箕輪初心●箕輪城シリーズ58「和田城:和田業繁」   

箕輪初心●箕輪城シリーズ「和田業繁と和田信繁」
※戦国時代・・高崎市周辺を領した和田氏は桓武平氏三浦氏の一族:
和田義盛の後裔である(伝)。
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     (写真は、安藤・間部時代の高崎城) 
★参考資料・・
   ①高崎市史通史:三浦編  
   ②新編高崎市史&資料編Ⅳ(黒田基樹)
   ③群馬県史(久保田順一他) 
   ④箕輪町誌(近藤義雄・唐沢定一・久保田順一他)  
   ⑤「上野和田城をめぐる上杉・武田の抗争について」:久保田順一著 
⑥「群馬県古城塁祉の研究 下巻 増補版」山崎一著

■平安時代:和田氏の先祖は三浦一族
  ○三浦氏は桓武平氏良文流の坂東八平氏の一である。
  ○平良文の子忠通は源頼光に従い、子為通は前九年の役に源頼義のもとで
    活躍。相模国三浦の地を安堵。
   →三浦氏は源家との関係を深めた。
■鎌倉時代:幕府の有力者の三浦一族
・治承4年(1180)源頼朝が挙兵。
     三浦一族は源頼朝に従い、鎌倉幕府創設に尽力。
      →相模国府で頼朝が行った「論功行賞」で、
        義澄・義盛らは本領安堵、新恩拝領。新井城
  
★三浦一族は、会津猪苗代にも所領を拝領。蘆名の祖?
      三浦義澄は三浦介の名乗りを許可。
      三浦義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らとともに
         「宿老」として頼朝のブレーンに定着。
    ◆甥の和田義盛は侍所別当の要職に任命。
★神奈川県の三浦半島に「和田」の地名が残存。
・建久元年(1190)上洛した源頼朝の参内に随兵の筆頭として
      和田義澄・義盛・義連らが追加招集。。
・建久10年(1199)  源頼朝が死去。
    →北条義時・大江広元・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員
      ・梶原景時らの合議制で政務を決裁。
     和田義盛は、京都では「三浦の長者」
    →将軍源実朝への年頭の「椀飯(おうばん)」を
       大江広元(★京都の丹波:大江山の鬼退治で有名)、
       北条義時・時房兄弟に献上。
     ※幕府内は有力御家人同士による政争が頻発。
     ①梶原景時の失脚→滅亡。 
     ②比企能員・仁田忠常の失脚。
     ③畠山重忠など武蔵・相模・伊豆の有力御家人の失脚→滅亡。
    ※北条氏は頼朝の外戚:三浦氏は御家人の筆頭として幕府で繁栄。
     →北条氏は源実朝廃立。北条時政→北条義時が実権を掌握・
     →三浦氏は三浦義澄の子:義村が幕政の中央に登場。
・建保元年(12132月 和田義盛は北条義時との間に確執を生じ、
     和田一族の3人が幕府に検挙される事件が勃発。
     →和田義盛は北条義時打倒の兵を挙げ、幕府を襲撃。
     →和田義盛に有利に展開。
      本家の三浦氏が鎌倉幕府方に寝返り、和田義盛は自刃。
   ※和田義盛の蜂起に、宗家三浦氏の義村一門・和田義盛の甥重茂も敵対。
 ★和田の乱・・和田一族が強力になることを危惧した北条義時の早期弾圧?

■鎌倉時代中期:上野和田氏の出自  
   和田氏の乱で、和田義盛の一族のほとんどは滅亡。
   幕府に味方して和田氏の家名を断絶させなかったのは、
      和田重茂の子:次郎実茂であったが~~~。
  ※上野の和田氏・・・桓武平氏和田氏の裔とする説(有力説)。
  「和田城は群馬郡=高崎也。和田義盛の七男六郎左衛門義信、
  鎌倉合戦=和田の乱の時、逃れて蟄居し、上野国に至る」(『上野国誌』)
  和田氏は源平の戦いに登場する和田義盛の子孫である。が確定的である。
 
  →・・・高崎市箕郷町和田山に居住。
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 ※三浦氏の乱=和田合戦   
  和田義国は敗戦→葛西谷→西上州群馬郡和田山に退いて蟄居。
  合戦時、和田義信は18歳(28歳説)。弟秀盛は15歳。義国?(???)
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 ※和田義盛の8男:和田義国が上野の和田山(高崎市箕郷町和田山)に蟄居。
   (高崎市史の和田記)

・寛喜3年(1231) 和田義盛の8男:和田義国が赤坂
    (現高崎市赤坂*赤坂の荘があった。)に転居。(和田記)  
   →和田山館は松本氏に任せた。・・・・※現在も松本氏。
・宝治元年(1247) 三浦氏の乱・・・三浦泰村に従って、
    和田重茂・和田実茂も父子ともに討死し、和田氏の主流は滅亡。
    和田実茂の弟:時茂だけはいかなる理由か?「赦免の教書」を授与
   ・名字を後代に伝承。
   和田時茂は相模国鎌倉郡南深沢郷津村の屋敷田畠と越後国奥山荘地頭職
   の地頭職を領有。
   →子孫は「三浦和田」として中世の越後に勢力を構築。
    越後の下越・・・中条藤資・黒川一族嫡流へ。
★箕輪初心「後、長尾景虎になかなか味方せず」
  『姓氏家系大辞典』・・・「群馬県和田」より起こる。
   和田義盛の六男(あるいは七男)義信の裔と云ひ、
      あるいは在原姓長野氏の族と見ゆ」とあり、義信を上野和田氏の
   先祖であろうとしている。
  ※姓氏家系大辞典の「在原姓長野氏の一族」は、和田氏が長野氏と
     姻戚関係を結んだことが誤伝。
  『吾妻鏡』・・和田六郎左衛門は「被討人々」。
  『和田系図』・「六郎左衛門尉、父同被誅、十八才」とある。
  『和田記』・和田六郎左衛門義信の弟:義国とし、以後歴代のことを記述。
・寛元年間(1243~46) 相模国の三浦三社を密かに赤坂明神の地へ勧請し
     、興禅寺を菩提寺、玉田寺を祈願寺を設立?。
  ※和田記は・・・興禅寺の僧侶が江戸時代に書いたものである。

■南北朝時代:和田氏の興隆
・元弘3年(1333) 和田義信の子:信高は鎌倉幕府の滅亡期に新田義貞に従軍。
     楠木正成のに千早城を攻撃。「楠木合戦注文」
      和田信高は「赤坂駅→和田宿」。
      高崎は藤原氏が所有し、「赤坂の庄」と呼ばれたが、
       和田氏が所有するようになり、「」和田の庄」となった。
  ★箕輪初心私見「貴族時代の荘園から、和田氏の私有地化が実現。」
・貞和4年(1348~)河内四条畷の戦い・・・などの多くの戦いに参加。
・応安3年(1368) 和田義信(義国?)の子:正信・新田義宗・脇屋義治が
          寺尾城で挙兵?
★箕輪初心「寺尾城に2説有る。高崎 VS 太田・・・?
      ①高崎市石原町の茶臼山城(高崎市史等)
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      ②太田市天良の新田の庄=寺尾城(太田市教育委員会)」
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・応永4年(1397) ◆和田義信の曾孫:和田高重は南朝に属し、
    新田義宗に従って尹良親王を奉じて寺尾城を守った。
   →和田高重の子:重信と尹良親王・宗良親王を寺尾館に迎えた(伝)。
           尹良親王・世良田政義・桃井宗好し従属。
  ※南北朝の内乱が終結→関東は鎌倉府の関東公方足利氏と補佐役:
     関東管領上杉氏が君臨。
    →◆和田信忠は足利義政に仕え兵衛尉に昇進?
       →南朝方が退去→上杉憲実に従属。

■室町時代初期=和田城の歴史開始
   (高崎音楽センターから西300mの国道17号線と交差する付近。)
   (高崎音楽センター入り口の立体交差)
 
・応永25年(1418)
     ◆和田義信の和田城(=高崎城の前身)築城説。
       関東管領上杉憲実の家臣。(高崎市史の和田伝説)
・正長元年(1428)和田義信の子:信忠が和田城を築城説。『上毛伝説雑記』
・正長元年(1428) 和田義信は赤坂の古城址に依って和田城を築城。
             (高崎市史の和田記)
     和田城は15C初期に和田氏が築城(高崎市史)。
          →和田氏6代、160年にわたって居城。

・永享10年(1438) 永享の乱 和田氏も参戦
      和田信忠は上杉氏に従い、先陣をつとめて足利持氏を攻撃。
・永享12年(1440) 結城合戦    鎌倉府は断絶。
    →足利成氏が赦免→鎌倉府が再興。→足利成氏は管領上杉氏と対立。
   ※上州一揆の一員として上杉方として攻城軍→軍功。
・享徳3年(1455) 享徳の乱→ 
    関東は戦国時代へと突入。公方方と管領方に分かれて合戦が頻発。           
     鎌倉公方足利成氏に対抗した上杉房顕が死去。
   →上杉顕定は越後守護上杉房定の2男で、和田城から鎌倉へ入って
        関東管領に就任(伝)。
  ★和田氏は上杉氏に属して着実に勢力範囲を拡大していった?    

■室町時代中期:後北条氏の勢力伸張
    和田信忠→信清─信種─勝業(和田氏の系譜は不明確)。
・永正年間(1504~) 和田信忠の子:信種が右兵部大夫に昇進。
     和田勝業は将軍義輝(=右兵衛大夫信輝)。
     輝の字は義輝から偏諱を賜ったものか?(高崎市史)
・天文7年(1538)北条氏綱と上杉朝定が戦い
      →上杉朝定に従い、和田信輝は河越で討死。
     ※小田原を拠点とする後北条氏の勢力が拡大。
・天文13年(1543) 「河越合戦」・・・
   河越城は扇谷上杉氏の持城
     →後北条氏の北条綱成が城将後北条氏の関東進攻の拠点
   山内上杉氏・扇谷上杉氏の連合+古河公方足利晴氏(総勢八万騎)大軍
   =和田氏も上野の国人衆らとともに管領山内上杉氏に従軍し参加。
  北条氏康は八千騎を率いて河越城救援。
     連合軍の多さに連合軍を油断させ、夜戦を決行。
     北条氏康の奇襲→油断しきっていた連合軍は潰滅的な敗北。
     →扇谷上杉朝定は戦死。山内上杉憲政は平井城に逃亡。
      古河公方も古河城に逃亡。
    ※関東は後北条氏の勢力が拡大。
     上杉憲政は後北条氏と対立。
  「成田下総守、新田、長尾、由良、深谷、安中、山上、◆和田、倉賀野以下、
   長野信濃守を初めとして、大名数万騎あれば、度々の合戦に負しかども、
   国をばついに不破取」とあって、和田氏が上杉憲政に属して反後北条の
    立場をとっていた。 『相州兵乱記』

■室町時代中期:長野業政絶頂期での和田業繁       
 ※箕輪城主の長野信濃守業政は上州一揆の旗頭である。
 ※和田氏は箕輪城主長野業政の娘を娶って、同心に所属(群馬県史近藤先生)
 ※長野業政は女子が12人の内の1人・・・6女を和田氏に配している。
   ①和田業繁説の妻説が有力説だが、
   ②和田勝業の妻説=和田業繁母説もある。
   ③業繁の父:勝業の妻は長野業正の姉妹=業繁の母説+業繁も業政の娘室説あり。
 妻・①沼田顕定{沼田城}の娘の説(野口泰彦「小説箕輪城」・上州路)
   ②上杉憲政{平井城}}の妹の説(池波正太郎「剣の大地」)
 側室6人?・・大胡城{前橋市}
      上泉伊勢守信綱の妹(池波正太郎)
     ・保渡田腹・・・保渡田砦の城主の娘   
  ★箕輪初心私見「根拠不明・・・・養女もいたのではないか?」
 姉・・・・白井城{渋川市}・・・・長尾景英の妻(県史・野口先生)
 妹・・・・大柏木城(東吾妻町)元総理大臣羽田孜氏家系図
 娘12人+α1)「長野氏興廃史」斎藤平治郎著+近藤先生「群馬県史」説 
  ①小幡城{富岡市}・・・・・小幡重貞(重定・信貞・信定・・・武田の「信」)
  ②宮崎城{富岡市}・・・・・・小幡図書介:信貞従兄弟
     *丹生城・宇多城に小幡・・・(上毛古戦記P104)
     *小幡城に小幡(小幡城1615年なので、変?)「長野記?」 
  ③武州忍城{埼玉行田}・・・・・・・成田氏
   ★私見「武州に? 夫は小田原北条征伐の時に城主成田氏長(甲斐姫父)?」
   ★忍城の学芸員等に確認したが、資料はなかった。
     →場所的に遠いので、無理があるのでは?」 
  ④山名城{高崎市}・・・・・木部範虎   
  ②大戸城{吾妻郡}・・・・大戸中務少輔 
   ★大戸氏は1560年の文献に出てくる 
 ◆③和田城{高崎市:高崎城}・・和田業繁?  
     *和田業繁・・・・(上杉家文書に出てくる名前)
  ⑦倉賀野城{高崎市}・・・・・・・・・倉賀野氏
  ⑧鷹ノ巣城{安中市}・・・・・依田(あしだ)新八郎
    ★私見「依田氏はこの時、後閑城かも知れない?」(後閑城看板?)
     あるいは、旧群馬町(北原遺跡/「喜の蔵」隣の引間砦か?
     現在、この地区には依田(よだ)姓が残っているが、不明?」
  ⑨羽根尾城{吾妻の羽尾}・・・・・羽尾氏
    「羽根尾城は羽尾幸全・海野幸光築城。(羽尾城前の墓石の表記)
    ★私見「羽尾幸全の可能性が高い。海野は、岩櫃城の家老「真田三代」?
    ★1541年の真田幸隆の逃げ延び先で、妻は海野の幸全の娘
  ⑩浜川城{高崎市浜川町}・・・・浜川左衛門尉(近藤先生)
       浜川左衛門尉は、1560年の謙信の関東出陣メンバーである。
      *安中城{安中市}・・安中忠正(長野氏興廃史斎藤平治郎著)  
  ⑪厩橋(まやばし)城{前橋県庁}・・・・・長野方業:業政叔父
  ⑫鷹留城{高崎市旧榛名町宮沢}・・・・長野業通:業政の甥

◆和田業繁の城・・・・和田城+下之城砦・並榎砦の二つの外城。
 1)和田城
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 2)下並榎の砦△ 
 3)並榎砦=常仙寺 並榎の常仙寺:君が代橋東300m築城]
   ・永禄元年(1557)箕輪城の着到帳では、飯塚左衛門丞忠則並榎砦在住。
              (長野氏の配下)
   ・慶長5年   常仙寺は飯塚常仙が開基?
   ・江戸時代   板垣籐九郎在住。
    ■訪問記・・・高崎市の赤坂。現在は常仙寺。比高5m。
       ・・・逆に並榎砦のことを聞かれた。
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 4)和田下之城 高崎操車場北 *下之城グランド&善如寺さん宅
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   15??年 築城  *和田城(和田業繁)の支城
         和田昌繁・・・和田家の有力庶家で通称「下の城主」。
         和田昌繁の父が和田業繁の従弟。(業繁はとこ説) 
         和田業繁の弟説(高崎教育委員会)
   ・天正10年(1582) ※武田家滅亡後、北条家直属の他国衆に転身。
             和田昌繁 →家督は嫡子・和田正直が継承。
   ・天正18年(1590) ※北条氏滅亡後は上杉家に出仕。
         ※のちに最上家に仕えたが、最上家の内訌で戦死。
     ■訪問記①・・諏訪神社に行った。
      信玄の影響がこれほどとは思わなかった。
      諏訪神社の祭りによって、地元民との交流を図る作戦は見事だ。
     ■訪問記②・・下の城グランドのフェンスに下の城の看板があった。
      和田業繁の弟が入ったことが記されていた。

室町時代中期:上杉憲房の北条・武田攻めでの和田業繁
  ※和田城は越後の上杉、甲斐の武田、相模の北条などの抗争。
  ※上杉憲政は後北条氏に対抵、甲斐の武田晴信を攻撃。
     
天文16年(1547) 碓氷峠(=笛吹峠)の合戦 (1546年説あり)
      山内上杉  VS  武田晴信
  ・10月4日 志賀城主笠原氏の要請で、上杉憲政(平井城)は援護。
    ・笛吹峠(碓氷峠)の戦い(年代不明で幻の戦いと英知出版)
     武田軍馬場・山本軍4500人 VS 山内上杉憲実2万人
     →結果:武田軍勝利
    ◆和田城主和田業行?が戦死。和田業繁は無事帰還。
      ・武田晴信が佐久の志賀城:笠原清繁を攻撃。
      ・笠原軍には上杉憲政も参軍(箕輪城興亡史・小説箕輪城では)
      ・笠原軍には上州甘楽菅谷城(★菅谷城は旧群馬町で変?)
            高田も参軍(信濃の笠原城現地案内板)

・天文17年(1548) 小田井(長野県佐久市)の合戦 長野業政は参加せず。
    山内上杉  VS  武田晴信
  大河ドラマ7/1・・信玄が小田井の戦いで上杉憲政軍に勝利。
   ・佐久の志賀城の笠原清繁を攻撃。
      笠原軍には上杉憲政も参軍(箕輪城興亡史・小説箕輪城では)
      笠原軍には上州甘楽菅谷城高田?も参軍(現地案内板では)。
      結果:武田軍の大勝→3,000人の笠原勢全てを虐殺。
         武田信玄が山本勘助に命じ、3000人虐殺→さらし首。
     女子供は人質・奴隷。人質2貫文~10貫文で人身売買。
     例、笠原清繁の正室海ノ口城平賀源心の娘(昔、勘助が助けた子)
         は小山田が購入。 
  ★箕輪初心私見「信濃国の国人衆に晴信への不信感を植え付けた。」

・天文18年(1549) 三尾寺の合戦・・・
  ◆和田業繁は安中越前守や倉賀野三河守らとともに参加。
・天文20年(1551)
  北条氏康の上州平井城侵攻①3月~4月 
   ①北条綱成の嫡子善九郎康成は、福島一郎・・・ら2万余の兵を率いて
    ・・・・(中略)・・・・。
    太田美濃守・長野信濃守・曽我兵部頭・金井小源太・安中越前守
    ・小幡・白倉・沼田・厩橋・新田・赤井(館林城)・佐野
    ・足利(=長尾氏)・桐生・渋川・大胡・山上・後閑・長野などの
     諸将が先陣と後陣に別れて、出陣した。
   3月10日の一戦では、上杉方が勝利したが、・・・
    北条康成は18歳であるが、・・13人を切り倒した。
      ・・・・深追いは禁物と引き上げた。
   (この時は北条軍も損害が大きかったため、平井城を抜くことを諦めて
      小田原へ帰陣。という。)
           (関東古戦録 久保田訳・上州古戦記:山崎ー著)
  ②氏康20000    VS  関東管領上杉憲政4000
    *長野業政2000の軍勢で応援→落城せず。
    *上泉伊勢守1500で箕輪城の留守番。(野口先生)

  北条氏康の上州平井城侵攻②10月
   ①氏康は再び、上州発向を決め・・・。
    上杉憲政は、お触れを出したが500騎しか集まらなかった。
    上杉憲政は岩槻城(太田道灌の子)か箕輪城(長野)に籠もるか
     迷ったが、曽我・・・三田・・・本庄らが「越後の長尾景虎
    が知勇に優れているという噂があります。父為景は上杉顕定公を
    討った逆臣ですが、元々は上杉の家臣・・・。」
    ・・・春日山城の長尾は温かく迎えてくれた。(関東古戦録 久保田訳)
  *平井城が氏康の手中になる。城主は氏康の叔父北条長綱
  ②大河ドラマ「風林火山」9/18平井城の上杉憲政に長野業政が
   「長尾為景を頼れ。」と倉賀野氏に依頼。龍若丸を目方に依頼。
    北条が平井城に進撃。長野は箕輪城に戻る。
   真田幸隆は昔の恩義で心配。山本勘助は北条に使者に
    「嫡男を北条に。(後の3国同盟へ)」
   上杉憲政が越後に逃亡。長尾景虎は丁寧に迎えた。
   目方は憲政の竜王丸を北条に差し出す。
 
  ③長野業政は上杉憲政を箕輪城に呼ぼうとした。(興亡史など3つの本)
      →憲政は越後の長尾景虎(上杉謙信)の元に逃亡。
  
  ④『天文21年(1年後の説)、北条氏康は御嶽山城(埼玉県神川村)
   を攻撃。那波城(群馬県伊勢崎市)の那波宗俊や河西衆(利根川の西の領主)
    北条方についた。(*河西衆には長野氏も含まれる。)
   新田・足利長尾・佐野・桐生・大胡・厩橋は敵だったが、一戦もしていない。
   山内上杉氏は(長野氏などの)馬回り衆に裏切られ、越後の長尾景虎
   (山内上杉の親戚の越後八海山の麓の上杉顕定・房能を殺害し、越後
     上越・中越を支配)を頼ってゆく。
          (秋本先生曰く「新編高崎市史資料編4中世Ⅱより)
 「2年間?は、水上か沼田付近で隠れて生活した。」
          (秋本先生曰く「最近の研究の有力説」)
  ★箕輪初心私見「秋本先生の水上・沼田の隠遁説(1551年には行かないだろう。)」
    という自分の直感に感動した。
  *憲政の息子の龍若丸は、父に平井城に置き去りにされたため、
   北条軍に捕らえられて殺害された。
   龍若丸はまだ10代前半の少年だった。 「ひどい父親。」
  
  ★この頃は、武田信玄(晴信)も上杉謙信(長尾景虎)も、たいして大きな
    勢力ではなかったのだ。
 ◆和田業繁は関東管領上杉憲政に属し、上杉氏を助けて戦い続けた。
   上杉憲政が越後へ敗走し頼った謙信が頼るに足らないと見切るや、
   武田信玄を頼ろうと画策。

■戦国時代:上杉・後北条・武田の攻防の中の和田業繁
・弘治3年(1557)武田信玄が西上野に侵攻
    瓶尻原(群馬県安中市松井田)の戦い 
   長野業政を大将とする和田・倉賀野・小幡・安中・後閑ら西上野の諸将は
   武田軍を迎撃。
   結果・・上州勢の敗北。武田軍は長野業政の居城:箕輪城まで肉迫。
     長野業政は武田軍の攻撃を防御→武田軍は兵を引き揚げて行った。
  ◆箕輪攻防戦において、和田兵衛門尉は箕輪守将の一人として奮戦。
・永禄3年(1560) 長尾景虎の第一次関東出兵。
     『関東幕注文』・・長野氏業(死後に業盛となった)の一門の檜扇
    長尾景虎が関東出兵のとき配下の諸大名・武将の幕紋を書き留めたもので、
  ◆和田八郎は「箕輪衆」の一員として「長野檜扇」。
    新五郎・南与太郎・小熊源六郎・長野左衞門らが同紋、
  12月27日 「和田之地」に侵入。(佐竹義昭から梁田政信の書状)

・永禄4年(1561) 関東で越年した景虎は小田原城を攻撃。
  上杉憲政から上杉の家督・名字・重代の宝物を譲られて関東管領に就任。
            上杉輝虎(→謙信)。
  ※武州忍城主の成田下総守長泰は長野業政の娘婿?
        ・・・(群馬県史他?)(忍城学芸員は?)
  ※武州忍城主:成田長泰は長尾景虎に、超美人の妻を随行命令を受けた。
  ※古式にのっとり鶴岡八幡宮にて関東管領職拝命の儀式を行った時、
    武州忍城主の成田下総守長泰は騎乗のままであった。
    成田下総守が非礼「馬から降りなかった。」ことで、
   (関白藤原道長系の名族で征夷大将軍:八幡太郎源義家の前でも
    騎上の礼を許されていた)
  上杉謙信は軽んじられたと考え、思わず馬を寄せると長泰を打ち据え烏帽子
  を落としてしまった。正装時の烏帽子を落とされることは武士に最大の恥辱で
  あった。屈辱を受けた長泰はその夜、謙信にも告げずに忍城に帰ってしまった
  という事件が起こった。上杉謙信への期待も大きかったが分落胆も大きかった。
           (NHK大河ドラマ:直江兼続)
   →上野の諸将の一部は上杉謙信に反感。
  成田長泰の親戚金山城:由良氏など多くの武将が長泰と共に北条氏に所属。

 8月 ◆和田業繁は武田氏に内応開始。
     箕輪城攻略を企策し、武田への手土産を考えた。
    →後北条氏は甲斐武田氏と結んで上杉謙信と対立。
   ※上杉謙信の関東出兵は13回。越山は連年のように繰り返され、
    関東を舞台に後北条氏と戦った。
   ※武田信玄も西上野に侵攻を繰り返し、
      西上野は上杉・後北条・武田三氏の争奪の場となった。

・永禄3年(1560)
  ◆和田信業は武田氏家臣跡部勝資の長男として出生。

■戦国時代:様子を見ていた和田業繁
・永禄4年(1561) 第4次川中島の合戦
  ※和田業繁には謙信に仕える弟:和田喜兵衛(和田業繁弟説が有力説
   ・和田業繁いとこ説)がいた。上杉謙信は和田喜兵衛を可愛がった。
  子供の頃の和田小膳(幼名)の時から上杉謙信の小姓だった。
  和田喜兵衛も謙信に心服していた。
  ・・・川中島の合戦の時、武田信玄の首を取れない時も、
  ただ1人謙信の傍を離れずに守った(伝)。(上毛古戦記第30話:山崎一)
           
  ※長野業政が病死→長野氏業(=業盛)が箕輪城主。

■戦国時代:武田信玄の配下になった和田業繁
 ・・永禄5年(1562) 6月18日~12月27日の間
    (久保田順一氏の資料に基づく説)          
・永禄5年(1562)
   1月  上杉謙信の越山後、厩橋ですごし、攻撃開始。
   2月  上杉謙信の武蔵:松山城攻撃
   3月  上杉謙信の武蔵:騎西城攻撃
   4月  上杉謙信の下野:小山城攻撃
   4月7日 上杉謙信の上野:和田城攻撃(久保田説・・・最初の攻撃説)
  永禄5年(1563)に上杉謙信が和田城を攻め、一・二の城戸まで打ち破った
  時のことを次のように記。※『和田記』には
 「城将和田モ聞フル勇士成、同兵部・同左衛門尉、武将武対馬・反町大膳亮
   ……爰ヲ先度ト防シママ、味方モ戦疲レシカハ、
  輝虎麾執リテ下知ヲナシ、惣人数引奉テ、廓外ヲ放火シテ早々厩橋仮ケル」
  武対馬は和田一門の次にみえ、家臣団の筆頭。
  対馬は和田家の侍大将の地位にあった。(高崎市史:久保田順一)
  6月18日以前~~~ 和田業繁→武田信玄への手紙(未発見)
  6月18日  武田信玄→和田業繁への初めての手紙
           「和田が服属を求めたことへの返事。」
  12月17日 武田信玄→山宮・跡部伊賀守・板垣左京亮殿
     「和田業繁が甲府に出頭し、武田信玄の家臣になった。
     そして、業繁の母を人質として甲府から信濃に移すこと、
     武田家臣:山宮が和田城に在城・在陣し、緊急の場合は
     跡部・板垣が応援すること」が記載されている。(久保田)
       
・永禄6年(1563)  
  5月17日 武田信玄→鎌原幸重?(真田同族)「鎌原系図」
    ・和田城が拠点になり、上杉方の安中・倉賀野などの苗代を薙ぎ払え
      と言う内容の文言がある。(黒田基樹)
    →安中越前守重繁が武田信玄の家臣になっていた。(黒田基樹)
  5月27日 結城晴朝→?「   」
     ・武田信玄が23の城を降参させ候 (高崎市史:黒田基樹)
            
  第1次上杉謙信の和田城攻撃(通説) 
    ●和田業繁が上杉謙信との功城戦。
    ●和田喜兵衛が和田城に帰った時、和田業繁が近隣の武将
     (倉賀野・深谷・高山ら)と密談している所に居合わせ、兄の裏切りを
     知った。和田喜兵衛は近習で旧友の小野伝助を通じて上杉謙信に
    「少しの兵を和田に向けられれば、手引きをしてたやすく城をのっとろう。」
     手紙を書いた。和田喜兵衛は和田城を攻戦功をあげようとした。
    →しかし、和田喜兵衛の計画は露見した。
   ●上杉謙信は箕輪城に行くふりをして、和田城に向かった。
    和田喜兵衛に会うと、「内通失敗で逃げてきた。」と話すと、
    上杉謙信は「未熟な内通をして、無駄な出兵をさせた。」
    和田喜兵衛と小野伝助を切り捨てた。
   ●上杉謙信は和田城に押し寄せ、大手門から力攻めで攻撃。
    (直江山城守兼続、大関阿波守親益、永井丹後守尚光、鉄治部少輔安則、
      只見次郎右衛門家国等)
     →一の門・二の門と押し破り本丸へと迫った。
   ●和田勢もよく防いだ。
   ●越後勢の損害が次第に増大・・・和田城の守りの堅さに深追いは危険と
     判断し厩橋城に帰城。 (上毛古戦記第30話:山崎一)
 →◆和田業繁は弟喜兵衛を失ったことで、信玄方となった。
    →上杉謙信は和田城を落とせなかった。  
  ◆和田業繁が甲州へ出向き、武田信玄の傘下が確定。妻子は信州で人質。
   武田信玄からは上野先方衆として騎馬30騎持。
    ・・目付として山宮+戦時に板垣・跡部が在城。
    ・・目付として武田氏からは土屋(金丸)昌次が送られた(伝)
   ※武田信玄は、好機到来とばかりに箕輪城攻撃。
    箕輪城の同心勢は武田軍に抵抗したが、武田氏に降り、武田氏の
    上州先方衆として組織。
 12月 上杉謙信の和田城攻撃。(高崎市史)

・永禄7年(1564)  
  2月    上杉謙信は常陸攻撃。
  3月10日  上杉謙信の和田城攻撃開始。(久保田説)
     (3月13日の上杉謙信→金津・吉江・本庄氏連名への手紙写し)
  3月13日 武田信玄→???の手紙
        「和田に鉄砲の薬・玉、弓、兵糧を運び入れよ。」
  3月21日 武田信玄→小山田備中守殿への手紙
          「和田城の備えを命じた。」
  5月    武田信玄は倉賀野城攻撃→倉賀野城落城。
        倉賀野氏(改姓し、金井淡路守)が武田家臣。

  6月~10月 上杉謙信は信濃攻撃遠征中
  6月25日 上杉謙信→富岡主税助殿(大泉城)への手紙
             「西上州への出撃命令~~。」
  7月23日 上杉謙信→富岡主税助殿(大泉城)への手紙
        「和田城攻撃に参加せよ。安中口・小幡口へ深々与動簡要。」
    ●上杉謙信配下:厩橋城北条高広が和田城を攻撃。
             (+足利長尾氏も動員)。(高崎市史)
  9月6日 足尾の長尾景長→河田長親殿への手紙
     「信州御進発=信濃に上杉謙信がいて、河田に上野攻撃に参加命令?」
・永禄8年(1565) ※上杉謙信・武田信玄 和田城の争奪戦が激化。
    武田信玄にとって、箕輪城攻撃の最前線基地としての必要性
    上杉謙信にとって、関東出兵の基地厩橋(前橋)城への危機感
    武田家による和田城への援軍の配備、城郭の普請。
                 
  2月26日 和田城で上杉方の目付(=隠密忍者)を捕らえた。
        武田信玄はすでに甲府から金丸を和田城に派遣。
        武田信玄→金丸・和田への手紙
  5月    武田信玄は大熊伊賀守(元上杉謙信家臣:箕冠城主)を
         倉賀野城に派遣。
  5月   上杉謙信本隊の和田城+倉賀野城攻め? 
           (久保田説推測・・・謙信→太田美濃守への手紙)
           
  7月22日 上杉方の太田金山城:由良成繁は伊勢崎の那波城に着陣。
                (永禄日記)
  8月1日  武田信玄→和田右兵衛太夫殿+横田十良兵衛殿への手紙
          「横田への和田城への守備固め命令。」
  8月4日  由良成繁は厩橋城(上杉謙信の前線基地:前橋)に着陣。
               (永禄日記)
  8月23日 後北条氏が関宿城に侵入したため、和田之陣を解いた。(永禄日記)
  8月24日 由良成繁は厩橋内宿に在陣。(永禄日記)
      ・・・23日以前に東毛の国人衆が厩橋に集結。(永禄日記)
  8月27日 小幡口への侵攻計画・・・中止。(永禄日記)    
・永禄9年(1566)   
  3月 上杉謙信は春日山城から厩橋(前橋)城に出馬。下総出陣(久保田説)
        →後北条氏の太田金山城攻撃に失敗。桐生城攻撃。?
  5月  上杉謙信の願文「武田信玄の退治・・・
         +佐野・倉内(沼田)・厩橋(前橋)の安全。」
             
  7月 上杉謙信は石倉城(前橋:厩橋城の利根川の反対)
          (※このときは利根川はここではない。)
 
  第2次上杉謙信の和田城攻撃 総勢13000?という大軍。
   ◆和田業繁をはじめ叔父の和田兵部信勝ら600人
       +武田の横田虎景ら300人=900余人。
    和田30騎(酒井・反町父子・須藤・中沢・高橋・富所・など
          +地元騎馬40騎+徒歩200+雑兵・・・計600。
    武田の横田虎景(原美濃守の子で横田備中守の養子)ら300人
   ●武田からの援将横田虎景は鉄砲を駆使して上杉軍に対抗。
    上杉軍の猛攻を防御。
   上杉謙信は、越後に長尾帯刀の叛乱が起ったという報で兵が離脱。帰還。
    ・・・◆和田氏の謀だった。(上毛古戦記第38話「和田記」:山崎一)
                 (久保田説では、???)
            
  8月 武田信玄は知らせを聞き、飛騨攻撃から上野に着陣。石倉城を奪回。
  8月25日 北条氏照(北条氏康Ⅱ男:滝山城→八王子城はない。)の書状
     上杉謙信から北条氏に寝返った者・・
       ・下野:宇都宮・皆川・     ・上野:新田
             
  9月 ◆和田業繁が武田信玄の家臣として、箕輪城攻めに参加。
            
  9月29日 箕輪城落城。(安中越前守は出陣しなかった。)
・元亀元年(1570)上杉謙信への接近?

・元亀3年(1572)武田信玄は遠州に進攻。
          その後、◆和田業繁は信玄に従い各地で転戦。
・天正3年(1575) 武田信玄が病が悪化して死去。→武田勝頼が継承。
・天正3年(1575) 長篠の戦い 武田勝頼軍  VS 織田・徳川連合軍   
    ◆和田業繁は、小幡氏らとともに武田信実の配下に属して参戦。
     武田信実は鳶ヶ巣山の守将で、
       和田業繁は鳶ヶ巣山の北方の君ケ臥戸砦の守将に配属。
  5月18日 4万の兵力の織田・徳川の連合軍は設楽が原に布陣。
  5月21日  酒井忠次を大将として雨の中、鳶ヶ巣山武田軍夜襲を決行。
    ◆和田業繁・和田信業は鳶ヶ巣山へ後詰で、奪い返したが、
     激しい攻防の末、弟和田兵部正盛が討死。侍大将等多くの将兵も討死。
    ◆和田業繁本人も鉄砲玉にあたって負傷。
     反町大膳亮幸定と矢中の郷士矢中七騎の活躍で
      和田業繁・信業は虎口を脱したが、
      退却の途中、信州駒場で、戦傷がもとで死去。(高崎市史)
    ※矢中七騎(秋山逢殿助、松本九郎兵衛、栗原内記、真下下野、
         大沢備後、福島嘉兵衛、長嶋因幡)
     結局、油断していた鳶ヶ巣山は陥落。
     
 ◆和田業繁は戦死。
   →武田家家臣跡部勝資の長男=和田業盛の娘婿:和田信業が継承。
            (和田義盛の養子説・和田業盛の娘婿説あり) 

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