箕輪初心■群馬【岩下城】=小田原攻めに参加した斉藤憲弘の城

岩下城は、斉藤憲行が真田幸隆に攻撃された岩櫃城以前の
居城であったらしい。永禄3年(1560)の長尾景虎の第一次
関東出兵に『岩下衆』という名前が見える。
武田信玄は真田幸隆の岩櫃城攻めを命令したが、命令した
段階では斉藤憲弘は岩下城にいたが、守りを固めるため、
岩櫃城に移動可能性が高い。

◆◆ 「岩櫃城」の語の出典 ◆◆
①永禄7年(1564)の「加沢記」が初出典
「加沢記」以外では、永禄7年以前には、岩櫃城の名前がない。
武田氏が嶽山城との軍事的緊張の中で岩櫃城を取り立て拡張
したとみられる。(★「上野国岩櫃城の空間構成と変遷」齋藤慎一
『中世東国の領域と城館』、齋藤慎一)(★ウキペディア)
②真田氏による岩櫃城築城説。
③「岩下城」=岩櫃城説(★関東地方の中世城館)。
唐沢定市先生の説である。
④斉藤憲行に始まる秋間斎藤氏6代の時代に、岩櫃城は築か
れたとみられる。(『群馬新百科事典』)

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 (★岩下城の大堀切・・・深さ7~8m)

■訪問記・・平成23年(2011)12月23日
 車で何百回と通っているが、登ったことがない。
 今回は、「埋もれた古城」さん・チエゾーさんが帰り、
 富岡武蔵さん・余湖さん・土浦の野口さんで行った。
○渋川から国道145号線を草津方面に向かう。
 吾妻線矢倉駅を越えて、1,2kmのコンビニ:セブンイレブン
 を少し越えた先の2つめの橋を越えてから入る。
○岩下中学校の入り口の信号を右折して、林道を200m
  程行くと車が5台ほど停められる場所に出る。
●吾妻町岩下大久保・・・

●登山道に出る。
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 (★山崎一氏の縄張り図)
●郭状の場所を3ヶ所登る。
●東の郭下の堀切
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●東の郭・・・

●北に二重堀がある。
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●大きな郭=一城別郭の東郭
●巨大な堀(深さ10m)・・・一城別郭
・・ここで、やっとみんなに合流できた。
 といっても、この方達は自分の城へのポリシー
 らしき物があるため、一緒には歩かない。
 富岡武蔵氏・・山崎氏の縄張りの相違点は?
 余湖さん・・・自分で縄張り図を書くので全て回る。
 野口さん・・・以前行かなかった場所の探索である。
 箕輪初心・・・素人は、勝手に解釈するだけである。
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○余湖さんに声かけて、本丸へ・・・
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●本丸での一段高い部分は土塁付き・・・
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●本丸の2段の下は神社・・・
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●北西には3つの段郭があった。
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▼本丸から大手道を下った。
  石垣があった。
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◆◆ 岩下城の興亡史  ◆◆
築城年および築城主は不詳。
・鎌倉時代・・・吾妻太郎助亮によって築城(伝)伝説の域を出ない。    
       助亮系の吾妻氏(前期吾妻氏)は姿を消し、
   吾妻氏(後期吾妻氏=下川辺氏末裔)が支配。
・南北朝時代・・・南朝方の攻撃で当主吾妻行盛が戦死、
 嫡子:千王丸は秋間斎藤氏の斎藤梢基に庇護された。
 山内上杉憲顕の一字を賜り、「斎藤憲行」と名乗った。

・通説・・・・・斎藤憲次の築城。
 岩櫃城主となった斎藤氏時代の詳細は斎藤氏系譜は
 複数伝わっており不明。
 吾妻行盛-斎藤憲行-行禅-行弘-行基-行連-憲広(基国)
  と系譜。
 行禅のときに重臣:秋間氏の反対を押し切って柳沢城を家臣
 で娘婿の柳沢安吉に与えたが、行弘のときに柳沢安吉は反乱を
 起こし鎮圧されたという(『原町誌』)。

 斉藤憲行の長男:憲実が岩櫃を継ぎ、他の兄弟は分家したが、
 五男・憲基の子孫たる大野氏の勢力が拡大、家臣の秋間氏を
 滅ぼして宗家・憲実を支配下に置いた。(★『加沢記』

 大野氏は大野憲直のときに、四男・山田基政の子で岩下城主:
 斎藤憲次の反乱によって滅び、岩櫃城は憲次が支配し、その子
 :憲広に受け継がれた。(★『吾妻郡城塁史』)。

・応永12年(1405) 越前国大野郡にあった斎藤基国の子:斎藤憲行
    が入封して築城した説。(★『加沢記』)

・大永年間(1521~28)
 岩下城:斉藤憲次は稲荷城:大野憲直から植栗元吉
討伐の命を受けた。
  斎藤憲次は大野氏に叛旗を翻して岩櫃城を攻撃。
   (★唐沢定市説では岩櫃城でははない)
 →斎藤憲次が白井城:長尾氏の支城として岩櫃城を確保。
吾妻郡一帯を支配。
 斎藤憲次は関東管領・山内上杉氏の被官へ
 斎藤越前守憲広は吾妻に点在する海野一族
(羽根尾幸全・海野は家老に)をまとめた。

・永禄3年(1560)鎌原城主:鎌原宮内少輔幸重(海野・真田と同族)
VS
羽根尾城:羽根尾幸全・海野輝幸
        は領土争いで、斎藤氏と反目
  岩櫃城(*この時、岩櫃城の名はない?岩下城かもしれない)
  攻め計画
・永禄3年(1560) 長尾景虎(→上杉輝虎→謙信)の関東幕注文
  岩下衆・・・斎藤憲弘。


・永禄3年(1560) 武田信玄の上野侵攻 
※武田信玄の家臣:真田幸隆の第一次岩櫃城攻め計画
・斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内少輔幸重
  (滋野一族支族)
 過去に村上義清の塩田城を最後に葛尾城などを捨て、
     越後の上杉謙信に助けを依頼。
 ※長尾景虎の第一次関東出兵
 ★箕輪初心私見「庇護していた上杉憲政の権力の回復。
    +上杉姓のブランドが欲しかった。」
 →長尾景虎の関東への越山。
  (+白井城長尾+総社長尾+足利長尾+長野氏がすぐ参陣)
長尾景虎は「関東幕注文」を作成したが、
 箕輪衆、厩橋衆は22で、最大規模。
 箕輪衆(箕輪一族:親戚)・・・同じ旗印
   長野業政(箕郷) 長野新五郎  南与太郎(榛東村) 
   小熊源六郎(保渡田砦)長野左衛門  浜川左衛門尉(高崎) 
   羽田彦太郎 八木原与十郎(渋川市)
   須賀谷筑後守(旧群馬町)
家臣・同心衆
 長塩左衛門四郎(吉岡町) 大戸中務少輔(東吾妻町)
 下田大膳(高崎箕郷支所) 漆原(吉岡町)内山(富岡市)
 高田小次郎(妙義町)   和田八郎(高崎市和田城) 
 倉賀野左衛門五郎(高崎市倉賀野城)  
 依田新八郎(安中市板鼻城)  羽尾修理亮(吾妻)
 厩橋衆・・・長野藤九郎・大胡・引田(旧富士見村)
     (★群馬県史)
※関東幕注文(★上杉氏文書)
①長野業政の同心として、海野一族の羽尾修理亮・大戸中務小輔
が業政の娘婿として出陣
②岩下衆・・・斉藤憲弘・山田某(山田城)
   (北条氏→長尾へ転換か)
    あとは破けているので岩下衆の残りの武将が不明。
  
①宮野城(猿ヶ京)→②沼田城
→沼田城に侵攻。北条孫次郎らは撤退し、沼田顕泰は降伏。
→③岩下城(岩島)→④明間城
→⑤厩橋城(=前橋城)→⑤那波城:那波氏(伊勢崎)
・・・赤石(伊勢崎)で集結・・・
→⑥国峯城(富岡):???
(千葉県里見一族正木家文書=里見義弘家臣:正木時茂)
 
※武田は西上州の・高田城:高田氏(妙義町)・松井田城
  :安中氏を攻撃。

■永禄4年(1561)  2月 上杉謙信は小田原城攻めに失敗。
  鎌倉八幡宮で、関東管領の地位を獲得。上杉姓に改称。 
  上杉謙信は帰路途中、松山城(東松山市)
        上田氏を攻略・・上杉憲勝が城主。

 6月21日*長野業政が死去
  ①説・・長野業盛(箕輪軍記・小説箕輪城興亡史)が継ぐ。
  ②説・・長野氏業(群馬県史の近藤先生は業盛=氏業)が継ぐ。


上野の吾妻領土問題(八ッ場ダム西10km)・・・
    長野原の南地区の領土問題
武田氏の検分・・・
鎌原幸重領に古森&与喜が与えられた。
  羽根尾幸全は斉藤憲弘に訴えた。
(★羽根尾幸全は岩下城斉藤憲弘の家老)
羽根尾幸全は真田幸隆の妻の兄の説あり(★風林火山)
羽根尾幸全(斉藤家家老)VS鎌原幸重(幸隆弟の子)
  ↓               ↓
斎藤憲広 VS 鎌原宮内少輔幸重+真田幸隆+甘利昌忠
斎藤憲広は鎌原が信玄方についたのを知り、
上杉謙信に助けを依頼。

※北条氏の反撃
※武田氏の上州侵攻・・・・
12月 松原神社(長野小海)で祈願・・・
西牧城・高田城・諏訪城?の攻略祈願
高田城→国峰城→・・一宮神社・・倉賀野城     

・永禄4年(1561) ●武田信玄は真田幸隆を上州先方衆として
         岩櫃城(唐沢説は岩下城)を攻撃を命令。
         
※唐沢定市先生「岩下城は岩下衆(斉藤氏)
      の本城だと思われる。

■第1次岩櫃城=岩下城?攻め
 斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重
・上野の鎌原城を奪い返す。
時の城主は斎藤憲弘家老:羽尾幸全(幸隆の妻父?)

⑮第4次川中島大決戦(最大の決戦)
川中島大決戦・・・・武田信玄VS上杉謙信が直接対決。
・真田幸隆父子は妻女山を攻める。
・武田信玄の弟武田信繁を討ち取った?
・・・胴合橋・・・山本勘助伝説?
 天厩寺(八幡原の東200m)・・後、真田信之が供養
 武田信繁の墓(上田の布引観音西2km)
・・・坂城ふるさと歴史館の複製・・・
   上杉謙信側から見た川中島の戦いがある。

・永禄5年(1562)

・永禄6年(1563)
・真田幸隆は、羽尾城(草津への分岐の西2km)
羽根尾幸全・海野幸光と協定。

■第2次岩櫃城攻め (*岩櫃城・・群馬県東吾妻町)
  真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重(幸隆の甥)
  +矢沢薩摩守頼綱(幸隆弟)+湯本幸重+横
・・3000人以上の兵
①長野原城(群馬県長野原町)を攻略。
②丸岩城(群馬県長野原町)を攻略。
③真田幸隆は手古丸城(大戸城)浦野氏を攻略。
 →手古丸城(大戸城)に陣を置いた。
8月④岩櫃城(群馬県吾妻町)を攻撃。
  斎藤憲広+沼田勢(沼田氏)500+白井勢(長尾氏)200
     
真田幸隆は岩櫃城方面には500? 
     雁ヶ沢の800 
大戸へ1000以上
真田幸隆は和睦の知略を計画
・真田幸隆は、「斎藤の弟を岩櫃城の城主にする。」と矢沢を
使って、口車に乗せた。
*真田幸隆は岩櫃城家老が羽根尾幸光(幸隆妻の兄?)
なので、内側から開城。
 結果・・・斎藤憲広が降伏→反撃。(「真田三代」)
知略①善導寺(現東吾妻町のナショナル工場敷地)の僧の仲介
   で、鎌原を場内に入れる。
   鎌原は、憲広の甥斎藤則実館に泊まり、「本領安堵。」
    を伝え、裏切らせた。
 知略②憲広重臣の海野幸全・幸光(幸隆の妻弟)に海野左馬
    充(さまのじょう)を送り、一族の縁で、味方に引き
    入れた。

■第3次岩櫃城攻め
10月・・・和睦後、急に攻撃再開。
    信綱2000に沢渡から、
昌幸・矢沢500で大戸口へ、
その他500で城を包囲。
 斉藤憲広は籠城。幸隆は内応の忍者に会い、海野兄弟に憲広
の館 に放火を指示。
  →総攻撃。斉藤憲広の甥:斉藤則実が開門。 
 結果・・・斎藤越前守憲弘は上杉謙信を頼って、
   越後に逃亡。(真田三代)
 →武田氏の命で、真田幸隆の吾妻の統率者。
  三枝松土佐守、鎌原幸重、湯本善太夫が岩櫃城の城代。

★秋間氏は海野幸光、斉藤弥三郎一派とは違い
 最後まで斉藤憲弘本家に忠誠を尽くしているのだ。

・永禄6年(1563) 斎藤憲広の岩櫃城が落城。
         斉藤憲行は越後に逃走。
         →武田信玄家臣:真田幸隆の支配下。
         岩下城には、家臣の富沢但馬・浦野・唐沢
          ・割田などが守将として入城。 
   
   斎藤憲行の末子:城虎丸が近隣の嶽山城に篭城。

・永禄7年(1564)

・永禄8年(1565)嶽山城落城・・・斎藤氏の滅亡。
武田信玄の領国支配下。
  武田家郡代として真田幸隆が岩櫃城主。
   →吾妻郡支配の中心的役割を担うようになっていった。
  
・そして真田幸隆が沼田城がに攻略。
       岩下城はその支城として扱われた。

・天正8年(1582) 武田勝頼が織田信長に真田昌幸縄張りの
   新府城を追われた。
真田昌幸は武田勝頼に岩櫃城に逃れてくるよう奨めた。
潜竜院の創建開始・・・岩櫃山の南ど真ん中。
  武田氏は滅亡。

・その後も真田氏は生き延び豊臣秀吉に属し大名として存続した。
・江戸時代・・・徳川家康の傘下となる。

・慶長19年(1614)徳川幕府よる一国一城令により、廃城。

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