箕輪初心●里見一族シリーズ④「安房里見前期5代⑪~⑮」

箕輪初心●里見一族シリーズ「前期安房里見一族5代」
1)前期里見・後期里見説
 ●前期里見氏 ⑪安房:里見義実→⑫里見成義→⑬里見義通→⑮里見義豊
   ※前期里見氏の菩提寺・・・お寺は白浜町の杖珠院 
★前期里見氏の歴史史料はほとんどない。
 ●後期里見氏 ⑮里見実尭→⑯里見義堯→⑰里見義弘→ 
                 ⑱里見義頼→⑲里見義康→⑳里見義忠(忠義)
   ※後期里見氏の菩提寺・・・三芳村の延命寺
2)初代義実・2代成義を架空の人物説。
3)里見義尭の系譜捏造説
   「天文の内証」で嫡流家を倒して宗家の地位を奪った2男系による系譜捏造説。
4)榛名:里見義成説
  ⑪里見義実→⑫里見成義→⑬里見義通→⑮里見義豊
                   └⑭里見実尭→⑯里見義堯→⑰里見義弘
                       →⑱里見義頼→⑲里見義康→⑳里見忠義



⑪里見義実(安房の里見の祖)
  系図上では里見家基の子・・・★里見義実が何者か不明。
  ①結城の合戦後、里見義実が常陸太田城の佐竹に逃亡→安房に?
  ②関東の里見氏は家基の死で断絶。
    美濃里見一族から安房里見家の義実継承説。
    鎌倉公方に復活した足利成氏や足利持氏の他の子ども達は美濃から鎌倉へ。
    美濃から関東の里見氏を復活させるためにやってきたのが義実ではないか?
  ③家基の子息・・・詳細は不明。安西氏を追放して領主となり、安房里見氏の祖になった(伝)。
    ・・・しかし、安房里見氏の出自は不明な点も残っている。
 ・嘉吉の乱で・・・常陸太田城の攻撃がうらむやになった。
    →三浦氏の居城:新井城(神奈川県三浦市油壺マリンパーク)に避難?
    →里見義実は、安房から上杉氏の配下の勢力を排除する役割が与えられた。
  ※白浜野島崎(白浜町)・・・東京湾の入口で海上交通の要衝。
   里見氏の伝説・・・白浜城を拠点にしたことから始まった。
    理由・・・上杉派の神余氏(かなまり)や木曽氏の白浜に拠点があったからである。
   木曽氏が里見氏の家臣になり、里見義実は短期間に安房国を統一。

 ・宝徳元年(1449)・・・結城合戦から8年後に、足利成氏が鎌倉公方に就任。
   信濃の大井氏にかくまわれていた成氏が幕府の許可を得て鎌倉公方に復活。
   関東管領には父を殺した上杉憲実の子憲忠。
   公方の家臣・・・足利持氏時代の家臣・小山氏・千葉氏
            ・北関東の:里見左馬助義実。
   ★里見義実は成氏が鎌倉に復帰した頃にはすでに安房が拠点。
     安房の南端部に居住。・・・・足利成氏に連携。
 ・宝徳2年(1450)・・・足利成氏が父を殺した上杉氏との抗争。
     関東管領の山内上杉憲忠の家臣たちが、鎌倉公方・足利成氏の館を襲撃。
       足利成氏撃は房総への避難を考えて側近とともに江の島に逃れた。
       →これにより両派の対立はますます深くなった。
 ・享徳3年(1454) 足利成氏は、里見義実・武田信長・結城成朝などと、
    鎌倉にいた関東管領の上杉憲忠を襲撃し殺害。
   関東・・・足利氏  VS   上杉氏   2者の争いが勃発。
   足利成氏は下総国古河(茨城県古河市)に入り、古河公方と名乗った。
   関東は越後・相模・伊豆など関東の西半分が上杉氏の勢力範囲。
       常陸・下総などがが反上杉勢力。
   足利氏は房総をまとめ役として、里見義実は稲村城(千葉県館山市)を拠点に
       安房国の足利勢力を集めた。
  ▲稲村城・・・戦国時代、前期里見氏の時代の本拠地として使われた城。
           城山は、狭い山頂を広げて、土塁・堀切など工夫。
           稲村城が館山平野をおさえ、安房国全体を統治。
   里見義実が安房の統一。
         ・・・稲村城は安房の国府に近い。安西氏や丸氏が配下。
   安房:里見義実と上総の武田信長は連けいして房総から上杉派の力を排除。
   武田信長の娘と里見義実が結婚して親戚。
  ※従来の説「安房里見氏初代義実・2代成義が嫡流説」 
  ※近年の説「嫡を架空の人物とする説
        ・・・嫡流家を倒して宗家の地位を奪った新田が孫による系譜を捏造。
 ・文明10年(1478) 足利氏と上杉氏は約20年ぶりに和解。
   ★上杉氏内部の抗争が勃発。
   ★北条早雲が北上。→関東は戦国乱世へと移行。


⑫里見成義
  ※1471年から1508年までの30年の里見氏の歴史は現在不明?
  ・文明18年(1549) 稲村城築城

⑬里見義通
 ・永正2年(1505) 上杉一族内部の抗争は十数年に及ぶ動乱と終結。
           伊豆の北条早雲が伊豆国を支配。韮山城+江原一族など。
             →小田原城(神奈川県小田原市)を取り、相模へ進出。
           北条早雲が古河公方政氏の子:高基と連携。
 ・永正3年(1506) 公方家内部が分裂→権力闘争へと発展。
            高基の弟:義明も房総で独立。
           小弓公方(おゆみくぼう)足利義明
             ・・・下総の臼井氏・常陸の小田氏・安房の里見義通支援。
           足利義明が房総に拠点を築くと、里見義通は里見家当主として出陣。
画像

 ・永正5年(1508) 里見義通は足利成氏の子:政氏の配下の明確な切ろう            
    『里見義通は安房国北条郷(千葉県館山市)の鶴谷八幡宮を修復。』
    9月25日、安房国一宮:鶴谷八幡宮に納棟札に
     「鎮守符将軍源朝臣政氏(古河公方足利政氏)」
               「副帥源義通(里見義通)」の名が記録。
     ・・・安房里見氏13代目:里見義通の実在性と安房支配の確立。
    神社は安房国総社で、もとは国府があった府中(三芳村)の国府八幡宮。
    安房里見家当主は、3代目:里見義通である。
      →鎌倉の鶴岡八幡宮を意識して海に面している北条郷に移築。
  ●里見義通・・・・・・・・安房の国主といわれ、安房国の統治者へと成長。
  ●里見義通の弟実尭(さねたか)・・・安房国内房の北部を支配。
  ●里見義通の弟:義秀(ぎしゅう)・・・鶴谷八幡宮を管理する那古寺(館山市)
       21世住職のは里見義通の弟。
       ※正木氏は安房国主:里見義通につぐ№2。
       =正木氏は里見家臣ではなく、里見氏とは同格の戦国武将であった。
 ・永正9年(1512)  義通は房州の軍を指揮。国主として那古寺の仕事。
  ●里見家は、義通で一本化していなかったようだ。
  ●里見義通・・・・足利政氏を支持。
  ●里見義豊・・・・足利高基を支持。
             里見義通の子:義豊が、里見家の当主としての行為。
  ※里見義実は公方:成氏、里見義通も公方:政氏を主君としていた。
   房総に小弓公方の権威が及ぶと、義通は小弓公方義明を支持。古河公方高基には敵対。
   高基は、晩年になると自分の子:晴氏とも対立。
            
 ・永正11年(1514) 北条早雲が三浦半島の三浦氏を滅ぼして、相模国を平定。
                武蔵への進出開始。。
             北条氏は古河公方・足利高基を支援。小弓公方からも援軍の要請。
 ・永正15年(1518) 里見義通が38歳で死亡。

⑭里見実尭
  里見義通の弟実尭(さねたか)・・・安房国内房の北部を支配。
 ・永正15年(1518) 里見義通が38歳で死亡。→弟:里見実尭が継承。
 ・大永4年(1524)  北条早雲の後継者氏綱が扇谷上杉氏が江戸城を攻略。
             →北条氏の支配。房総の勢力と利害がバッティング。
  ※北条氏(古河公方・北条氏の連合)  VS  上杉氏(小弓公方・上杉氏・房総勢力の連合)
 ・大永6年(1526)  足利政氏の子:高基の弟:足利義明(生実公方)
             5月 武田・里見の両軍が江戸城下の港町:品川に攻撃。
             12月里見義豊が鎌倉を攻撃。鶴岡八幡宮に乱入。
              →里見氏は、江戸湾をめぐる北条氏との長い戦いが開始。
   ●稲村城の義豊が叔父実尭と相談して、岡本城からの水軍の出撃準備。
      足利政氏の子:高基は、父:政氏との抗争を三回。
    →古河公方・北条氏の連合と小弓公方・上杉氏の連合との対立へと複雑化。
   
   
 ・享禄4年(1531)  高基  VS  自分の子:晴氏。  
              晴氏に公方の地位を奪われた。
 ・天文2年(1533) 7月 里見家の内乱・
    ・里見義豊30歳が叔父:里見実尭50歳を稲村城を遅い、自害。
    ※内乱の原因・・・里見義通の遺言
     「弟の実尭が後見人で義豊が20歳になったら、家督を譲る。」約束。
     20才になっても、実尭が譲らなかったため
       義豊が実尭を殺して家督を奪った。」と以前は説明されていた。

⑮里見義豊
 ・永正9年(1512)  里見義豊自身が高野山へ宛てて証文を提出?
             里見義豊の年令違っているらしい?。
 ・永正11年(1514) 里見義豊が生まれたとされる?
 ・永正年間・・・・・・・里見義豊は「玉隠和尚」に授受。
             ※玉隠和尚は、鎌倉の臨済宗:明月院や建長寺:住職。
 ・大永年間末~享禄年間 里見義通は稲村城を出て白浜城へ移った?
             里見義豊が正式に家を継いだのは、義通の隠居説と考えられている。
 ・大永6年(1526)   小弓公方の命令で、三浦郡・鎌倉に侵攻・玉縄城下で北条方と戦った。
 ・大永7年(1527) 12月  里見義豊が当主としての文書を出す。
 ・享禄2年(1529)   古河公方の代官:里見義豊が当主として鶴谷八幡宮を修理。
             里見義豊にとって、里見実尭と正木通綱は恐い存在であった?
             内乱の原因は・・・「里見義豊の里見実尭と正木通綱の警戒説」もある。
 ・天文2年(1533) 7月 里見家の内乱
                里見義豊は正木通綱を稲村城に呼び付け、殺害。
                里見義豊が叔父:実尭を殺害。
                里見義尭とともに父正木通綱を殺された正木時茂は、即座に反撃。
            8月 妙本寺(千葉県鋸南町)の戦い 
                北条氏の支援をうけた実尭の子:義尭の軍 VS  里見義豊
                →義尭方が勝利。里見義豊は滝田城(三芳村)に籠城。
            9月 滝田城も危うくなってしまい、義豊は上総へ逃亡。滝田城は落城。
           10月 里見義尭の安房国を支配。
 ・天文3年(1534) 4月     里見義尭が態勢をととのえて上総から安房へ攻撃。
            4月6日  犬掛(いぬがけ)合戦
              義豊と義尭の直接対決・・・激戦。
              里見実尭の子:義尭に里見義豊が討ち取られた。
              →里見義尭の勝利。(没年が1534年4月)
              前期里見氏家臣:一色・木曽などの武士たちは義豊と滅亡?

★箕輪初心「2月19日・20日=白馬コルチナ&志賀のスキー旅行だった。

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