箕輪初心●群馬の沼田一族の城:荘田城→小沢城→幕岩城→沼田城

フィリピンの南レイテのジンベエザメスイム&ダイビングから帰ってきた。
のんびり田舎旅行&ステイなのに疲れた。

沼田氏の出自は、数説があり、不明である。「北条時頼に
滅ぼされた三浦氏の一族中の一人がこの地に逃れて来て
沼田景泰と称し、縁類の大友氏の所領を統治したとされてい
る。本拠地として築いたのが、この荘田城である。後に小沢
城に移るまで、158年間の居城であった。」

(★荘田城の現地解説板)
【1】荘田城・・・沼田市井戸町上井戸  熊野神社
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■訪問記・・・平成23年(2011)12月9日
案内人・・野村氏(ダイビング仲間。クマノミ→マス君に変更)
①荘田の池・・・N氏の祖父の池である。今はない。
②御殿畑・・・・N氏の祖父の畑である。
   雄の雉が我々に挨拶してくれた。
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③熊野神社前駐車場・・3台
  ★古い時代の河岸段丘の後であろう?
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④熊野神社
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  (★山崎一氏作成)
○石の伝承
④小川~堀切? 平安遺構
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⑤土手・・・
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⑥城跡・・・小城址公園となっていた。
  城としての遺構はよくわからない。
縄文時代の遺構があった。
公園にいたおじさんにも聞いたが。不明。
  広場の西&南の堀跡かもしない。
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⑦傾斜地の下には小川が流れている。
  曲輪と水掘跡のように見える。
 後世の改変があって本当に遺構かどうか不明。
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沼田一族の歴史
・天慶3年(940) 染谷川の戦い?(高崎市旧群馬町)
    利根平八郎が平将門の討伐に参加。
    →戦いの後、」平氏の若者の一人を伴って帰り、
    井土上の荘田和田に館を建てて住まわせた。
・治承4年(1180) 源頼朝の挙兵
・建久10年(1199) 源頼朝が死亡。
  北条政子と父ほ北条時政が幕府の実権を握った。
  梶原景時、比企能員、畠山重忠、頼朝の弟阿野全成など
  有力御家人を追い落とした。
  2代将軍:源頼家を伊豆修禅寺で暗殺した。
・建暦3年(1213) 2代執権:北条義時の時代
侍所別当:和田義盛(三浦一族支流)を討った。
★子孫は群馬の高崎市箕郷町→高崎城の前身の和田城へ
公暁をそそのかし、3代将軍:源実朝が暗殺した。
  北条氏にとって残る有力御家人は三浦氏のみとなった。
・宝治元年(1247) 宝治の合戦
 鎌倉幕府で、北条氏と肩を並べていたのが三浦氏。 
 →三浦泰村の子:景泰が荘田へ落ち延びる。(三浦沼田氏の祖)
 三浦氏は代々源氏に仕えた。
・仁治3年(1242) 4代執権:北条経時は、名越光時らが4代将
  軍:藤原頼経と組んで北条得宗家に代わって幕府の実権を
  握ろうと藤原頼経を廃し、子の藤原頼嗣を将軍に据えた。
・寛元4年(1246)北条経時の弟:北条時頼が5代執権となる。
 名越光時は北条時頼の打倒を計画→失敗。
 名越光時は伊豆の江間に流罪。
 前将軍:藤原頼経は鎌倉を追放(宮騒動)。
  三浦泰村は、将軍藤原頼経にに近づいていた。
  時頼からは危険視されていた。
・宝治元年(1247) 宝治合戦
 藤原頼経の護送に三浦光村(泰村の弟)が加わった。
三浦光村は、「後日、必ず鎌倉に迎える。」と言った。
 北条時頼の耳にも伝わった。
 北条時頼の妻の祖父:安達景盛が子:義景&孫:泰盛に命じて
 三浦邸(現横浜国立小学校の敷地内)を襲撃した。
 三浦泰村が反撃。北条時頼も三浦邸を襲撃を決定した。
 三浦泰村と光村は、法華堂で合流し一族500余名とともに
 自刃して果てた。源頼朝の右腕であった大江広元の子:
 毛利季光(泰村の妹が妻)も法華堂で自刃した
 源実朝を暗殺した公暁を殺した長尾定景の子:景茂も長尾城
 を攻められ落城した。
 
 ※宝治合戦の結果・・・北条得宗家の独裁政治が確立。
  執権政治→得宗政治
(★鎌倉幕府・鎌倉手帳のHp等を参考に編集)

 ※北条得宗家・・時政→義時→泰時→時氏→経時→時頼→
  時宗→貞時→高時(新田義貞の鎌倉攻撃で自刃)。

 
【2】発知城・・・沼田市発地町
文永8年(1271) 沼田景宗は発知城を築いて移る。
■訪問記・・・平成23年(2011)12月9日
○沼田の荘田城を後にし、天狗で有名な「迦葉山弥勒寺」
方面に向かった。
途中、真田家に滅ぼされた同族の海野輝幸(真田の沼田城代)
の墓がある。

永井本家酒造の「利根錦」や池田小学校を越える。
○沼田市街からR266を更に北上。
 川場との分岐「上発知」の信号を左折し、少し進む。
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   (★山崎一氏作成)
●上発知の沼田第3消防分団12支部の反対側が発知城である。

●発知川の橋の袂に20cm×1mの看板がある
 『200m先「発知城の苗代桜」』とある。
 隠れ里風な雰囲気。
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●長屋門のあるお宅の前を通ると、お堂&「発知城の桜」がある。
苗代作りの頃に開花するので「発知の苗代桜」とも呼ばれる。
 根元周囲5.85m、樹高15.00m。(★沼田Hp)
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●城域は熊&猪対策のため?網が張り巡らされた柿畑である。
 もちろん、個人の畑である。両側を山に囲まれている。
 上には、墓もあった。
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●城域は発知地区を見渡す高台にある。
 三浦系沼田氏の分家:発智氏が築いた発知城の遺跡がある。
(★沼田市Hp)
※発知氏は越後で活躍したとのこと。(★城郭大系より)

【3】小沢城・・・沼田市薄根町田・・薄根中学校東隣:法城院
応永12年(1405) 沼田景朝が小沢城を築いて移る。

■訪問記・・・平成23年(2011)12月9日
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(★山崎一氏作成)
○「沼田平八郎の墓」の案内板が出ている。
 急坂を登ると法城院境内=小沢城
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○看板=現地案内板
「小沢城は応永12年(1405)、沼田氏8代景朝が荘田城(井土上町)
から移り、小沢川と四釜川に挟まれた舌状台地に築いた城である。
永正16年(1519)に幕岩城へ移るまでの4代114年間の居城で
あった。」
「長享2年(1488)9月、京都五山の禅僧万里集九は、江戸を出て白
井宿を通り、「三十日の午後、沼田舘に入る、鍛屋に宿る」
と『梅花無尽蔵』の中で記している。
※この「沼田舘」は年代の上から小沢城下であったと考えられる。
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●沼田平八郎景義の墓&案内板  
「沼田平八郎景義は沼田城主12代顕泰の側室の子で、沼田氏最後
の主将。兄朝憲は13代城主となり、景義は父顕泰、母ゆのみと
川場村天神城に移る。永禄12年(1569)正月ゆのみの兄:金子美
濃守らの策を用い、顕泰は朝憲を天神城に招き謀殺した。このた
め沼田城兵に攻められ天神城を焼き、尾瀬を越え会津城主芦名氏
の許へ走る。ゆのみは凍死し、顕泰も会津て客死した。
景義は後、勢多郡女渕城に移る。
その間沼田城は、上杉謙信没後、北条氏邦が奪い、
さらに真田昌幸が所領となった。
景義は12年後の天正9年(1581)3月挙兵し、城奪還直前の同月
14日昌幸の謀略に乗った伯父金子に欺かれ、 沼田城内水の手郭
に入り金子らに殺害された。
昌幸は甲府より来て首実検し、沼田氏旧臣の離反を恐れ、景義の
遺骸をここに葬り沼田大明神として祀る。また法善庵(のち法城院)
を建て霊を弔う。(★現地案内板)
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●東・・・土塁が続く。
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●水道・・高い土塁の張り出し。
 先が内堀があったと思われる場所であろう。
 ★しかし、区別する堀は判別できない。
 内堀の痕跡もよく分からないが、張り出した土塁の向こうが
 内堀であろう。ポンプ式の井戸もあることから、このラインに
 内堀があってもおかしくない。

※余湖氏(平成23年12月23日に富岡の城でお世話になった)
「現在、内堀は失われているが、外堀と土塁は良く残っている。
四釜川に臨む比高20mほどの台地端に位置している。
二重の堀で実城と中城の2つの郭を形成している。」とあった。

●北東隅・・・墓の奧は横矢掛かりの形状である。
●北の外堀・・・深さ4~5m・幅5~6m程の薬研堀である
  ★実に良く残っている。
 戸神山もよく見える。  
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●北西側に虎口がある。
 トラクターで耕したジャガイモ畑
●西=薄根中方面・・・土塁が続く。
外堀は道になっている。先は薄根中のフェンスがある。
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●南西隅・・ここも横矢掛かり的な張り出しになっている。
 下は、30m程の崖である。
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●南・・・四釜川に添って、なだらかな竹藪傾斜が続く。
  中城の北の土塁を見でも、2~3mほどの高さがある。
●南西隅・・・土塁&石塔
下は20m直下の崖・・・

【4】幕岩城・・・沼田市下木田 三光院北
永正16年(1519) 沼田泰輝、幕岩城を築いて移る。
■訪問記・・・平成23年(2011)12月9日
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   (★山崎一氏作成)
案内人のクマノミ→マス君と一緒に沼田台地の崖下の『そば源』で、
菜飯&10割そばを食べた。

○幕岩城は、北に蓮根川を臨む比高50~60mほどの断崖上にある。
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※小沢城から移った沼田氏が沼田城に移るまで居城であった。
荘田城→小沢城→幕岩城とだんだん居城が沼田城のに近づいてくる
のが面白い。
○三光院に車を停めた。
○南の崖沿いに墓の中を通り、沼田城方面に行った。
○土塁らしきものがあった。近所の人が
 「戦争前まで、競馬場があった所だ。と教えてくれた。」
 ★いつの時代か分からないが本当に馬場だった可能性がある。
○三光院に戻った。 

●歓楽院・・・5代:真田伊賀守が・・・
 脇に城址の案内板があるが、宅地化が進んでおり、
 遺構らしきものは認められなくなってしまっている。
※「断崖上の歓楽院の辺りからが城址である。
●堀跡=埋め立て・・・100m程が明確に分かる。
 この道の右部分の空き地・畑は堀を埋めた所だ。」と
 地元の人が教えてくれた。
 「この辺りは宅地化するので、堀を埋めた。私の子供の
頃は堀があった。」
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※余湖君のHpでは、「3つの郭が並び、堀によって区画されていた
らしい。本丸の先端が窪んでおり、ここに搦め手道が通っている。
ここはどうやら枡形であったらしい。二の丸と三の丸の堀には折れ
がいれられ、特に三の丸の堀には馬出し状の小郭も認められる。
・・・・。」
●堀のあった場所を右に見ながら、100m程進み、右折する。
●二の丸石碑・・・二の丸
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●堀跡・・・
●三の丸
○戻って・・・
※北西の本丸を目指した。
●本丸堀跡・・・「今は畑。」と教えて下さった
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●本丸・・・・・台地の出っ張りにある窪地である。
薄根川方面からの搦め手口かもしれない。
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もしかしたら、一段高い所が本丸かもしれない。
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【5】沼田城・・・
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  (★山崎一氏作成)    
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沼田のグルメ
①きのこ汁・・・加盟店

②柚庵・・・沼田高校東200m
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③そば源・・・幕岩城の下?
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