箕輪初心●里見一族シリーズ③「4代義秀~10代家基」

箕輪初心●里見一族シリーズ③「4代義秀~10代家基」
③3代
 ○長男:里見氏義・・・里見郷に居住→宮田不動尊(渋川市:旧赤城村)を建立。
 ○次男:里見義秀・・・新田の庄:高林郷に居住? 別名:竹林二郎・・・刑部少輔。
 ○3男:里見重基・・・新田の庄:高林郷隣の牛沢郷に在住。
              →子孫は越後中沢郷(長岡市中沢・新潟市中沢)
 ○4男:里見義宗・・・



④4代:里見義秀1211~1283・・「新田義貞の母方祖父説?」
 ・ (1211)里見義基と母:藤原師衡の娘→里見郷で生まれた。
       里見郷に居住
       京都大番役→赤城村宮田在移住。(勢力拡大?)
 ●里見義秀の娘・・・・新田朝氏の妻(新田義貞の母)?
 ●里見氏義(③里見義基長男:④里見義秀兄)
  ・建長3年(1251)   宮田不動尊(渋川市:旧赤城村)を建立。
画像

    京都の定朝流の院派・・・京都の院隆・院快の仏師によって建造。
   ※里見氏義→里見重氏→里見時義(新田義貞に従い、越前金ヶ崎で割腹)
            ・・・子孫:里見繁美大東文化大学教授
  ○長男:里見義忠・・・新田の庄:高林郷・里見郷を継ぐ?
  ○次男:竹林基秀・・・★新田次郎の小説「新田義貞」では、
                新田義貞の傳役(=教育係)である。
  ○3男:竹林時秀・・・・
  ○4男:竹林義綱・・・・

⑤5代:里見義忠(忠義)「新田竹林郷に在住」1253~1316
  ・正和5年(1316) 里見義忠は63歳で死亡。
 
★里見義貞の誕生説
(★後日、新田義貞ブログで掲載予定)
  
1)新田館説・・・現世良田の総持寺  ※1~3代が在住
  2)台源氏館説・・・現新田円福寺東  ※4~7代が在住
  3)安養寺説・・・・現新田明王院    ※方形の館発見
  4)榛名:里見館・・・現榛名:光明寺  ※里見小五郎義貞里見郷出生説
  ・・・里見義忠の3人の男子の内、3男小五郎・・・新田義貞の出生伝説。
   「里見義忠の3男:新田義貞の養子説・・・新田朝氏に男子がいなかったので、
   養子になったという説。従って、新田義貞は里見郷で生まれたという伝説がある。」 
   ●光明寺(高崎市榛名町)
   幼名は小五郎なので、小五郎砦もある。旧榛名町上大島には安養寺がある。
                             (里見系譜・新田正伝記)  
(総持寺の新田館 台源氏館  安養寺館=現明王院  旧榛名町里見館=現光明寺) 
  ○長男:里見義胤
  ○次男:里見時義
  ○?

⑥6代:里見義胤(里見・高林に在住)
    ■新田義貞の鎌倉攻撃に参加
  ・元弘3年・正慶2年(1333)
   5月8日 新田義貞・弟:脇屋義助と生品神社で挙兵。
   「旗ヲ上ゲ、綸旨ヲ披テ 三度是ヲ 拝シ」・・・一味神水の儀式。
   鰐口を鳴らし「神下ろし」をし、誓約の起請文に署名。その起請文を焼いて、
      水に溶かして飲み交わす儀式。
   新田の土地で新田・大館・一井の共同墓地なので、結束を高めるには
                                   最高の場所。(群馬県史)


   ●①従来の説:直接鎌倉に向かった説   
      「生品明神ヨリ笠懸野内出タル」(太平記)
      新田義貞は上野国新田庄の社前で後醍醐天皇から拝受の綸旨を三度拝
      して倒幕の旗を挙げた。時は卯の刻(午前6時頃)。兵力150余騎で出陣。
     ※新田一族・・・大館宗氏+子:幸氏 ・堀口氏兼+子:貞満・行義  ・岩松経家 
     ・里見義胤  ・江田光義  ・桃井尚義(足利一族だが新田と姻戚関係)達
     夕方には越後の同属2千余騎、甲斐・信濃の源氏5千余騎の来援があって大部隊となった。
   ●②従来の説+北上→南下説・・・「世良田ニ打出、陣ス。」 
       世良田から出発。「梅松論」
      上野守護代:長崎高貞が阻止しようしたが、止められなかった。(藤田明説)
   ●③最近の説:生品神社から八幡郷(高崎市八幡町)に行った説(神明記・・・有力説)
        八幡郷(高崎市の豊岡・八幡・安中板鼻・旧榛名町里見郷などの総称)
      ※八幡郷・・・新田一族の豊岡・里見がいた。
      ※山名郷・・・新田一族の山名・寺尾がいた。
      ※越後の里見一族・・・里見・田中・鳥山・大井田・羽川などが合流。
       ・・・2000騎になり、
      ※信濃源氏・・・・井上・小笠原・??・・・(不明)
      ※甲斐源氏・・・・武田・逸見・浅利????(不明)・・・・7000騎になった。・・・
      従って、八幡庄に野営したのであろう。   (群馬県史:峰岸純夫氏)
      (峰岸純夫説・・・高崎六郷小出身・・・央大学教授・
                          ・群馬県立博物館館長・・都立大学教授)
      根拠・・・淵名郷(伊勢崎)は、鎌倉幕府の要人:得宗家一族長崎高資の領土であり、
      威喝に動けなかった。
      →新田義貞は幕府勢力を一掃する必要があった。
        150騎では隙に狙われる心配があった。(群馬県史:久保田順一氏)  
   ●④:生品神社から山名八幡郷(高崎市山名町・・・山名宗全先祖の地)
                                  に行った説(定方かつお説)
   ●⑤ ③説+第2次挙兵説・・5月12日、千寿王+世良田満義の挙兵?
                     (峰岸新説・・・久保田氏は否定)
   ●⑥吉川英治節は・・・足利のばんな寺

■新田義貞の鎌倉攻撃①
  鎌倉は、南は海、尾根が三方(西・北・東)に囲まれている。
                       7つの切り通しを突破する必要がある。
 ●新田義貞は藤沢の遊行寺付近で、軍勢を三方に分ける計画。
 ①上道→北の巨福呂坂・・★上将軍:堀口貞満 ●副将軍:大嶋讃岐守守之とした軍勢を進軍。
 ②上道→北西の化粧坂・・★上将軍:新田義貞 ●副将軍:弟:脇屋義助とした軍勢で進軍。
 ③下道→西の極楽寺坂・・★上将軍:大館宗氏 ●副将軍:江田行義・里見義胤とした軍勢で進軍。
 
   (稲村ヶ崎)              (極楽寺)                 (極楽寺坂)
 ・5月18日 第1次鎌倉総攻撃:稲村ヶ崎を突破し鎌倉府内に突入、大館宗氏戦死。
 ●里見義胤が極楽坂を突破。・・・倒幕の功労者。
 ■新田義貞の鎌倉攻撃②
 ●稲村ヶ崎・・・里見義胤が大将で先陣?切り込み隊長?
 ●戦功で陸奥山本郷(福島県白河近くの棚倉町山本)を領有。
    →新田高林郷・里見郷・山本郷の3ヶ所。

⑦7代:里見義連(里見→陸奥山本に在住)
 ●白河郷の結城宗広と連携し、家臣のような関係になった。
      足利尊氏の要請で北朝側になった。
  ・1338 結城宗広が伊勢で戦死→結城親朝は足利尊氏の要請で北朝になった。
      里見氏も支配下。

⑧8代:里見基義(陸奥山本に在住)
 ●弟:山本胤幸
 ●弟:仁田山氏連(群馬県桐生市)・・・184年在城後、榛名里見の先祖。
 ※仁田山氏連・・・仁田山里見氏184年の祖
  184年在城後、※榛名里見の祖~~~。
 ●長男:里見家兼・・・小原郷(茨城県笠間市)が追加。
 ●次男:里見基宗・・・手綱郷(茨城県高萩市)が追加。
               ・・・上杉禅宗の乱で討ち死に。
 ●3男:里見満俊・・・・小原満俊を名乗り、小原郷を支配。
  
⑨9代:里見家兼(常陸笠間に在住)
   北朝になった里見氏は結城氏の支配下になったが、
      戦功で、南朝側の小田氏や宍戸氏の領土を入手。

⑩10代:里見家基
  ●小原郷の管理45年(1396~1441)・・・・佐竹氏と連携。
 ■結城の合戦・・・足利持氏の子ども2人が下総国結城(茨城県結城市):
         結城氏朝 VS  幕府・上杉氏
  結城方・・・下野の宇都宮氏・常陸の佐竹氏・小田一族の筑波氏、上野の岩松氏などが参加  
         里見修理亮家基も鎌倉公方側近の奉公衆であったが、里見家基(いえもと)
  上杉方・・・安房・上総越後などの軍・下総の千葉氏・幕府軍。
  関東全体を巻き込んだ8ヶ月に及ぶ戦いは、結城城の落城で足利方が敗戦。
  足利持氏の遺児:春王丸・安王丸方についた里見修理亮家基の討ち死に。
  →結城氏朝と里見家基が戦死。
   ・・・長男:里見義実は常陸太田城の佐竹に逃亡?
  ○家基は永享の乱で鎌倉で討死した刑部少輔説
  ○結城合戦で討死した修理亮説。・・・2説あり。

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