箕輪初心★安中藩【大山融齋&山田三川&添川完平&川田甕江】

『大山融齋』のHpやブログがほとんどない。
安中藩の藩校『造士館』には、大山融齋&山田三川がいる。
安中藩の江戸屋敷の藩校には、添川完平&川田甕江がいた。
安中藩主:板倉勝明公が優れた学者を集めたのだった。 
①【大山融齋】=嘉永5年(1852 )張り子の地球儀作成。
②【山田三川】=近藤重蔵と千島列島の択捉島探検。
③【添川完平】=安中藩の儒者。
④【川田甕江】= 新島襄の漢学の先生。東大教授。
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(★大山融齋の地球儀)

■きっかけ・・・平成23年(2011)10月22日
音楽師匠:高橋貞春先生が伴奏者「糸賀のぶ子」さんの紹介した。
「糸賀のぶ子さんは大山融齋の子孫です。1852 年、今から約160年前、
地球儀を作成しました。大川融齋は茨城の美浦村糸賀の出身です。
江戸で私塾していましたが、安中藩主:板倉勝明候が大山融齋先生を
安中造士館の教授に推薦しました。そこで、地球儀を作ったんですね。
安中のふるさと学習館に展示されています。行ってみたくなった人?
行く行かないは別ですが・・・
」高橋先生と言った。
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  (★大山融齋の子孫:糸賀のぶ子さん)

安中ふるさと学習館・・3回目
■訪問記・・・平成23年(2011)10月23日
【1】大山融齋の地球儀
※天正8年(1580) 織田信長が宣教師から地球儀をもらった。
 その後、戦国大名が手に入れた。
※江戸時代末期  地球儀が日本で制作・・52種
★大山融齋の地球儀
 大山融齋は箕作阮の四女:しんと結婚した箕作省吾がフランス
 製の世界地図を翻訳して日本初の世界地図『新製輿地全図』
 (よちぜんずー弘化2年:1845)やその解説書:西洋地理書
 『坤輿図識』(こんよずしき)などをたくさんの本や資料を
 研究した。・・・そして、直径36cm地球儀を完成させた。
 墨で一文字一文字丁寧に書かれていて、国境は赤・青・黄に
色分けされている。
 日本・アジアの形は正確だった。半分しか見えないが。
「樺太はロシアにくっついていた。」ことが説明書きにあった。
 オーストリアのウィーン・・・「ウェ子ン」
 エジプトのナイル川・・・・・「子イル川」
 ニュージーランド・・・・・・「新デーランド」
 クック海峡・・・・・・・・・「クック夾」
 ハワイ諸島・・・・・・・・・「サントウィス諸島」
 と、記されているという。
(★数年前の大山融齋パンフレット:安中ふるさと館出版)
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博物館の展示方法が太平洋側・・つまり、地球の半分という完全に
未熟な展示方法で展示されている。
★【大山融齋】を気合いで調べたが、資料はほとんどない。

★安中ふるさと学習館の方に一言・・
  地球儀の全体が見えるよう工夫して欲しいよ~ん。
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「ふるさと学習館&個人蔵の2つが確認されています。
 普通は、竹ひごで骨を作り、紙を貼った。でも、大山融齋は
 板鼻の達磨作り業者に頼んで、張り子の球を作ってもらいま
 した。それに墨で丁寧に大陸や国・都市名を書き込みました。
 でも、間宮林蔵の探検後、10年たっているけれど、樺太が
 ロシアとくっついています。」
★Q「大山融齋は誰の教え・影響を受けていると思いますか?」
 A「安中藩の山田三川だと思います。松前藩にいたので、近藤
  重蔵と面識がありました。天文方の高橋景清とも親交があっ
  たようです。資料は手に入れやすかったと思います。淡路先
  生が専門で、12月の企画展に講演会がなります。」
  (★安中ふるさと学習館学芸員:佐野氏の話)

大川融齋の年譜 寛政6年(1794)~文久3年(1863)
・寛政6年(1794) 常陸国信太郡安中村大山の糸賀出身。
        本名は糸賀吾一郎・・大山呉一郎・大山誠・・・
・文政5年(1822) 自宅で私塾を開講。
・天保2年(1831) 江戸浅草田原町で私塾開講→話題
・天保9年(1838) 安中藩主:板倉勝明候は大山を訪問。
         「安中造士館の教授に推薦。」
   ※安中で、儒学・書道・漢詩・歴史を指導
  ※板倉勝明候『甘雨亭叢書』の編集
※松井田の郷学『桃渓書院』の設立を山田三川と支援
※著作「読書余論」「薪樗唫藻(しんちょぎんそう)」
特に「小学入門」は学問を始める子の間でベストセラー
・嘉永5年(1852 ) 地球儀を作成。
・文久3年(1863) 1月28日死去。70歳。
あだ名は成言。通称は呉一郎。別号に梅所・梅翁など
墓は西広寺。安中教会牧師:柏木義円の墓もある。
(★安中市誌・安中ふるさと学習館資料より)

大山融齋書の石碑
1)咲前神社(安中)の石碑
2)真福寺境内(高崎市箕郷町本村・・・車郷小学校入り口)
  安政7年2月庚申塔の書。・・・裏の左から2番目
 (★元高崎高校校長:岡田豊治先生のアドバイス
  →箕郷町誌確認P770・・・岡田先生の記憶凄すぎる。
  こういう人が対等に扱ってくれるのが、めちゃくちゃ
  嬉しい。大山融齋・・・一度、目にしただけで、調べ
  自分の頭に入っていくのだから・・・。この頭、何なんだ?
 箕郷町教育長→箕輪城語り部の会会長。
 今でも、広辞苑や漢字辞典は必読書らしい。・・・
 俺も、それなりに頭いいと思ったが、俺の100倍
 ~1000倍の知識であろう。・・・化け物か?)

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【3】学芸員:佐野氏との話
①大山融齋・・・上記

山田三川・・「安中藩校:造士館(ぞうしかん)の教授」
「伊勢国三重郡平尾村に生まれました。松前藩の儒学者に仕えました。
 が、わけがあって下総国水海道に隠居しました。水戸藩の徳川斉昭
 が召しかかえようとしましたが、三川は辞退しました。そこで徳川
 斉昭は親交のあった安中藩主板倉勝明に三川を紹介しました。三川
 は安中藩の儒学者として安中藩校の造士館の教授を勤めました。
 郷学「桃渓書院」の設立にも大山融齋と労を尽くした。
 藩の役人としても活躍しました。」
(★安中ふるさと学習館学芸員:佐野氏の話)
■山田三川の本・・・安中ふるさと館に2種あり。
  両雲霧集(りょううんむしゅう)・・・自分宛の手紙。
    ・・・近藤重蔵と千島列島の択捉島まで行った。
 ■旧安中藩郡奉行役宅・・板倉勝明の側近:山田三郎が居住(伝)。
       その後、猪狩幾右衛門懐忠が居住。
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 (★パンフレットより) 
 ★龍昌寺・・・山田三川の墓。

水戸斉昭&板倉勝明
「2人は仲良しだったらしいです。天狗党の武田耕雲斎が下仁田戦争
 で高崎藩が戦っている時に松井田の八代までしか出さなかったそう
 です。すぐに、引き返したらしいです。」
★「下仁田の里見哲夫先生の所ですね。」
★板倉勝明公の「安政の遠足」
http://53922401.at.webry.info/201106/article_4.html

偽官軍「相良総三」・・・
 「相良総三が碓氷に入って来そうになった時は追い返しました。」
★「相良総三は西郷隆盛の命令で、500人の部下と江戸を
 荒らし回った人ですね。小栗上野介の薩摩藩邸殴り込み事件
 のきっかけになった人物ですよね。新田官軍の岩松萬次郎と
 確か、仲良しだったですよね」
 「新田官軍の岩松萬次郎を祭り上げたのが、金井烏洲。
  でも、相良総三よりはましな官軍だったようです。」

★「金井烏洲(うじゅう) 寛政8年(1796)~安政4年(1857
・上野国伊勢崎(現群馬県伊勢崎市境島村)生まれ
・太田の【高山彦九郎】の尊皇論に傾倒・・・
 新田官軍:岩松萬次郎を大将に大館を副将に推薦。
・江戸時代後期の画家:金井左仲太。金井彦兵衛。

添川完平  享和3年(1803)~安政5年(1858)
 福島県・・耶麻郡小荒井村の生まれ。父は農業・染物業。
 会津藩士:広川庄助の従僕
 江戸・・・広川庄助と古賀穀堂塾に入門。
 京・・・・頼山陽に入門。
 備後・・・管茶山に入塾。
 江戸安中藩江戸屋敷の儒学者・・藩士子弟の教育に当たった。
 安中藩の文武の士気を高揚。新島襄も学んだ。
 安中藩中屋敷で病没。下谷:正覚寺。

川田 甕江(かわたおうこう)文政13年(1830)~明治29年(1896)
・文政13年(1830) 備中国浅口郡玉島(岡山県倉敷市)に生まれ。
        父は玉島の回船問屋。
  玉島で儒学者鎌田玄渓に学んだ。
  江戸で佐藤一斎らの下で学んだ。
  近江大溝藩の藩儒として100石で仕官。
・安政4年(1857) 備中松山藩の藩儒として50石で仕官。
陽明学者:山田方谷の推薦。
山田方谷の筆頭・・・江戸藩邸の教授:三島中洲・川田甕江
・安政5年(1858) 川田甕江は江戸の安中藩中屋敷で漢学を教授。
 川田甕江塾が安中藩邸に開設・・新島襄は川田塾に入塾。
 新島襄は漢学:川田甕江塾+蘭学:田辺真次郎塾 
・文久2年(1862)川田甕江は、備中松山藩:板倉勝静に180tの
大きい洋式木造帆船の快風丸を購入するように進言→実現。
  アメリカ→快風丸が横浜で引き渡し→玉島(現倉敷市)
  新島襄は川田甕江の推薦で快風丸に乗り組むことになった。
 11月12日・新島襄は川田甕江から餞別を贈られ、江戸を出帆。 
 ★川田甕江は新島襄の将来に期待していたのであろう。
・慶応4年(1867) 戊辰戦争・・松山藩主:板倉勝静が老中の一人
  として幕府軍に参加→備中松山藩は「朝敵」となった。
  川田甕江は三島中洲とともに藩の存続に尽力した。
  藩の存続が決定。川田甕江は藩を退職。
・江戸で開塾。・・・
  木戸孝允は川田甕江・重野安繹に国史編纂の責任者に推挙。
・明治10年(1877) 太政官内の修史館設置
 『太平記』問題・・・学説が2分。
  重野安繹は創作であって史実ではない。
  川田甕江は初めから創作と決め付けるべきではない。
・明治14年(1881) 川田甕江は宮内省に移籍。
・明治17年(1884) 東京帝国大学教授。
   華族女学院校長・帝室博物館理事・貴族院議員(勅選)を歴任して、
・明治26年(1893) 東宮(大正天皇)の侍講に就任。
   旧主:板倉勝静を度々訪れてはその相談相手となり、
・明治29年(1896)川田甕江が死去
●「明治の三大文宗」・・・川田甕江・重野安繹と三島中洲。
※川田順・・・川田甕江の3男。歌人。住友財閥。
 佐良直美・・川田甕江の4代目の子孫。元歌手。
 

新島襄&妻:八重
★「2013年のNHK大河ドラマに「新島八重」が出ますね。 
 会津藩の砲術師範:山本権八の子で戊辰戦争時には断髪・男
 装し大砲を撃った。兄:山本覚馬の所に出入りしていた新島
 襄先生と知り合って、結婚したんですよね。」

 「八重は淡路先生の話ですと、2回安中に来ています。
 分かっているだけで・・・。」

★新島襄も後日、紹介しようと思っている。


■「安中藩の先生の企画展が平成23年(2011)12月からである。
 私の方が1ヶ月早いのである。してやったりである。
 安中市の学芸員が知らない情報が2つある。
 ①糸賀のぶ子さんが大山融齋の子孫であること。
 ②大山融齋の書が高崎市箕郷町にあること
 ~~~U^uu.気分いい。

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