箕輪初心●長崎【梶谷城】=松浦党の城

梶谷城は松浦党の始祖:源久公が今福に下向した永長元年(1096)に
築城したものと古○記に誌されている。その後、文禄の役に備えて
対馬・隠岐・平戸を結ぶ要衝として秀吉の命により改修された。
本城は中世の山城様式から近世の天守閣様式の城郭に移る過渡期の
もので、建設当時の様相が残っている遺跡である。

昭和51年3月 松浦市  (★現地の説明板より)
★松浦市今福の集落から北東にある城山標高197mの山頂部に
築かれた山城である。
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訪問記・・・平成23年(2011)10月10日
○平戸を後に有田焼を目指した。でも、途中で、「梶谷城」の
看板があった。3,5kmとあった。・・・あ^あ、行くか?
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○勢いで、山道を進んだ。丸葉はぎの狭い道を登る。
○最終トイレがあった。
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●10台位停められる駐車場・・二の丸
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●説明板・・・
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「梶谷城は、松浦党の初祖源久公が築城したと伝えられており、築
城年代は延久元年(1069)、嘉保2年(1095)、久安元年
(1145)などの諸説がある。いずれにしても、松浦党の初期
の居城として平安時代末期に築城され、相当長年月にわたって断
続的に利用された松浦党の重要な山城である。
 城は山頂部を楕円形に削平して本丸とし、南側に一段高くなった
物見台跡がある。本丸の北側には、西側の大手門からのびた長さ
18m、高さ5mの城壁がめぐらされている。大手門は石垣を桝
型(枡形)に配し、門の南側に櫓跡がみられる。本丸の北側には、
一段低くなった二の丸が配置されている。城の西側50m下位には
山際にそって長さ200m、幅40mにわたって館跡があり、石壁
・石塁・門などが残っている。梶谷城は、松浦党発展の跡を探る上
で極めて重要な城跡であります。」
  (★『梶谷城跡案内板』より)
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※城跡は「松浦党梶谷城跡」として長崎県史跡に指定されている。
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②大手門・・
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②本丸・・・城山の山頂部分を削って本丸が作られている。
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本丸跡からは玄界灘から伊万里湾まで一望できる。
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④物見台=天守台跡・・・南側
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⑥二の丸・・北側
二の丸が駐車場になっているが、この駐車場から立派な石垣が見える。
資料の縄張図を見ると二の丸北側に井戸があるようだが、探しても
見当たらない。駐車場にする際、埋めてしまったのだろう。石垣を
堪能してから本丸へ。ここからは眺望がいいが、その上に櫓台があ
った。更に、この城は大手門が残っており、枡形虎口に石垣がハッ
キリ分かる。ここから下っていくと、あちこちに石垣が見えた。登
らなくてこれだけの遺構が見られるなんて素晴らしいお城だ。
(★2010年12月23日にご一緒したチエゾーさんの説明)
チエゾーさんのHp
http://www.geocities.jp/ikomai4koku9syu/nagasaki/kajiya.html
 石壁・石塁・門等が残存。


★遺構は櫓台や井戸の跡、野面積みの石垣がある。
また、山の西麓「千人枡」居館跡は見てこなかった。

梶谷城の歴史
・延久元年(1069) 松浦党を率いた????が築城。
・嘉保2年(1095) 築城説あり。
・久安元年(1145) 築城後、長期間、使用された?。
・永禄10年(1567) 平戸城主:松浦隆信が惣領家=飯盛城で滅ぼし、
           平戸松浦氏の梶谷城を支城に。
・文禄元年(1592) 文禄の役で、改修工事 
・元和元年(1615) 一国一城令によって廃城。

鷹島の元寇船の発見・・平成23年(2011) 10月24日
★梶谷城から丸見えの鷹島・・「本丸から見えたじゃん。」
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(★産経新聞の写真&記事より)
※元寇・・・文永の役(1274) &弘安の役(1281) に襲来。
 2回目の弘安の役(1281)の際、元&高麗軍が集結した
 場所であった。「神風」と称された台風で沈没した。
●琉球大学の【池田栄史:教授が元寇沈没船を発見】の
ニュースが流れた。深海20m~25m+1mの砂の下。
「12mの骨組み(キール)…推定:25mの船・・。
 てつはう=鉄砲→大砲を発見。・・・・・」

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