箕輪初心●真田3代③『川中島の戦い&真田の上野国進出』

天文22年(1553)
⑧信濃の長野侵攻
4月5日 武田に荒砥城主屋代越中守政国、塩崎城主塩崎氏ら
       村上氏の属将が内応。
    ・大須賀久兵衛尉が村上義清に謀反。
     (真田氏の知略)
    ・室賀氏、屋代氏、石川氏など村上方の諸将が武田氏
       に降伏→葛尾城は大混乱。
    ・武田軍は葛尾城(坂城町)の準備。
4月9日 村上義清は葛尾城を一時脱出。

     高梨氏の仲介で、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。
     ※長尾景虎5000の軍勢で出陣。
4月12日 村上義清は上杉謙信の援軍を得て
      旧更埴市八幡附近で武田軍と戦闘。
4月22日 長尾景虎は葛尾城を攻撃。
4月23日  葛尾城は落城。・・・武田方の於曾源八郎は討ち死。
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      ・義清は旧領一部を回復。→塩田城に入城。
      ・武田晴信は深志城に後退。
5月11日  甲府に引き上げ、躑躅か崎に。
7月25日 信玄は大軍を率いて甲府を出発。
     武田信玄の三度目の侵攻。
8月○日  武田信玄は塩田城に進軍。
     →塩田城(村上氏の領有。村上氏は支族重臣福沢氏に統治。)
       の落城。
8月5日 村上義清は塩田城を脱出→行方不明。
     村上方の16城が1日で陥落。
        (村上義清の旧領回復は3ヶ月)  
     村上義清の支城の荒砥城攻撃。
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  (★荒砥城からの葛尾城の眺め)
  (戸倉温泉上・・風林火山の海ノ口城撮影現場)も放棄。
   ・武田信玄は屋島城(旧更埴市)に侵攻。屋島城を攻略。
●屋代城・・・小高い山城(更埴JCから見える東の尾根)
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   ・武田信玄は塩田城に飯富氏等の重臣を城におき、
    信濃の拠点。
   (上田城を築くまで約30年間の軍政両面の拠点。)
●塩田城
   *村上義清は上杉謙信(長尾景虎)に救援要請。
   *村上義清は、再び越後国に逐電。

※村上義清が信濃逐電
  →甲斐と越後の間ががら空き状態。
  →上杉謙信も村上義清の要請と越後国の本領の防衛線確保の
    ために、5回もの川中島の合戦にと発展。
  →長尾景虎(上杉謙信)の客将:糸魚川の根知城。
   子:村上国清は謙信の養子。
※長尾景虎(上杉謙信)上洛。
 武田信玄は長野盆地まで侵攻

第1次川中島の合戦
8月 長尾景虎(上杉謙信)が川中島に出陣。
  武田信玄は松本の深志城から出陣・・・・
  上杉謙信(長尾景虎)が5,000の軍勢 VS 武田軍
  晴信も景虎も軍を動かさず、、両軍とも撤退。
8月 長尾景虎の支援で、小諸城:大井信広が謀反。
     武田信玄はすぐに鎮圧。
   海津城築城を決意・・・山本勘助の縄張り。
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  (★後の松代城)

天文23年(1554)
・小諸城築城・・・城代馬場信春と山本勘助の縄張り。
●小諸城
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 ・信玄は、長尾景虎に対抗。
   →甲相駿・三国同盟(善徳寺)が成立。
今川義元・北条氏康と和睦。
・佐久への出陣。   
・下伊那の侵攻。木曽義昌・知久頼元を攻撃。→配下。

弘治元年(1555)
⑩第2次川中島の合戦
4月  武田軍と上杉軍が川中島で対峙。
10月  駿河の今川義元の仲介により、両者は和睦して撤退。
11月  由布姫死亡。
⑪信濃の木曽侵攻
  信玄は景虎に通じていた木曽義康・義昌父子を攻撃。
  武田信玄の三女真理姫と木曽義昌が縁組み。

弘治2年(1556)
○信濃北部に進出。
  ・中野の高梨氏城・壁田城に侵攻
●長沼城・・・・島津氏
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  (★広島城浅野家諸国古城之図)
●高梨氏館
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●壁田城
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  (★壁田城本丸の不思議な川中島合戦図)

弘治3年(1557)
※10月27日 真田幸隆宛の武田信玄からの書状
「上杉謙信が飯山に出陣するので準備をおこたるな。」
(★真田宝物館)

上杉謙信が川中島に進出。
⑫第3次川中島の合戦再び武田軍と上杉軍の対峙
  上杉謙信の留守中に加賀(白山平泉寺城など)の一向一揆
   →上杉軍は撤退。

⑬信濃の飯山侵攻(謙信の信濃進出の拠点)
    飯山城へ侵攻。泉弥七郎は前線。・・・・失敗。
●飯山城
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上州に侵攻開始
松井田城(安中氏)に侵攻
(※武田氏の上州攻略の始まりの城)・・・失敗
  
●松井田城(安中市)・・・安中曲輪が安中忠政の時代の城
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永禄元年(1558)
真田幸隆、松代雨飾城の在番。
●松代尼飾城(海津の北)・・・・★写真が見つからず。
 1557年に手紙が来ているので、すでに尼飾城に在城。

永禄2年(1559)
■【7】群馬県における滋野一族の分家・・・西から
○下屋氏=四阿山修験・群馬県嬬恋村三原
①西窪氏=西窪城・・・群馬県嬬恋村西窪
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②鹿沢氏=鹿沢城・・・群馬県嬬恋村・鎌原観音堂500m
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③羽根尾=羽根尾城・・群馬県長野原町羽根尾
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④浦野氏=王城山修験=林城・・群馬県長野原町林
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⑤湯本=??城・・・・群馬県東吾妻町→草津
⑥柳沢=柳沢城・・・・群馬県長野原町
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○長野原城
○丸岩城
⑦横谷=雁ヶ沢城・・・群馬県東吾妻町
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⑧海野氏=岩下天満宮・群馬県東吾妻町
  (この時点では、斉藤憲弘&家老:富澤豊前守?)
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⑨須賀=須賀城・・・・群馬県東吾妻町
⑧羽田=大柏木城・・・群馬県東吾妻町大柏木
 (★長野業政の娘婿・・・
    ・・・子孫は元総理大臣・羽田孜:長野県長和町)
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⑨大戸・浦野氏=大戸城・・群馬県東吾妻町
(★長野業政の娘婿・・・)
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  (★写真は手古丸城・大戸城と地続き)  
※黒岩性・・・群馬県富岡市→嬬恋村へ(戦国時代に)

永禄3年(1560)
※桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を破る。

第1次岩櫃城攻撃計画
(*この時、岩櫃城の名はない?と唐沢先生は言う)
上野の吾妻領土問題(八ッ場ダム西10km)・・・
    長野原の南地区の領土問題
武田氏の検分・・・
鎌原幸重領に古森&与喜が与えられた。
  羽根尾幸全は斉藤憲弘に訴えた。
(★羽根尾幸全は岩下城斉藤憲弘の家老)
羽根尾幸全は真田幸隆の妻の兄の説あり(★風林火山)
羽根尾幸全(斉藤家家老)VS鎌原幸重(幸隆弟の子)
  ↓               ↓
斎藤憲広 VS 鎌原宮内少輔幸重+真田幸隆+甘利昌忠
斎藤憲広は鎌原が信玄方についたのを知り、
上杉謙信に助けを依頼。

上杉謙信が関東第一次出兵。
 岩下城(飽間氏出身斉藤憲弘)→明間城(★=内出城の秋間氏)
→沼田城に侵攻。北条孫次郎らは撤退し、沼田顕泰は降伏。
岩下衆は北条氏側についていた。
→厩橋城→那波城・・・赤石(伊勢崎)で集結・・・
小田原攻め(翌年2月)・・失敗。長尾景虎→上杉輝虎
※関東幕注文(★上杉氏文書)
①長野業政の同心として、海野一族の羽尾修理亮・大戸中務小輔
が業政の娘婿として出陣
岩下衆・・・斉藤憲弘・山田(北条→長尾へ)
    あとは破けているので不明。
★富澤豊前守や大野氏がいたのではないだろうか?

※北条氏の反撃
※武田氏の上州侵攻・・・・
12月 松原神社(長野小海)で祈願・・・
西牧城・高田城・諏訪城?の攻略祈願
高田城→国峰城→・・一宮神社・・倉賀野城     

永禄4年(1561)
第1次岩櫃城攻め
 斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重
・上野の鎌原城を奪い返す。
 時の城主は斎藤憲弘家老:羽尾幸全
・長野原城を守っていた幸隆弟:常田隆永が戦死
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第4次川中島大決戦(最大の決戦)
川中島大決戦・・・・武田信玄VS上杉謙信が直接対決。
真田幸隆父子は妻女山から攻める。
・武田信玄の弟武田信繁を討ち取った?
・・・胴合橋・・・山本勘助伝説?
 天厩寺(八幡原の東200m)・・後、真田信之が供養
 武田信繁の墓(上田の布引観音西2km)
・・・坂城ふるさと歴史館の複製・・・
   上杉謙信側から見た川中島の戦いがある。

永禄5年(1562)
・四阿山奥宮社殿扉に真田幸綱(=幸隆)・信綱の名がある。
   6月13日・・・奥社の修造(上田市博物館資料)
●四阿山頂
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この頃、真田幸綱から幸隆に改名したらしい。
*武田信玄が八幡平陣城築城(群馬県安中市原市)・・・
   松井田城と安中城との分断計画。


永禄6年(1563)
・真田幸隆は、羽尾城(草津への分岐の西2km)
海野幸全・幸光と協定。

第2次岩櫃城攻め (*岩櫃城・・群馬県東吾妻町)
  真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重(幸隆の甥)
  +矢沢薩摩守頼綱(幸隆弟)+湯本幸重+横
・・3000人以上の兵
①長野原城(群馬県長野原町)を攻略。
②丸岩城(群馬県長野原町)を攻略。
真田幸隆は手古丸城(大戸城)浦野氏を攻略。
 →手古丸城(大戸城)に陣を置いたらしい?

8月④岩櫃城(群馬県吾妻町)を攻撃。
  斎藤憲広+沼田勢(沼田氏)500+白井勢(長尾氏)200
     
真田幸隆は岩櫃城方面には500? 
     雁ヶ沢の800 
大戸へ1000以上
真田幸隆は和睦の知略を計画
・真田幸隆は、「斎藤の弟を岩櫃城の城主にする。」と矢沢を
使って、口車に乗せた。
*真田幸隆は岩櫃城家老が羽根尾幸光(幸隆妻の兄?)
なので、内側から開城。
 結果・・・斎藤憲広が降伏→反撃。(「真田三代」)
知略①善導寺(現東吾妻町のナショナル工場敷地)の僧の仲介
   で、鎌原を場内に入れる。
   鎌原は、憲広の甥斎藤則実館に泊まり、「本領安堵。」
    を伝え、裏切らせた。
 知略②憲広重臣の海野幸全・幸光(幸隆の妻弟)に海野左馬
    充(さまのじょう)を送り、一族の縁で、味方に引き
    入れた。


第3次岩櫃城攻め
10月・・・和睦後、急に攻撃再開。
    信綱2000に沢渡から、
昌幸・矢沢500で大戸口へ、
その他500で城を包囲。
 斉藤憲広は籠城。幸隆は内応の忍者に会い、海野兄弟に憲広
の館 に放火を指示。
  →総攻撃。斉藤憲広の甥:斉藤則実が開門。 
 結果・・・斎藤越前守憲弘は上杉謙信を頼って、
   越後に逃亡。(真田三代)
 →武田氏の命で、真田幸隆の吾妻の統率者。
  三枝松土佐守、鎌原幸重、湯本善太夫が岩櫃城の城代。

●岩櫃城(群馬県中之条町)  
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箕輪初心の「岩櫃城のブログ」
http://53922401.at.webry.info/201111/article_5.html   


武田信玄の箕輪城攻略・・・宮崎神成城・国峰城・吉井の城
 ・木部城(=寺尾城)・倉賀野城・和田城などを攻略し、
 箕輪城の親戚先の城主を武田氏の家臣に・・・。

永禄7年(1564)
・武田信玄の箕輪城攻略・・・
真田命令で大戸より武田氏家臣浦野氏が榛名・鷹留城攻撃・・×?
●鷹留城(高崎市榛名)
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永禄8年(1565)
11月・真田幸隆、上州中之条の嵩山城を攻略。
●嵩山城(中之条)
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 知略③斉藤憲広の重臣:池田父子を取り込んだ。
・真田幸隆が幸綱、上州子持のの白井城へ攻撃

→真田氏支配下(1567年説上田市)
●白井城(群馬県渋川市)
→甲斐武田氏の支配下。幸隆は吾妻郡代。
  真田幸隆死後は岩櫃城主に嫡子信綱。
・武田信玄の箕輪城攻略:35000人

永禄9年(1566)
真田昌幸の長子:真田信之(信幸)が誕生。 
信玄は岩櫃城城代に海野幸全・幸光兄弟を指名。
(でも、裏切りで、切腹。)
信玄は浦野(元大戸城:大戸氏分家説・甲斐の浦野氏説)
  ・湯本・鎌原・横谷・西窪・植栗
 ・池田を幸隆の直属に指示。

●植栗城(東吾妻町)
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 (松井田城の安中氏が攻略できず、箕輪城に矛先を変更)


箕輪城9回目侵攻 9月29日(新暦の11月2日か?) 
  長野業政を頼った真田幸隆は北から攻撃。
  信玄により城主長野業盛(氏業)以下一族は
   御前郭で自刃。
●箕輪城落城
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真田幸隆が箕輪城管轄地の区割りを命ぜられる。
    (生島足島神社蔵)
  (以後、16年・・甘利・浅井・内藤豊後守昌豊
         ・昌月などが現地統治。)
★箕輪城詳細については、
   箕輪初心○箕輪城でのブログを参照して下さい。


松井田城に侵攻   箕輪城の落城で、安中城はすぐ降参。
   松井田城350人VS武田軍3000人で降参し、切腹。
  武田氏の支配下。          

永禄10年(1567)
真田昌幸の次男:信繁(幸村)が誕生。
  母は兄信幸と同じ山之手殿。
・鷹巣城(板鼻城)築城・・・武田信玄が築城。
          依田肥前守が城将。
  根小屋城を築城・・・上野の烽火の集積地(大井・伴野が城代)


・3月 真田信綱が家督を相続?
・?月 真田幸綱が柳沢城(岩櫃城の東隣)を築城。
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 (★物見楼跡からの吾妻川の眺め)
★箕輪初心●柳沢城のブログを参照あれ。
http://53922401.at.webry.info/201111/article_4.html

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