箕輪初心●福井「杣山城」=新田義貞の最後の城

箕輪初心●福井「杣山城」=新田義貞の最後の城
2010年夏:8月6日~8日に若狭・丹後・大和・伊勢の2泊
3日の旅をした。今回の旅は福井「杣山城」から始まった。
「新田義貞&若狭の旅」で以前、「杣山城」を紹介したが、
その詳細編である。福井の今宿ICで降りた。

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★新田一族の「新田義貞の最後」の詳細編
■訪問記・・平成22年(2010)8月6日
○12:00そま山城駐車場
①駐車場・・・居城跡
  ★正面の山頂は城跡だなと思った。案の定だった。
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②看板・・大手口の駐車場に本丸の大手口・搦め手口からの道が
  そのままハイキングコースになっている。
  ★二の丸口からのは車が途中まで行けるらしい。
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3コースあるが、一番簡単なコースにした。
   ★それでも標高差300mはある。
③二の丸口の水堀があった。
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    ★見事な水堀である。
④車で山道を行くと、どんづまりに駐車場があった。
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 半ズボン・長袖・登山靴・虫除けスプレーで登山開始。
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⑤20分程で、西御殿に着いた。
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 西御殿・・・足利勢の攻撃用の臨時御殿である。
 1333年に瓜生氏が足利軍に攻められた時、
臨時の御殿である。端に本丸口からの合流地点があった。
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○西御殿の奥に、城の紹介図があった。
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○分岐があった。
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○さらに坂道を行く。急登になった。
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⑥袖掛岩がある。「足利に追われた侍女達が振り袖をかけて、
  裏の崖に飛び降り自害をした。」と説明書きがあった。
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⑦杣山城本丸・・・山頂▲492m●40分後、山頂だ。
  ★まともに登ったら、本丸まで1時間15分ってとこかな。
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 帯郭状の上に15m×15mの本郭があった。
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 東御殿に行くのを止め、下山した。

⑧下山・・・走って下った。
○13:00駐車場・・・・・1時間の登山だった。


■杣山城(そまやま)の歴史
元亨元年(1321) 瓜生衡(ひとし)が越後三島郡瓜生村から移住。築城 
延元元年(1336) 新田義貞が恒良親王・尊良親王を奉じて、金ヶ崎城に入城。
  延元2年(1337) 瓜生保が金ヶ崎城より逃亡して来た新田義貞を援助。
  瓜生保は、敦賀樫曲で戦死?
暦応4年(1341) そま山城が落城。
 斯波(足利)高経が入城。・・・病死。
 斯波氏家老:甲斐氏が入城。朝倉氏と対峙。
文明6年(1474) 日野川の決戦 甲斐氏 vs 朝倉氏 
 甲斐氏の敗戦。
→朝倉氏家臣:河合安芸守宗清が入城
天正元年(1573) 織田信長の北陸攻撃。

■新田義貞最後「金ヶ崎城→そま山城→灯明寺畷」
延元元・建武3(1336)
 10月10日 後醍醐天皇は足利尊氏と和睦。
           ・・・光明天皇が新天皇になる約束。
   ※後醍醐天皇は隠密裏に足利尊氏に接近。
    →堀口貞満の怒り「新田一族130人・郎党8000余人が死んだ。
    後醍醐天皇・あなたは新田義貞を捨てるのか?我々を皆殺しに
    してくれ。」(太平記)
    後醍醐天皇の越前への下向命令。
    ●新田義貞は後醍醐天皇の王子惟良親王・尊良親王を奉じ、
     ・脇屋義助の領地越前へ
    ■越前では、北朝方の斯波高経が勢力を伸ばしていた。
10月11日(新暦11月19日?★箕輪初心の計算) 
    木の目峠で大量の凍死者。
10月13日 敦賀で、気比神社へ(堀口満貞に担当地区)
     大宮司:気比氏治の案内で、金ヶ崎城に入城。
     「・・・三方は波によって岸高く、厳なめらかなり。」(太平記)

11月     足利尊氏が建武式目を発布。
12月     後醍醐天皇は吉野に去り、・・・・南北朝が分立。

延元2・建武4(1337)
1月    足利家執事高師直弟:高師泰が新田義貞が立て籠もる
       金ヶ崎城を攻撃。=3ヶ月の兵糧攻め。
    ●新田義貞軍は兵糧攻めにあって、餓死者が出たり、人肉を
      食べたりしたとか?(若狭:金ヶ崎城:新田の戦い)

3月5日 新田義貞と脇屋義助は落城前日、城を離脱」。
      瓜生氏の杣山城に入城。


3月6日  高師泰や斯波高経の攻撃→金ヶ崎城が落城。
       →尊良親王・新田義顕が自害。恒良親王は北朝方に捕らえられた。
       南朝方は義貞の嫡子:義顕以下300名が討ち死に。
       851人(太平記では)

4月  ●新田義貞は杣山城から檄を飛ばした。
      →多数の味方を得た。

8月11日 陸奥の北畠顕家は義長親王を奉じ、京へ出撃。
       新田系の者も参戦。
       8ヶ月の抵抗・・・北畠・新田の作戦・連携の失敗で、鎮圧。

延元3・建武5(1338)
2月  ●新田義貞は足利(斯波)高経の居城:府中城(現武生市)へ攻撃。
    府中の戦い
     日野川の激戦で、斯波高経の居城:新善光寺城も府中もことごとく
     燃え尽きた(伝)。
     府中で新田義貞軍が斯波軍を破ったことで、勢いを盛り返した。
     ●新田義貞軍は越前の足利方の73の出城を降伏。
      →新田義貞軍が優位。
     新田義貞は越前の完全掌握ため、斯波高経のこもる黒丸城を包囲。
     後醍醐天皇の勅書(天皇直筆)「京の八幡山への救援を命ずる。」
     新田義貞は「武士で寝筆の勅書を賜った例はない、
         新田の家の分を超えた名誉だ」と喜んだ。(伝)。

6月  越後(現十日町)から里見一族の大井田弾正少弼氏経・鳥山左京亮ら
     の援軍が到着。
     ■斯波高経の黒丸城は簡単には落ちなかった。
     (足羽七城は城同志は挟み撃ちが出来るように配置)
     ※足羽七城の一つ藤島城には白山平泉寺の僧兵が守備。


閏7月2日 
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    ●新田義貞は戦況がよくないので、50余騎で、偵察に向かった。
     新田義貞は途中、藤島の灯明寺畷(福井市新田塚)で
     斯波家臣:細川出羽守と鹿草(かくさ)彦太郎など300余騎の軍勢
     に出くわした。一斉に弓を射掛けられた。
     新田義貞側は盾の弓も持っていなかった。
     中野藤内左衛門は、「大将は雑兵を相手に戦うべきではない」
     と箴言した。
     しかし、つぎつぎと射殺されていく配下を見て義貞は覚悟を決め、
     敵に向かった。
     新田義貞の騎馬には多くの矢が立ち、田んぼの中にほうり出された。
     そして、面を上げた瞬間に、額に敵の矢がささった。
     新田義貞は「もうこれまで」と思い、抜いた太刀を左の手に取り渡し、
     首をかき切った。そして、泥の中に横臥した。
     越中の住人:氏家中務丞重国(うじえなかつかさのじょうしげくに)が
     走りより、首を取つて刀の刃先に貫き、鎧・太刀・刀を取り、黒丸城
     へ帰った。
     結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、馬より飛び
     下りて、新田義貞の死骸の前にひざまづいて、腹かき切つて殉死
     した。「四十余騎の兵が射落されてたが、敵のひとりをも取りえずに、
     犬死して臥したりけれ。」(太平記)
    ★灯明寺畷で没・・・「あ~あ。残念。」
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●新田義貞の首は都大路を引き回され、獄門にかけられた。

★墓は京都の祇王寺の近く。壇林寺。
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8月 足利尊氏、北朝より征夷大将軍に任ぜられて室町幕府を開く。

9月 新田義貞の死後、脇屋義助が足利勢と越前で戦った。

★「新田義貞の最後」と同じ文面だが、掲載した。

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