箕輪初心●真田3代⑤『5回主家を変えた真田昌幸』

天正10年(1582) 3月に武田家が滅亡 →真田昌幸は信長に
臣従した。しかし、6月に織田信長が本能寺の変で死亡。
信州は上杉、北条、徳川の大勢力に囲まれて草刈場と化した。
真田家は生き残りをかけ、武田→織田→北条→徳川→上杉→
豊臣に臣従する。天正10年の間に5回主家を変えたのだ。

■真田一族の変転する運命
天正10年(1582)
織田軍の信濃進出。織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻。
2月①真田昌幸は勝頼に「上州岩櫃城に来る。」ことを箴言。
●岩櫃城
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  ・岩櫃城・沼田城(信幸・矢沢)箕輪城(武田家内藤)
  ・小諸城(武田家馬場)・上田城・砥石城・真田本城など
があるからである。
  真田昌幸は岩櫃に潜竜院を創建。祢津氏は院主。
●潜竜院
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 3月3日 武田勝頼は新府城に自ら火を放った。
●新府城
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   小山田信茂の守る岩殿城へ。
●岩殿城
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   笹子峠で小山田信茂は叛乱→
 3月11日天目山の戦い武田勝頼が妻子と死去。
  北条氏直は、上杉氏の支配権低下
    ・武田氏の滅亡に乗じて、西上州に侵攻。
  北条氏康(氏直父)の重臣:大導寺政繁は
       上州松井田から信濃上田に侵攻。 
 3月12日 鉢形城主北条氏邦(氏康4男)は
       真田昌幸に北条氏直への臣属を勧める。

真田昌幸は武田滅亡前に北条氏邦家臣:八崎城主
   :長尾憲景へ2度手紙を送った。
  返事として、北条氏邦は「北条氏直に忠信を励むのは
        ~~~この時と極まった。」
※武田氏滅亡後に織田信長の家臣:森長可が海津城の城主。   

真田昌幸は、北条か織田か迷った。

②3月15日 真田昌幸は、高遠城の織田信長に出仕した。
●高遠城
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 ※真田昌幸は織田信長の家臣になった。
・・所領安堵
真田昌幸は長女=小山田茂誠(しげとも)の妻を人質
  として安土城に 送った。

※滝川一益・・信濃の一部:上野の一部を支配
箕輪城→厩橋城(=前橋城)
 真田昌幸ら信濃・上野国人衆は
  滝川一益に臣従した。
※滝川一益は沼田城を借り受けた。

※織田信長の上杉景勝への攻撃計画
 ①滝川一益・・・厩橋城→沼田城・・・→坂城城(長尾政景)
 ②森長可・・・・・海津城→・・・・・・・・・春日山城(上杉景勝)
 ③柴田勝家・・・北の庄城・・・・・・・・・春日山城(上杉景勝)

★詳細は、箕輪初心●滝川一益を参照
http://53922401.at.webry.info/201010/article_33.html

②5月 真田昌幸は、織田信長に馬を贈り、臣従の意を表。
    
6月2日 織田信長は明智光秀に殺される。(本能寺の変)

6月   神流川の戦い・・・滝川一益 VS 北条氏邦
箕輪城を支配・・・上野国:国人衆が北条配下。
松井田城=大導寺政繁が城代
●松井田城
小諸城=大導寺政繁が城代
●小諸城

7月 北条氏直が海野へ出兵。

③7月12日→真田昌幸らが北条氏に属下。
       (矢沢頼綱宛の北条氏直のからの宛行状)
  徳川家康が北条氏直と和睦。

8月 若神子城 大導寺政繁
     VS
新府城  徳川家康
●若神子城
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※獅子吼城で、大導寺政繁は徳川家康配下
  服部半蔵の忍者軍団に敗北・・・
●獅子吼城
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④9月→真田昌幸が、徳川家康に所属。
               (★依田記:依田玄蕃の武功伝)

  「真田を徳川の配下にするために、昌幸に2回手紙を送った。
   3回目の手紙で佐久郡芦田小屋=芦田城で昌幸と会って、
   真田昌幸は家康の家臣になった。」
★真田昌幸は主君を4回かえる慎重ぶり
●依田城=芦田城(長野県佐久市芦田)
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※北条と徳川は和睦。
 「条件・・・真田側の沼田領を北条に引き渡すこと。」
 真田昌幸は徳川家康からの要求を拒否。 

天正11年(1583)   
真田昌幸は上田城を築城・・・真田氏(1582~1622)40年間 
 *真田昌幸は信濃上田城、上野岩櫃城と沼田城の3城を持つ。
●上田城築城。(長野県上田市尼ヶ渕)
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天正12年(1584)
11月 鉢形城主北条氏邦(氏康4男)は沼田城に侵攻

 真田昌幸500人VS北条綱可2000人。
 手古丸城で勝利。
●手古丸城(群馬県東吾妻町大戸)
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天正13年(1585)    
徳川家康は上州沼田領の北条氏への明け渡しを命令。                
   真田昌幸は明け渡しを拒否し、徳川家康と対立。

⑤7月 真田昌幸は徳川配下から上杉景勝に接近。
      
  北条氏との間で沼田城をめぐって対立。
徳川軍来攻、上田城頭の激戦(第1次上田合戦)

第1次上田合戦 ・・・徳川軍が上田城を攻めた戦い 神川合戦
 ※松代藩家臣の「上田軍記」、
 ※大久保彦左衛門の「三河物語」

  家康は北条氏直を協定していた。(信濃侵攻のため)
  家康は昌幸に「上州沼田領の北条氏への明け渡し」を命令。              
  →真田昌幸は明け渡しを「いやだ。」と拒否し、
豊臣秀吉に言いつける。
    徳川家康と対立。

6月 真田昌幸は徳川から上杉景勝に接近。
     →真田昌幸は上杉景勝に所属。
  ・真田昌幸は上杉景勝支配の須田:海津城に信繁(幸村)
    16才を人質に。
●海津城=松代城・・・※江戸時代の門
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★<
   真田幸村は徳川方の屋代秀正の旧領をもらって、
    諏訪久三に安堵させた。
               (★千曲市諏訪家文書)
   
※北条氏との間で沼田城をめぐって対立。
 ・徳川家康は真田昌幸を攻めるために小県に出兵。
  徳川軍・・・大久保忠世・大久保彦左衛門・鳥居元忠
  ・平岩親吉など+保科正直(家康異父兄弟:箕輪城明け渡し)
  +屋代+諏訪+依田玄蕃
   VS 
  真田騎馬200余騎馬+雑兵1500余人・・
  国分寺~神川・・・(加沢記)

8月2日徳川の大軍と上田城東の神川の付近で合戦・・撃退。
 
 ・織田信長が死亡(本能寺の変6月4日)後、
    →上杉景勝が海津支配。須田満親が城将。
 (上杉にしてみれば、真田昌幸は徳川・北条の押さえ)
  須田満親から矢沢頼幸への人質謝罪文の手紙
            (★長野市松代矢沢家文書)
 ・真田昌幸は上杉景勝を通じて秀吉に接近。
 ・豊臣秀吉は上杉景勝に援助上田城の援助命令。
 ・上杉景勝援軍が根小屋城(上田市真田・・砥石城北)に到着
●根小屋城(=曲尾城)
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 ・徳川軍は丸子城に矛先を変え、東側の八重原に布陣。
 ・真田昌幸は手白塚(塩川)に出て牽制。
8月19日 諏訪頼忠が丸子城を攻撃開始。
  合戦が開始。「丸子表の戦い」で、
 ・丸子城主丸子三左衛門(三右衛門)らが少兵力で城を死守。
●丸子城
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8月20日  真田昌幸は長瀬河原へ出て、鉄砲で諏訪軍の背後
  を急襲。
  徳川方の岡部長盛は軍を三手に分けて出撃し、河原町に放火。
  真田軍を退破。
  辰ノ口側から丸子城に攻撃。→結局落城せず。 
  真田昌幸・信幸父子が国分寺で徳川軍を撃破
8月26日 井伊隊5000到着。→すぐに撤退命令。
徳川家康は真田昌幸が上杉景勝や豊臣秀吉に根回ししていた
とは知らず、上田を攻めていた。石川数正・小笠原の離反。
上杉方:須田の救援に来た事を知った家康は撤退命令を出した。 


結果・・・天下に勇名→有名人なった。
※昌幸、信之(当時は信幸)・上杉の援軍、武装農民など
  総数3000人が徳川勢10000人を破った。

次男・信繁(幸村)は春日山城に人質で、参加していない。
「上田軍記」では信繁が参戦したと書いてある。


8月29日付(合戦の3日前) 
矢沢三十郎(矢沢頼綱の子)宛ての海津城代:須田満親書状
未だ申し通せず候と雖も一翰啓せしめ候 
今度御証人(人質)として御幼若の方(=信繁=幸村)
御越し申し痛み入り存じ候
その口に於いて御稼ぎの由是非なき次第に候
先日曲尾筋(真田町)へ助勢申し候ひき、
重ねて今日人数さし遣わし候 
御用等御隔心なく仰せ談ぜらるべく候 
洪水にて路次自由ならざる故、吾等遅参所存の外に候 
何様面談を以って申し承るべく候       恐々謹言
尚々其元昼夜の御苦労察し入り候 
御稼ぎの段並びに御証人指し越され候 
則ち春府(=春日山城)へ申し達し候

9月   北条氏直は沼田城に侵攻2回。
9月5日・矢沢頼綱宛の上杉景勝からの書状「直江から聞いた。
     矢沢頼幸の活躍を~~。(沼田用心してくれ。」)
             (★松代の矢沢家文書)
    ・矢沢頼綱が沼田城を死守。上田から援軍が到着。

10月17日 真田昌幸宛の豊臣秀吉からの返事
  「(徳川を裏切った)松本城領主:小笠原貞慶と相談し、
            ~~~。」(★真田宝物館)
    
10月 真田昌幸は豊臣秀吉の招きで、信幸、信繁(幸村)を
     伴って大坂城に出仕。
 
●大坂城・・・★違っているかも?    
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11月 徳川軍は信濃から撤退。(★真田三代) 
 ・徳川家康は内密に更級郡を上杉景勝の家臣:屋代秀正
  に手紙を送る。

・真田昌幸は埴科郡虚空蔵山(麻績)にて
  上杉景勝軍配下:屋代秀正を撃破。

天正14年(1586)
7月  徳川家康は真田昌幸の討伐のため駿府まで出馬
8月  豊臣秀吉の斡旋で延引。
→9月 徳川家康は真田討伐を中止。
⑦11月 豊臣秀吉は上杉景勝の仲介で
    真田昌幸を許し昌幸らを徳川家康の配下と命令。


・天正15年(1587)
  3月  真田昌幸は駿府で徳川家康に謁見。
●駿府城
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   北条は明徳寺城を築城し、監視を開始。
●明徳寺城
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 (★北条の対名胡桃城対策の明徳寺城を望む)

天正16年(1588)

天正17年(1589)
?月 真田信之が徳川家康養女(本多忠勝娘)の小松姫と結婚。
8月 関白豊臣秀吉の裁定で、
   ・沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土.。
   ・名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土。+伊奈
   →真田信幸は沼田城を北条氏直に渡す。
         名胡桃城は真田氏に残す。
     矢沢頼綱は沼田城から退去
11月 北条氏直は名胡桃城を奪取。鈴木主人討死。
●名胡桃城
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  (★明徳寺城を望む) 
   沼田城主:猪俣邦憲は南西の榛名峠城から
     名胡桃城を奪取(名胡桃事件)。
 ・猪俣邦憲の独断説  (鉢形城開城:鉢形城博物館より)
 ・北条氏邦の命令説  (????より)
 ・徳川家康の陰謀説 (真田太平記より)
  
  真田昌幸が徳川家康に苦情
    →豊臣秀吉は北条氏政に質問

11月21日 真田昌幸宛の豊臣秀吉からの書状
  「秀吉に上洛しない北条が、一部の部隊とはいえ、
秀吉の裁断を破って真田領を侵した
   ことは~~~。」と激怒。
12月 北条勢:猪俣邦憲は岩櫃城周辺に大戸から攻撃。
●仙人隠陣城(群馬県東吾妻町大戸)
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→豊臣秀吉の小田原征伐の口実・豊臣秀吉は北条氏追討の指令。

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