箕輪初心:●箕輪城シリーズ⑭「第7代真田幸隆(幸村祖父)」

箕輪初心私見「第7代:真田幸隆」
■永禄10年(1567)3月8日 信玄が真田幸隆・信綱の白井城攻めをほめて、
箕輪城の普請と知行割りを行うように指示。(秋本先生・群馬県地域文化233栗原修)
「長野業政に義理がある武田24将の一人。」
画像


「真田一族3代は5人の大物(武田・北条・徳川・上杉・豊臣に仕えた一族。」
★私見・・箕輪城在城期間 永禄10年(1567)3月6日~10月?日(武田義信事件)
A)松尾古城・・・・真田幸隆の生まれた城&詰め城
画像

B)真田館・・・・・・真田幸隆の住んだ館
画像
画像



C)真田本城・・・・真田幸隆の本城
画像
D)天白城・・・・・・真田幸隆の出城(館のすぐ上)
画像

E)矢沢城・・・・・・真田幸隆弟:矢沢頼綱の城
画像


◆◆◆真田幸隆の歴史◆◆◆
*永正10年(1513)海野棟綱の長男?幸隆誕生(4説あり)
*天文6 年(1537) 幸隆長子、信綱の誕生
*天文10年(1541)甲斐の武田信虎(信玄父)+奥信濃の村上義清が
         中信濃の諏訪頼重の海野平滋野諸族(海野・望月・禰津・矢沢)攻撃。
         →滋野諸族の敗退。海野棟綱、幸隆父子?は上州吾妻郡羽尾に逃亡。
         武田晴信は父信虎を駿河へ追放。3年間、箕輪城に客人として逗留。
*天文12年(1543)幸隆は武田に臣従。棟綱、消息途絶える。
*天文15年(1547)武田の佐久内山城(大井貞清)攻め。
          真田幸隆が大井貞清を助命。
*天文16年(1548)武田の志賀城(笠原新三郎)攻め。幸隆が謀略により活躍。
         上田原の戦い。幸隆は謀略で活躍。
          →武田晴信は村上義清に敗戦。家老・板垣信方、甘利虎泰
           初鹿野伝右衛門、才間河内らを失い、晴信も負傷。
*天文18年(1549)4月、幸隆は同族の望月一族、海野一族を武田家臣に推挙。
*天文19年(1550)戸石崩れ。幸隆は謀略で義清の将:清野・須原を味方にする。
          →義清に反撃され、横田高松ら千兵余が死亡。
*天文20年(1551)5月、幸隆は義清の有力武将:高梨政頼を切り離し一日で戸石を攻略。
          砥石城隣の矢沢城:矢沢頼綱(幸隆弟)が侍大将でいたので、
          幸隆が内通し、内側から開城させた。
         1000貫の領地を賜り小県を回復。
画像

画像

*天文22年(1553)8月、3男真田昌幸(→武藤昌幸→真田二代目)を晴信に人質として
            送り、350貫の領地を獲得。
*弘治2 年(1556)8月、幸隆は雨飾城を攻め落とし、城代。

■永禄元年(1558) 吾妻には、真田氏同族=滋野一族
      (下尾・羽尾・鎌原・西窪・湯本・横谷・浦野・海野)がいた
△斎藤越前守憲広は滋野一族を支配下にしようと圧力をかけた。
岩櫃に近い者の多くは服従。羽根尾幸全・海野幸光は岩櫃城家老に抜擢。浦野氏など。
●鎌原城主:鎌原宮内少輔幸重(海野・真田と同族)は領土争いで斎藤氏と反目。
画像

   上野の吾妻<領土問題(八ッ場ダム西10km)長野原の南地区の領土            
羽根尾幸全(幸隆の妻兄・岩下城斉藤家家老) VS 鎌原幸重(幸隆弟の子)
画像
  
△斎藤憲広は、鎌原城を攻撃準備。
●鎌原幸重は一族をつれて信濃へ逃亡、
   △鎌原城に斎藤氏の臣羽尾幸全(道雲)が入城。
   ●鎌原氏は真田幸隆→小諸城主:甘利昌忠を経由して武田信玄に内応。
◆武田信玄は鎌原幸重に知行を授与。
■永禄3年(1560)岩櫃城(*この時、岩櫃城の名はない?)
    武田信玄は吾妻計略の好機と見て出兵。
△斎藤憲広は鎌原が信玄方と知り、上杉謙信に助けを依頼。(真田三代:清水昇)
    斎藤憲広 VS 鎌原宮内少輔幸重(幸隆弟)+真田幸隆+甘利昌忠   
   ▲上杉謙信が関東第一次出兵。沼田城に侵攻。北条孫次郎らは撤退。沼田顕泰は降伏。
    岩下城の旗頭は、斎藤越前守憲弘・山田氏である。(※写真は岩下城・山田城)
画像

画像

 斎藤憲広は鎌原が信玄方についたのを知り、上杉謙信に助けを依頼。
■永禄4年(1561)
 6月21日*長野業政が死去→長野業盛(箕輪軍記・小説箕輪城興亡史)が継ぐ。
   ▲上杉謙信が越後に戻ると武田・北条が反攻開始(西は武田・東は北条) 
8月●武田信玄は真田幸隆を上州先方衆として岩櫃城を攻撃を命令。
   ※岩櫃城はすでにあったらしい?。
   ●鎌原城攻撃
   斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利虎康+鎌原宮内小輔幸重(幸隆の甥)            
+矢沢薩摩守頼綱(幸隆弟)+湯本幸重+横谷・・・3000人以上の兵
   真田・甘利軍は3000で鎌原城を奪還。斎藤憲広は敗走。
 斎藤憲広の降伏のみ→反撃(「真田三代」)
9月10日、第4次川中島大決戦(武田VS上杉)
    甲軍は軍師・山本勘助の「啄木鳥の戦法」。
    真田幸隆父子・甘利は妻女山を攻撃。(※雨宮の渡しより妻女山を望む)
画像

    越軍は甲軍の動きを察知し「車懸かりの陣」。
    武田信玄VS上杉謙信の一騎うちの直接対決?・・・私見「嘘かも?」
  *川中島の決戦跡の碑「山本勘助はきつつき戦法の失敗の責任を取って死にに行った。」
   両軍6,000人余の死者?武田軍の信玄弟武田信繁、諸角虎定・三枝・山本勘助ら戦死。
  山本勘助・・胴合橋・天厩寺(八幡原の東200m)
     武田信繁の墓(上田の布引観音西2km)
   *坂城ふるさと歴史館の複製・・・上杉謙信側から見た川中島の戦いがある。  
11月武田信玄が箕輪城に本格的攻撃
  *西上州の新田信純(丹生城)・高田(妙義)・一の宮・小幡信実が武田側?
11月 長年寺受連覚書(高崎市旧榛名町)・・・・小幡(富岡市)に行って、
   金を払って、信玄から制札(寺を襲わない約束札)をもらった。
                       (まんが箕郷の歴史・秋本氏)
■永禄5年(1562) 
  ●真田幸隆の吾妻侵攻
  ●真田幸隆の誘いに武田氏方に大戸城:浦野氏が乗る。
   →浦野氏が権田・室田(旧榛名町)に放火。
  →浦野氏が長野三河守入道(たぶん業氏)ら80名を討ち取る。(関東古戦録)
    長野三河守入道=たぶん長野業氏だろう。(まんがみさとの歴史・秋本先生)
  甘利昌忠は浦野氏を武田信玄に取り次いだ。

■永禄6年(1563)
 ●「武蔵松山城攻め」米倉晴継が鉄砲で腹を撃ち抜かれ時に自ら馬糞を
       溶かした水を飲んでみせて米倉重継にも飲ませて助かった話」が有名。
  ※桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を破る。             
 ●第1次岩櫃城攻め  
斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重(幸隆の甥)
  鎌原城主:斎藤憲弘家老:羽尾幸全(幸隆の妻兄?)から鎌原城を奪還。
8月 長野原の合戦
①長野原城(群馬県長野原町役場上)羽尾幸全(幸隆の妻の父)を攻略。
    →真田幸隆の弟:常田俊綱が長野原城へ入城。(群馬県長野原町)を攻略。
画像

   ②柳沢城・丸岩城・王城を攻撃。
画像

画像

画像

   ③真田幸隆は手古丸城(+大戸城)大戸中務少輔を攻略。
  陣を置いた?大戸氏は人質を出して、真田の配下に。(群馬県史)
画像
         
斎藤憲広は上杉輝虎(謙信)を頼った。沼田朝泰・長尾憲景が応援。
9月 真田のいる手古丸城を攻撃。→斎藤は攻略できず。
 斎藤憲広が長野原城を奪還。真田幸隆弟:常田新六郎は戦死。
   武田信玄は直ちに真田勢3000に出撃命令。
 ●第2次岩櫃城攻撃・・・横谷氏の居城より出陣。             
   9月 ④岩櫃城(群馬県吾妻町)を攻撃。  
   斎藤憲広(憲弘)500+沼田勢(沼田氏)500+白井勢(長尾氏)200
                VS
真田軍・・・岩櫃城には500? 雁ヶ沢の800 大戸へ1000以上
  ・真田幸隆は岩櫃城からの攻撃を避けて、憲広と和議を結ぶことを計画。
・真田幸隆の和議作戦・・・斎藤憲広は和議を承諾。
・真田幸隆の調略作戦・・・和睦の知略を計画
   調略①斎藤弟に矢沢薩摩守(幸隆弟)を使って、斎藤憲広の弟:斎藤則実に対して
・真田幸隆は「斎藤則実を岩櫃城の城主にする。」と口車に乗せた。
  ・善導寺の僧の仲介で、鎌原を場内に入れる。
・鎌原は憲広の甥斎藤則実館に泊まり、「本領安堵。」を伝え、裏切らせた。
 ・10人の離反者の連判状を矢沢がもらった。(真田三代)
斎藤則実・海野幸光・海野輝幸・植栗・富沢但馬守父子・唐沢杢之助・蜂巣
   調略②海野一族で羽尾幸全の子:海野幸光・輝幸兄弟の内応を画策。
  幸隆弟:海野左馬充(じょう)が斎藤憲広家老:羽尾幸全・海野幸光と接見。
   一族の縁で羽尾城(草津への分岐の西2km)羽尾幸全・海野幸光と協定。
 ●第3次岩櫃城攻撃 和睦後、急に岩櫃城を攻撃。
10月13日、真田幸隆は手古丸城(大戸:現地では見張りの出城)を出撃準備。
   真田信綱2000は沢渡から、真田昌幸・矢沢500は大戸口へ、
      その他500で岩櫃城を包囲。
斉藤憲広は籠城。真田幸隆は内応の忍者に会い、海野兄弟に憲広の館に放火を指示。
10月14日  海野兄弟が城の憲広館に放火。
    真田幸隆は500の手勢で奇襲開始。→総攻撃。
  説①家老羽尾幸全(真田幸隆妻の父)内側から門を開けさせ進入。(真田三代の?説)
  →総攻撃。憲広甥則実が開門。(真田三代の清水昇説)           
    結果・・・斎藤側
  ①斎藤越前守憲弘・憲宗父子は上杉謙信を頼って、越後に逃亡。(真田三代)
   自害を決意した父:斎藤憲弘に、斎藤憲宗「これはもったいなき事なり。
   我らが防ぎ申さんに、一先越後に落ち給い景虎卿を相頼み・・・。」(加沢記)
  ②斎藤憲広の末子:城虎丸は残党に護られ、嵩山城に逃亡。(真田三代)
  城虎丸は嵩山城にいて、・・・(群馬県史P604)                   
中山氏、尻高氏の支援を受け、籠城。
  城虎丸は嵩山城(中之条町)岩櫃奪還の機をうかだって、四万川で対峙。
    結果・・・真田側   
  ①武田信玄の命で、真田幸隆の吾妻の統率者。
  ②岩櫃城には、三枝松土佐守、鎌原幸重、湯本善太夫が岩櫃城の城代。
画像

■永禄7年(1564)
 1月~武田信玄の論功行賞の開始。
武田信玄→鎌原幸重に書状「斎藤弥三郎以下、岩櫃城攻めに加わった者の人質を出せ。」

■永禄8年(1565)
2月7日 武田信玄の諏訪明神・新海三社神社(佐久)で戦勝祈願。
  「箕輪城(高崎市)を攻略した後は、惣社(前橋市)・白井(渋川市)・嵩山(中之条)
  の四邑、たやすく予の掌握に属し、凱歌を奏し帰楽安泰せば、・・・(新海三社神社)
※つまり、上州の至る所で、武田軍は戦っている。特に、箕輪城関係の城と・・・
10月下旬 △越後から戻った斎藤憲広嫡子:憲宗が沼田城代栗林政頼・白井城:長尾憲景
   中山城:中山&尻高城:尻高&名胡桃城:小川氏の援助で嵩山城入城。
  △斎藤憲宗が岩櫃城攻撃。
  ●真田幸隆は和議を調え、斎藤氏の家老:池田重安を会見。→人質交換。
11月10日 真田幸隆は嵩山方の池田佐渡守父子を山田郷150貫文で契約。(裏切り作戦)
11月16日 成田原→五反田の台で激突。夕方、戦闘は嵩山城に移行。
11月17日 真田幸隆が加勢を待って嵩山城を攻撃。西窪・唐沢・蜂巣賀が戦死。
  △斎藤憲宗は大天狗から身を投げて投身自殺。落城。→斎藤氏は滅亡。
  嵩山城は廃城。→●箕輪城の攻撃の北の拠点が岩櫃城になった。
画像

       真田幸隆は稲荷城・山田城・桑田城(中之条から四万温泉方面)
       真田幸隆は・・・横尾城・中山城などを攻撃。

■永禄9年(1566) 武田信玄は真田幸隆を吾妻郡代。
         羽尾幸光・海野輝幸兄弟が岩櫃城城代として入城。
 ◆武田信玄は浦野(大戸氏分家説・甲斐浦野氏説)・湯本・鎌原・横谷・西窪・植栗       
海野兄弟の支配から真田幸隆の家臣とする命令を出した。
 
 ◆【松井田城の安中氏が攻略できず、箕輪城に矛先を変更】
 ◆信玄の箕輪城攻撃(箕輪城9回目侵攻)
 8月 信州佐久の臼田の新海三社神社に戦勝祈願 (新海三社神社の案内板より)
  →田口峠→築城していた砥沢城(群馬の南牧村磐戸)→下仁田→富岡宮崎城→
  (1562年築城の安中の磯部城・八幡陣城)+国峯城(富岡)の小幡信貞→
  ・富岡・吉井の城を次々に攻略し傘下に。
  ・奥平城(徳川家臣奥平信昌の父)・庭谷城など吉井の約20城に侵攻
  ・一郷山城の侵攻・・・藤岡の牛伏山の東250m
    安部中務尉之友は、武田の攻撃を受け、戦死。落城。(一郷山城の資料)
 ?月・倉賀野城落城→信玄の家臣。倉賀野秀景→金井淡路守秀景と信玄が命名。
               (子孫の会・高崎市の街巡りパンフレットを参考)
★私見「箕輪城に詳しい元長野業政の娘婿を味方に抱き込んでの出陣計画。
 ①武田本隊・倉賀野城金井氏・和田城和田氏・国峯城小幡氏→南ルートからの侵攻。
 高崎市若田原南に剣崎城築城(金井氏)→若田原→雉郷山城→榛名:高浜城・・
②岩櫃城の真田幸隆+大戸城の浦野氏→北ルートからの侵攻
    甘利・真田は大戸(東吾妻町)→倉渕→榛名:鷹留城・長年寺を攻撃。
   ・箕輪城1500 VS  武田35000人の兵。(ほとんどの小説)
 2ルート合流・・・箕郷町善地の愛宕の物見岩
 12月 →金敷平(大手虎蹈門西の岸)に在陣し、箕輪城を攻撃。(秋本氏)
    箕輪城主長野業盛(氏業)は御前郭で自刃。

 箕輪城攻めの時、真田・甘利は北の榛名方面から出撃
          真田昌幸の長男、信幸誕生?(信繁・幸村説あり)
 9月29日・・・箕輪城主:長野業盛が自害。→箕輪城落城。
          (※写真は箕輪城祭り)
画像


■永禄10年(1567)
2月~折田将監・蜂巣賀・村上・湯本・鎌原重澄・湯本善太夫などが本領安堵&新領地獲得
鎌原と羽尾の境は、熊川・。赤川の落合より南が羽尾~~~。」
   小森・与喜屋は鎌原領土を決定した。(群馬県史)

3月6日 武田信玄は箕輪城宛に一徳斎(真田幸隆)・甘利左衛門尉昌忠
    ・金丸筑前守虎義に「春日弾正と相談しながら、箕輪城の領土の運営に当たれ。」
   と指示した。 
★私見・・・真田幸隆より甘利昌忠の方が早く箕輪城にいた可能性が高い。
   甘利は永禄9年(1566)9月29日~永禄10年(1567)3月7日まで城代

3月8日 信玄が真田幸隆・信綱の白井城攻めをほめて、
   箕輪城の普請と知行割りを行うように指示。(秋本先生・群馬県地域文化233栗原修)
   →真田幸隆が箕輪城管轄地の区割りを命ぜられる。(生島足島神社蔵)
5月*元上杉謙信家臣大熊伊賀守高秀は富岡・柴・箕輪・行力・大八木の内約317貫
                              (みのわの歴史)
  *禰津元直は小鼻(高崎市小塙町)と大藪(吉岡町・・桃井東城)を約400?貫
★私見・・・「大藪城=桃井東城が箕輪城長野業政の支配下にあったことが判明」
 ・南上州・・小幡重貞が国峰城を再建し推定4万石。2000人の兵。60?の砦支城。
 ・北西部・・真田幸隆が監督。岩櫃城・名胡桃城など(生島足島神社蔵)
       浦野(大戸城)・湯本・鎌原・横谷・西窪・植栗・池田(元嶽山城家老)
 ・武田信玄は、和田業繁に起請文(家来としての約束6箇条)(生島足島神社文書) 

*元亀元年(1572) 上野白井城を計略で落城。
*元亀2 年(1573) 上野白井城が上杉氏に攻略される。武田信玄が伊那郡駒場で病死。
*天正2 年(1574)5月 幸隆が戸石城にて病死。家督は信綱。
            *真田家は面白いよ。(※写真は砥石城本丸)
画像

*天正3年(1575)    長篠の戦い・・・・真田信綱、昌輝兄弟が戦死。
      幸隆3男の昌幸が真田家を相続。(←武田家臣:武藤家養子)
*天正8年(1580)   真田幸隆3男:真田昌幸が沼田城に無血入城。               
真田昌幸は信濃上田城、上野岩櫃城と沼田城の三城を持つ。
              岩櫃城は上田・沼田間の基軸。昌幸の嫡子真田信之が城主。
*天正9年(1581)沼田城代は海野兄弟。・・・不満→北条氏にそそのかされ反乱。
        →昌幸は攻撃し、討伐。城代は矢沢頼綱(幸隆弟)。
        岩櫃城は上田・沼田間の基軸。
         ・岩櫃城は池田・鎌原・湯本が城代。
      ・真田昌幸は甲斐新府城の普請奉行  
     ●武田氏は遠江方面の高天神城の敗北
      →木曾義昌や穴山梅雪等の家臣団の離反→滅亡への道を進む。
*天正10年(1582)  武田勝頼より、娘婿の木曾義昌が反旗。
 織田・徳川の甲州侵攻で、築城中の新府城(縄張りは真田昌幸)では戦えないと判断。
 ①2月 真田昌幸は、武田勝頼を岩櫃城に来るように説得。
      武田勝頼のために岩櫃城に曲輪と仮御殿の造営開始。
  3月 武田勝頼は都留郡の小山田信茂の岩殿城に逃亡。
     笹子峠で小山田信茂に裏切られ、天目山で自刃。→武田が滅亡。<
 ②?月  真田昌幸は、織田信長に馬を贈り、臣従の意を表。               
6月4日 織田信長は明智光秀に殺される。(本能寺の変)
 ③?月北条氏直が海野へ出兵。→真田昌幸が北条氏に属下。
   徳川家康が北条氏直と和睦。・・・甲州信濃は徳川分・上野は北条分
 ④9月 →真田昌幸が、徳川家康に所属。
   *真田昌幸は主君を4回かえる慎重ぶり
(真田昌幸は上田城・岩櫃城を拠点に上杉・北条・徳川の諸将と集合離反を繰り返した。)
*天正12年(1584) 真田昌幸500人VS北条綱可2000人。手古丸城で勝利。
*天正13年(1585)第1次上田合戦             
       徳川家康は真田昌幸に「上州沼田領の北条氏への明け渡し」を命令。             
→真田昌幸は明け渡しを「いやだ。」と拒否。豊臣秀吉に告訴。
        徳川家康と対立。           
    ②7月 真田昌幸は徳川から上杉景勝に接近。
       上杉景勝に所属
   ・真田昌幸は上杉景勝支配の海津城に真田信繁(幸村)16才を人質に。
    北条氏との間で沼田城をめぐって対立。            
      ・徳川家康は真田昌幸を攻めるために小県に出兵。
    徳川軍・・・大久保忠世・大久保彦左衛門・鳥居元忠・平岩親吉など
      +保科正直(家康異父兄弟:箕輪城明け渡し)+屋代+諏訪+依田玄蕃
            VS 
       真田騎馬200余騎馬+雑兵1500余人・・国分寺~神川(加沢記)       
8月2日徳川の大軍と上田城東を流れる神川の付近で合戦し撃退。
   ・真田昌幸は上杉景勝を通じて秀吉に接近。<
・豊臣秀吉は上杉景勝に援助上田城の援助命令。
 ・上杉景勝援軍が根小屋城(上田市真田・・砥石城北)に到着
・徳川軍は丸子城に矛先を変え、東側の八重原に布陣。
  ・真田昌幸は手白塚(塩川)に出て牽制。
8月19日 諏訪頼忠が丸子城を攻撃開始。合戦が開始。「丸子表の戦い」で、
  ・丸子城主丸子三左衛門(三右衛門)らが少兵力で城を死守。
8月20日真田昌幸は長瀬河原へ出て、鉄砲で諏訪軍の背後を急襲。
  ・徳川方の岡部長盛は軍を三手に分けて出撃し、河原町に放火。真田軍を退破。
       辰ノ口側から丸子城に攻撃。→結局落城せず。 
 ・真田昌幸・信幸父子が国分寺で徳川軍を撃破→天下に勇名・・・有名人?
8月26日 井伊隊5000到着。→すぐに撤退命令。
9月北条氏直 沼田城に侵攻2回。
 ・矢沢頼綱が沼田城を死守。上田から援軍が到着。          
  10月真田昌幸は豊臣秀吉の招きで、信幸、信繁(幸村)を伴って大坂城に出仕。        
信濃の松本城の石川数正・小笠原が家康にそむき豊臣秀吉の下へ。
11月 徳川軍は信濃から撤退。(真田三代)
*天正14年(1586)
 11月 豊臣秀吉は上杉景勝の仲介で昌幸を許し昌幸を徳川家康の配下と命令。 
*天正15年(1587)
  3月 真田昌幸は駿府で家康に謁見           
     北条氏は明徳寺城を築城し、監視を開始。(名胡桃城対策の明徳寺城)
*天正17年(1589) ?月 真田信之が徳川家康養女(本多忠勝娘)の小松姫と結婚。             
  8月 関白豊臣秀吉の裁定で、
 ・沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土.。
  ・名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土。+伊奈
 →真田信幸は沼田城を北条氏直に渡す。名胡桃城は真田氏に残す。
                矢沢頼綱は沼田城から退去
11月 北条氏直は名胡桃城を奪取。鈴木主人討死           
     沼田城主猪俣邦憲は南西の榛名峠城から名胡桃城を奪取(名胡桃事件)。
   ・猪俣邦憲の独断説  (鉢形城開城:鉢形城博物館より)              
    ・北条氏邦の命令説                   
    ・徳川家康の陰謀説(真田太平記より)
   真田昌幸が徳川家康に苦情→豊臣秀吉は北条氏政に質問             
  12月 北条勢:猪俣邦憲は大戸(東吾妻町)から岩櫃城周辺を大戸(東吾妻町)から攻撃。
              →豊臣秀吉の小田原征伐の口実
   豊臣秀吉は北条氏追討の指令。
*天正18年'(1590) 北条氏の滅亡。
*慶長5年(1600) 第2次上田合戦
・・西軍の真田昌幸・幸村(信繁)父子は徳川秀忠率いる徳川本隊を撃退
関ヶ原の戦い・・西軍の敗北で改易。九度山に真田昌幸・幸村(信繁)父子が蟄居。
東軍沼田城初代藩主:真田昌幸の嫡子:真田信之(信幸)の沼田城の支城:岩櫃城。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック