箕輪初心●群馬:東吾妻【金原城】&【柏原城】&『荒巻一族』

東吾妻町も旧東村の城砦は7つある。なんとなく、通り過
ぎてしまい、細かく観察をしていない地域である。まとも
に散策しているのは、【金原城=白狐城】&【柏原城=根
小屋城】だけである。近いうち、他の5つも詳しく散策
しようと思っている。渋川から吾妻方面に城砦並べてみた。

【1】●柏原城=岡崎根小屋城・・旧東村箱島柏原の根小屋之湯
■訪問記①・・平成23年(2011)7月3日
○渋川から県道35号線で、野反湖を目指した。
○渋川の祖母島から、東吾妻町に入った。

○東の沼尾川にかかる橋の上から柏原城を観察した。
 右の山が城だ。登るのが不可能な断崖である。
 ※橋の先からの入れたが、今年は進入禁止になっている。
○根小屋城=柏原城は東吾妻町の東端にある。
○県道35号線の岡崎交差点近くの「天然大露天:根小屋
 温泉」の看板がが目印である。
○北は吾妻川の断崖、東は沼尾川の断崖を持つ要害である。
○二の郭&主郭には温泉施設が建っている。
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  残念ながら遺構はほとんど破壊されている。
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○温泉施設の西に、堀跡と思われる僅かな窪みがあった。
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◆◆ 柏原城=岡崎根小屋城の歴史 ◆◆
・????年  柏原城は長尾氏白井城の出城。

・天正元年(1573) 植栗元信は柏原城主になった。(伝)
柏原城=根小屋城・・旧東村箱島柏原の根小屋温泉
  (★植栗城の廃城時期は明らかでないが、この時か?)

・天正2年(1574)上杉謙信方の白井城主:長尾憲景は、
吾妻の道を開こうと、柏原城を吉里・野村・飯塚等に
命じ、柏原城を占領した。
岩櫃城代:海野幸光は、援軍を送った。富澤但馬守・
上原渡等が大手口から木戸を破らんと攻防が続いた。
長吏八右衞門という忍者を使い、深夜柏原城に崖か
ら忍び込ませた。八衛門が頃合いをみて、城内各所
に放火させた、長尾の城兵が混乱すると、夜陰に
潜んでいた植栗河内守の軍勢が突入し、長尾勢を
駆逐し、柏原城の奪還にした。
(★上毛古戦記P176~:加沢記)

・天正3年(1575) 真田昌幸に命じられて柏原の要害(岡崎)を
荒牧斉藤宮内右衛門隆房&植栗河内守元信、湯本左京進ら
 共に守り、北条氏邦の傘下にのある白井城:長尾憲景に対抗した。

・天正7年(1579) 荒巻氏達は真田昌幸が東上州に出動の
           際には出陣した。

・天正10年(1582)6月、本能寺の変・・・
北条氏邦が岩櫃城を再攻撃しようとした時、植栗元信、
  伊能(いおく)氏等大田郷(川戸)の郷士等と柏原城に籠った。

  荒巻隆房・植栗元信は吾妻東の要害を良く守った。
  真田昌幸に従って各地を転戦した。

・天正17年(1589)柏原城の配備は湯本九右衛門のみである。
  ★おそらく、荒牧氏は帰農したので、あろう。

(★上毛古戦記などより編集)

◆◆ 群馬の根小屋城は4城 ◆◆ 
  ①柏原城=根小屋城・・・東吾妻町岡崎 
  ②三島根小屋城・・・東吾妻町三島
  ③根小屋城・・・・・・・高崎市根小屋
  ④根小屋城・・・・・・・下仁田町

 ★ 「根小屋」・・・原則的には武田系である。
 ★ 「寄居」や「宿」・・・原則的には北条系である。
 ★ 「町」・・・原則的には徳川系である。 
 ★ 「内出」「打出」「堀の内」・・上野の土豪系である。

【2】△岡崎の陣屋・・・旧東村岡崎新田屋敷 


【3】○箱島城=寄居城・・・旧東村箱島寄居
    東中学校の下=北隣


【4】●白狐城=金原城・・・旧東村五町田金原
■訪問記①・・・平成19年(2007)11月3日
植栗城の帰りに場所だけ確認した。
 木の標柱が気になったからだ。

■訪問記②・・・平成22年(2011)1月30日(日) 
 天候・・・曇時々小雪。気温-3度
★クマノミさん=野○氏との「富山:寒ブリ&釣りツアー」
 が中止になり、昨日は、箕輪城のガイドボランティアをした。
今日は、太田犬&無線組の「石打丸山スキー場」に決定した。
07:30 家==渋川IC・・しかし、ハイウェイ情報に
「渋川IC~赤城IC渋滞「通り抜けに100分」と表示があった。
  太田犬と無線組と連絡がとれない。
  今日は大雪強風の最悪のコンディションらしい。
08:00 すぐに諦め、吾妻方面に変更した。でも、道は薄雪状態。
県道35号線を西進した。
  鹿沢・草津方面まで、約40kmかと、嫌気がさしてきた。
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○旧東村の左手に白い標柱・・・「白狐城跡」と書かれている。
 すぐ近くの橋の先に車を停めた。
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①金原城入口・・入り口に「文化財金原城址(白狐城)入り口」
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  雪道を長靴で登った。
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○金原城からの眺め
   城の対面には岩井堂砦が見える。
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○西の奥田川のかかる奥田橋
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②2郭の土塁
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③2郭・・・トタン屋根の建物と広場が見えてきた。
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   ゲートボール場である。
   隅に「文化財金原城址(白狐城)」
   と微かに読み取れる標柱があった。
    金原城主郭(予想)
  西の奥田川を天然の堀にしている。金原城は北へ流れる奥田川
   が東へ流れを変える場所に築かれた。
   東は断崖絶壁で北は、大手口の急斜面である。
②3郭と思われる郭。
  奥には城門跡と思われる遺構がある。
  ゲートボール場の奧の一段高くなった所には東村の戦没者
    の忠霊塔が建っていた。
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   案内板はなく、どんな城なのかは分からない。
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④本郭=主郭
ゲートボール場の上段に畑となっている削平地がある
 ここが主郭であろう。
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 目立った遺構は見られず、10分程度で終了!
南は大きな防御施設がない。守りに不安がある。
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◆◆ 金原城の歴史 ◆◆
・室町時代初期・・・金原氏は築城(伝)。
・応永年間(1394~1427)金原左衛門尉が居城。
 吾妻川北岸にある岩井堂砦と連携して、吾妻領東端の
 守りにあたっていたと言われている。

【5】△稲城・・・旧東村奥田道下堀の内
金原城から橋を挟んで西側にある。
  奥田の砦や金原城から100~200m程しか
離れていない。
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 (★山崎一氏縄張り図) 


【6】△奥田の砦・・・旧東村奥田内手道上
池廻薬師堂の水牢散策で、通ったが、散策していない。
  稲城と共に吾妻斉藤氏の境目の城として、荒牧三郎威実
  の一族が守っていたであろう?
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  (★山崎一氏縄張り図)


【7】△荒巻屋敷 旧東村荒巻=新巻
 ■訪問記・・・平成23年(2011)7月3日 
荒巻氏の本拠は現東吾妻町新巻の荒牧屋敷跡と思われる。
  城は、典型的な舘城である。
  岩櫃城主:初代斉藤家:斉藤憲行の三男斉藤三郎威実
  が、現在の新巻地区に土着したと言われている。
 城域は、100m×80m位で、「左衛門畑」と呼ばれて
  いる畑が館の跡である。
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 (★山崎一氏:群馬の古城塁祉の研究:縄張り図)

◆◆ 荒巻→新巻の歴史 ◆◆
奈良時代・・・新巻は、「荒牧」と呼ばれていた。
平安時代・・・天皇の牧である。
南北朝時代・・吾妻太郎は里見氏に敗れ戦死。
    その子:千王丸=斉藤憲行が母方の安中飽間の
実家の斉藤梢基に育てられた。
    斉藤憲行は関東管領上杉憲顕や上州北朝方の
    桃井・渋川氏などの力を借り、里見氏を破った。
    そして、岩櫃城を奪回した。
 斉藤憲行に六人の子・・・
  ①斉藤憲実・②中山幸憲・③荒巻威実・④斉藤基政・
  ②斉藤憲基(大野氏、尻高氏、二宮氏の祖)、⑥富澤行連
  である。
  斉藤基政と富澤行連は岩下郷に土着した。
  荒牧三郎威実は荒牧に土着した。

・大永年間(1521~1528)岩櫃城城主: 5男の憲基の家系大野憲直に、
 岩下城主:斉藤憲次(4男の基政の家系)は植栗元吉を討つ
 ように命ぜられた。しかし、植栗と手を結び大野憲直を滅ぼした。
 斉藤憲次が岩櫃城主となると、荒牧氏は配下となった。

・永禄5年(1562)長野原合戦・・・
荒牧斉藤宮内右衛門隆房は斉藤憲弘の配下として斉藤弥三郎
則実(憲弘の甥)に属した。斉藤則実と羽尾幸全とともに
 長野原城:常田隆永(真田幸隆の末弟)を戦死させた。


・永禄7年(1564) 荒牧斉藤宮内右衛門隆房は沼田の加勢800騎と
共に雁ヶ沢口に向いて真田氏と対陣した。(第一次岩櫃城攻防戦)。
 
 →岩櫃城代となった海野幸光(羽根尾幸全弟)に荒牧斉藤宮内右衛
門隆房70余騎が属した。
 
 
 →岩櫃城:斉藤憲弘が真田幸隆の調略・・斉藤弥三郎則実(憲弘
 の甥)の裏切り、善導寺和尚(川戸内出城秋間一族菩提寺)の
 協力で岩櫃城を攻略した。
 →荒巻隆房は岩櫃城の斉藤氏没落の後は真田幸隆に属した。

・天正3年(1575) 真田昌幸に命じられて柏原の要害(岡崎)を
荒牧斉藤宮内右衛門隆房&植栗河内守元信、湯本左京進ら共に
 守り、北条氏邦の傘下にのある白井城:長尾憲景に対抗した。
(★上毛古戦記&真田三代他)
 
★その後、荒巻氏の名前が出てこない。
  荒巻隆房は帰農したのでは、なかろうか。


岩櫃城探検隊でお世話になった富澤豊前守様のブログ
http://www.denno2488.com/index.php?%E8%8D%92%E7%89%A7%E5%B1%8B%E6%95%B7%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC

この記事へのコメント

富澤豊前守
2012年03月19日 23:23
 荒牧斉藤宮内右衛門隆房のその後ですが、口伝でその末裔だという人に以前お目にかかりました。その末裔の方は現在埼玉に居られまして、毎週土日に奥田に見えられているようです。そのお宅は、奥田の砦跡のすぐ下にあります。お墓は、やはり奥田の砦のすぐ上にあります。その方の説明だと、荒牧氏は真田の仕打ちがいやになり南に下って、南を名乗り帰農して明治の頃まで奥田の庄屋として居住していたそうです。その後、何かの原因で財産がなくなり、その人の父は、南ではなく母方の姓「三枝」を名乗り現在に至っているそうです。また、その人のおばあさんは南を名乗っているようです。そのふるいお墓の石塔に書いてありました。
富澤豊前守様へ
2012年03月20日 09:33
ありがとうございます。凄いですね。荒巻氏の子孫の方まで
探し出されて、・・・びっくりしました。「三枝」姓は、武田信玄の家臣の中にもいますね。この地に、甲府からご先祖がきたのでしょうか。いつか、訪ねたいです。

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