箕輪初心◆◆千利休=源氏系新田一族→里見系の一族の末裔

本名は「田中与四郎」→号は「千宗易」→貴族名で「千利休」。
★千利休は茶道を確立した功労者である。
“茶聖”千利休は現在の千家流の始祖となった。
現在、表千家、裏千家などに作法が伝えられている。
★千利休は織田信長・豊臣秀吉という2人の天下人に仕えた。
織田信長や豊臣秀吉とも対等の立場を貫こうとした。
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   (安土城の聡見寺の茶室)
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★平成23年(2011)6月27日の「江~戦国の女たち」では
「江」は、千利休と徳川家康と仲良しだった。
天正18年(1590)の小田原攻撃の直前、豊臣秀吉&千利休の
確執が表面化し、石垣山一夜城の宴会で、利休と秀吉の決別。
豊臣秀吉と対等の立場をとろうとするポリシーとも考えられる。
千利休は茶道の発展ために、政治を利用しすぎた。(TV)
①小田原城攻めの功労
 ・豊臣秀長・・100万石。
 ・徳川家康・・240万石。・・・・・・・三河召し上げ。
 ・豊臣秀勝(江の2番目の夫)・・・甲斐一国
②千利休&徳川家康
③江&豊臣秀勝・・・??LOVE
④江&徳川秀忠・・・いやみ関係
⑤9月・・陸奥まで平定
⑥豊臣秀吉&淀・・・鶴松を溺愛。病気。
⑦朝鮮への征服計画・・・朝鮮特使憤慨
⑧千利休が古田織部を紹介。
★古田織部&長谷川等伯が抜擢された。
⑨弟:豊臣秀長の死・・・利休の仲良しだった。
⑩鶴松の回復
⑪大和郡山城・・・豊臣秀長の城
★豊臣秀長の死は、豊臣秀吉の独断的な行動に繋がった。
 ★豊臣秀長は千利休のよき理解者だった。
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   (大和郡山城)
⑫石田三成が千利休の悪口を秀吉に告げ口
⑬豊臣秀吉の懇願・・・千利休は「茶をたてるのがいや。」
天正19年(1591)→
  2月9日  豊臣秀吉は千利休に切腹を命じた。(TV)
  2月13日 豊臣秀吉は利休に堺への退去を命じた。
  2月26日 豊臣秀吉は切腹を命じる。
  2月28日 千利休が切腹。享年69歳。
 ★信頼された千利休が最終的に切腹を命じられたのである。

■千一族の先祖・系譜
千利休の先祖は、新田義重の長男:里見太郎義俊の五男:
田中五郎義清と言われている。
●「田中一族」系図【足利氏と新田氏の系図】
(★参考文献・・・新田町史・里見氏他・・・参照作成)
源義家┬源義親―─────為義―義朝─頼朝
   │ ■次男:足利義康
   └義国─■長男:新田義重─義兼─義房─政義─政氏
                
 新田義重の長男系=①里見義俊ー②里見義成                           
長男:義雅(大島氏先祖)                 ー次男:田中義清(千利休先祖)                          ー4男:中里見政氏(中ちゃん先祖)   

【1】田中館 現群馬県太田市新田上田中町:長慶寺
■訪問記1回目・・・①
 「江田館」の西約500m。綿打中学校の東隣に長慶寺がある。
 ここが田中館跡である(伝)。
 長慶寺は、昔は七堂伽藍を備えた立派な寺院だった(伝)。
 石碑・・・茶聖千利休居士之祖:田中五郎義清之館跡
 田中五郎義清の墓・・・宝篋印塔は茶聖千利休の祖田中五郎義清の墓。
 案内板・・・・・
 長慶寺本堂・・・
 土塁跡・・・本堂の裏側には境内に沿って一直線に延びた土盛が残存。 
 長慶天皇陵墓・・・宝篋印塔は第98代長慶天皇陵墓(伝)。

■訪問記2回目・・・平成22年(2010)9月
 ○新田一族の「綿打館=現大慶寺」を訪問後、
  新田一族の「田中館=現長慶寺」に行った。
 ○看板 
「田中五郎義清は長慶寺(現群馬県太田市新田上田中町)に館跡
 である。(★参考文献・・群馬県古城塁址の研究:山崎一著)
・元久2年(1205) 新田義重の3男:新田義兼は新田庄12郷の地頭に
     なる。12郷の中に田中の領地がある。
・建保3年(1215) 田中・岩松・下今居の地を相続したのが義兼の
   後家新田尼である。(正木文書)
・嘉禄2年(1226) 岩松郷は新田尼の孫:岩松太郎時兼が地頭職を
  譲り受けているが田中郷は記されていない。
  従って田中郷は里見系田中に続いたと思われる。
  故に長慶寺は里見系田中五郎義清の館跡と裏付けられる。
      (★参考資料・・現地案内板)
※田中義清の内田中郷に所領をゲット。
(★参考文献・・新潟県十日町市史)

【2】田中館  現新潟県小千谷(おじや)内ヶ巻の妙高寺
初代田中家の田中義清から数えて、5代目:田中義房が
居城を築城した。
★新田一族の居住地・・新潟県魚沼郡や十日町:北から
①田中一族・・・・新潟県小千谷市内ヶ巻
②大井田一族・・・新潟県十日町市中条付近
 ※大井田氏は上条・中条・下条などの分家
③羽川一族・・・・本拠地は、枇杷島城。
         十日町市街地南部十日町市十字路近辺
  ④鳥山一族・・・・十日町市南部:南谷城付近
⑤里見一族・・・・信濃川西の清津峡の北5km

【3】■千利休の年譜
《大永2年(1522)~天正19年(1591)2月28日》
大永2年(1522) 和泉の国:堺の商家=屋号「魚屋(ととや)」に生まれる
  堺・・・貿易で栄える国際都市。商人が自治。
  幼名は与四郎。法諱は宗易。居士号は利休。抛筌斎。
  父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母は宝心妙樹。
  祖父は、足利将軍家の同朋で千阿弥。
  
  16歳・・・茶の道に入門。北向道陳に入門。
  18歳・・・茶の湯の第一人者:武野紹鴎(じょうおう)に入門。
  23歳・・・最初の茶会を開催。  
  正親町(おおぎまち)天皇より許されて、「千」を名乗った。
  織田信長の茶頭になる。今井宗久など
  豊臣秀吉に仕える。
  北野大茶会。。。」茶匠として権勢をゲット。
  豊臣秀吉・・・「千利休は天下一の茶人。」
天正19年(1591)2月13日 豊臣秀吉は利休に堺への退去を命じた。
      2月26日 豊臣秀吉は切腹を命じる。
      2月28日 千利休が切腹。享年69歳。

【4】茶の道の系譜
  大徳寺一休→村田珠光→武野紹鴎→千利休→古田織部・・・千家

【5】千利休の弟子達
①織田信長・・・安土城の聡見寺の茶室
②豊臣秀吉・・・大阪城の壁も茶器も金ピカの「黄金の茶室」
 ③細川三斎(ガラシアの夫)・・・
 ④織田有楽斎(信長の弟)・・・・犬山城の近くの有楽邸の茶室
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   ★くぐり戸は、自然に頭を下げる仕組み・・・秀吉の考案。
    と、TVドラマで言っていた。※後日、陶芸師匠が間違いを指摘。

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 ⑤高山右近・・・・
 ⑥古田織部・・・・千利休に自決後、豊臣秀吉の茶道の師。
        緑の織部釉・・・銅の還元焼成
■陶芸師匠の指摘・・・間違いあり!
 茶室のくぐり=躙り口は秀吉の考案ではない!利休の考案である。
 是はキリスト教の教えに由来するという説が有力!
 「狭き門より入れり」からとの説である。秀吉の権力への抵抗であろう。
  もう一つ、織部釉は、銅の酸化焼成である。

師匠、ありがとうございます。

★月曜日の夜11:30・・「戦国鍋TV」で放映中。

この記事へのコメント

696
2011年06月28日 23:08
間違いあり!
織部釉=銅の酸化焼成です。
696
2011年06月28日 23:33
間違いあり!
茶室のくぐり=躙り口は秀吉の考案ではない!利休の考案である。是はキリスト教の教えに由来するという説が有力!「狭き門より入れり」からとの説である。秀吉の権力への抵抗であろう。
もう一つ、織部釉は、銅の酸化焼成である。
696さんへ
2011年06月29日 20:00
今回の「茶室くぐり」は解りません。
①千利休・・広い空間での茶道=一般のため。
②古田織部・狭い空間での茶道=武家のため。
と、言われているので解りません。
犬山の織田有楽斎の茶室での説明で、
信じてしまいました。
※焼き物師匠の「織部釉」指摘・・感謝申し上げます。
織田有楽斎の茶室の説明に、

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