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zoom RSS 箕輪初心◆群馬「池廼薬師堂の水牢」&「桃瀬の水牢」&「茂左右衞門地蔵尊」

<<   作成日時 : 2012/02/16 07:35   >>

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沼田城の5代藩主:真田伊賀守信利は極悪非道な領主だった。
重税を課し、厳しい年貢取立てをした。逆らう民には見せしめ
のために、寒い冬に水牢にいれた。使われた悪名高き“水牢”
は群馬県吾妻郡でも9つもあったという。水牢は、旧東村の
「池廼薬師堂の水牢」&中之条の「桃瀬の水牢」が現存する。
自分は、酒を好み、贅沢三昧。あげく、5層沼田城の天守閣を
築城した。材木の切り出しにも重労働を課した。天和元年
(1681)、「代表型越訴」で磔になった杉原茂左衛門の功績で、
沼田藩は改易になり、真田伊賀守信利は山形の奥平家預かり
になった。今回は、旧東村の「池廼薬師堂の水牢」&中之条
の「桃瀬の水牢」&旧月夜野町茂左右衞門地蔵尊=真田伊賀
守信利の悪業三昧の関連地を紹介しようと思う。

【1】池廼薬師堂の水牢
 
今日は大掃除の日だった。村人が大勢出ていた。
  挨拶もした。「見せて下さい。」・・・きっと、先祖の霊を
  慰めているのであろう。水牢の廻りの草刈りであった。

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○水牢で殺された農民の無念を弔う池のほとりに石仏が・・・。
  水牢に流れ落ちる清水で眼を洗うと眼病が治るとか・・・。
眼病に効くと言う水は農民を苦しめた“水牢”の湧き水だった。
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○清水は飲むことがでる。 
  箱島湧水の近くの大変美味しい湧き水だった。
ここにも、木部姫の榛名湖入水&大蛇伝説がある。
○看板
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「年貢取立ての方法は、水牢:水深60cmに農家の妻子を4〜5
人ずつ縄で縛って入れた。投獄される時期は冬の12月がほとん
どらしい。・・・薄氷の張る極寒のとても耐えられる時期ではない。
寒さに泣き叫ぶ妻子の姿を見て、祖先代々の田畑を売って米や
金子(きんす)などを工面したという内容である。」
★真田伊賀守信利の苛酷な水牢・・・命を奪われた人々のうめき
声が聞こえてくるようである。写真のばあさんと自分の母を重ね、
珍しく、怒りを覚えた俺だった。〜〜〜★ひでえ。

○「池廼薬師堂」・・・水牢は「池廼薬師堂水牢」。
  薬師堂の正面奥には石地蔵様が鎮座している。
  苛酷な水牢刑で命を落とした領民の菩提を弔っているのだ。

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真田伊賀守信利は過酷な領主だったことは確かである。
 真田伊賀守信利は真田信之の長男:信吉の子である。
 老中筆頭:「下馬将軍」酒井忠清(前橋藩)とは義理の従兄弟
(信利の妻は酒井忠清の妻の妹)であった。真田信利は本家:
 松代藩を継ぎたかったので、酒井忠清に裏から手を回したが、
 結果的には、沼田藩の領主に収まった。


【2】桃瀬の水牢(中之条町桃瀬)・・・3回訪問
○中之条から国道145号線を沼田方面に行く。吾妻神社=和利宮を
 越えた先、看板があるが見落としやすい。桃瀬川を渡り、正面。
 桃瀬川の右岸・山際にある。国道から西へ200m程の所にある。

○湧水を溜めた池が水牢・・・
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○中央には「舟底石」が、水面から少し出るように置かれている。
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○説明板
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「水牢は人を水の中に入れる水責めの一種で、おもに年貢の取立てに
 使われたといわれる。水牢跡は近世の沼田藩の中で吾妻東部にだけ
 残されている遺跡であり、八ヶ所ある中でこの跡がもっともよく
 原型を残している。
 ・・・12m四方に粗朶(そだ)をゆい、木戸を設け、周囲は石垣
 で、女は水を70cm位にし、子どもある者は背負わせ、単衣
 (ひとえ)にさせ五人ぐらいを袖に縄を通してつなぎ入れたとい
 われる。男は首がつかるまで入れたといい、体温低下で死んだ者
 もいたといわれる。この悲惨な姿を見て、人々にすがり年貢を納
 めたのだといわれる。
 吾妻東部にしか見られないものなので、中世における岩櫃城主
 斉藤越前守(岩櫃衆)が使ったものと推定され、それを近世に
 なり真田伊賀守も使っただろうと考えられている数少ない遺跡
 で貴重なものである。」
  (★現地案内板・中之条町誌宇妻・関文書)
伝説として、沼田藩五代目の藩主・真田伊賀守信利の
  「苛酷な徴税にからめての話」が伝えられている。
  しかし、江戸時代の年貢は村請制で、村の共同連帯責任で
  納めさせたので、個々に農民が水牢に入れられることはな
  かったかもしれない。
  水牢遺跡とされるものが東吾妻には9ヶ所あり、利根地方
  にはないことからも、農民が苦しんだという話は、吾妻
  ・利根地方を治めていた真田伊賀守信利の時代(近世)で
  はないように考えらる。この伝説は、江戸時代よりも以前
  (中世)のことかもしれない。

(★中之条の公式Hp)

【3】杉原茂左衛門の磔地蔵&地蔵尊
   みなかみ町旧月夜野町・・・

○上毛カルタ・・・「天下の義人 茂左衛門」
「杉木茂左衛門(すぎき もざえもん)は寛永時代の義民です。
 磔左衛門(はりつけ もざえもん)とも呼ばれています。
沼田藩主真田信利の悪政は飢饉の発生と共に農民を苦しめていまし
た。地元農民のために意を決した茂左衛門は、時の大老酒井忠清に
面会を求めますが叶わず、将軍徳川綱吉に訴状が届くように策を弄
しこれに成功。沼田藩主真田信利は改易となりました。
地元農民の窮状を救った茂左衛門は直訴の罪で妻子とともに磔の刑
に処されたのですが、実は江戸からご赦免が出ていて、その使者の
到着する前に刑が執行されてしまったと伝えられています。
このような経緯から、「天下の義人」として後々まで地元民に語り
継がれました。」・・・(★解説文)
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★政所村の義民『松井市兵衛』は大目付に直訴したが、握りつぶさ
 れて直訴は失敗→月夜野利根河原で打ち首。
 →杉木茂左衛門(元武士)は利根・吾妻・勢多177ヶ村の領民を
 救うべく、妻子に別れを告げ、真田信利の非行・領民の惨状を記し
 た直訴状を持って江戸に出立。茂左衛門は、金菊紋入り蒔絵文箱
 (=輪王寺御用箱)を中山道板橋の茶屋に置き忘れ、茶屋の亭主
 から上野輪王寺宮へ。そして最後は将軍家へ直訴状は届けられる
 こととなった。
・・・茂左衛門地蔵尊には、こんなことも絵になって、解説して
 あった。
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5代:真田伊賀守信利が沼田領地内の水利の悪い地域に水路を引か
せたために水田が潤ったという話もある。改易により中止となった
水路工事をしていた集落では信利の改易を惜しんだという。「はり
つけ茂左衛門」の悲劇が真田信利の悪名を生んだが、真田信利が
偉いと思っている人もいることも確かである。「捨てる神あれば、
拾う神あり」って、とこなのだろうか?
しかし、年貢米を量る伊賀升(茂左右衛門地蔵尊)=真田升
(真田宝物館)は、通常より、かなり大きい。やっぱり、極悪人
かな?・・・真田信利は、寛文2年(1662)より領内総検地をし、
表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に
報告した。また、沼田城を修築して五層の大天守閣を立てた。
領民は重税を強いられ、多数の餓死者を出したのは事実のよう
だ。でも、沼田藩改易後の幕府再検地では実高は6万石に過ぎ
なかったという。


分類は、@群馬よいとこ・A戦国武将&偉人・・・
  しょうがねえ選択。・・・ごめん。

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箕輪初心★若山牧水Fロマンチック街道「法師温泉へ」
★若山牧水は大正11年(1922)10月21日、四万温泉『田村旅館』で、 不快な思いをした若山牧水は、中之条に向かった。中之条から は吾妻線に乗り、渋川駅に正午に着いた。3時間あるので、渋川 駅前の小料理屋で昼食&酒タイムにした。渋川駅で雨人と別れて 独り旅になった。沼田駅で降り、沼田の「鳴滝館」に泊まった。   大正11年(1922)10月21日  ●渋川・・・15時 ※澁川から沼田まで、不思議な形をした電車が利根川に沿うて走る のである。その電車が二度ほども長い停電を... ...続きを見る
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