箕輪初心◆◆群馬の偉人:『村上鬼城』◆◆

★『村上鬼城』。これは、私の大好きな城の名前ではない。
俳句の達人の名前である。・・・知ってた?
★村上鬼城の俳号は「鳥取藩の支城:若桜城=鬼ヶ城」
(鳥取県八頭郡若桜町)に由来する。★私見=祖父・父の出身地で
あるが、行ったことのない鳥取に望郷の念を感じたのであろう。と、
勝手に考えている。これは箕輪初心の新説である。

「ゆさゆさと 大枝ゆるる 櫻かな」  
『村上鬼城(きじよう)』は、正岡子規や高浜虚子の影響・尽力で、
明治時代後半~大正時代に俳句のスペシャリストになったのだ。
(★参考文献・・・ふるさとを見つめるー群馬の詩歌句ー)
■訪問記・・・平成22年(2011)8月5日?
『村上鬼城』の墓は高崎城の南の竜広寺にある。
○村上鬼城の墓
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○「大寺や松の木の間の時雨月」と詠まれた碑。(★写真なし)
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●村上鬼城の看板の句
「浅間山 煙出で見よ けさの秋」
「泉わくや ときどき高く 吹き上げる」

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○ロシア人の墓もある。

■竜広寺の場所
 高崎城・高崎市役所・高崎公園の直ぐ南にある。
 聖石橋から高崎駅に向かって100m先のすぐ左である。


竜広寺の解説
・天正18年(1590) 井伊直政は箕輪城に移封。
  豊臣秀吉の命令である。
  上杉景勝&真田昌幸の押さえを目的とした。
  (★参考・・・中井均先生)
・天正18年(1590) 井伊直政は箕輪に竜門寺を創建。
・慶長3年(1598) 井伊直政は赤坂城=和田城を築城。
  箕輪から高崎に移転する際に、箕郷の龍門寺に
  下野の大中寺第12世:白庵宗関禅師を招いた。
 ★白庵は今川義元の相談役→徳川家康の相談役になった人だ。
 芝高輪:泉岳寺(赤穂浪士47士の墓で有名)を開いた人でもある。
 井伊直政は、地名を「和田」から「松ヶ崎」に変えようとした時、
 白庵は、「松は枯れるので、『高崎』にした方がよい。」箴言した。
 それで、和田→高崎になったのだ。
・慶長4年(1599) 井伊直政は竜広寺を創建。
・その後 竜広寺は何度も火災に遭った。
・大正時代・・・現在の本堂などの建物が建立。


■『村上鬼城』の年譜(★参考文献:村上鬼城「その生涯と作品)
◆①【星雲の志を抱いて・・慶応元年~明治27年】
・慶応元年(1865)7月20日 鳥取藩江戸藩邸(神田平河町)生まれ。
         因幡鳥取藩士350石:小原平之進の長男。           
・明治5年(1872) (8歳)高崎に移住。
・明治8年(1875)(11歳) 母方の養嗣子。村上姓。
          高崎学校(石上寺→現中央小学校)?
・明治11年(1878) (14歳)私塾「高崎漢字学院」入塾。
・明治16年(1880) (19歳)英語を学ぶ。         
・明治22年(1879) (25歳)和仏法律学校(法政大学)校外生。
・明治25年(1892)(30歳) 実父と妻:スミを死亡。
          二女を抱え悲嘆にくれる。はじめて作句をする。
   「美しき ほど哀れなり はなれ鴛(おし)」
・明治27年(1894)(32歳)
 高崎裁判所構内代書人となり、高崎市鞘町甲21の1 に住む。

◆②【正岡子規との出会い・・明治28年~大正元年】
・明治28年(1893)(31歳) ・広島の正岡子規に手紙を書いた。
※正岡子規は日清戦争の従軍記者に志願し、広島在住中。
→正岡子規は村上鬼城に返書。
 ◎俳句開眼・・正岡子規を教えを乞い、開眼。
   新聞『日本』の俳論26句入選。
   正岡子規校閲『新俳句』に9句掲載。
・明治29年(1894)(32歳) 小幡の松浦ハツと結婚。
・明治32年(1899)(35歳) 『ホトトギス』初掲載。
 「埋火や 遺孤を擁して 忍び泣く」河東碧梧桐選
・明治41年(1908)「紫苑会」を村上成之(しげゆき)と設立。
  ※ 村上成之・・高崎中学校教諭で、土屋文明の師。

◆③【「ホトトギス」の代表作家として】
・大正2年(1913)(49歳)
 高崎俳句大会・・・高浜虚子の推讃。→村上鬼城が有名になった。
 『芭蕉に追随し、一茶に優る境涯の俳人』として高く評価。
 俳句月刊誌「ホトトギス」(主宰者:高浜虚子)に掲載。
  大正の数年間、同誌の巻頭を飾った。 
・ 大正6年(1917) 『鬼城句集』大須賀乙字編を刊行。
・大正15年(1926) 自選『鬼城句集』大阪鬼城会より刊行。

◆④【晩年の村上鬼城=自適の時代】
・ 昭和2年(1927)活動の本拠であった鬼城旧居が類焼。
  高崎市鞘町甲21の1→宮元町の田島武夫宅に避難。
・昭和3年(1928) (64歳)知人・門人らの助力があって
  鬼城草庵を再興。鬼城は『並榎村舎』と呼んだ。
※高崎市並榎町288
  俳誌『櫻草』を刊行。添削会『白梅会』を発足。
・昭和7年(1932)(67歳)『続鬼城句集』を刊行。
  句会の指導・揮毫と俳画の製作に没頭。
・昭和13年(1938)(74歳) 9月17日死亡。
 墓所は高崎山龍広寺(高崎市指定史跡)・・・
  「青萍院常閑鬼城居士」。

 
●村上鬼城の群馬:榛名山の句
  「雲雀落ちて 榛名山ふた とこ焼ける」
  「榛名山 大霞して 真昼可那」

●村上鬼城と動物の句
  村上鬼城は耳疾を患っていたので、動稙物を詠む時も自分の姿を
  重ね、独特な視点から凝視する句が多いそうだ。
   「冬蜂の 死にどころなく 歩きけり」
   「夏草に 這ひ上りたる 捨蚕かな」
   「雷や 猫かへり来る 草の宿」
   「瘠馬に あはれ灸や 小正月」
   「老猿を かざり立てたる 猿まわし」
   「己が影を 慕うて這へる 自虫かな」
   「闘鶏の 眼つぶれて 飼はれけり」
 

●村上鬼城と盲犬の句
 村上鬼城は耳疾を患っていたため、「盲犬」を題材にした句は多い。
   「秋風や よごれて歩行く 盲犬」
   「春寒や ぶつかり歩く 盲犬」
   「大雪や 納屋に寝に来る 盲犬」
   「永き日や 寝てばかりゐる 盲犬」
   「行春や 親となりたる 盲犬」
 
 「盲犬」は鬼城の想像したの犬のように思われるが実在した犬だ。
 鬼城宅裏の福田家の「マル」という名の犬だそうだ。
 福田家で出た蚕のさなぎを食べすぎで「マル」は目が潰れたらしい。
 村上鬼城は実在の犬を自分の境涯と照らし合わせ、同一化して
 俳句を読んだそうである。
 (★参考文献・・村上鬼城の世界」松本旭著:角川書店)
(★参考文献・・村上鬼城「その生涯と作品」:第65回企画展700円 )
  ■土屋文明記念文学館
   第65回企画展「村上鬼城 その生涯と作品」をやっていた。
  平成21年(2009)4月18日(土)~6月14日(日)。
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(★参考文献・・鬼城と零余子:相葉有流・中里昌之著
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(★参考文献・・県立女子大教授:? )
(★参考文献・・「群馬の句碑」丸山知良著
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(※写真の挿絵=井田準一氏・・・・高校時代の美術の恩師である。)

■鬼城草案=高崎市並榎町288・・・Hpもあるよ。)


★ブログは中国地方・新潟の旅から、やっと群馬に戻ってきた。
明日は、藤岡の城? 土屋文明?  山村慕鳥 ? 小栗?
★箕輪初心◆『松尾芭蕉の奥の細道を訪ねて』も、年内には
 載せたい。
★「俳句」は、和歌→連歌→●俳諧→●俳句へと発展したのだ。

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