箕輪初心●里見一族シリーズ⑤「後期安房里見」⑯~⑳

箕輪初心●里見一族シリーズ「後期安房里見」⑯~⑳
●庶流の里見実堯・義堯父子による宗家への下克上説。
⑪里見義実→⑫里見成義→⑬里見義通→⑮里見義豊
            └⑭里見実尭→⑯里見義堯→
           ⑰里見義弘→⑱里見義頼→⑲里見義康→⑳里見忠義
●「前期里見氏」・・・・⑪里見義実~⑮里見義豊
  「後期里見氏」・・・⑯里見義堯~⑳里見忠義

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★千葉の城については、後日掲載。
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(館山城博物館資料)

⑯里見義堯(よしたか)
 ・天文2年(1533) 
   7月 里見家の内乱 里見義豊による実尭・正木通綱殺害にはじまる内乱。   
   8月  小弓公方を支えていた扇谷上杉氏が北条氏へ攻撃。
        里見義豊のために北条氏への牽制。
           北条氏が義尭に援軍に対抗。
 ・天文3年(1534) 
   4月6日  犬掛(いぬがけ)合戦
        里見実尭の子:義尭に里見義豊が討ち取られて、義尭の勝利。
          戦いに勝った義尭の力は強くなり、里見氏発展。
          北条氏の力を頼ったため、北条氏の立場で行動。
        里見義尭の里見当主の継承策
         ①石堂寺(丸山町)を建立。・・・義通を先代の国主。義豊はその子とした。    
            =里見義尭は里見義通から家督を継いだことにした?
         ②里見義豊を年少にしたてて、家督を譲らない叔父実尭を殺害したから、
           仇を討った義尭が家督を継ぐことになったということにした。
        
 ・天文6年(1537) 里見義尭は小弓公方の指示で北条氏綱と手を切った。
   ★→里見氏は北条氏と40年におよぶ戦いを繰り広げることなった。
 ・天文7年(1538) 国府台の合戦・・・北条氏綱 VS 小弓公方   
           →敗れた小弓公方:足利義明は戦死→滅亡。
           →里見義尭は安房に逃亡。・・・・各地で北条と交戦。
          足利晴氏+北条氏  
   ★以後、北条氏からの強い干渉を受けていくことになった。
          →北条氏綱は娘を公方晴氏の夫人にし、
             義氏が生まれると、兄を公方にした。
   ※外戚の立場の北条氏の干渉で古河公方は二つの勢力に分裂。
          北条氏は上総に進攻。武田氏は再び内乱状態。
 ・天文年間の末 上総武田氏の滅亡。
          里見義尭は武田氏の内乱に乗じて、久留里城や佐貫城などをゲット。
          →里見義尭は佐貫城(富津市)へと拠点を移動。
          北条氏も下総から上総へと進出開始。
          江戸湾をめぐる里見氏と北条氏の戦いが本格化。

 ・永禄3年(1560)
   5月 北条氏康は里見義尭が拠点にする久留里城を攻撃。
       里見義尭の北条氏から危機回避策
        ・・・大多喜の正木時茂を通して、
           長尾景虎(=上杉謙信)の関東出陣を要請。(正木家文書)
         →房州と越後の同盟。
     ★上杉謙信の行動が千葉・房総まで影響。
     ※上杉謙信は関東の出陣14回(冬の関東での越年回数は8回)
     ※上杉謙信と北条氏康が関東管領として公方をかつぎ、関東で対立。

⑰里見義弘
 ・永禄6年(1563)
     上杉謙信は北条氏康・武田信玄に対抗し、上野国に出陣。
     里見義弘は謙信からの出陣要請を請けて、下総国国府台に出陣。
 ・永禄7年(1564) 
    国府台(市川市)合戦・・・里見氏  VS  北条氏
     →合戦に勝った北条氏の凄い勢いの前に、西上総は北条氏の支配下。
    ※江戸時代・・・国府台合戦で討死した里見方の武士の供養塔(市川市里見公園)
     →敗戦で、東上総の勝浦の正木時忠が里見氏から離れ、北条方傘下。
     北条軍は隣の大多喜正木氏を包囲。
     北条氏は里見氏の安房攻撃を開始。
     →水軍を指揮する北条氏繁が館山湾を攻撃。
     二百せき以上の船で上陸。
       →那古寺・延命寺など館山平野の十里四方を放火。(伝)
 ・永禄8年(1565)  
     里見義弘は孔雀明王経を那古寺へ寄進。
     里見義弘は古河を追われた足利家国を保護。
 ・永禄10年(1567) 
     ●三船山合戦・・・里見氏が勝利、西上総を奪取。  
     里見義尭・義弘父子は、上杉謙信と手を結ぶことで、北条氏康に対抗。
     安房の里見・岩付の太田氏・常陸の佐竹氏・下野の小山氏・上杉の家臣
                VS
              北条氏
 ・永禄12年(1569) 
     甲斐の武田信玄が今川氏真・北条氏康との三国軍事同盟をやめて関東へ進出。
     北条氏康は敵であった上杉謙信との仲直りを選択。
     北条氏康6男が上杉謙信の養子(→後の御館の乱に発展)
     里見氏は講和に反対したが、成立。
     里見氏は武田信玄と協力。房甲同盟が締結。
     →友好関係を続けてきた謙信との協力を中断。上杉家と協力関係が復活。
 ・天正2年(1574) 足利藤氏兄弟が北条氏に抵抗
     足利晴氏は北条氏に抵抗。
      →足利晴氏が亡くなった後も晴氏の子:藤氏を中心に抗争。
     里見義尭・義弘父子は藤氏兄弟たちを保護。
     里見義尭が68才で死亡。
     
 ★この時期には北条氏康、武田信玄、上杉謙信なども死亡。
 ・天正4年(1576) 北条氏が安房に侵攻。
 ・天正5年(1577) 里見義弘が北条氏政と和睦。・・・房総和睦。
           義頼は安房の岡本城に在城。
            →安房での流通拠点館山城(・館山市)を築城。
           館山城近くの「高の島湊」・・・西風を防げる規模の大きな港。
 ・天正6年(1578) 里見義弘が死亡。
            →お家騒動や国人の離反などによりやや衰退。  


⑱里見義頼
 ・天正5年(1577) 
    里見義弘が北条氏政と和睦。
    ・・・房総和睦。北条氏政の娘が里見頼義の室に。
 ・天正6年(1578) 父:里見義弘が死亡。
    →お家騒動や国人の離反などによりやや衰退。
    里見頼義の室(北条氏政の娘)が死亡。=両家の縁が切れた。
    里見頼義が上杉謙信に接近。
    →北条氏が上総に大侵攻。頼義家臣の寝返り増加。    
    里見氏の当主になった里見義頼は豊臣秀吉に接近。
    →安房・上総全域と下総南部の安堵を得る事に成功。
 ・天正12年(1584) →館山城移転。
 ・天正13年(1585) 豊臣秀吉は惣無事令=武力での戦いの禁止令発布。
             里見義頼は惣無事令に服従。
             里見義頼は豊臣秀吉に黄金三十両などを献上。
             豊臣秀吉の全国政権の支配下。
 ・天正15年(1587) 里見義頼が岡本城で没。
             →曹洞宗里見義頼の墓(富浦町光厳寺)。

⑲里見義康
 ・天正15年(1587) 里見義頼が岡本城で没。
    里見氏の領地は、安房一国と上総の南半分。
  ①浅野長政や前田利家などの5大老グループ
  ②石田三成や増田長盛などの5奉行グループ。
    里見義康は増田長盛のグループであった。

 ・天正18年(1590)  豊臣秀吉の小田原攻め。
   豊臣秀吉の宣戦布告は里見義康のもとへも通知。
   3月29日 
     小田原を攻撃。・・・信濃からの前田利家・上杉景勝の部隊も北関東の城を攻略。
     房総:野田・松戸・佐倉→下総・上総などの北条方の城を攻略。
     里見義康も船橋や三浦に出陣。・・・
     里見義康の失敗①・・・小田原攻撃に遅延。
   5月 
     浅野長政らの軍勢は上総:佐原から常陸:鹿島にまで侵攻。
     上総の里見氏の領分にまで侵攻。
    里見義康の失敗②・・・里見氏の領地を越えた下総・北上総・三浦での戦いで、
      豊臣秀吉が出すべき禁制を義康が出した。
      戦いが豊臣秀吉の命令ではなく、義康が勝手にだしたとみなされた。
     ※里見義弘は浅野長政によって惣無事令違反の口実をつくらされた。
   7月5日 北条氏は、滅亡。
     里見義頼の跡を継いだ里見義弘は上総・下総を没収。
     ①小田原攻撃の遅参、②惣無事令違反。
     徳川家康の関東入封。徳川家康は江戸城に入城。
     里見氏の佐貫城、久留里城、大多喜城などに家康の部下が入封。
     里見氏の領地の没収は、増田長盛のとりなしで、これだけですんだ。
     徳川家康とりなし→里見義康は徳川家康の傘下?仲良し?  
   9月   里見義康の妻子などを人質として、上洛。
 ・天正19年(1591)
   3月  里見義康は朝廷から従四位下「安房守」「安房侍従」に昇格。
        豊臣秀吉からは羽柴の姓を授与。
 ・文禄元年(1591) 
       豊臣秀吉は朝鮮出兵・・・3月過ぎに出陣するよう全国の大名に下知。
       里見義康は2月頃に出発
   3月17日 
       里見義康は徳川家康や伊達政宗などとに肥前国:名護屋(佐賀県鎮西町)へ。
       里見義康は岡本城(富浦町)から館山城(館山市)へと居城を移転。
   4月  館山城が天然の要害・・・標高74m。
       義康御殿は城山の南斜面(建物の跡も発掘)

 ・文禄2年(1592)  朝鮮国と停戦。
   8月  里見義康は豊臣秀吉が大阪へ帰るまで、名護屋城に在。
   10月 里見義康は安房へ帰郷。
 ・文禄3年(1593)  
里見義康は豊臣秀吉のお供で京都の前田利家の屋敷に出向。
             伏見に里見屋敷を築。
 ・慶長2年(1597) 2度目の朝鮮出陣。里見義康も京都に滞在中。
   9月~  安房国での太閤検地・・・増田長盛が奉行。
         ・・・安房国は約9万1100石。
 ・慶長3年(1598) 豊臣秀吉が死亡。
           徳川家康ら五大老  VS  石田三成ら五奉行
 ・慶長5年(1600) 
    7月 徳川家康は上杉景勝を倒すために小山(栃木県小山市)まで出陣。
        里見義康は徳川秀忠の本隊に合流のため、下総小金(松戸市)に出陣。
        上杉景勝配下:直江兼継が白河(福島県白河市)で合戦準備。
        石田三成は家康方の伏見城を攻撃。・・・徳川家康の小山評定。
    9月 徳川家康は東海道を上方へ進攻。
        徳川秀忠は東山道をコース。・・・第2次上田合戦に敗北で遅刻。
        里見義康は上杉氏との戦いを命令され、宇都宮に在陣。
    9月15日 
     「関が原合戦」     徳川家康   VS   石田三成        
                                 →石田方が敗戦。
     「長谷堂城の戦い」  上杉景勝配下:直江兼継  VS  最上義清  
                   →直江敗戦。
    10月1日 上杉景勝勢は戦さをやめて軍を後退。
 ・慶長6年(1601)
    8月  常陸国鹿島で3万石の恩賞。
           →12万石の里見義康が関東最大の外様大名へ。   
         館山城の拡大工事。
          ・・・館山城下への居住者が増加。
            館山の城下町は、上町・仲町・下町という町割り。
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 ●里見義康の弟:忠重も上野国里見郷隣接の板鼻(群馬県安中市)1万石。
   (※写真が見つからない。)
 ・慶長8年(1603)  徳川家康が将軍。 里見義康が死亡(31歳)。


⑳里見忠義
 ・慶長8年(1603) 
   里見義康が死亡。10歳の梅鶴丸(=忠義)が後継。
   板鼻藩の里見忠重が後見人。里見家で大きな権威を持った。
   里見一族&重臣が中心になって、幼い梅鶴丸を補佐。
 ・慶長11年(1606)  梅鶴丸13歳は江戸城で将軍秀忠の御前で元服   
 ・慶長16年(1611)  里見忠義は小田原城主・大久保忠隣の孫娘を妻。
    徳川家の一族や幕府重臣と婚姻・・人脈拡大。            
 ・慶長18年(1613) 里見義高が突然の改易・・・里見を関東から追い出す謀。
 ・慶長19年(1614)
   9月9日 里見忠義に土井利勝ら老中から
     「安房は幕府のものとし、かわりに常陸行方郡で9万石を渡す。」
     妻の実家:大久保家の失態に関係した処置で、
     「里見氏が館山城に籠城すれば、抹殺」の沙汰。
     館山城の受け取りは上総佐貫城主:内藤政長と大多喜城主:本多忠朝。
     里見忠義は江戸で謹慎。
   9月18日 
     館山城明け渡し。 
     館山城の破城・・・建物の壊し堀の埋めたて。
     里見忠義の妻子や家臣が鹿島に到着。
     幕府の使者「9万石は没収。
     →鹿島3万石のかわりの行き先は伯耆国(鳥取県)。」であった。
  ★里見氏改易の理由
    ①大久保忠隣への協力があったこと。
    ②館山城を補修し、道をつくり堀を掘るなどして城を厳重にしたこと。
    ③家臣を多く抱えすぎていること→反逆の嫌疑。
      里見忠義の一族と家臣
      里見家の直臣・・・家老などの上級家臣は26人、
                  奉行などの役人や指揮する武士など数百名
   ★本当の理由は
     ①関東在住の外様大名:里見を関東から排除すること
     ②江戸湾の権益・交通の支配を目論んだ江戸幕府の改易政策。である。
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・・・こうして170年の里見氏の安房支配が終わった。・・・・・
  里見忠義は、駿府で正木時茂と合流。伯耆国:倉吉へ移封。
  倉吉の打吹城と屋敷・・・倉吉の神坂町と堀村(鳥取県関金町)の2ヶ所。
    3万石でなく、実質4000石。100人扶持の糧米で配流扱い。
 ・元和3年(1617) 
   姫路から鳥取藩主として移封してきた池田光政が、因幡・伯耆の2ヶ国を支配。
   →田中村へ屋敷を移転させ、4000石没収。→池田家の監視下へ。
 ・元和8年(1622) 
   6月 里見忠義が病死(29歳)。
       「里見家に相続者なしにより、お家断絶。」
       里見忠義の墓・・・倉吉の曹洞宗の大岳院に埋葬。
   ★正妻の大久保家出身の夫人の2人の娘は、旗本の妻?(伝)。
   ★側室には3人の男子がいた(伝)。
     ①跡継ぎがいないという幕府の口実説 
     ②里見一族あるいは家臣の子を偽って「忠義の子」とした説

・・・こうして里見氏20代が滅亡した。・・・・・       
    
★参考文献・・・里見一族(里見義弘著)・北条一族・千葉県の歴史・
          里見一族(館山城博物館)・峰岸純夫先生講演会など。

この記事へのコメント

HAYA
2011年02月22日 10:19
( ┰_┰) 悲哀

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