箕輪初心●長崎:直谷城=安徳天皇の伝説が残る城

10月の九州の旅シリーズ後半を再開しようと思う。
大学生時代の長崎の『里』氏は、息子が結納で、福岡の
久留米に今日はいる。でも、電話で調整したが、無理だった。
今でも、この男の学生時代の優しさや「行動力は忘れない。
俺は、音楽面での解釈&後輩への特訓の仕方が厳しすぎた。
★力もないのに、音楽師匠が凄かったためかもしれない?
安徳天皇の伝説・・・壇ノ浦の戦いで入水自殺したといわれる
安徳天皇が実は生きていて直谷城を仮の住まいとした。と言う(伝)。
城山を「内裏山(ないりやま)」と呼ぶようになった(伝)。

直谷城は長崎県北部、北松浦半島の
内陸部にある。約10km程で海に出られる中心に位置する。
直谷城は松浦党を在地領主:志佐氏の居城だった。あ^あ。

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■訪問記・・・平成23年(2011)10月10日
○朝、5時、武雄温泉を出発。
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○・・・高速・・佐世保ICで下り、山の中の道を北上した。
○直谷城&梶谷城は地図に載っていたが、平戸城メインの
俺は行かないつもりであった。長崎県の佐世保の山道を進
むうち、松浦鉄道吉井「直谷城3,5km」の表示があり、思わ
ず、向かってしまったのである。
○松浦鉄道「潜竜ヶ滝駅」から北東へ約1,2km。
 潜竜ヶ滝駅から国道204号で300m程東進した信号を左折。
○県道40号:佐世保~松浦線中間点にあった。
 道路に案内板に従って、吉井北小学校の手前を左折。
○吉井北小学校の職員駐車場・・
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●吉井北小学校の裏手に説明板がある。登城口である。
●看板・・要約  ★縄張り図がないのが残念。
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「直谷城は、松浦党を代表する在地領主:志佐氏の居城である。
った。志佐氏は日本及び朝鮮の中世文書に名が登場し、7代・重
(かさね)と8代・義(よろし)の時代(1400年代)には、
東シナ海を舞台に、朝鮮国や琉球国との海上交易を活発に行って
いた。所領は志佐を本拠としたが、戦国時代に志佐の陣の内城か
ら直谷城へ本拠地移動があったと考えられる。戦国期、龍造寺・
大村連合軍や松浦隆信(平戸)に攻められ、ここに長く立て籠も
って戦っていたと考えられる。最終的に、この地の覇権は戦国大
名となった松浦隆信に移った。その後、元和元年(1615)、一国
一城令によって廃城となった。」
  (★現地案内板の要約)

昨年暮れに一緒に城廻りしたチエゾーさんのブログ
http://www.geocities.jp/ikomai4koku9syu/nagasaki/naoya.html

①追手郭(おいてくるわ)=大手郭
 ミニ神社の場所。
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○大手道・・・
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○三重の空堀と土塁。・・・畝状空掘群を配置。
 城下に至る唯一の大手道の防御を厳重にしている。
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○井戸
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②一の木戸
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○右の本丸直下・・・崖
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○石垣
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○分岐・・・
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③二の木戸
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○武者溜り
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○出郭
○竪堀
○帯郭
○矢石置場
④本の丸=主郭(しゅかく)
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・中心部には南北約40m、東西約50mの主郭がある。
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⑤本丸の外周・・・ほとんどが平均30m程の自然の崖。
         楕円形に囲まれている。
・「櫓台」・・・高台=姫の自殺場所。
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・城のある内裏山は、周囲が切り立った崖に囲まれている。
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⑥「天守台」
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▼下山・・・南郭への通路
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○遠景
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※昭和63年(1988) 発掘調査では、主郭跡から、柱穴や排水溝と、
 多数の中国の焼き物を含む生活遺物が出土た。この場所で
 志佐氏とその家族、そして家臣達が暮らしていたことは確かな
 ようである。
※昭和63年(1998)~平成3年(1990)まで3ヶ年発掘調査が行われた。
①頂部の本丸跡から砂岩の岩盤を掘った掘立柱建物跡の柱穴
群や溝跡などが発見された。
②出土品には、平安時代末期~江戸時代前半までの中国製の
  輸入陶磁器や国産の土器・陶磁器などが多数あった。
  時期的にもっとも多いのは、戦国時代のものである。
      (★現地案内板より)

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