箕輪初心■箕輪城シリーズ25「箕輪城&北条氏滅亡」

箕輪初心●「垪和信濃守+保科正直・・・&大導寺政繁」
■天正18年(1590) 秀吉の北条攻撃
★箕輪初心私見「後北条氏の時代には城の拡張工事のため、大手口は西側に変更し、
宿の地名が残る南西部に町人の居住区を建設したのではないだろうか?」
しかし、天正18年に、上杉景勝の家臣:真田昌幸は箕輪城の受け取りに来た。
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「北条氏流の畝堀・障子堀は、発見されていないのでは?}
  →秋本氏「大堀切の切れ目の虎蹈門近くで1つの畝発見。でも、断定できない。」
  →秋本氏「本丸西門の橋の下の石垣は小田原城三の丸の石垣と構造が同じ。」

■天正18年(1590) 秀吉の北条攻撃
  豊臣軍約200000騎?  VS  北条軍34250騎    
       (秀吉が調べた北条家人数覚書:毛利家文書)
  *北条氏邦・・・・・5000騎(鉢形城・深谷城・倉賀野城・厩橋城・箕輪城・沼田城)
  *大導寺政繁・・・1500騎(川越城・松枝城)
  *波賀駿河守・・・見失      (毛利家文書・・・鉢形城博物館の本)
 
  *近藤先生説は(垪和信濃守=垪和伯耆守康忠説である)
  *私見・・・芳賀信濃守=塀和伯耆守康忠の嫡子説? 
   理由・根拠
    ①併和康忠は年齢的に高い。併和康忠は倉賀野城の城主。
    ②多米出羽守平長定が山中城に行ったため、箕輪城に北条氏邦が派遣?
  *近藤説・・・「北条氏が籠城手配は白井城・松井田城・西牧城・館林城の4城。」
1)白井城
2)松井田城
3)西牧城
4)館林城
          

■天正18年(1590)
 A、秀吉軍の北国軍(前田・上杉・真田昌幸ら)が北条の城を攻撃。
   3月?日 前田利家が福井経夕→東山道木曽→佐久郡へ到着。
        上杉景勝と真田昌幸が合流、北国軍。
   3月15日 真田氏先兵が碓氷峠で大導寺政繁と交戦。
   3月18日 北国軍が碓氷峠で北条先兵を破る。 (松井田の坂本愛宕山城か?)
   3月28日 松井田城を包囲攻撃、落ちず。
          大道寺政繁は北国軍に備えて、碓氷川から石を運んで工事。
   4月?日 西牧城(多米元忠)への攻撃→多米元忠が西牧砦で討死。
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   4月?日 厩橋城(?)を攻略。・・・・浅野長政ら
   4月7日  秀吉から真田昌幸が松井田に付城普請を命じられる。
   4月12日 真田昌幸が手勢を連れて碓氷峠で80人を討取る。
   4月20日 松井田城(大導寺政繁+子直繁1500騎)落城
              →大導寺政繁は前田の道案内。
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   4月?日 和田城(和田○繁)も落城・・・・・・・・・・・前田・上杉
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   4月?日 倉賀野城(併和○○)も落城。
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   4月24日 →大導寺政繁は前田の道案内で前田・上杉・真田が箕輪城へ・・。
                       (鉢形城開城:鉢形城博物館)
    ・箕輪城(垪和康忠の子)も降伏開城・・・・
    ・前田・上杉軍の前に4月24日、闘わずに降伏開城。真田昌幸が入場。
      ①北条氏の垪和氏・保科氏が守備(高崎市史の資料)
      ②北条氏の芳賀信濃守・保科正直が降伏。(みさとの歴史)
      ③芳賀信濃守は逃亡し、保科正直が降伏。(近藤先生:箕輪町誌の松城通記)
      ④4月24日、垪和信濃守は北国勢に降伏。(近藤先生:箕輪町誌の「箕輪城と長野氏」)
      ⑤去弐四日書状今日弐九披見候箕輪城之儀羽賀信濃守追出
        保科居残城相渡候付て羽柴孫四郎・・・
        (近藤先生:箕輪町誌の4月29日の秀吉書状4月24日の
              真田の報告に答え、箕輪城で在城処理。
  4月29日 秀吉から真田昌幸は、箕輪城の武具受領や百姓環住などの仕置きを指示。
       人身売買の禁止。  
         
 
  5月?日  ・館林城は開城・・・・・・・・・・・石田三成2万で攻撃
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  5月?日  ・金山城も落城廃城・・・・・・・・・・・石田三成
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  5月?日  ・松山城(北条氏房)が落城。
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        ・川越城(大導寺政繁)が落城。
        ・既に松井田城で前田利家の家臣になっている。
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  5月中頃  北条氏邦が岩槻・鉢形・八王子・忍・津久井の助命を嘆願。
         →秀吉は許可せず。
  5月20日 岩槻城が落城。
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        ・鉢形城攻撃開始 上杉勢が中心
  6月14日 ・鉢形城(北条氏邦)も落城・・
         上杉勢が中心・真田・上杉+浅野長吉+本田忠勝。
   ★箕輪初心私見「真田は箕輪城に在城処理。」
        (根拠・・鉢形城博物館の発刊の本には真田の名前がない。)
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 6月中旬  ・武州忍城の開始。水攻め失敗・・・・・・石田三成 
      →前田勢(大導寺政繁が前田利家の道案内役。北条家の領内の忍城を攻撃。
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 6月23日 八王子城(北条氏照)が落城。
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 6月下旬  ・津久井城(旧武田家臣→北条家臣の内藤景豊)が落城。
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       ・韮山城(北条氏規)が落城。
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 7月5日  ・小田原城(北条氏直・氏政)が開城。
 7月11日 ・北条氏政・北条氏照・大導寺政繁・松田憲秀が切腹。 
 7月16日 ・武州忍城(成田氏長)降伏。前田+上杉+真田が後から合流。
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B,秀吉本軍・家康軍10万人
 3月29日 山中城(静岡県三島市:100名城)落城(小田原攻めの最初の戦場)
   元箕輪城主多米出羽守平長定などの死(山中城3の丸跡の宗閑寺の立て看板
     ・・・静岡県三島市教育委員会)
   しかし、箕輪(高崎市)の教育委員会の刊行物には、多米氏はない。
  *宗閑寺は静岡市の華陽院の末寺。開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女お久の方(伝)。
   山中城落城の際、北条軍の間宮豊前守康俊兄弟とその一族、城主松田右兵衛太夫、
   群馬県の箕輪城主多米出羽守平長定・間宮豊前守の墓と豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末
    の墓碑が並んでいる。
  4月2日 石垣山城(一夜城)の築城。

  4月21日 玉縄城(北条綱成)が落城。  海から毛利水軍。(小田原城博物館)
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  7月5日  3万人籠城の小田原落城。
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  →裏切り行為が秀吉の勘気に触れ、切腹。松井田町の補陀寺に墓がある。

●大導寺政繁・・・北条家の「御由諸家」の家柄で、川越城主→松井田城主+小諸城主」
 戦国時代の始まる前、京都に7人の仲間が集まり、「誰かが一国一城の主になったら、残りの 
  6人はその家臣になろう」と約束した。このうちの一人が、北条家を創始した 。
  伊勢新九郎=北 条早雲である。残りの
  6人は約束通り、北条早雲の家臣となった。
  この6家臣の家柄を「御由諸 家」と言い、「大導寺家」もその一家である。
 大導寺政繁は北条家三家老の一人。鎌倉や川越の町の美観・運営発展に貢献。
 
天正10年(1582) 「神流川の戦い」 対織田(滝川一益)攻撃の先陣。
          川越城主→松井田城主+小諸城主も兼任。
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 ★箕輪初心私見・・旧武田家臣を北条氏の家臣団として武田氏同様に所領安堵したのでは?
      但し、家族は人質として預かり、北条氏家臣に外人部隊として編入しかも?
      例えば、①禰津元直は、禰津城(東御市のIC上の城)
          ②保科正直は、北条氏直の案内役で信濃国へ戻り高遠城へ入城。
   大導寺政繁を信濃方面隊(旧武田領の支配)の隊長に、長男氏直・3男氏邦が推薦し、
   領土拡大に努めたのではないだろうか? あっという間に、領土を佐久南部から甲斐の
   北部の韮崎まで侵攻していったのではないだろうか? 
    そして、占拠した甲斐の獅子吼城が戦いの場になって
 天正10年(1582)「獅子吼城の戦い」( 徳川氏 VS 北条氏 ) 
     服部半蔵の伊賀組や武田遺臣たちに攻められ落城?(獅子吼城の歴史より)
   私見・・北条氏の領土は、東信濃のみになったのでは?
天正10年(1582)~天正18年(1590)(私見・・何度も箕輪城に来場しているのでは?)
 天正18年(1590) 豊臣秀吉の北条家侵攻の際、前田利家軍の猛攻にあって松井田城で降伏。
   前田利家の道案内役。北条家の領内の忍城を攻撃。
          →裏切り行為が秀吉の勘気に触れ、切腹。松井田町の補陀寺に墓がある。

●保科 正直 天文11年(1542) ~1601年10月24日(慶長6年9月29日説)
   「武田家の【槍の弾正】→北条家の箕輪城在番衆→家康の異父兄弟から家康家臣へ」
   清和源氏井上家の末裔で、保科一族? 異説あり。
天文18年(1549) 父の保科正俊(高遠城主)が武田信玄に敗北し、武田家の家臣。
         →保科正直(家康と異父兄弟)→子は保科正光→保科正貞、
           正直娘(黒田長政室)、娘(安部信盛室)、娘(小出吉英室)、娘(加藤明成室)。
????年   保科正直も甲斐武田氏に仕え、信濃国飯田方面を守備隊。
????年   勝頼の命で250騎を率い伊那郡飯田城を救援『飯田家譜』。
天正10年(1582)3月 徳川の侵攻。仁科盛信らと共に伊那高遠城に籠城。
           落城寸前に脱出。武田氏が滅亡。
       →★箕輪初心私見「保科正直や禰津氏が北条氏家臣に外人部隊で編入?」
            北条氏直の案内役として信濃国へ戻り、高遠城へ入城。
天正11年(1583)徳川勢と交戦。酒井左衛門尉正次(忠次)の取り持ちで本領安堵。
           信州高遠城に移り、信州箕輪城主藤沢次郎頼親の田中城を攻撃。 
天正13年(1585)12月 小笠原貞慶が兵3000で高遠城を攻撃→保科は防ぎきり勝利                                 『家忠日記』。
天正18年(1590) 7月保科正直(旧武田家の旧家臣→北条家家臣)は箕輪城を引き渡し。
            北条氏→徳川家臣?  小田原北条氏攻めに戦功。
           8月徳川家康の関東転封→下総国多古1万石。             
               真田昌幸への上田城攻めなどに従軍して活躍。
慶長5年 (1600)  信濃国高遠城で25000石の加増転封。
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