箕輪初心●新田義貞⑤「若狭に逃亡~福井で38歳没」

箕輪初心●新田義貞⑤「新田義貞の最後38歳没」(福井)
★せっかく、新田義貞は京都で足利尊氏を九州に敗走させたのに、
女にうつつをのかし、出陣のタイムリーを逃した。そのため、京都で勝った戦が足利尊氏の復活を許し、
西国で敗戦した。西国での新田一族の戦死者123名・郎党8000余人であった。
★おいらも新田系。群馬から4人の総理大臣がでたが、新田・里見・山名などから総理は出ていない。
がんばれ、新田一族。

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  (新田神社=新田義貞が自刃した灯明寺畷)


5月27日 ●新田義貞は後醍醐天皇と比叡山に逃亡。
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6月3日  ■足利尊氏は京都に入った。光明天皇(北朝)を擁立。
        足利尊氏の比叡山攻撃。
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6月30日 ●新田義貞が京都に出撃。
8月23日 ●新田義貞が宇治で敗北。
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8月28日 ■足利尊氏が比叡山を陥落。
10月10日 後醍醐天皇は足利尊氏と和睦。・・・光明天皇が新天皇になる約束。
        ※後醍醐天皇は隠密裏に足利尊氏に接近。
         →堀口貞満の怒り「新田一族130人・郎党8000余人が死んだ。
         後醍醐天皇・あなたは新田義貞を捨てるのか?我々を皆殺しにしてくれ。」(太平記)
        後醍醐天皇の越前への下向命令。
        ●新田義貞は後醍醐天皇の王子惟良親王・尊良親王を奉じ、
           ・・・脇屋義助の領地越前へ
        ■越前では、北朝方の斯波高経が勢力を伸ばしていた。
10月11日(新暦11月19日?★箕輪初心の計算) 木の目峠で大量の凍死者。
10月13日 敦賀で、気比神社へ(ー堀口満貞に任せていた地区)
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       大宮司:気比氏治の案内で、金ヶ崎城に入城。
          「かの城の有様は三方は波によって岸高く、厳なめらかなり。」(太平記)
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11月     足利尊氏が建武式目を発布。
12月     後醍醐天皇は吉野に去り、・・・・南北朝が分立。

延元2・建武4(1337)
1月    足利家執事高師直弟:高師泰が新田義貞が立て籠もる金ヶ崎城を攻撃。
      3ヶ月の兵糧攻め。
     ●新田義貞軍は兵糧攻めにあって、餓死者が出たり、人肉を食べたりしたとか?
       (若狭:金ヶ崎城:新田の戦い)
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3月5日 新田義貞と脇屋義助は落城前日、再起を期して城を離れた。
      瓜生氏の杣山城に入城。
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3月6日  高師泰や斯波高経の攻撃→金ヶ崎城が落城。
       →尊良親王・新田義顕が自害。恒良親王は北朝方に捕らえられた。
       南朝方は義貞の嫡子:義顕以下300名が討ち死に。851人(太平記では)
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4月  ●新田義貞は杣山城から檄を飛ばした。・・・・多数の味方を得た。
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8月11日 陸奥の北畠顕家は義長親王を奉じ、京へ出撃。
       新田系の者も参戦。

       8ヶ月の抵抗・・・北畠・新田の作戦・連携の失敗で、鎮圧。

延元3・建武5(1338)
2月  ●新田義貞は足利(斯波)高経の居城のある府中(現武生市)へ攻撃。
    府中の戦い
     日野川の激戦で、斯波高経の居城:新善光寺城も府中もことごとく燃え尽きた(伝)。
     府中で新田義貞軍が斯波軍を破ったことで、勢いを盛り返した。
     ●新田義貞軍は越前の足利方の73の出城を降伏。→新田義貞軍が優位。
     新田義貞は越前を完全掌握するために、斯波高経のこもる黒丸城を包囲。
      京の八幡山への救援を命ずる後醍醐天皇の寝筆の勅書(天皇直筆)が届いた。
     新田義貞は「武士で寝筆の勅書を賜った例はない、新田の家の分を超えた名誉だ」
     と喜んだ。(伝)。

6月   越後から里見一族の大井田弾正少弼氏経・鳥山左京亮らの援軍が到着。
     
      斯波高経の黒丸城は簡単には落ちなかった。
      (足羽七城は城同志が互いに敵の背後にまわり挟み撃ちが出来るように配置)
      ※足羽七城の一つ藤島城には白山平泉寺の僧兵が守備。
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閏7月2日 ●新田義貞は戦況がよくないので、50余騎で、偵察に向かった。
     新田義貞は途中、藤島の灯明寺畷(福井市新田塚)で
     斯波家臣:細川出羽守と鹿草(かくさ)彦太郎など300余騎の軍勢に出くわした。
     一斉に弓を射掛けられた。新田義貞側は盾の弓も持っていなかった。
     中野藤内左衛門は、「大将は雑兵を相手に戦うべきではない」と箴言した。
     しかし、つぎつぎと射殺されていく配下を見て義貞は覚悟を決め、敵に向かった。
     新田義貞の騎馬には多くの矢が立ち、田んぼの中にほうり出された。
     そして、面を上げた瞬間に、額に敵の矢がささった。
     義貞は「もうこれまで」と思い、抜いた太刀を左の手に取り渡し、みづから首を
     かき切った。そして、泥の中に横臥した。
     越中の住人:氏家中務丞重国(うじえなかつかさのじょうしげくに)が走りより、
     首を取つて刀の刃先に貫き、鎧・太刀・刀を取り、黒丸城へ帰った。
     結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、馬より飛び下りて、
     義貞の死骸の前にひざまづいて、腹かき切つて殉死した。
     「四十余騎の兵が射落されてたが、敵のひとりをも取りえずに、
     犬死して臥したりけれ。」(太平記)
    ★灯明寺畷で没・・・「あ~あ。残念。」
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    ●新田義貞の首は都大路を引き回され、獄門にかけられた。

8月 足利尊氏、北朝より征夷大将軍に任ぜられて室町幕府を開く。

9月 新田義貞の死後、脇屋義助が新田一族をまとめた。足利勢と越前で戦った。

■新田義貞の遺骸
    ●新田義貞の胴塚・・・・福井県丸岡市称念寺。
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    ●新田義貞の首塚・・・・京都嵐山の祇王寺近く。
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    ●新田義貞の首塚・・・・群馬県旧尾島町武蔵島「勾当内待邸跡」
    ●新田義貞の首・・・・・・神奈川県小田原東町(山王原網一色)の小田原城東高校近く。
    ●新田供養堂・・・・・・・福井:藤島神社=新田神社・・・・・・・・・明治9年(1876)
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                  福井:藤島神社(足羽山)・・・・・明治34年(1901)
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       ↓
    ●上野:太田金龍寺(★太田大光院と金山城の間)・・・・・・・延元3年
    ●上野:桐生金龍寺・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・応永24年
    ●常陸:牛久金龍寺・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・天正18年
    ●??:若柴金龍寺・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・天正18年  

      福井:新田義貞戦没地            

  (1901年・・・水害のため、足羽山に藤島神社が移転)

■新田義貞夫人=勾当内待藤原(一条)経伊三女のその後
  説①・・・京都嵯峨の往生院近くの庵で、黒髪を下ろして、新田義貞をの菩提を弔った。
  説②・・・大津堅田の泉福寺=勾当寺から、越前に向かったが、琵琶湖に入水自殺。(太平記)  
       野神神社境内に勾当内待の墓・・・・9月18日は「きちがい祭り」
  説③・・・上野(群馬)に移り住んだ説  
        太田市高林・太田市新田江田・太田市尾島武蔵島など5カ所の説

暦応4年(1341) 9月 脇屋義助は吉野に戻った。

康永元年(1342) 閏6月 脇屋義助が病死。
伊予の国府?国分城?の説もある。=群馬県太田市と姉妹都市関係。
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正平13年(1358) 足利尊氏、死去(54歳)

★江戸時代の末期、「太平記」を読んだ高山彦九郎(群馬県太田市)は、日本の幕末期の
 勤王論者第1号になった。北海道以外全国。吉田松陰や橋本左内にも影響を与えたたしい。
★福井の星・・・橋本左内(藤島神社に行ったら、是非行ってみよう。)
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