箕輪初心●群馬:岩櫃城②「歴史+真田一族」

箕輪初心■岩櫃城の歴史+真田一族
■奈良時代~平安時代
上野に9の牧(馬の育成場所)があった。
「しろの牧」・・・吾妻太郎の先祖が牧げん(牧の長官)として下向。
■養和2年(1182)?月28日「一疋栗毛駮(ぶち)吾妻八郎進ず(まいらず)」 
※吾妻氏の最初の文書で、神馬を天皇に献上するため、神主に預けた。  
     (吾妻鏡→中之条歴史民俗資料館:唐沢定市先生)         
□建久年間(1190~1199) 吾妻太郎助亮(すけひろ?)が築城?
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  (※写真は現地案内板:吾妻町教育委員会設置9
   
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●前期吾妻氏:藤原秀郷流吾妻氏説/信濃源氏村上氏説
              (中之条歴史民俗資料館:唐沢定市先生)
  吾妻助亮→○○→助光(弓の名人:吾妻鏡)→○○→○○
               (唐沢先生2008講演会)
■建久6年(1195)9月10日
 東大寺が火事で焼け落ちた。→復旧作業(現在)
  →源頼朝のデモンストレーション行列・・・三列。
この中に、吾妻太郎の名がある。 (吾妻鏡→唐沢定市先生)
■承元元年(1207)
8月15日 鎌倉八幡宮の遅刻した者が多かったが、実施。
8月17日 多くの者が、葬式や病気を理由に申し開きをした。
吾妻助光は「鎧が鼠に食われたので、新しく作った。」
と言って、源実朝から怒られた。
→だから、吾妻家はずうっと鎌倉警護をした。(吾妻鏡)
12月3日  鎌倉実朝屋敷に青鷺が屋根にとまり、不気味なので、 
吾妻助光が呼ばれ、鷹の羽の矢で青鷺の目を霞め、
生け捕りにした。→元の領地を回復したのだ。(吾妻鏡)
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■元弘3年(1333) 新田義貞の鎌倉攻め・・
  5月15日 秋間斎藤家行など3人死亡。
     ①飽間齋藤三郎藤原盛定  26歳
     ②同孫七家行          23歳
     ③同孫三郎           35歳
               (東村山市徳蔵寺の供養板碑)
「新田義貞・・・新田が福井県で死んだから、北朝へ寝返った。」
※金ヶ崎城→そま山城→●●畷の戦い→新田義貞が戦死。
 12月の「新田義貞シリーズ」?でお会いしましょう。
      
   その後、斎藤梢基(すえもと)は北朝に転向。
          吾妻氏も北朝に転向。

●後期吾妻氏
    ※「斎藤氏は安中の秋間(飽間)出身だ。」(唐沢定市氏)
    ※「吾妻氏は斎藤姓で、碓氷の飽間氏と同族である。」(群馬県史)
■貞和5年(=正平4年1349)
新田系里見一族・・・渋川(旧赤城村)の宮田不動尊を建立=勢力範囲
  ★里見一族+里見八犬伝も12月頃紹介します。
  
  5月15日南朝方の新田一族:里見兵庫義時の岩櫃城の攻撃。→落城。
       岩櫃城の吾妻(下河辺)行盛は吾妻川沿いの立石で自害。
        斎藤行盛の墓は長福寺
       吾妻行盛嫡子:千王丸(憲行)は逃亡。
           →安中秋閒の斎藤梢基(すえもと)の養子に。
■延文2年(1357)
     斎藤憲行が関東管領:上杉憲顕の力を借りて里見兵庫義時を追討。
     斎藤憲行は吾妻郡を奪還→山内上杉氏に被官。
     里見兵庫義時は、岩櫃城→四万を越え、
      →※現新潟県十日町市に新天地を開択。
          ・大井田館他を築城(新潟県十日町博物館)

・????斉藤憲行は岩下城築城?
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・応永12年(1405)斉藤憲行の築城説。
  ※斎藤憲行の子孫は中山・新巻・山田・大野などの一族に分家。
     ①中山・・・高山村の中山古城・中山城・並木城。
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     ①新巻・・・旧東村新巻砦
      ★箕輪初心私見・・平安時代からの天皇の専属の牧場
     ③山田・・・現中之条町山田686-1の山田城
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     ④大野・・・現東吾妻町原町字館・・・稲荷城
      大野新三郎が入城→●稲荷城の大野憲基が実権を掌握。
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  ※斎藤6代は斉藤憲行→行禅(ゆきよし)→行広→行基(行沢観音堂建立)
          →行連(ゆきつら)→基国(=憲広)
     斎藤憲行の曾孫:大野義衡は
       家臣の秋間氏(安中出身)、塩谷氏(宇都宮一族)を攻撃。
・???? 大野義衡が岩櫃城を築城説。居住。
   ★箕輪初心私見「大野の城は稲荷城であると思われるので、砦か?」

■大永年間(1521^28)
   岩下城の斉藤憲次は大野憲直から植栗元吉討伐の命を受けた。
   斎藤憲次は大野氏に叛旗を翻して岩櫃城を攻撃。
   →斎藤憲次が岩下城の支城として岩櫃城を確保。吾妻郡一帯を支配。
   斎藤憲次は関東管領・山内上杉氏の被官へ
  「岩櫃城・・・山全体が自給自足の要塞で城下町もあった。」
 
■天文10年(1541)
   真田幸隆・海野棟綱は武田信虎&村上義清に追われ、
     羽根尾城:羽尾幸全(娘が幸隆妻)のもとに避難。
     真田幸隆は幸全の娘を妻にした。(大河ドラマ・小林計一郞氏)
   ※真田幸隆は→箕輪城の客分として3年間逗留。

■永禄元年(1558) 
   西吾妻には、真田氏同族=滋野一族
     (下尾・羽尾・鎌原・西窪・湯本・横谷・浦野・海野)がいた
   斎藤越前守憲広は滋野一族を支配下にしようと圧力をかけた。
    →岩櫃に近い者の多くは服従。
    (羽根尾幸全・海野幸光は岩櫃城の家老に抜擢。浦野氏など。)

   鎌原城主:鎌原宮内少輔幸重(海野・真田と同族)は斎藤氏と反目。
   斎藤憲広は、鎌原城を攻撃。
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   鎌原幸重は一族をつれて信濃へ逃亡。
      鎌原城に斎藤氏の臣羽尾幸全(道雲)が入城。
   武田信玄は鎌原幸重に知行を授与。
■永禄3年(1560) 岩櫃城攻め計画
   吾妻領土問題(八ッ場ダム西10km)長野原の南地区の領土
   羽根尾幸全(幸隆妻兄・斉藤家家老)VS 鎌原幸重(幸隆親戚)
    ↓                     ↓
   斎藤憲広   VS    鎌原宮内少輔幸重+真田幸隆+甘利昌忠
   鎌原氏は真田幸隆・甘利昌忠を経由して武田信玄に内応。
   信玄は吾妻計略の好機と見て出兵。
   斎藤憲広は鎌原が信玄方についたのを知り、上杉謙信に助けを依頼。
                      (真田三代:清水昇)
   上杉謙信が関東第一次出兵。
      沼田城に侵攻。北条孫次郎らは撤退し、沼田顕泰は降伏。
      岩下城の旗頭は、斎藤越前守憲弘・山田氏である。 
(*関東出兵の時、岩櫃城の名はない)

■永禄4年(1561)8月
 ●武田信玄は岩櫃城を攻撃命令。
★箕輪初心所感「武田信玄 VS 長尾景虎 の代理戦争の勃発」
 
 ●第1次岩櫃城攻撃 真田幸隆:上州先方衆
   斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重
       +矢沢薩摩守頼綱(幸隆弟)+湯本幸重+横谷3000人以上の兵
   真田・甘利軍は3000で鎌原城を奪還。斎藤憲広は敗走。
   斎藤憲広の降伏のみ→反撃 (「真田三代」)
□永禄5年(1562)?真田幸隆の吾妻侵攻 
  ★箕輪初心「おそらく、羽根尾城を攻撃。
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■永禄6年(1563) 
 8月 長野原の合戦
  ①長野原城(群馬県長野原町役場上)羽尾幸全(幸隆の妻の兄)を攻略。
          追放。→真田幸隆の弟:常田俊綱が長野原城へ入城。
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 ★箕輪初心私見「+王城+立馬砦+雁ヶ沢城(横谷氏)を配下にした?」
   吾妻渓谷の北側
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  ②柳沢城・丸岩城(群馬県長野原町)を攻略。
   吾妻渓谷の南側
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  ③真田幸隆は手古丸城(+大戸城)大戸中務少輔を攻略。
  →手古丸城に陣? 
    大戸氏は人質を出して、真田の配下に。(群馬県史)
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    斎藤憲広は上杉輝虎(謙信)を頼った。沼田朝泰・長尾憲景が応援。
  9月 真田幸隆のいる手古丸城を攻撃。→斎藤は攻略できず。
  9月 斎藤憲広が長野原城を奪還。真田幸隆弟:常田新六郎は戦死。
    
 ●武田信玄は直ちに真田勢3000に出撃命令。
      長野原城→雁ヶ沢城と進軍。
 
 ●第2次岩櫃城攻撃・・・横谷氏の居城雁ヶ沢城より出陣。
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★箕輪初心私見「雁ヶ沢城は吾妻渓谷の入り口である。
   ここから、出陣し、岩島の三島に本陣を構えた。
   とすれば、岩下城=岩櫃城の可能性がある。(唐沢説)
 ※岩下城は岩櫃山の西端。岩櫃城は岩櫃山の東端にある。
   また、岩下城が齋藤憲弘の最大の城として機能していた可能性がある。
   
   岩櫃城攻撃ならば、吾妻川の対岸でもよいはずである。」
  
  9月 ④岩櫃城(群馬県吾妻町)を攻撃。
   斎藤憲広500+沼田勢(沼田氏)500+白井勢(長尾氏)200
                VS
   真田軍:岩櫃城には500? 雁ヶ沢の800 大戸へ1000以上
                (真田三代:加沢記)
        斎藤軍は岩櫃城を出て、小競り合いが続く。
   真田幸隆は険しい自然要害と上杉謙信配下の沼田城援軍などで攻撃中断。
  
  10月真田幸隆は岩櫃城からの攻撃を避けて、憲広との和議を計画。
   真田幸隆の和議作戦・・・斎藤憲広は和議を承諾。
①元の所領を返すこと
②齋藤憲広の長男:憲宗を矢沢頼綱(幸隆弟の養子)にすること
③兵を全面撤退すること・・・・(小板橋氏2010年講談)
   真田幸隆の調略作戦  真田幸隆は和睦の知略を計画
  ※調略①矢沢薩摩守(幸隆弟)を使って、斎藤憲広の弟:斎藤則実に対して、
    ・真田幸隆は「斎藤則実を岩櫃城の城主にする。」と口車に乗せた。
    ・善導寺の僧の仲介で、鎌原を場内に入れる。
    ・鎌原は憲広の甥斎藤則実館に泊まり、「本領安堵。」を伝え、裏切らせた。
    ・10人の離反者の連判状を矢沢がもらった。(真田三代)
     {斎藤則実・羽根尾幸光・海野輝幸・植栗・富沢但馬守父子
       ・唐沢杢之助・蜂巣か}
  ※調略②海野一族で羽尾幸全の子:海野幸光・輝幸兄弟の内応を画策。
    ・幸隆弟:海野左馬充(さまのじょう)が斎藤憲広家老:
          羽尾幸全・幸光(幸隆の妻兄弟)と接見。
     一族の縁で羽根尾城:羽尾幸全・幸光と協定。
     和睦後、急に攻撃再開。
 
 ●第3次岩櫃城攻撃・・・再び岩櫃城を攻撃。
  10月13日、真田幸隆は手古丸城(大戸:見張りの出城)を出撃準備。
    真田信綱2000は沢渡から、真田昌幸・矢沢500は大戸口へ、
       その他500で城を包囲。
    斉藤憲広は籠城。真田幸隆は内応の忍者に会い、
      海野兄弟に憲広の館に放火を指示。
  10月14日  海野兄弟が城の憲広館に放火。 
    真田幸隆は500の手勢で奇襲開始。→総攻撃。 
    説① 羽尾幸全(真田幸隆妻の父)内側から門を開けさせ進入。
                 (真田三代の?説)
    説②→総攻撃。憲広甥:則実が開門。(真田三代の清水昇説) 
  結果・・・斎藤側
    ①自害を決意した父:斎藤憲弘に、斎藤憲宗「これはもったいなき事
     なり。我らが防ぎ申さんに、一先(ひとまず)越後に落ち給い景虎卿を
     相頼み・・。」(加沢記)
     斎藤越前守憲弘・憲宗父子は上杉謙信の越後に逃亡。(真田三代)
★箕輪初心「たぶん、坂戸城の長尾政景屋敷?」
    ②斎藤憲広の末子:城虎丸は残党に護られ、嵩山城に逃亡。(真田三代)
     城虎丸は嵩山城にいて、・・・(群馬県史P604)
        中山氏、尻高氏の支援を受け、籠城。
     城虎丸は嵩山城(中之条町)岩櫃奪還の機を伺って、四万川で対峙。
  結果・・・真田側   
    ①武田信玄の命で、真田幸隆の吾妻の統率者。
    ②岩櫃城には、三枝松土佐守、鎌原幸重、湯本善太夫が岩櫃城の城代。

■永禄7年(1564) 1月~  武田信玄の論功行賞の開始。
    ①武田信玄→鎌原幸重に書状
       「斎藤弥三郎以下、岩櫃城攻めに加わった者の人質を出せ。」
 2月~②折田将監・蜂巣賀・村上・湯本・鎌原重澄・湯本善太夫などが
           本領安堵&新領地獲得
    ③鎌原と羽尾の境は、熊川・。赤川の落合より南が羽尾~~~。」
       小森・与喜屋は鎌原領土を決定した。(群馬県史) 

■永禄8年(1565) 2月7日 諏訪明神・新海三社神社(佐久)で戦勝祈願。
   「箕輪城(高崎市)を攻略した後は、惣社(前橋市)・白井(渋川市)
    ・嵩山(中之条)の四邑、たやすく予の掌握に属し、凱歌を奏し
    帰楽安泰せば、・・・」(新海三社神社)
 ※つまり、上州の至る所で、武田軍は戦っている。特に、箕輪城関係の城と
 10月下旬 越後から戻った斎藤憲広嫡子:憲宗が
      ・沼田城代:栗林政頼・白井城:長尾憲景・中山城:中山
      ・尻高城:尻高・名胡桃城:小川氏の援助で嵩山城入城。
   斎藤憲宗が岩櫃城攻撃。
   真田幸隆は和議を調え、斎藤氏の家老:池田重安を会見。→人質交換。
 11月10日 真田幸隆は嵩山方の池田佐渡守父子を山田郷150貫文で契約。
       (裏切り作戦:山田郷は元齋藤憲広家老の山田氏の所領)
 11月16日 成田原→五反田の台で激突。夕方、戦闘は嵩山城に移行。
 11月17日 真田幸隆が加勢を待って、300で、嵩山城を攻撃。
        西窪・唐沢・蜂巣賀が戦死。
       →越後からの増援500を率いていた斉藤憲宗は自刃。
      城虎丸は大天狗から身を投げて投身自殺。落城。
       →斎藤氏は滅亡。嵩山城は廃城。
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  →●岩櫃城は箕輪城の攻撃の北の拠点
    真田幸隆が渋川市子持の白井城を攻撃。

■永禄9年(1566) 武田信玄は真田幸隆を吾妻郡代
         羽尾幸光・海野輝幸兄弟が岩櫃城城代として入城。
 ●武田信玄は浦野(大戸氏分家説・甲斐の浦野氏説)・湯本・鎌原・横谷
       ・西窪・植栗・池田を幸隆の直属に指示。 
      (松井田城の安中氏が攻略できず、箕輪城に矛先を変更)
 ●箕輪城9回目侵攻 
  9月29日(新暦の11月2日?)箕輪城主長野業盛(氏業)は自刃。
  1541年に上州箕輪城主長野業政を頼った真田幸隆は北から攻撃。
   →真田幸隆が箕輪城管轄地の区割りを命ぜられる。(生島足島神社蔵)

■天正3年(1575) 長篠の戦い・・・・真田信綱、昌輝兄弟が戦死。
    真田幸隆3男の昌幸が真田家を相続。(←武田家臣:武藤家養子)

■天正8年(1580)真田幸隆3男:真田昌幸が沼田城に無血入城。
    真田昌幸は信濃上田城、上野岩櫃城と沼田城の三城を持つ。
    岩櫃城は上田・沼田間の基軸。昌幸の嫡子真田信之が城主。
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■天正9年(1581)沼田城代は海野兄弟。・・・不満→北条氏にそそのかされ反乱。
    →真田昌幸は攻撃し、討伐。城代は矢沢頼綱(幸隆弟)。
    岩櫃城は上田・沼田間の基軸。・岩櫃城は池田・鎌原・湯本が城代。
    ・真田昌幸は甲斐新府城の普請奉行。
 ※武田氏は遠江方面の高天神城の敗北
   →木曾義昌や穴山梅雪等の家臣団の離反→滅亡への道を進む。
    写真は高天神城の看板:掛川市教育委員会
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■天正10年(1582)  武田勝頼より、娘婿の木曾義昌が反旗。
   織田・徳川の甲州侵攻で、築城中の新府城(縄張りは真田昌幸)では
   戦えないと判断。
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  ①2月 真田昌幸は、武田勝頼を岩櫃城に来るように説得。
        武田勝頼のために岩櫃城に曲輪と仮御殿の造営開始。
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   3月 武田勝頼は都留郡の小山田信茂の岩殿城に逃亡。
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      笹子峠で小山田信茂に裏切られ、天目山で自刃。→武田が滅亡。
  ②?月真田昌幸は、織田信長に馬を贈り、臣従の意を表。
   6月4日 織田信長は明智光秀に殺される。(本能寺の変)
  ③?月   北条氏直が海野へ出兵。→真田昌幸が北条氏に属下。
      徳川家康が北条氏直と和睦。・・・甲州信濃は徳川分・上野は北条分
  ④9月→真田昌幸が、徳川家康に所属。
   *真田昌幸は主君を4回かえる慎重ぶり
  (真田昌幸は上田城・岩櫃城を拠点に上杉・北条・徳川の諸将と
         集合離反を繰り返した。)

■天正12年(1584) 真田昌幸500人VS北条綱可2000人。
              手古丸城で勝利。

■天正13年(1585) 第1次上田合戦
     徳川家康は真田昌幸に「上州沼田領の北条氏への明け渡し」を命令。          
→真田昌幸は明け渡しを「いやだ。」と拒否。豊臣秀吉に告訴。
     徳川家康と対立。
  ⑤7月 真田昌幸は徳川から上杉景勝に接近。→真田昌幸は上杉景勝に所属。
    ・真田昌幸は上杉景勝支配の海津城に真田信繁(幸村)16才を人質に。
    ・北条氏との間で沼田城をめぐって対立。
    ・徳川家康は真田昌幸を攻めるために小県に出兵。
     徳川軍・・・大久保忠世・大久保彦左衛門・鳥居元忠・平岩親吉など
           +保科正直(家康異父兄弟:箕輪城明け渡し)
           +屋代+諏訪+依田玄蕃
       VS 
     真田騎馬200余騎馬+雑兵1500余人・・国分寺~神川(加沢記)
  8月2日徳川の大軍と上田城東を流れる神川の付近で合戦し撃退。
     ・真田昌幸は上杉景勝を通じて秀吉に接近。
     ・豊臣秀吉は上杉景勝に援助上田城の援助命令。
     ・上杉景勝援軍が根小屋城(上田市真田・・砥石城北)に到着
     ・徳川軍は丸子城に矛先を変え、東側の八重原に布陣。
     ・真田昌幸は手白塚(塩川)に出て牽制。
  8月19日 諏訪頼忠が丸子城を攻撃開始。合戦が開始。「丸子表の戦い」で、
     ・丸子城主丸子三左衛門(三右衛門)らが少兵力で城を死守。
  8月20日 真田昌幸は長瀬河原へ出て、鉄砲で諏訪軍の背後を急襲。
     ・徳川方の岡部長盛は軍を三手に分けて出撃し、河原町に放火。
     ・真田軍を退破。
     ・徳川軍は辰ノ口側から丸子城に攻撃。→結局落城せず。 
     ・真田昌幸・信幸父子が国分寺で徳川軍を撃破→天下に勇名=有名人?
  8月26日 井伊隊5000到着。→すぐに撤退命令。
  9月 ・北条氏直は沼田城に侵攻2回。
     ・矢沢頼綱が沼田城を死守。上田から援軍が到着。
  10月 真田昌幸は豊臣秀吉の招きで信幸・信繁(幸村)と大坂城に出仕。 
     ・信濃の松本城の石川数正・小笠原が家康にそむき豊臣秀吉の下へ。
  11月 徳川軍は信濃から撤退。(真田三代)
■天正14年(1586) 
  11月 豊臣秀吉は上杉景勝の仲介で昌幸を許し昌幸を徳川家康の配下と命令。 
■天正15年(1587)
  3月  真田昌幸は駿府で家康に謁見。
      北条氏は明徳寺城を築城し、監視を開始。(名胡桃城対策)
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■天正17年(1589)
  ?月 真田信之が徳川家康養女(本多忠勝娘)の小松姫と結婚。
  8月 関白豊臣秀吉の裁定で、
      ・沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土.。
      ・名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土。+伊奈
      →真田信幸は沼田城を北条氏直に渡す。名胡桃城は真田氏に残す。
       矢沢頼綱は沼田城から退去
 11月 北条氏直は名胡桃城を奪取。鈴木主人討死。 
     沼田城主猪俣邦憲は南西の榛名峠城から名胡桃城を奪取(名胡桃事件)。
     説①猪俣邦憲の独断説  (鉢形城開城:鉢形城博物館)
     説②北条氏邦の命令説  (????)
     説③徳川家康の陰謀説 (真田太平記)
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     真田昌幸が徳川家康に苦情→豊臣秀吉は北条氏政に質問
 12月 北条勢:猪俣邦憲は大戸(東吾妻町)から岩櫃城周辺を
       大戸(東吾妻町)から攻撃。
     →豊臣秀吉の小田原征伐の口実・豊臣秀吉は北条氏追討の指令。
■天正18年'(1590) 北条氏の滅亡。
■慶長5年(1600)  
  第2次上田合戦・・西軍の真田昌幸・幸村(信繁)父子は徳川秀忠率いる
           徳川本隊を撃退
  関ヶ原の戦い・・
    西軍の敗北で改易。九度山に真田昌幸・幸村(信繁)父子が蟄居。
    東軍の勝利・・沼田城初代藩主:真田昌幸の嫡子:真田信之(信幸)
           の沼田城の支城:岩櫃城もゲット。
・慶長15年(1615) 一国一城令により岩櫃廃城(説)。
・慶長18年(1613) 廃城   (岩櫃城立て看板+αより)

岩櫃城温泉

※岩櫃城築城説の解釈
①「吾妻太郎が築城説・・・少数説。
   こんな山に、源頼朝の御家人が生活するはずがない。
   群馬県では、平安時代までの国司のいる郡庁などに入るケースが多い。
②「斉藤憲行が築城説・・・少数説。
   この時代1405年。山城に住む必要性がない時代であった。
③「大野義衡が岩櫃城を築城説。・・・多数説・定説。
  「岩櫃城は、吾妻を支配した大野氏が築き、その後斉藤氏が居城した。
   それを真田幸隆が奪取した。」が主流。
 岩下城=岩櫃城説の可能性が多い説になる。結構、苦しい通説である。
 大野義衡は本城の稲荷城(東吾妻町館)の砦の可能性はある。
  ちなみに、弟のいる山田城は3,5km。
④「真田幸隆築城説」・・・唐沢定市先生説
    (群馬県史:中世部会/箕輪町誌/現吾妻町歴史民俗資料館館長)
  岩下城=岩櫃城説は、違っているのではないかと言われた。
  ※唐沢定市先生は「岩下城は岩下衆(斉藤氏)の本城だと思われる。」
   と2009年の講演会で説明されていた。
 *永禄3年(1560) 長尾景虎(→上杉輝虎→謙信)の関東幕注文斎藤一族の
  本拠地近くのはずである。
  「岩櫃山の西半分の地区」・・・*矢倉駅から西へ1,2km。
       郷原駅から2つ手前橋の北の山。歩いて30分
 ※唐沢先生は吾妻町歴史民俗資料館発行の冊子で、
  「大野氏、斉藤氏が居城し、真田幸隆が奪取したのは岩下城。
    岩櫃城は、岩下城奪取後に真田幸隆が新たに取り立てた。」
   と書いておられる。
  「岩櫃城が名前として資料にあらわれたのは永禄9年。」
  ※郷原地区の北の山(唐沢先生説)・・
     郷原駅の北西の奥の山の写真かもしれないという。    
★箕輪初心私見「斎藤憲行築城説=砦築城説」
 理由1・・大永年間(1521^28) 岩下城の斉藤憲次は大野憲直から
       植栗元吉討伐の命を受けた。
   斎藤憲次は大野氏に叛旗を翻して岩櫃城(唐沢説では岩櫃城ない)を攻撃。
   →斎藤憲次が岩下城の支城として岩櫃城を確保。吾妻郡一帯を支配。
   岩下城は家臣:富沢但馬が城代だったらしい。
   斎藤憲次は関東管領・山内上杉氏の被官へ
   ・・・なので、斎藤憲行ではないか。
理由2・・房総の里見一族の正木家からの応援依頼には「宮野~岩下~秋閒~沼田
    ・・・安房に北条氏は侵攻して侵攻してきているので、助けて下さい。」
     という内容の手紙が届いた。
 長尾景虎の第一回関東出陣8000(+白井城長尾+総社長尾+足利長尾+長野氏)
 ①宮野城→②岩下(岩櫃城)→③明間(秋閒城)→④沼田之城
                  (群馬県史P603)
 8月29日 関東管領上杉憲政を奉じて厩橋城(群馬県前橋市曲輪町)に入城。
      とあり、岩下城(岩櫃城)を築城した斎藤憲行から5代目の
      斎藤憲広は岩櫃城にいた可能性が高い。
 1560年9月の関東幕注文では、岩下衆斉藤氏は、上杉謙信の配下に入った。
     斎藤越前守と山田の2名(同じ家紋)しか出ていない。
       後は数名分は切れちゃったらしいが、・・・ 
理由3・・武田信玄は1560年に、真田幸隆・甘利昌忠に出撃命令を出している。
    ・・・勧進帳はあるという。(CURURU富岡氏)
    これに、対抗するには、岩櫃城のような要塞堅固の城が必要だった。
    以前から山城を作る必要があったのではないか?斎藤憲広以前に・・・・。
理由4・・城の規模が違うので、疑問。岩櫃城の規模はもの凄くでかい。
     大勢の軍勢の籠城も可能。
     斉藤氏、大野氏の動員勢力はも500~600程度。
       箕輪城で1500程度。大丈夫?
     岩櫃城の至る所に兵士を配置するのは、不可能。
     ・・・周辺の砦も見あたらない。
     真田幸隆の動員兵力ならOKか? 真田幸隆+甘利昌忠
      +鎌原宮内小輔幸重(幸隆の甥)+矢沢薩摩守頼綱(幸隆弟)
      +湯本幸重+横谷・3000人以上の兵だから。
     岩櫃城を有効活用できるが、詰めの城が必要ではないのか?
理由5・・・岩櫃城に「一城別郭」の縄張りはない。
    大野氏、斉藤氏の城は「一城別郭」であるはずなのに、不思議である。
    真田の攻撃の前に永禄年間前には、早急に壮大な城を造る必要に
    迫られたのではないか?
理由6・・岩櫃山の周辺に小さな砦がない。・・・絶対的な人数がいない。
     箕輪城は200mごとに砦を構築。
※実の所、何がなんだかわかんない~~~

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  • 箕輪初心●第7弾岩櫃城跡探検隊2『下河辺伝説&斉藤憲行伝説』

    Excerpt: ★第7弾岩櫃城跡探検隊の御前の部は「講演会」である。 第1部:歴史講演=高橋政充先生:東吾妻町教育課次長 ・学芸員 『岩櫃城の歴史と伝説』の続編である。高橋先 生に感謝申し上げます。 Weblog: 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行 racked: 2013-06-04 07:27