箕輪初心●滋賀「安土城&摠見寺&博物館」

箕輪初心●滋賀「安土城&摠見寺」
平成21年(2009)5月5日
★織田信長の城・・・歴史的に非常に価値のある城である。
天守閣のある城である。礎石がある。石垣がある。
瓦葺きである。寺院建築をモデルにした城である。
これ以降、天守閣が造られた
天守閣の瓦には金箔が塗られていた。

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■訪問記 2009年(平成21年)5月5日
○滋賀県の中山道の宿場町を巡ってから、安土城に向かった。
○駐車場で500円払った。
○入り口に近くに案内板がある。
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○郭跡らしき石垣がある。発掘調査中のようだ。
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○入城口での料金は①安土城のみ500円 ②安土城+聰見寺1000円
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○②の1000円コースを選択
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○発掘調査中の石垣を見ながら、階段を行くと、
○すぐに伝前田利家屋敷と羽柴秀吉屋敷に出る。
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 ★これが百済寺城から運んできた石なんだなと思いながら、石垣を見た。
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○墓石=宝きょう印塔の石も使ってあった。
○摠見寺・・・余分に500円払った。
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 ★価値があるのか疑問に思いながら、入っていった。
 信長の絵と仏像。・・・写真を掲示したいが、無理だろうな?

それに昔の絵などがあった。
 趣のある茶室に通され、抹茶を飲んだ。
 抹茶を持って来たお姉さんのサービスも良かった? 
 地元の方にこの寺の見所を聞いた。
 「信長の絵や茶室。この山は聰見寺の所有なので、復元用にお金を取っている。
  さっきいたのが住織です。」
 ついでに安土で行っておきたいところなども教わった。
 また、聰見寺は昨年10月より、土日だけ開いているとのことだった。
 信長の絵・仏像の写真を撮ったが、掲載不能?。
○石の階段
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 ★行きに抹茶をいただいたのが失敗だあ。帰りにすれば良かったと
 思いながら、登った。
○信長は石仏を階段に所々使っていた。
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 ★群馬の箕輪城も宝きょう印塔の一番下を排水溝に使っているので
  戦国武将は不思議だなと思った。
  信長は延暦寺や石山本願寺などの寺を焼き討ちした割には、高野山に
  5m程の大きな宝きょう印塔がある。信長も人の子か?
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○三重の塔と本丸との分岐を越えた。
○明智光秀屋敷や森蘭丸屋敷があった。
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○そして、黒門(鉄の門)になる。
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○黒門を越えると、仏足石があった。
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 なんと、ハイヒールの女性が来ていた。
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○二の丸から織田家の供養塔に行った。
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○本丸の門になった。
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○本丸へ
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○天守閣へ・・・日本で最初の天守閣は1572年  礎石跡がすごい
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○天守閣
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▼下山
○三重の塔
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■安土城歴史博物館+信長の館
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天正4年(1576)  天下統一を進めていた織田信長は、安土に居城を作ることを命令。
 ・織田信長が安土を天下統一の拠点に選んだ理由
  ①東西に陸路が通り、瀬戸内や大阪からの水路の便がいい。
    ・・・交通の要衝だったこと。
  ②生れ故郷の尾張からも京都からも近いこと。
    ・・・尾張と京の中間地点であること。
  ③岐阜城→佐和山城→安土城・・・
    ・自力で新しい都の象徴として琵琶湖をのぞむ安土山上に建設計画。
  ○実験的に、明智光秀の坂本城・・・石垣・礎石・瓦葺きの新式の城郭を
   建築させた説。(中井均先生)
 1月中旬 安土城の築城開始 「天下普請」の第1号。
  普請奉行:丹羽長秀は東海・北陸・近畿にいる配下の武将を総動員。
  縄張り設計:室町幕府の御大工を勤めた尾張熱田社出身の岡部又右衛門父子。
 4月1日 石材調達   
  ●石奉行:西尾小左衛門は、観音寺山・長命寺山・長光寺山・伊場山など
    から数千個ずつ運搬
  ○百済寺から石を運んだという説・・・(百済寺城の看板)
   石工・・・京都・奈良・堺の名工たち。 
   安土城建築の石垣積みのプロ集団:近江穴太の戸波一門。
            馬淵(近江の蒲生郡)の350人の石工
  ●建築 大工・・岡部又右衛門(熱田神宮大工頭)を頭領に、
         京都・奈良・堺の宮大工・寺大工
  ●漆師・・・刑部氏
  ●白金大工・・・宮内遊左衛門
  ●屋根瓦・・・・・天守瓦は唐人に軽い瓦を焼かせた。
         軒瓦は南都《奈良)の瓦職人に焼かせた。
         瓦の家に金箔を塗った。
  『連日呼声山谷に震動し、雷鳴の轟くが如し』(伝)・・
      ・1日も休む事ない3年間だったらしい。
   襖絵などを描いた安土桃山時代を代表する絵師・狩野永徳・光信父子
     きらびやかさを演出した金工・後藤、鉢阿弥一門など    
・天正7年(1579) 24mの石垣の上に3mの高さの天主に信長が移住。
  3年の歳月で完成。安土城は五層七重の天主閣をもつ大城郭である。
  ●7重(6階)・・・3間四方で、座敷は全て金。柱は黒漆。
   治国平天下の思想を表した狩野永徳の筆による障壁画が描かれていた(伝)
   日本の宗教と思想を統一した「天道思想」を天主に投影=天下統一の
    シンボルだった。
  ●6重(5階)・・・八角四辺。内柱金箔。法隆寺の夢殿のように
     正八角形で室内の柱や天井はすべて朱色。
     壁や天井には昇り龍や降り龍などの極彩色の絵が描かれていた(伝)
  ●5重(4階)・・破風内  4,5畳の部屋が2室 
  ●4重(3階)・・岩の間  竹の間 松の間 鳳凰の間 
               北12畳 西12畳 鷹の間
  ●3重(2階)・・花鳥の間 上段の間  24畳の納戸 
           麝香間(しゃこうま) 2段の広縁 北20畳 など
  ●2重(1階)・・南北20間・東西17間・高さ20間  
           西12畳 御座敷 御書院 奥間  御膳の間 
          土蔵 南12畳 東12畳 など。黒漆柱204本
  ●1重(地階)・・外見は石垣 中は石蔵(金灯籠あり)   
           空間が重量を分散する構造になっていた。
  ●大手門近く・・・羽柴秀吉(豊臣秀吉)や徳川家康・前田利家などの
           家臣の屋敷が連なっていた。
 
※安土城を見たイエズス会の宣教師ルイス=フロイスは故郷に
     「ヨーロッパにもこれほどの城は存在しない」と送った。
  3年後、本能寺の変に滅んだ信長と安土城の命運がつきた。
 
・天正10年(1582) 摠見寺の徳川家康を迎え、能が行われる
  6月2日 本能寺の変で織田信長が討たれたあと、天主・本丸が焼失。

・天正13年(1585) 豊臣秀次の八幡城築城に伴い、安土城は廃城。
・文禄元年(1592) 豊臣秀吉が摠見寺に寺領百石寄付の朱印状を授与。
・慶長9年(1604) 豊臣秀頼が摠見寺三重塔を修理、書院・庫裏を寄進。
・元和3年(1617) 徳川秀忠が寺領を227石に加増
摠見寺に安土山の支配権を認可。
現在       城跡の穴太積の石垣と天主閣跡だけである。

★参考文献・・・(戦国の城1993年学研/織田信長/安土町のHPなど多数)

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