箕輪初心●新田義貞②「新田~鎌倉へ進軍」

箕輪初心●新田義貞②「新田~鎌倉へ進軍」
■新田義貞の鎌倉攻撃挙兵理由
 1)鎌倉幕府から重用されなかった不満。
 2)元弘3年(1333)3月・・・護良親王の倒幕の挙兵の令旨をもらったこと
 3)楠木正成の征伐の途中棄権後、鎌倉幕府の命令への反感。
   「臨時の兵糧税の六万貫(六千貫説あり)を5日以内に払え。」という命令。
   北条得宗家被官:池田出雲介親連(上野守護:長崎高資一族?)と
     黒沼彦四郎(淵名郷=群馬伊勢崎)が受け取りへ。
   →新田義貞は「勝手に、我が地の辺りを馬の蹄で懸けさせつること返す返すも
     無念なり。」(太平記)→二人を捕らえ、黒沼を惨殺。・・・鎌倉幕府への反逆。
 4)足利尊氏は鎌倉から出発後の4月に倒幕を決意。
   →新田義貞と足利尊氏は秘密の協定が存在(久保田説)
   鎌倉の足利尊氏の子:千寿王(=後の2代将軍:義詮)を紀五左衛門尉が脱出幇助。
   千寿王の側近の田島○○(岩松経家の一族)が岩松家を通じて新田軍へ。

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★生品神社に5~6回行っている.

【1】新田義貞の挙兵=生品神社(太田市新田)
 ・元弘3年・正慶2年
  5月8日 新田義貞・弟:脇屋義助と生品神社で挙兵。
  「旗ヲ上ゲ、綸旨ヲ披テ 三度是ヲ 拝シ」・・・一味神水の儀式。
   鰐口を鳴らし「神下ろし」をし、誓約の起請文に署名。その起請文を焼いて、
   水に溶かして飲み交わす儀式。
   新田の土地で新田・大館・一井の共同墓地なので、
                結束を高めるには最高の場所。(群馬県史)
 ●生品明神=生品神社の場所の説 
  ※新田義貞が新田郡生品神社で旗揚げした軍旗に仁田山絹を使用(伝)。
    ・・・群馬の絹。
  ①新田生品明神:有力説(太田市市野井)・・・一井
  ②阿佐美生品神社(みどりの市笠懸)
  ③薮塚生品神社(太田市薮塚)
  ④富沢生品神社(太田市富沢)

 ●新田一族の館地図=綿打館
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 ①大館宗氏の館・・・世良田満徳寺東300m  
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 ②堀口氏兼の館・・・旧尾島町堀口
   (現在は利根川の脇で、看板しか分からない。寺が移転という。)
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 ③岩松経家の館・・・旧尾島町岩松青龍院
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 ④江田光義の館・・・旧新田町江田:教科書に載った中世館
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 ○綿打館
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  (系図は新田町史より)
  
【2】新田義貞の鎌倉進撃コース諸説
 ①従来の説:直接鎌倉に向かった説   
   「生品明神ヨリ笠懸野内出タル」(太平記)
    新田義貞は上野国新田庄の社前で後醍醐天皇から拝受の綸旨を三度拝して倒幕
    の旗を挙げた。時は卯の刻(午前6時頃)。兵力150余騎で出陣。
  ※新田一族・・・大館宗氏+子:幸氏 ・堀口氏兼+子:貞満・行義  ・岩松経家 
           ・里見義胤  ・江田光義  ・桃井尚義(足利一族だが新田と姻戚関係)達
    夕方、越後の同属2千余騎、甲斐・信濃の源氏5千余騎の来援で大部隊に拡大。
 ②従来の説+北上→南下説・・・「世良田ニ打出、陣ス。」 
    世良田から出発。「梅松論」
    上野守護代:長崎高貞が阻止しようしたが、止められなかった。(藤田明説)
 
 ③最近の説:生品神社から八幡郷(高崎市八幡町)に行った説(神明記・・・有力説)
  ④:生品神社から山名八幡郷(高崎市山名町・・・山名宗全先祖の地)に行った説
                                        (定方かつお説)

  ⑤ ③説+第2次挙兵説・・5月12日、千寿王+世良田満義の挙兵?
        (峰岸新説・・・久保田氏は否定)
                                          
  ⑥  吉川英治は・・・足利のばんな寺から    (上州武士の中世史より)

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5月8日   
●新田義貞は新田生品神社で挙兵150騎・・・斉藤佑樹投手出身地
 箕輪初心「新田生品神社→新田郡庁前   
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 ★箕輪初心説→東山道・・(伊勢崎は通れない)・・
   理由・・・淵名郷(伊勢崎)は鎌倉幕府要人:得宗家一族長崎高資の領土で威喝に
   動けなかった。→新田義貞は幕府勢力を一掃する必要があった。
   150騎では隙に狙われる心配があった。 (群馬県史:久保田順一氏)  
  →前橋大渡橋付近
  →高崎市旧群馬町金古→箕輪→榛名の里見義胤館

  ●八幡郷(高崎市の豊岡・八幡・安中板鼻・旧榛名町里見郷などの総称)
    ※八幡郷・・・新田一族の里見義胤・豊岡がいた。
    ※山名郷・・・新田一族の山名・寺尾がいた。
    ※越後の里見一族・・・里見・田中・鳥山・大井田・羽川などが合流。
         ・・・2000騎になり、
    ※信濃源氏・・・・井上・小笠原・??・・・(箕輪初心推測)
    ※甲斐源氏・・・・武田・逸見・浅利????(箕輪初心推測)
        ・・・・7000騎になった。・・・
    従って、八幡庄に野営したのであろう。 (群馬県史:峰岸純夫氏)
 (峰岸氏=高崎六郷小出身・中央大学教授・群馬県立博物館館長・都立大学教授)
  
 ⑤里見義胤の館・・・光明寺(高崎市榛名町)
   平安後期の治安元年(1021)頃里見義俊?義時が創建。 豊岡?の館の近く
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 ●越後の新田一族
  
 (★群馬県の新田一族研究のスペシャリストでコースが異なる。)
  →八幡庄(高崎市榛名町)の里見一族
           →群馬の四万・稻包山越えした越後の里見一族(久保田順一氏)
  →八幡庄(高崎市榛名町)の里見一族→群馬の野反→現秋山郷
           →波多岐荘=越後の里見一族(峰岸純夫氏)
  

  ①大井田弾正少弼氏経
   里見義成の次男:大島義継=里見伊賀蔵人義継が越後国波多岐荘大井田郷
     (新潟県十日町市)に土着。
       その子:里見氏継が信濃:市川氏の娘をもらって、大井田氏を名乗った。       
   大井田城・・・十日町市中条字城山  ※戦国時代になってからの分家の城
   大井田館・・・信濃川の西地区
        (里見繁美氏・・・榛名の里見で直系の大東文化大学教授の調べ)
     (※へぎ蕎麦の小嶋屋)

  ②田中義清の子孫
   里見義成の弟:田中義清・・・分家は中条氏・下条氏・小森沢氏。
   廿日城・・・十日町市下条2丁目廿日城
   坪野館・・・・十日町市中条中町
     (※里見氏→田中氏→千利休)

  ③鳥山左京亮
   里見義成の三男:里見時成は鳥山姓を名乗った。
   ・烏山時成は新田荘鳥山(群馬県太田市)
   ・波多岐荘の入馬・今泉・深見・倉俣(新潟県十日町市・津南町・中里町)など。   
    節黒城・・・十日町市新町字新田(旧川西町)(箕輪初心の勝手な解釈)
    二田城・・・・十日町市坂田1291(旧川西町)
    鎌田城・・・・十日町市鎌田字西ヶ崎(旧川西町)
    高内城・・・・十日町市別山字高内(旧川西町)だと思う。  

 ④羽川刑部 
   琵琶懸城=羽川城・・・十日町市城之古字原
    国道117号を北上→国道253と交差する手前の「川冶下町」信号を左折。
    十日町消防署→JR飯山線
       →信濃川手前200m程の城之古集落内の観音堂を祀る森が城跡。
    信濃川河岸段丘10mの落差を利用して築城。
     段丘の真下部分は水田地帯であるが、当時、城の真下は信濃川が?

   大崎城・・・・・・・・・・・・十日町市大崎字抜山
   (久保田順一氏講演会・峰岸純夫氏講演会
      ・新潟県十日町博物館・新潟の城一覧による箕輪初心の勝手な解釈)
   

5月9日 新田義貞:20万人の大将
●新田義貞は里見義胤館(旧榛名町光明寺)で宿泊
●新田義貞は八幡神社で、戦勝祈願。
●→烏川を渡って
⑥高崎市寺尾茶臼山城+寺尾館
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 →鎌倉上道 
⑦山名城&光台寺(高崎山名)※山名八幡宮は山名氏が鎌倉八幡宮より勧奨。
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●新田義貞が鏑川・神流川を渡って武蔵国
  嵐山→菅谷→
 足利尊氏の子:千寿王(=足利義詮)200余騎に守られて義貞軍に合流。
 ※千寿王は四歳で「若御料」と呼ばれていた。
 →新田義貞軍に関東の武士はぞくぞくと新田義貞の軍中に集結。
 日暮れ時には、20万7千余騎の大軍に拡大???。
 ※入間川の将軍沢が野営地?(群馬県史:峰岸純夫氏)

5月10日 新田軍の南下 
▲幕府軍:桜田貞国を総大将として、福大将を長崎高重など・・・正面から6万騎で北上。
      金沢貞将は上総・下総の軍勢を率い、背後から攻撃態勢。

5月11日 小手指ヶ原の合戦(埼玉県所沢市)
  辰の刻(午前8時頃) 新田義貞軍は入間川を越えて小手指原で
        北上してきた幕府軍と遭遇。
  結果・・・新田義貞方は300余騎、幕府方は500余騎の犠牲者。
  →日暮れ。勝負は未決のまま、退却。
  ●新田義貞方は三里後退して入間川(狭山市)に陣
  ▲桜田貞国方は三里後退して久米川(東村山市)に陣

5月12日 久米川の合戦(埼玉県東村山市)
 夜の明けとともに合戦。
 結果・・・義貞軍は勝利。幕府軍は、陣容を建て直すために、分倍河原まで後退。
      義貞軍は合戦で人馬とも疲れていたので、追跡をやめて、久米川に陣。

5月13日  ?

5月14日   
■幕府は北条高時の弟:北条泰家を大将に10万の大軍多摩川の防備線を
死守するために鎌倉を出発。

5月15日 分倍河原の合戦①
●新田義貞軍は 分倍に陣する幕府軍を壊滅させようと攻撃。
▲鎌倉幕府軍は、大軍で抗戦。
●新田義貞軍は入間川南の堀兼(狭山市堀兼)まで後退。義貞は武蔵国分寺を焼いた。
  飽間(あきま)一族(群馬県安中市秋間)の飽間盛貞・飽間家行が戦死。
●晩、新田義貞軍に相模の三浦義勝+松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷などの
相模の国人衆が参陣。
   ※三浦大多和義勝に身内は、足利氏執事:高師直の養子になっている。(群馬県史)
   →相模の国人衆の義貞軍への参加→幕府滅亡の決定的要因になった。

5月16日 分倍河原の合戦②
 未明~~~
●義貞軍(相模勢と江戸・豊島・葛西・河越らの坂東八平氏や武蔵七党を主体)で攻撃。
▲幕府軍は油断。結果・・・新田義貞軍が大勝利。
▲幕府軍大将:北条泰家は関戸付近(多摩市)で、家臣の安保道堪・横溝八郎の奮戦に
      よって、鎌倉へ脱出。
●新田義貞軍は、鎌倉道を南下して鎌倉に向かった。勢力は60万7千騎であった???。

5月17日 いよいよ鎌倉。
 鎌倉は三方を山に一方は海に囲まれた要害の地だ。
    
 ・千葉貞胤が参戦「鎌倉下道」の鶴見(川崎)で戦闘。
    千葉貞胤 VS 金沢貞将     結果・・・新田敗戦。

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