箕輪初心●群馬:東吾妻【植栗城】&『植栗一族』

植栗城は、前吾妻氏の分家(伝)の植栗氏の居城である。
植栗城の遺構は、東西100m×南北80mの城域である。
本来は西側に向かって城域は広がっていたと考えられる。
本郭は細長い二等辺三角形のような形をしていて、東西
70~80m×南北30~40m程である。北~北東にかけて吾
妻川に向かってやや突き出したような舌状の地形をして
いる。下は崖になっている。西と南には本郭を囲む堀が
残っている。幅8~9mもある。山崎一氏の縄張り図では
もっと、南にも城域が広がっていた。

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訪問記①・・平成20年(2008)11月3日
○「竜ヶ鼻橋を渡り、東吾妻町に入る。坂を登り切って、
セメント工場の反対側を左に行く。」と古城で教わった。
しかし、くるくる付近を回ってもなかなか見つからなか
った。吾妻川の崖っぷちかなと思い、平行して走った。
大きな鉄塔の所に農家の小父さんがトラクターで仕事を
しているのが見えた。私は植栗城の所在を聞いた。
「ここです。」と教えて下さった。
○全景・・・本郭は畑、堀は水田になっている。
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○堀跡・・
○本郭・・・★畑の持ち主の方にいろいろ聞いた。
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○本郭西の空堀・・・北の際の土橋に繋がっている。
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○木の本郭表示板
○西の一段高い虎口?・
○家屋の場所・・・★畑の持ち主の方の家・・ここも郭?
○搦手口土橋・・・
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○土橋の崖側を通じる堅堀
○その先に搦め手口か?
○崖側を東に行く。  
○本郭の南の水堀
  ★畑の持ち主の方が説明して下さった。
「区画整理で今の形状になったが、昔は深かった。」
  送電鉄塔が建てられ、旧状は大きく変化したのだ。
 「岩櫃城→川戸城→植栗城→白井城→・・烽火のリレーを
 したことが数年前にあった。」と言っていた。

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○植栗安芸守石塔・・・
   「石塔が倒れていたので、私達が直した。」
   「貴重な遺産、大事ですよね。」
  ★供養塔なのか碑なのか墓なのか宝篋印塔なのか不明。 
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○井戸郭・・現在、椎茸の原木。
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★連れて行って下さってありがとうございました。
○追手口・・・南東端の斜面に細い道がある。

○本丸の持ち主の方に、植栗一族の話をしてから、
  別れた。お忙しいところ、45分も付き合って下さって
  ありがとうございました。



訪問記②・・平成24年(2008)2月5日
○中之条の小城=古城から植栗城が見えた。
○竜ヶ鼻橋を渡り、東吾妻町に入る。坂を登り切って、
セメント工場の反対側を東に吾妻川を平行して走る。
懐かしの大きな鉄塔が見える。★懐かしい。
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  (★山崎一氏の縄張り図)

○全貌・・東西100m×南北80m。
  本丸跡のみ残り周りは水田になっている。
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○西の堀跡・・・・
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○本郭・・・・
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  細長い二等辺三角形のような形をしていて、
  東西70~80m×南北30~40m程である。
  北~北東にかけて吾妻川に向かってやや突き出した
  ような舌状の地形をしている。

○本郭西の空堀・・・北の際の土橋に繋がっている。
○木の本郭表示板
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○西の一段高い虎口?・・・石塔が5つ程
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○家屋の場所・・・畑の持ち主の方の家・・ここも郭?
 本丸の西部は東部より、1m程高いので詰めの郭でであろう。
○本丸堀の先の竪堀=土橋の崖側を通じる堅堀
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○搦手口土橋
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○本丸北の吾妻川の崖側を行く。
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・・・猪よけが巡らせてあった。  
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○姫の宮の跡・・・本郭の出っ張り。水堀の最終地点左。
  下は沢
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◆◆ 「姫の宮」伝説 ◆◆
和利宮城主塩谷掃部介秀治には、娘が1人しかいなかった。
 甥の仙蔵城主:折田源二郎元清に嫁がせた。しかし、夫婦仲が
 悪く、娘は身ごもったまま父の元に帰って来た。
 塩谷秀治は娘の行動に怒り、和利宮館に入れなかった。
 娘は仕方なく大野義衡を頼った。大野義衡が喜んで匿った。
 娘は岩櫃城(←稲荷城から)で男児を出産した。
 塩谷秀治は娘と孫を人質に取られた形であった。
 大野義衡に降伏した。その後、大野義衡は塩谷氏一族:蟻川・
 池田・尻高および塩谷秀治の家臣:割田・佐藤・中田らを
 味方につけ、塩谷秀治を殺害した。
 ・文明5年(1473) 岩櫃城主:大野義衡に塩谷秀治は滅ぼされ
 たのだった。  
 
 大野義衡は、塩谷秀治の娘も大切にされた。
 塩谷秀治の孫は大野義衡によって一場二郎と名付けられ、
 大野義衡の二男(兄は大野憲直)として養育された。
 
 
 大永年間(1521~1528)、岩櫃城主:大野憲直(義衡嫡子)は
 岩下城主:斎藤憲次に「植栗城主:植栗元吉を討て。」と命令
 したが、家臣:富澤但馬守と相談し、逆に、斎藤憲次は植栗と
 手を結び、大野憲直にを滅ぼした。斉藤憲弘は岩櫃城主とな
 った。
 

 塩谷マロウド殿(和利宮城主:塩谷掃部介秀治の娘)ははじめは
 大野氏の人質となっていたが、大野憲直が滅ぶと植栗元吉の庇
 護受けた。マロウド姫は、笛の名手であった。毎日、植栗元吉に
 笛を聞かせていた。家臣が心配し、このマロウド姫を植栗城から
 追い出そうとした時、本丸の東隅から吾妻川に転落して死んで
 しまった。植栗元吉は悲しみ、本丸南東の隅に「姫の宮」として
 祀ったという。(伝)
  
 
 塩谷秀治の孫(姫の長男):一場二郎は大野憲直の死亡後、
 岩櫃城の斉藤憲弘に従った。

  (★上毛古戦記P46~&P247~249加沢記他より要約)

○帯郭・・・幅20m×20m 帯郭があったそうだ。
 ★山崎一氏の縄張り図では、帯郭・・・
   以前、来た時、話して下さったのは、ここ自体、
   堀だった。」と、話して下さった気がするのだが・・・?

○本郭の東の帯郭・・・ 
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○本郭の南側の帯郭
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○南に外壕が付く。現在外濠は水路になり、水堀であった。 
○本郭から堀=水路
○植栗安芸守石塔・・・
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○井戸郭

○追手口・・・南東端の斜面に細い道がある。

○南の外郭・・大日堂の跡も城内である。



◆◆ 植栗城の歴史&おまけ ◆◆
・鎌倉時代・・植栗氏は前吾妻氏の支族とされるが、
         詳しい系譜は不明である。

・寛正年間(1460~1466) 築城?。(★『日本城郭大系』)

・応仁2年(1468) 岩櫃城主:斎藤行弘が妹婿の柳沢城主:柳沢
    直安を急襲。・・十二月晦日の夜襲。
   →柳沢直安はその夜、植栗城の植栗安芸守を頼った。
植栗氏安芸守はすぐに斉藤行弘の軍を迎え撃つた
     め準備したが、斉藤行弘の来襲はなく事なきを得た。

    (★『郡内旧記』)・・植栗城が文献に初登場。
     柳沢直安の叔母は植栗安芸守の妻であった。

・文明5年(1473)か寛正5年(1464)
斎藤氏の分家:岩櫃城主の大野憲直は植栗河内守元吉
 いさかいを起こした。斎藤一族で岩下城主:斎藤憲次に植
 栗氏討伐を命じた。斉藤憲次は居城『岩下城』へ戻り、
 家臣の「富沢但馬守基幸」と相談した。本来は、斉藤憲次が
 本家筋だったのである。斉藤憲次は逆手にとって元吉と共
 謀し、討手と称して植栗の館へ行った。植栗元吉も大野憲直
 への怨みで燃えていた。
二人は手を組んだ。斉藤憲次が植栗
 城を攻めると見せかけて岩櫃城を急襲した。 斉藤憲弘が裏
 切るとは思っていなかった。大野憲直は館に斉藤憲次と植栗
 元吉の兵が押し寄せてくると、腹を十文字にかき切り、城郭
 に火を掛けた。大野一族全員が炎の中に飛び込み自害した。
 大野一族は滅び、植栗元吉は斉藤憲次に従った。
      (★上毛古戦記:加沢記)

◆ 「斉藤憲次の子供・・2人?」  
  ①長男・・斉藤越前守憲弘=出家して「斉藤一岩斎入道」
  ②長女・・大戸但馬守真楽斎(★権田城)の妻

・永禄6年(1563) 武田信玄の命を受けた真田幸隆の侵攻
 8月 岩櫃城:斉藤憲弘の命で、大戸口の押さえとして
    白井勢と合わせ1000騎で対抗した。
    植栗城主:植栗河内守元信(★『大系』では安房守)が
    斎藤憲弘方として戦った。
    

    植栗元信は斎藤氏の一族とされる。★不明である。
    植栗元吉との関係も不明である。
    
    岩櫃城主:斎藤憲弘(憲次の長男)が滅んだ。
    →その後、植栗元信は武田氏に従った。
 
  ○植栗主計は岩下郷を本領安堵される。
 
 ○武田信玄の元に人質を出して、家臣になった。
植栗相模守の娘・・・
   ②斉藤弥三郎(斉藤憲弘甥で真田幸隆に味方した裏切り者)
   ③海野長門守幸光(真田幸隆の妾は兄羽根尾幸全の娘)の妻
   と共に人質として、甲府の下曽根岳雲軒に預けられた。

 ★「斉藤越前守憲弘の子供4人について
  ①長男・・太郎憲宗・・・・・嵩山で戦死
  ②次男・・四郎太夫憲春
  ③娘・・・三島根小屋城(岩下城反対)主:浦野下野守の妻
      →後に、羽尾治部入道(羽根尾幸全)の妻
  ④三男・・城虎丸=『嶽山城主』・・・嵩山大天狗から自決。

 ★「真田幸隆の妻について
  ①「重臣の娘:川原殿」(長野県上田市真田川原館&川原の墓)
     川原殿の墓は上田市真田の長谷寺
  ②「羽尾(羽根尾)幸全(ゆきまさ)の娘」(群馬県長野原町)
 
  羽根尾幸全&海野長門守幸光&海野輝幸兄弟は、なんと・・
  長野家とも真田家とも斉藤家とも親戚であったのだ。

・永禄8年(1565)嵩山城・斉藤城虎丸の忠臣:植栗主殿介は
     和談のため岩櫃城の真田幸隆へ遣いに行った。


・永禄10年(1567)・・・★箕輪城関係
 3月8日 信玄が真田幸隆・信綱の白井城攻め
  をほめて、箕輪城の普請と知行割りを行うように指示。
     (★秋本先生・群馬県地域文化233栗原修)
 5月*元上杉家家臣大熊伊賀守高秀は富岡・柴・箕輪・行力・大八木
   の内約317貫(★みのわの歴史)
   *禰津元直は小鼻(高崎市小塙町)と大藪(吉岡町桃井東城)
    を約400貫
★私見「大藪城=桃井東城が箕輪城長野業政の支配下にあったこと
   が判明」
 ○南上州・・小幡重貞が国峰城を再建。
       推定4万石。2000人の兵。60余りの砦支城。
 ○吾妻・・真田幸隆が監督。岩櫃城・名胡桃城など
    浦野(新大戸城)・湯本・鎌原・横谷・西窪・植栗
    ・池田(元嵩山城家老)は配下に編入。
  (★長野県の生島足島神社蔵)

・天正元年(1573) 植栗元信は柏原城主になった。(伝)
  柏原城=根小屋城・・旧東村箱島柏原の根小屋温泉
   ★植栗城の廃城時期は明らかでないが、この時か?
  植栗元信は吾妻東の要害を良く守った。
  真田昌幸に従って各地を転戦した。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
 植栗河内守元信が重傷を負った。

・天正10年(1582) 武田氏滅亡。
   植栗氏は真田氏配下に留まった。

・天正17年(1589) 北条氏邦の吾妻侵攻
  大戸口・白井口・中山口の3方向から攻撃。
   植栗元信は岩櫃籠城軍→中山口方面隊。  
     中山口の北条氏邦軍は中山・尻高??騎
      ・猪俣邦憲家臣:高力左近等500騎
真田軍・・祢津幸直&祢津主膳兄弟・植栗元信
     ・川原・湯本など500騎
(★上毛古戦記:加沢記)

・天正18年(1590) 小田原の役の松井田合戦(安中市松井田)
  植栗は上杉景勝軍支配下の真田昌幸家臣3000の中に
  いた。
  植栗河内守元信は吾妻七騎の一人として武名を轟かせた。

  真田昌幸3000は箕輪城の受け取りに行った。
  もちろん、植栗元信もいた。
  箕輪城代は、北条氏政配下:塀和伯耆守(倉賀野城主兼任)&
  保科正直(徳川家康異父兄弟・・4代後は保科正之)であった。

・寛文年間(1661~1672) 沼田城中で、植栗又左衛門の足を湯本図書
 の親戚:矢沢八左衛門が踏んだことにより両者口論となった。
 ・・・後日、矢沢は植栗又左衛門をだまし討ちにして殺害した。
 植栗又左衛門には子どもがなかったため、断絶。
 矢沢家・草津湯本家も断絶。

  (★富澤豊前守様のブログ・上毛古戦記:加沢記の要約他より)

この記事へのコメント

植栗城
2012年07月23日 23:33
多分、うちの父が説明したのだと思います。お墓も直したと聞きました。
植栗城様へ
2012年07月24日 07:56
コメント、ありがとうございます。
「その節は、ありがとうございました。」
と、お父様によろしくお伝え下さい。

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