平成21年(2009)2月7日
○猿ヶ京温泉:湖城閣 

○1郭・・・三角形。湖城閣は1郭内部に建てられている。
○土塁・・・・・2m程。 
○1郭と2郭の空堀・・・・・・・深さ7m、幅10m程。
○東虎口?
○1郭の土塁東の側
○2郭の北の土塁
 2郭は長方形。南北に土塁がある。
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○現地案内板
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『ホテル湖城閣の建つ現在の地は、その昔宮野城の砦の位置であ
 ります。
 上杉家の城代で知高左馬亮景家の居城は尻高にございました。
 天正二年に武田家の武将海野三河守の軍勢に攻撃され尻高城は
 陥落し城主景家は討死にしたのであります。
 景家の子義隆は親の言に従って再起のため退き猿ヶ京に匿れ、
 この地に宮野城の砦を築き立籠もるのでございます。
 時移り上杉謙信の死後その流れの北條氏直に仕えて天正八年と
 なりました。その頃は沼田利根以西の武将のほとんどが北条氏に
 背き武田家の真田昌幸の軍に属して、義隆の軍は孤立したのであ
 ります。
 武田方より宮野城攻撃の火蓋はきられ敵の大将、沼田城の城代海
 野能登守ひきいる軍勢に砦は包囲されたある日のこと砦の中に一通
 の書状が届き、それは能登守の家臣で義隆の妻の甥である恩だ伊賀
 の書状でありました。
 文中に、伊賀曰く、身を殺して仁を為すは勇者の則なり、公益ぞ速
 に自ら計らざるやと、義隆砦の遂に保つべからずを悟り、砦を能登
 守に渡し部下の従わんとするを諭し、故郷に去らせて側近僅かに八
 人を従え後閑の舒林寺に退いたのでありますが、舒林寺に於いて自
 決されました。 
 (★現地案内板より) 
  

伝説・・長尾景虎(上杉謙信)が宮野城攻略し、温泉に泊まった
 時(★あったかなあ、温泉&民家?)、
 「八本の葉が抜け落ちる」夢を見た。。それを聞いた直江実綱は
 「それは関八州が手に入るという吉夢である。」
  と答えたという。景虎は、その年が申年でありことから、
 「猿ヶ京」という地名がつけたとか・・・・
     
    (★湖城閣のご主人より)
●猿ヶ京温泉:湖城閣 
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訪問記⑥・・・平成21年(2011)2月13日
○宮野城の散策
●猿ヶ京温泉:湖城閣 
湖城閣の野天風呂は最高にいい。露天風呂・樽の風呂で混浴。
きれいなお姉さんでなく、タオルを巻いた小母さんが入ってきた。
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○笹郭?・・・露天風呂の先なので、風呂に入る必要がある。
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訪問記⑦・・・平成21年(2011)2月27日
○赤谷湖南側対岸ローソンよりの宮野城全景
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 宮野城は赤谷湖に突出した半島を堀切って築城している。
  築城当時は深い谷であった。
西から流れてくる西川と東の赤谷川の合流部の崖上に築城した。
 ★沼田方面から来ると、布施の箱島城→須川の薄倉中城→
 (発電所西を通って、赤谷川を渡る)→相俣→猿ヶ京・・
 戦国時代には、猿ヶ京には集落・宿・関所はなかった。
 この先の永井宿に入る歩道橋の先からである。
 
●猿ヶ京の関所
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●猿ヶ京の関所の信号を西に入る。

○3郭・・・・武田の文書に出てくる郭付近。
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○2郭・・・長方形
○2郭北の土塁・・・道の西にある
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○2郭南の土塁。
   縄張り図でみると、外堀に面して土塁が東西に延びていて、
   途中で南北に折れて延びている。

○1郭と2郭の堀内・・・上幅約8m~?程。堀は深さ7m、
   主郭と2郭を分ける内堀?は良好に残っている。 
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○1郭東虎口?・・・ホテル湖城閣の入口に当たる部分。
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○1郭の東の土塁・・・・2m程の高さ。
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○1郭・・・三角形。湖城閣は1郭内部に建てられている。

○1郭の北の崖・・・・下は空堀から崖へ
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○笹郭?・・・・露天風呂付近
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○猿ヶ京温泉:湖城閣の籠
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○猿ヶ京温泉:湖城閣の鎧
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◆◆ 宮野城の歴史 ◆◆
・永正7年(1510) 越後の長森原(八海山麓に碑)で、関東管領上杉
   顕定は長尾為景(上杉謙信の父)と戦って戦死した。
   上杉憲房(上杉顕定の嫡子)は、三国峠を越えて上州に撤退
   したが、宮野で敗れた。

・永禄3年(1560)長尾景虎(上杉謙信)が第一次関東侵攻。
   春日山城出陣→直峰城(直江兼続の父が城代泊)→松代
→犬伏城泊→樺沢城泊→荒砥城→浅貝城・・三国峠越え
・・・上野国に入った。
    「はじめに、宮野城を攻略。」諸説在り。
   長尾景虎(政虎=謙信)は宮野城に一泊し、宮野を
   猿ヶ京に改めた。(★『加沢記』)

・天正2年(1572) 上杉氏家臣の尻高城主:尻高景家は武田方の
   海野三河守に攻められ、尻高景家は敗死。
   遺児の尻高義隆は猿ヶ京で宮野城を築城?・・・
   尻高義隆は北条氏邦方である。
   吾妻郡から真田昌幸の圧迫を受けた沼田以北は
   武田軍の傘下。・・・尻高義隆は孤立。

・天正6年(1578)5月 上杉謙信の急死→御館の乱
   上杉景虎(北条氏康の七男)支援のため、越後へ向おうとした
   河田重親は宮野城兵を追って三国峠を越えた。
北条勢は浅貝城(苗場スキー場の反対の市街地奧)→三ツ俣宿
→荒砥城(三ツ俣&湯沢の峠の上)→湯沢→樺沢城(上越国際
スキー場の下の部分)を攻略した。

・天正7年(1579)3月 北条勢は沼田に撤退。
  上杉景勝(謙信の甥)方の尻高左馬助らが宮野城に入った。

・天正8年(1580) 武田勝頼家臣:真田昌幸は沼田地域を手中に
   おさめた。

沼田城代:海野能登守が宮野城を包囲。
         尻高義隆は自刃? 
宮野城も武田氏のものとなった。
 ※地衆の中沢半右衛門宛に武田氏方である真田昌幸の判物
   「猿ヶ京三之曲輪を焼き払った。」ことが書かれている
   そうだ。
   →二の曲輪のさらに外側に三の曲輪があったのだ。

  三国峠を挟んで
   武田側にとって宮野城が堺目の城であった。
   上杉側にとっては、三国峠上の砦・浅貝城・荒砥城が
    押さえの城であった。

・天正10年(1582)3月 武田家が滅亡
   真田昌幸は、織田家家臣:滝川一益へ従属。
   隣国越後の上杉景勝はこの混乱に乗じ、3千の兵を派遣し、
   滝川勢を追い散らし、宮野城を確保した。

  6月、本能寺の変で織田信長が死亡。
   神流川の戦いで北条氏邦に負けて、
   滝川一益は帰国(愛知県蟹江城・長島城)した。
でも、清洲会議には間に合わなかった。

  7月? 真田昌幸は矢沢頼綱に宮野城攻めを命じた。
   矢沢頼綱が宮野城に迫ると、上杉側の城代:栗林憲景は、
   退路を断たれるのを恐れ、越後へ帰国した。

   以後、宮野城は真田の城として存続した。
   戦国の終焉とともに廃城となった。

(★旧新治村教育委員会・加沢記など)


◆◆ 猿ヶ京温泉 ◆◆ 
【1】宿泊した旅館やホテル・・3回
①生京園・・・1回
高校の吹奏楽団の集会「でんすけ会」。
②ホテル:コープシャトウ猿ヶ京・・・2回
苗場スキーの宿泊

【2】猿ヶ京温泉で入った日帰り温泉
①湖城閣・・・・・・・7回
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②○○屋・・・・・・・1回

③町営の湯「???」・・1回

④まんてんの湯・・・・・2回
苗場スキー場で滑ると割引券が貰える。

◆◆ 猿ヶ京の酒屋=一升屋 ◆◆ 
八海山系が・・・新潟値段だよ。
この店に、酒代で50万円は落としただろう。
 
◆◆ 近くの名所 ◆◆
 ①猿ヶ京の関所
②永井宿
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 ③西軍VS会津軍の戦い・・・町田某の供養塔
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 ④法師温泉・・・・・2時までに入ると、日帰り温泉に入れる。
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★いつか、三国街道(高崎→三国峠→新潟まで)を紹介したい。
 ほとんどの宿を通って、写真をもっているのだ。

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