箕輪初心●新田義貞④「足利尊氏との対立」

箕輪初心●新田義貞④「足利尊氏との対立」
6月 鎌倉の支配権をめぐって、新田・足利で緊張が高まった。→対立。
●新田義貞、鎌倉大御堂谷の勝長寿院に本陣
■足利尊氏、二階堂の別当坊に着陣・・・・多くが足利に着いた。
●新田義貞が引き、京都に向かった。→鎌倉は足利の支配地になった。
  ※恩賞の関係で、武士は自己申告の紙をどちらに提出するか迷った。
    中には両方出す武士もいた。次第に、力に勝る足利尊氏に自己申告書を出す武士が
多くなった。 (峰岸説)

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  (大銀杏のない鎌倉八幡宮)

6月 後醍醐天皇京都帰還。建武の新政開始。 
8月5日 建武の新政の中での論功行賞
①新田義貞・・・
  ●従四位の上。上野・播磨の国司。長男新田義顕は越後の国司。弟脇屋義助は駿河の国司。
   武者所長官(=支配者)・・・新田義顕・一井貞政・堀口貞義・江田行義・新田義治を登用。
   ※鎌倉を陥落させた最大の功労者に対する恩賞は他の貴族たちに比べると高くない。
   ★しかし、無位無官の新田庄の土豪だったので通常からみればこれでもいいのか?。
   ※足利に近い岩松経家は飛騨の守護。

②足利尊氏・・・・
  ■鎌倉幕府時は従五位上で、前治部大輔。
   恩賞後は従四位下左兵衛督・鎮守府将軍。
    →従三位。武蔵・常陸・相模の国司。弟:足利直義は遠江の国司。
   後醍醐から名の尊の字を貰い、「足利高氏」→「足利尊氏」と改名。
  ■足利尊氏は征夷大将軍の地位が与えられず、
      公家で後醍醐天皇の子:護良親王に任じられたので不満。
  ●実際に幕府を滅ぼした武士に恩賞が与えられず、
    不満を持つ武士たちは足利尊氏のもとに集まるようになった。   

建武2年(1335)
5月   新田義貞の播磨支配は、里見義俊に任せていた。
     →・・・赤松円心と対立。
      新田義貞の越前支配は、堀口貞満に任せていた?

6月 中先代の乱。
    信濃:別所で北条時行(鎌倉幕府執権北条高時の子)が反後醍醐天皇の挙兵。
    ※支えた武士・・・諏訪頼重・三浦時継・蘆名盛員・那波政家などである。
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6月? 里見義俊(越後大井田系?式部大輔を名乗っているので・・・峰岸説)
      が播磨国:国府で自殺。
     山内首藤(山内一豊・山内容堂祖先)が嫡子:土用鶴丸を養子にして、
       備後・遠江・伊賀・京都の所領を譲渡する願いを足利尊氏に提出し、
       受理されている。(山口県 山内首藤文書)
     ★なんと、土佐藩主:山内容堂公は、里見の血筋だったのだ。

7月     利根川の合戦   新田四郎が戦死。
7月22日 武蔵女影原(埼玉県日高町)の合戦
          足利氏の家臣岩松経家・渋川義季(新田一族)が戦死。
7月下旬  足利直義は大塔の宮:護長親王を殺害し、西に逃走。
       北条時行は足利直義の守る鎌倉を攻略。
8月2日  ■足利尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の許可申請をしたが認められず、勝手に討伐に出撃。
         三河の矢作で足利父子が合流。
8月19日  ■足利尊氏が北条時行を破り、鎌倉に入りし、滞在。
         旧北条家の所領を諸将に恩賞を授与。
         新田義貞の国司:上杉憲房を自分の配下として上野守護に任命。
        
        ■足利尊氏は後醍醐天皇の帰郷命令の拒否理由に
          公家・新田義貞の誅罰を建武政権に要求
          「・・・足利千寿王の参陣で成功。しかるに、新田義貞は
          功績を掠め取ろうとしている。」(太平記)
       ●新田義貞・・「護良親王を足利尊氏が殺害した。」と反論。
       ■足利尊氏は新政府に背き、反逆。

ある秋の日 新田義貞は、後醍醐天皇に召されて、警護。
        琴を弾いている勾当内待をのぞき見た。
        Fall in love~~~これが、新田義貞の敗戦につながった(箕輪初心)
        「我が袖を 泪に宿る 影とだに しらで雲井の 月休むらん 」と詠み、
        勾当内待に送った。・・・・ まわりにいる者が後醍醐天皇に話した。
        勾当内待は公家からの内申を天皇に伝える最高級女官である。
        「太平記」では、藤原(一条)経伊の三女で一条行房の妹である。
        →新田義貞の夫人になった。妾になった。

11月8日  後醍醐天皇は新田義貞に足利尊氏・直義追討の綸旨を発布。

11月19日 新田義貞が大将軍・・・鎌倉に向けて出発
       ●新田義貞は2手に分かれて進軍 
      1)東海道組
       新田一族・・堀口・山名・岩松民部大輔・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井
              ・羽川・大島・世良田・田井(田部井)・金谷・籠沢など
       新田家臣・・・船田・由良・長浜・山上など
       他氏族・・・千葉・宇都宮・武田・川越など東国勢
              大友・大内・厚東・佐々木など西国勢 67000騎
      2)東山道組
       皇族・公家・江田行義・大館氏義・堀川など 10000騎
      
      ■足利直義は新田義貞討伐を名目に上洛軍として20000騎で進軍。 

11月25日駿河:手越河原の戦い
        新田軍が足利直義を破る。
        足利直義は後退。
      ■足利尊氏は新田義貞討伐を名目に上洛軍として進軍。
12月11日 箱根:竹之下の戦い
        新田義貞軍  VS  足利尊氏軍
        結果・・・新田軍が敗北し、京都に退却。
12月17日 足利尊氏軍は京に進軍。

延元2・建武3(1336)
1月     京都の争奪戦
1月9日  ■足利尊氏が京を制圧。・・・→新田軍は撤退。
1月16日 ●新田義貞・北畠顕家軍が三井寺攻撃。→足利軍を破る。
1月27日 ■足利尊氏は神戸に敗走。
       ●新田義貞は追撃するが、赤松円心の白旗城で足止めさせられる。
       
2月12日 ■足利尊氏は大友氏の船で九州大分へ遁走。
       持明院党の光厳上皇からの院宣をもらい、新田義貞の追討の命令を発送。
       ■足利尊氏は十万の軍勢を集結。
       四国・・・細川和氏など
       播磨・・・赤松円心
       備前・・・石橋和義・松田義時一族
       安芸・・・桃井盛義・小早川一族
       周防・・・大島義政・大内長弘
       長門・・・斯波高経・厚東武実

3月10日 ●新田義貞は一条世尊寺経伊の三女(娘)にうつつをのかして中国遠征が遅延。
       ★馬鹿な男?すぐに出陣していれば、天下は新田側だったかも???
       ●代わりに江田・大館が出陣
3月30日 ●新田義貞が出陣し、赤松円心の白旗城を包囲。

4月3日  ■足利尊氏は赤松円心を救うため、九州:博多から東上。
5月    →■足利尊氏は十万の軍勢を集結。

         兵庫:湊川の戦い   新田軍  vs  足利軍

5月25日 楠正成が摂津湊川で戦死。
       結果・・・新田・楠軍の敗北
       ★新田義貞に勝機は十分あったが、女と公卿のため敗戦?。
                             歴史が変わったかも?)

      辰刻(午前10時頃)に舟が押し寄せてきた。これは「数万の兵船」だった。
      また陸の方でも、「鵯越ノ方」から大軍が迫ってきた。宮方は手分けして、
      脇屋義助の「五千余騎」が経島に、
      大館氏明は「三千余騎」で灯炉堂の南の浜に、
      楠木正成は「七百余騎」で湊川の西宿に、
      新田本隊は「二万五千余騎」で和田御崎に布陣した。
      海の敵がときの声をあげ、陸路の「五十万騎」もこれに合わせた。

      宮方の「五万余騎」もときの声をあげた。
      次いで本間重氏が1騎で波打ち際に出て、見事な遠矢を射た。
      「七千余艘」の舟の代表として、佐々木顕信が射返したが届かず、嘲笑された。
      「二百余人」を載せた1舟が経島に上陸したが、脇屋勢に取り囲まれて全滅した。
      そこで細川氏は、東側の「紺辺浜」を上陸場所にしようとした。
      これを見て兵庫島の「五万余騎」も東へ移動した。
      その後で、九州・四国の「六十余艘」は和田御崎に漕ぎ寄せて易々と上陸した。
      こうして楠木兄弟は武家方に囲まれることになった。
      それでも楠木兄弟は奮戦して、東へ西へと暴れまわった。
      足利直義の「五十万余騎」はこの「七百余騎」に苦戦し、
          「須磨ノ上野ノ方」に引き返す程だった。
        直義自身も討たれそうになったが、薬師寺十郎次郎の奮戦で逃げることができた。
      尊氏はこれを見て、吉良、石塔、高、上杉の「六百余騎」を湊川の東に向けて背後を絶った。
      ついに楠木勢は「七十三騎」になり、「湊河ノ北」の一村に入って自害した。
      行き合わせた「菊池武朝」も自害した。
      こうして足利兄弟は一体になった。
     
      新田義貞はこれを見て西宮から引き返し、生田森を後にあて、「四万余騎」を3手に分けて
      ぶつけてきた。まず大館氏明、江田行義の「三千余騎」が、仁木、細川の「六万余騎」と戦った。
      次に中院定平、大江田、里見、鳥山の「五千余騎」が、高、上杉の「八万余騎」と戦った。
      その次に脇屋、宇都宮公綱、菊池次郎、河野、土居、得能の「一万余騎」が、
      直義、吉良、石塔の「十万余騎」と戦った。
      最後に義貞の本隊の「二万三千」が、尊氏の「三十万余騎」と戦った。
       
       新田勢は奮闘したが、ついに「五千余騎」に打ち減らされ、生田森の東から丹波路へ
     落ちていった。追撃は厳しかったが、義貞が後陣にとどまり、また小山田高家が身代わりに
     なることで振り切った。京都に着いた時には「六千余騎」になっていた。  (太平記)
     新田一族の戦死者123名・郎党8000余人。

5月27日 ●新田義貞は後醍醐天皇と比叡山に逃亡。
6月3日  ■足利尊氏は京都に入った。光明天皇(北朝)を擁立。
         足利尊氏の比叡山攻撃。
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6月30日 ●新田義貞が京都に出撃。
8月23日 ●新田義貞が宇治で敗北。
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8月28日 ■足利尊氏が比叡山を陥落。
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10月10日 後醍醐天皇は足利尊氏と和睦。・・・光明天皇が新天皇になる約束。
   ※後醍醐天皇は隠密裏に足利尊氏に接近。
    →堀口貞満の怒り「新田一族130人・郎党8000余人が死んだ。
    後醍醐天皇・あなたは新田義貞を捨てるのか?我々を皆殺しにしてくれ。」(太平記)
        後醍醐天皇の越前への下向命令
    ●新田義貞は後醍醐天皇の王子惟良親王・尊良親王を奉じ、
       ・・脇屋義助の領地越前へ
    ■・・・越前では、北朝方の斯波高経が勢力を伸ばしていた。

10月11日(新暦11月19日?たぶん箕輪初心の計算) 
        木の目峠で大量の凍死者を出した。

10月13日 敦賀で、気比神社の大宮司:気比氏治の案内で、金ヶ崎城に入城。
       「かの城の有様は三方は波によって岸高く、厳なめらかなり。」(太平記)
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★敦賀は、新田義貞>堀口家臣の現地支配>気比家の庇護?


11月   足利尊氏が建武式目を発布。
12月     後醍醐天皇は吉野に去り、・・・・南北朝が分立。

★次は「新田義貞の最後」の詳細を掲載予定。

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