箕輪初心●群馬の城:旧甘楽町②国峰城=武田24将:小幡重貞
箕輪初心●群馬の城:「旧甘楽町の城②国峰城」
6)国峰城・・・甘楽町国峰城
第3代箕輪城主:長野業政の長女を娶った小幡重貞【=信貞(信玄の信)=信実)。
長野氏時代の長野業政の№2から武田信玄の№24の一人になった。
訪問記・縄張り詳細は、富岡武蔵さん、埋もれた古城さん、タクジローさん
などのHpを参照して下さい。
■訪問記・・・①2006年10月
・大塩ダムの方から回り込んだ。
(小幡城から西へ3kmの434mの城山居城に看板があった。)
・御殿平・・・看板がある。ここが駐車場である。
・居城跡から更に来る車で300mほど入れる。車は2台程度おける。
・大手道の登る。
・馬出がある。
・鳥居を越える。
・本郭に出る。10m×10mくらいである。
★郭などの細かい観察はしなかったので、もう一度トライするつもりである。
★小幡重貞の城にしては、整備が今一歩だった。残念であった。
■国峰城の歴史
・天文年間(1532~1554) 小幡重貞が築城?
小幡重貞は箕輪城主:長野業政の長女を妻に。
小幡重貞は従兄弟の宮崎城主:小幡図書之介とトラブル。
・永禄3年(1600) 小幡重貞が、草津湯治に行っている際に小幡図書之介に
乗っ取られた。(伝)
上杉氏の計略とみ、長野業政の計略とも言われている。
・永禄6年(1602) 小幡重貞は武田信玄の傘下。小幡信貞を改名。
・永禄9年(1566) 箕輪城の落城。武田方について国峰城を再建。
→南上州のドンになった。
★推定4万石・2000人の兵。60余りの砦支城。
・天正10年(1582) 武田氏滅亡→小幡信貞は甲州にいて、北条氏康の支配下。
・・・八王子へ。
★塀和伯耆守を頼った可能性が高い。
理由・・・和田信業も頼った文献資料が山梨にある。
(詳細は、「箕輪初心●和田信業」を参照されたい。)
http://tb.bblog.biglobe.ne.jp/ap/tb/a257e0854f
→小幡信貞は伊豆長岡に居を構え、狩野姓を名乗った。(黒崎説)
★伊豆長岡には、2つの狩野城がある。
・天正18年(1590) 豊臣氏の北条攻めの時、北国軍の前田氏・上杉氏に迫られ、落城。
上野に戻り、赤城・箕郷で狩野姓で過ごす。(黒崎説)
→真田昌幸の支配下。小幡姓に戻した。(通説)」
★次は「甘楽の城③麻場城」かな?
6)国峰城・・・甘楽町国峰城
第3代箕輪城主:長野業政の長女を娶った小幡重貞【=信貞(信玄の信)=信実)。
長野氏時代の長野業政の№2から武田信玄の№24の一人になった。
訪問記・縄張り詳細は、富岡武蔵さん、埋もれた古城さん、タクジローさん
などのHpを参照して下さい。
■訪問記・・・①2006年10月
・大塩ダムの方から回り込んだ。
(小幡城から西へ3kmの434mの城山居城に看板があった。)
・御殿平・・・看板がある。ここが駐車場である。
・居城跡から更に来る車で300mほど入れる。車は2台程度おける。
・大手道の登る。
・馬出がある。
・鳥居を越える。
・本郭に出る。10m×10mくらいである。
★郭などの細かい観察はしなかったので、もう一度トライするつもりである。
★小幡重貞の城にしては、整備が今一歩だった。残念であった。
■国峰城の歴史
・天文年間(1532~1554) 小幡重貞が築城?
小幡重貞は箕輪城主:長野業政の長女を妻に。
小幡重貞は従兄弟の宮崎城主:小幡図書之介とトラブル。
・永禄3年(1600) 小幡重貞が、草津湯治に行っている際に小幡図書之介に
乗っ取られた。(伝)
上杉氏の計略とみ、長野業政の計略とも言われている。
・永禄6年(1602) 小幡重貞は武田信玄の傘下。小幡信貞を改名。
・永禄9年(1566) 箕輪城の落城。武田方について国峰城を再建。
→南上州のドンになった。
★推定4万石・2000人の兵。60余りの砦支城。
・天正10年(1582) 武田氏滅亡→小幡信貞は甲州にいて、北条氏康の支配下。
・・・八王子へ。
★塀和伯耆守を頼った可能性が高い。
理由・・・和田信業も頼った文献資料が山梨にある。
(詳細は、「箕輪初心●和田信業」を参照されたい。)
http://tb.bblog.biglobe.ne.jp/ap/tb/a257e0854f
→小幡信貞は伊豆長岡に居を構え、狩野姓を名乗った。(黒崎説)
★伊豆長岡には、2つの狩野城がある。
・天正18年(1590) 豊臣氏の北条攻めの時、北国軍の前田氏・上杉氏に迫られ、落城。
上野に戻り、赤城・箕郷で狩野姓で過ごす。(黒崎説)
→真田昌幸の支配下。小幡姓に戻した。(通説)」
★次は「甘楽の城③麻場城」かな?
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