箕輪初心●新田義貞③「2度の鎌倉攻撃」

箕輪初心●新田義貞③「2度の鎌倉攻撃」
※鎌倉は、南は海、尾根が三方(西・北・東)に囲まれている自然の要害である。
新田義貞は鎌倉の7つの切り通しのうちのどこかをを突破する必要があった。
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  (写真は稲村ヶ崎の新田義貞の碑)
●新田義貞は藤沢の遊行寺で、軍勢を三方に分ける計画を立てた。
 ①上道→北の巨福呂坂・・★上将軍:堀口貞満・副将軍:大嶋讃岐守守之(義政?)の軍。
 ②上道→北西の化粧坂・・★上将軍:新田義貞・副将軍:弟の脇屋義助の軍
 ③下道→西の極楽寺坂・・★上将軍:大館宗氏・副将軍:江田行義・里見義胤の軍。

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■鎌倉幕府
 ①巨福呂坂・・・・・・・・北条守時を大将とした五千騎
 ②化粧坂・・・・・・・・・・金沢左近将監忠時を大将とした三千騎
 ③極楽寺坂・・・・・・・・大仏貞直・長崎高重を大将としたなど三千騎
 ④本隊予備隊・・・・・・北条高時を大将とした五千騎


5月17日  
  ①堀口貞満・大嶋守之   →「上道」→ 巨福呂(こぶくろ)坂切通
  ②新田義貞・脇谷義助・堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川など
    「上道」→→化粧坂切通 片瀬・腰越  
  ③大館宗氏・江田行義 ・里見義胤
   →極楽寺坂切通、稲村ヶ崎(太平記)
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5月18日・・
 ①堀口貞満・大嶋守之   →「上道」→ 巨福呂(こぶくろ)坂切通
   前線:州崎・北鎌倉山崎
  ▲金沢貞将が大将・・・(梅松論) 安房・上総・下総・下野の五千騎
  

    
 ②早朝、新田軍の総攻撃。
   峠~化粧坂の道(現梶原1~5丁目)で攻防戦・・・葛原の合戦
    ★新田義貞・脇谷義助     
     VS
    ▲大仏貞直・長崎高重 
     北条陸奥守貞通が副将 三千騎 (梅松論)
    →結果・・激しい戦いで屍の山 ・小石ほどの人骨が多く出土。
   ■本間山城左衛門が戦死。
  ※現在:源氏山公園・・・日野俊基を祀る葛原岡神社

 ③極楽寺坂の攻防
  ●大館宗氏が相模湾沿いを東西に伸びる稲村ケ崎路を突破。
      ↓
    鎌倉に侵入。前浜付近を焼く。
  ■幕府側は諏訪・長崎が応戦(峰岸氏) 
     赤橋盛時・・洲崎が応戦 (太平記)  
     北条守時が大将で南条左衛門高直が応戦 (梅松論)
  ●大舘宗氏が戦死。 片瀬・腰越に後退。
   ※現在:極楽寺坂西海岸近くまで下った稲村ガ崎への角に十一人塚(大舘宗氏の墓)

  ■ 州崎●幕府側:北条守時(=足利尊氏の義兄)が自害。北条守時自害?
  ・南条左衛門高直が戦死。


5月19日~20日 只今作戦会議中
新田義貞は包囲の兵を置いて、藤沢の遊行寺まで軍を撤退。
★おそらく、新田義貞は大館宗氏戦死の悲報を聞いた。
★ 軍議で、「稲村ケ崎を経由の鎌倉進入成功→極楽寺方向から鎌倉府内へ突入することに」
  決定したのではないだろうか。
  また、新田義貞は新田氏義配下の三木一党を極楽寺の北条勢の背後(=大仏の切り通し)
  から奇襲攻撃をするように、計画した。(伝)。


5月21日 第2次鎌倉総攻撃 
●新田義貞は藤沢遊行寺→境川の上つ道→腰越→七里ヶ浜の磯→稲村ヶ崎。
  午前3時・・・人の往来が可能な磯に引き潮が始まった。~~~
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■幕府側は、極楽寺坂への護りを固める為に軍を増強。極楽寺大門に拠って懸命の防戦態勢。
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●新田義貞は、稲村ヶ崎を突破し鎌倉府内に突入(第二次・・最後の決戦)
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  背後を突いた山越えの三木部隊は難攻の極楽寺坂の幕府軍を破り、次いで化粧坂も、
  巨福呂坂も次々と突破~~
  全軍がついに鎌倉府内へなだれ込み、北条得宗家独裁の鎌倉幕府を滅ぼした。
  

※太平記「稲村ヶ崎」伝説
  ※「其夜ノ月ノ入方ニ、前々更ニ干ル事モ無リケル稲村崎 、俄ニ二十余町干上テ」(太平記)
 新田義貞が鎌倉に討ち入る際稲村ヶ崎から海中に剣を投じ潮が引くよう竜神に祈ったところ、
 潮が引き軍を鎌倉に突入させることができた。」という有名な話が書かれている。
  ★小学校6年の修学旅行で「七里ヶ浜の磯伝い 稲村ヶ崎 名将の 剣投ぜし 古戦場。」
   と歌わされた。
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●新田義貞は稲村ヶ崎の波打ち際の岩場まで来ると馬を下りた。そして、兜を脱いで海神に祈りを
  ささげた。
  「仰ぎギ願クバ内海外海ノ龍神八部、臣ガ忠義ヲ鑑ミテ、潮ヲ萬里ノ外ニ退ケ、
   道ヲ三軍ノ陣ニ開カシメ給へ」 (太平記)
  「龍神・八部衆の天・龍・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦桜羅(かるら)
   ・緊那羅(かんなら)・摩喉羅迦(まごらか)様~~八百万の神よ~我に勝利あれ。」
  と持っていた黄金の太刀を海中へ投げ入れた。~~~。
   すると見る間に潮が引いて、磯伝いの侵入路が現われ、新田軍は鎌倉府内へ突入していった。
  ・・・伝説なので、誇張が大きいが・・・。
 ※仮説・・・世界の冷涼化で、海岸線が今よりも20cm後退していた「パリア海退」があった。
                                          (久保田説)
 ※仮説・・・鎌倉に在住したことある者は、現在の7月初旬に引き潮はあることが分かっていた。
       しかし、この年は以上だったと思われる。何度か引き潮体験をしている。
       妻はたこ2匹を捕まえた。刀もパフォーマンスか太平記の虚構かも?  
                                         (峰岸説20100724)
 

5月22日 北条高時自刃→鎌倉幕府滅亡
 ●新田軍の放った火は浜風に煽られて炎上。鎌倉の街を焼失。

 ■北条高時は、1000名の一族郎等を連れて滑川を渡り、東勝寺に入寺。
   そして、東勝寺に放火。 「幕府の滅亡=先祖の功績が消滅」崖下のやぐらで自害。
  一族283人、郎党870余人が殉死。
  家臣達で殉死しなかった者は名越切り通しを越えて逃亡。潜伏して再起を期した(伝)。
 
 ★鎌倉幕府の滅亡・・・鎌倉幕府150年はおわりを告げた。  

★次は「新田義貞 VS 足利尊氏 」である。

この記事へのコメント

ぼ輔
2013年03月08日 15:39
太平記「稲村ヶ崎」伝説について、、、
ブログ「鎌倉街道を探そう!」を書いている ぼ輔です。
下記ブログにて、稲村ガ埼で起きた事を詳細に解説しています。
http://blog.goo.ne.jp/mementosmori/m/201007
常識的に言われている事と事実には大きな違いがあります。

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