箕輪初心●群馬長野原【羽根尾城=羽尾城】

天文年間(1532~1555)羽尾修理亮=羽尾幸全は
 長野業政の娘婿になった。永禄3年(1561)に羽尾修理亮は長
 野業政と同じ檜扇の旗で長尾景虎の第一次関東出兵に参加した。
 (群馬県史:近藤義雄先生)海野幸光は岩下衆の可能性がある。
★天文10年(1541)の海野平の合戦で、武田信虎・村上義清
・諏訪頼重の連合軍に敗れた滋野一族の海野棟綱と真田幸隆
は、鳥居峠を越えて羽根尾城の羽尾幸全を頼った。 羽根尾幸
全は真田幸隆(幸村祖父)らを庇護した。その後、箕輪城の
長野業政が真田幸隆を庇護した。真田幸隆は3年間の箕輪城
生活を終え、武田信玄の被官となった。真田幸隆は信濃先方衆・
上州先方衆として小県から吾妻にかけての攻略を命ぜられた。
同族の羽根尾城:羽尾幸全と鎌原城:鎌原重幸の対立を利用して
侵攻した。永禄6年(1563)、羽根尾城・長野原城周辺で合戦とな
った。岩櫃城の斎藤憲弘を攻撃して、海野幸光などを味方にする
調略などで岩櫃城を落とした。永禄9年(1566)には、真田幸隆は
箕輪城を攻略にも加わった。羽根尾城&箕輪城の攻撃は大恩を
仇で返すこととなった。

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 (★羽根尾城に本郭)


訪問記①・・・平成18年(2006)10月??日。
○中之条から草津方面に向かう。草津&嬬恋の分岐から2km程
で羽尾の集落に出る。表示がわかりにくい。右折して山方面に向
かう。線路下をくぐり、車で川沿いの坂道を行く。
○海野長門守幸光の墓
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○本郭を目指して
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○本郭の堀  
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*羽根尾城本郭
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■見所・・・本丸・二の丸の地形がよく残っているよ。 
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  ★山崎一氏の縄張り図

★「斉藤越前守憲弘の子供4人について
  ①長男・・太郎憲宗・・・・・嵩山で戦死
  ②次男・・四郎太夫憲春
  ③娘・・・三島根小屋城(岩下城反対)主:浦野下野守の妻
      →後に、羽尾治部入道(羽根尾幸全)の妻
  ④三男・・城虎丸=『嶽山城主』・・・嵩山大天狗から自決。

 ★「羽尾修理亮=羽尾幸全の妻について
  ①長野業政の娘・・・・5女だっけ?
  ②斉藤憲弘の長女

★「真田幸隆の妻について
  ①「重臣の娘:川原殿」(長野県上田市真田川原館&川原の墓)
     川原殿の墓は上田市真田の長谷寺
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   (★右・・真田昌幸  中・・真田幸隆 左・・川原殿と思ったが?)
  ②「羽尾(羽根尾)幸全(ゆきまさ)の娘」(群馬県長野原町)
 
 

 ★羽根尾幸全&海野長門守幸光&海野輝幸兄弟は、なんと・・
  羽根尾家は、長野家とも真田家とも斉藤家とも親戚だったのだ。



訪問記②・・・平成23年(2011)4月24日。
○草津・志賀のスキーの行きに寄り道した。
 大津の分岐から草津方面に3分程登ると、左に橋が見える。
○ここからすぐに、大きな西吾妻福祉病院組合の病院がある。
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○この病院から、5分下ると、本郭の堀がある。
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○本郭
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 少し土塁が残っている。
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 二の郭へ
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◆◆ 羽根尾城の歴史 ◆◆
・天文年間(1532~1555)羽根尾(羽尾)幸全(ゆきまさ)
  ・海野幸光(滋野氏系海野氏統:真田と先祖が同じ)が築城。

羽尾修理亮=羽尾幸全は長野業政の娘婿になった。

・天文10年(1541)海野平合戦
  信州佐久方面に進軍した武田信虎・村上義清・諏訪頼重らの
  連合軍に追われた滋野一族の海野棟綱、その子真田幸隆
  (諸説4つあり)は、鳥居峠を越えて羽根尾城の羽尾幸全
  を頼った。羽根尾幸全は真田幸隆(幸村祖父)らを庇護した。
 
 その後、の箕輪城の長野業政が真田幸隆を庇護した。
 海野平の奪還をめぐって、関東管領・上杉氏を頼ろうとする父:
 海野棟綱と武田晴信(信玄)を頼ろうとする真田幸隆の意見が
 対立した。この年、海野棟綱の資料がなくなるため、真田幸隆
 が殺害した説もある。真田幸隆は
 3年間の箕輪城生活を終え、武田信玄の被官となった。

・永禄3年(1560) 武田信玄の上野侵攻 
※武田信玄の家臣:真田幸隆の第一次岩櫃城攻め計画
・斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内少輔幸重
  (滋野一族支族)
 過去に村上義清の塩田城を最後に葛尾城などを捨て、
     越後の上杉謙信に助けを依頼。
 ※長尾景虎の第一次関東出兵
 ★箕輪初心私見「庇護していた上杉憲政の権力の回復。
    +上杉姓のブランドが欲しかった。」
 →長尾景虎の関東への越山。
  (+白井城長尾+総社長尾+足利長尾+長野氏がすぐ参陣)
長尾景虎は「関東幕注文」を作成したが、
 箕輪衆、厩橋衆は22で、最大規模。
 箕輪衆(箕輪一族:親戚)・・・同じ旗印
   長野業政(箕郷) 長野新五郎  南与太郎(榛東村) 
   小熊源六郎(保渡田砦)長野左衛門  浜川左衛門尉(高崎) 
   羽田彦太郎 八木原与十郎(渋川市)
   須賀谷筑後守(旧群馬町)
家臣・同心衆
 長塩左衛門四郎(吉岡町) 大戸中務少輔(東吾妻町)
 下田大膳(高崎箕郷支所) 漆原(吉岡町)内山(富岡市)
 高田小次郎(妙義町)   和田八郎(高崎市和田城) 
 倉賀野左衛門五郎(高崎市倉賀野城)  
 依田新八郎(安中市板鼻城)  羽尾修理亮(吾妻)
 
 厩橋衆・・・長野藤九郎・大胡・引田(旧富士見村)
  
岩下衆・・・斉藤越前守・山田某(山田城)
  紙が切れていて、岩下衆の残りの武将が不明。
(★群馬県史)

  
①宮野城(猿ヶ京)→②沼田城→③岩下城(岩島)→
④明間城(岩下衆の安中飽間=現秋間と思っていたが)
→⑤厩橋城(=前橋城)→⑤那波城:那波氏(伊勢崎)
→⑥国峯城(富岡):???
(千葉県里見一族正木家文書=里見義弘家臣:正木時茂)
 
※武田は西上州の・高田城:高田氏(妙義町)・松井田城
  :安中氏を攻撃。

■永禄4年(1561)  2月 上杉謙信は小田原城攻めに失敗。
  鎌倉八幡宮で、関東管領の地位を獲得。上杉姓に改称。 
  上杉謙信は帰路途中、松山城(東松山市)
        上田氏を攻略・・上杉憲勝が城主。

 6月21日*長野業政が死去
  ①説・・長野業盛(箕輪軍記・小説箕輪城興亡史)が継ぐ。
  ②説・・長野氏業(群馬県史の近藤先生は業盛=氏業)が継ぐ。
※死亡を隠していたが、武田信玄にばれてしまった。

上野の吾妻領土問題(八ッ場ダム西10km)・・・
    長野原の南地区の領土問題
武田氏の検分・・・
鎌原幸重領に古森&与喜が与えられた。
  羽根尾幸全は斉藤憲弘に訴えた。
(★羽根尾幸全は岩下城斉藤憲弘の家老)
羽根尾幸全は真田幸隆の妻の兄の説あり(★風林火山)
羽根尾幸全(斉藤家家老)VS鎌原幸重(幸隆弟の子)
  ↓               ↓
斎藤憲広 VS 鎌原宮内少輔幸重+真田幸隆+甘利昌忠
斎藤憲広は鎌原が信玄方についたのを知り、
上杉謙信に助けを依頼。

※上杉謙信が関東第一次出兵。
 岩下城(飽間氏出身斉藤憲弘)→明間城(=内出城の秋間氏)
→沼田城に侵攻。北条孫次郎らは撤退し、沼田顕泰は降伏。
岩下衆は北条氏側についていた。
●岩下城
●沼田城(沼田市)
→厩橋城→那波城・・・赤石(伊勢崎)で集結・・・
小田原攻め(翌年2月)・・失敗。長尾景虎→上杉輝虎
※関東幕注文(★上杉氏文書)
①長野業政の同心として、海野一族の羽尾修理亮・大戸中務小輔
が業政の娘婿として出陣
②岩下衆・・・斉藤憲弘・山田(北条→長尾へ)
    あとは破けているので不明。
★富澤豊前守や大野氏がいたのではないだろうか?
※北条氏の反撃
※武田氏の上州侵攻・・・・
12月 松原神社(長野小海)で祈願・・・
西牧城・高田城・諏訪城の攻略祈願
高田城→国峰城→・・一宮神社・・倉賀野城     

永禄4年(1561)
■第1次岩櫃城攻め
 斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重
・上野の鎌原城を奪い返す。
時の城主は斎藤憲弘家老:羽尾幸全(幸隆の妻父?)

⑮第4次川中島大決戦(最大の決戦)

・永禄5年(1562)
・四阿山奥宮社殿扉に真田幸綱(=幸隆)・信綱の名がある。
   6月13日・・・奥社の修造(上田市博物館資料)
※この頃、真田幸綱から幸隆に改名したらしい。

永禄6年(1563)
・真田幸隆は、羽尾城(草津への分岐の西2km)
羽根尾幸全・海野幸光兄弟と協定。

■第2次岩櫃城攻め (*岩櫃城・・群馬県東吾妻町)
  真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重(幸隆の甥)
  +矢沢薩摩守頼綱(幸隆弟)+湯本幸重+横
・・3000人以上の兵
①長野原城(群馬県長野原町)を攻略。
②丸岩城(群馬県長野原町)を攻略。
③真田幸隆は手古丸城(大戸城)浦野氏を攻略。
 →手古丸城(大戸城)に陣を置いたらしい?
8月④岩櫃城(群馬県吾妻町)を攻撃。
  斎藤憲広+沼田勢(沼田氏)500+白井勢(長尾氏)200
     
真田幸隆は岩櫃城方面には500? 
     雁ヶ沢の800 
大戸へ1000以上
真田幸隆は和睦の知略を計画
・真田幸隆は、「斎藤の弟を岩櫃城の城主にする。」と矢沢を
使って、口車に乗せた。
*真田幸隆は岩櫃城家老が羽根尾幸光(幸隆妻の兄?)
なので、内側から開城。
 結果・・・斎藤憲広が降伏→反撃。(「真田三代」)
知略①善導寺(現東吾妻町のナショナル工場敷地)の僧の仲介
   で、鎌原を場内に入れる。
   鎌原は、憲広の甥斎藤則実館に泊まり、「本領安堵。」
    を伝え、裏切らせた。
 知略②憲広重臣の羽根尾幸全・幸光(幸隆の妻弟)に海野左馬
    充(さまのじょう)を送り、一族の縁で、味方に引き
    入れた。

■第3次岩櫃城攻め
10月・・・和睦後、急に攻撃再開。
    信綱2000に沢渡から、
昌幸・矢沢500で大戸口へ、
その他500で城を包囲。
 斉藤憲広は籠城。
 真田幸隆は内応の忍者に会い、海野兄弟に憲広
の館 に放火を指示。
  
→総攻撃。斉藤憲広の甥:斉藤則実が開門。 
 結果・・・斎藤越前守憲弘は上杉謙信を頼って、
   越後に逃亡。(真田三代)
 →武田氏の命で、真田幸隆の吾妻の統率者。
  三枝松土佐守、鎌原幸重、湯本善太夫が岩櫃城の城代。


・永禄9年(1566)  真田幸隆が中之条の岩櫃城が攻略・・・
          海野幸光が城代。(★真田三代)
  ★本当は沼田城の城代になりたかったらしい。
          (★加沢記)        

  でも、内部の裏切りで、1ヶ月で切腹。
海野輝幸の墓・・沼田市発知(かしょう山へ行く途中)
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★草津温泉・・・草津に高校の先輩が3人いる。
  無料の風呂・・・3時まで
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★登山・スキー・演奏会や草津アカデミーにも何度も行っている。
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