箕輪初心●箕輪城シリーズ⑩「長野業盛」

箕輪初心:「長野業盛」の墓=群馬県高崎市旧群馬町井野
★「長野業盛」の墓はかみつけの里 & 高崎北高 の間の井野川沿いにある。
墓守の井出の方や箕輪城語り部の会の斉藤嬢の話では、西光寺の僧が引き取って
埋葬したという。

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■弘治4年(1557) 第三次川中島決戦
 4月 武田晴信(信玄)の初上州侵略①:西上州侵攻開始・・・失敗。
    松井田城(安中氏)に侵攻 武田氏の上州攻略:瓶尻(かめじり)の戦い
  13000の兵を以って上州に侵入した武田軍は瓶尻(かめじり)において長野業政率いる軍と
  戦った。(長野業政は全軍の総司令官だが、同心(近藤先生曰く)と呼ばれる同盟軍のようなも
  の。)67歳?の長野業政は巧みに武田軍の出鼻を挫き、全軍に総攻撃を命じた。しかし、西毛
  の諸武将の足並みがうまく揃わず突撃に失敗し、武田軍の反撃に会い、長野業政は箕輪城に退却
  した。武田軍は勢いづいて箕輪城を攻撃したが、長野業政の巧みな指揮で城を落とすことができず、
  甲州へ引き返えした。
   瓶尻の所在は不明。妙義から松井田にかけた人見城付近か磯部西地域か?
  *武田軍は、この戦いで鉄砲(天文12年1543年に鉄砲伝来)を使用。
   TV「風林火山」では、山本勘助が根来衆から鉄砲を購入?
    →長野業政は、箕輪城と倉賀野城などの支城網を駆使し撃退。
@永禄元年(1558)
■永禄2年(1559)
  ・長尾景虎は前橋の厩橋城に関東出兵の本拠以降の13回
  ・武田信玄は上州に出兵② 9月 信玄が板鼻に陣取った際に倉賀野氏従った?  
    →倉賀野氏の内部分裂があったと見られている。(倉賀野の歴史より)?
   若田原(高崎市八幡町)の戦い・・・・長野業政は武田軍を迎撃し撃退。

■永禄3年(1560) 桶狭間の戦い・・・織田信長が今川義元15000を破る
  →今川家が衰退 
 *武田信玄家臣真田幸隆の第一次岩櫃城攻め計画
 ・斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内少輔幸重(滋野一族支族)
  1)斎藤憲広は、鎌原が信玄方についたのを知り、上杉謙信に助けを依頼。
  2)過去に村上義清の塩田城を最後に葛尾城などを捨て、越後の上杉謙信に助けを依頼。
3)私見「庇護していた上杉憲政の権力の回復。+上杉姓のブランドが欲しかった。」
 →謙信の関東への越山。(+白井城長尾+総社長尾+足利長尾+長野氏がすぐ参陣)
  謙信は「関東幕注文」を作成したが、箕輪衆、厩橋衆は22で、最大規模。
 箕輪衆(箕輪一族:親戚)・・・同じ旗印
   長野業政(箕郷) 長野新五郎  南与太郎(榛東村) 小熊源六郎(保渡田砦)
長野左衛門  浜川左衛門尉(高崎) 羽田彦太郎 八木原与十郎(渋川市)
須賀谷筑後守(旧群馬町)
家臣・同心衆
   長塩左衛門四郎(吉岡町) 大戸中務少輔(東吾妻町)下田大膳(高崎箕郷支所)
漆原(吉岡町)  内山(富岡市)   高田小次郎(妙義町)
和田八郎(高崎市和田城)   倉賀野左衛門五郎(高崎市倉賀野城)  
依田新八郎(安中市板鼻城)  羽尾修理亮(吾妻)
 厩橋衆・・・長野藤九郎・大胡・引田(旧富士見村)    (群馬県史)
  ①宮野城(猿ヶ京)→②沼田城→③岩下城(岩島)→④明間城(確認できず、岩下衆の安中?)
  →⑤厩橋城(=前橋城)→⑤那波城:那波氏(伊勢崎)→・・・・東毛へ・埼玉県の忍城へ
 
  ・武田は西上州の・高田城:高田氏(妙義町)・松井田城:安中氏を攻撃。

■永禄4年(1561)  2月 上杉謙信は小田原城攻めに失敗。
     鎌倉八幡宮で、関東管領の地位を獲得。上杉姓に改称。 
     上杉謙信は帰路途中、松山城(東松山市)上田氏を攻略・・上杉憲勝が城主。
 6月21日*長野業政が死去
     ①説・・・長野業盛(箕輪軍記・小説箕輪城興亡史)が継ぐ。
     ②説・・・長野氏業(群馬県史の近藤先生は業盛=氏業)が継ぐ。
※死亡を隠していたが、武田信玄にばれてしまった。風雲=不運、急を告げる。 
 ・上杉謙信が越後に戻ると武田・北条が反攻開始(西は武田・東は北条)
 ・9月10日、第4次川中島大決戦(武田VS上杉)
  甲軍は軍師・山本勘助の「啄木鳥の戦法」。 真田幸隆父子は妻女山を攻撃。
  越軍は甲軍の動きを察知し「車懸かりの陣」。
   武田信玄VS上杉謙信の一騎うちの直接対決?・・・私見「嘘かも?」
  *川中島の決戦跡の碑「山本勘助はきつつき戦法の失敗の責任を取って死にに行った。」
   両軍6,000人余の死者?武田軍の信玄弟武田信繁、諸角虎定・三枝・山本勘助ら戦死。
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  11月武田信玄が箕輪城に本格的攻撃
  *西上州の新田信純(丹生城)・高田(妙義)・一の宮・小幡信実が武田側?
・11月長年寺受連覚書(高崎市旧榛名町)・・・小幡(富岡市)に行って、
   金を払って、信玄から制札(寺を襲わない約束札)をもらいに行った。
                       (まんが箕郷の歴史・秋本氏)
■永禄5年(1562) 
  真田幸隆の誘いに武田方に上州鎌原城(鎌原氏:海野一族)・大戸城(浦野氏)が乗る。
  →浦野氏が権田・室田(旧榛名町)に放火。
  →浦野氏が長野三河守入道(たぶん業氏)ら80名を討ち取る。(関東古戦録)
    長野三河守入道=たぶん長野業氏だろう。(まんがみさとの歴史・秋本先生)
  *和田城主和田業繁が武田氏につく?(久保田氏・山田博久氏:残雲)
  *長野業盛は三夜沢赤城神社に戦勝祈願
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■永禄6年(1563)年信玄の直接攻撃
 ・南牧に砥沢砦(南牧村磐戸)を築城。→
    +松井田の愛宕山城・碓氷城・安中八幡陣城・磯部城拡張(1562年)+文殊寺城
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 ・安中氏息子と依田(あしだ)氏(この時は板鼻城)を攻撃→武田方につく。
 ・国峯城の小幡重貞(箕輪城の長野業政の長女が妻)は敗北→武田方に参陣
 ・若田原(高崎市八幡町)の戦い・・・長野氏業の家老藤井が中心になって反撃。
  *中曽根氏(中曽根康弘氏の親戚で、高校先輩)が曰く
   「若田原の俺んちの畑から武具(刀や槍の先・鎧の一部)が多数出土している。」
  私見「この年の戦いか否かは不明だが、確実に若田浄水場付近で戦いがあったろう。」
 ・武田軍は箕輪城を激しく攻撃。落城しないので、
    城外の長純寺(長野氏の菩提寺)・白岩の長谷寺(板東16番)を放火。
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 @12月 長年寺受連覚書(高崎市旧榛名町)・・・・
   甘利は木部城に逗留(浦野家文書)12月に木部城(高崎市木部町)に行って、
   金を払って、信玄から制札(寺を襲わない約束札)をもらった。でも、
   長年寺に武田軍が侵攻し、殺害。生き残ったのは独り。(まんが箕郷の歴史・秋本氏)
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 ・武田信玄は北条氏康との連合軍で松山城(武州)上田氏を攻撃。
 *長尾勢は松山城の取り戻しのため、茨城の古河に居座る。常陸の城を落とす。  

■永禄7年(1564)信玄は飛弾ねらい
 ・第5次川中島の決戦(武田VS上杉) 
 *上杉謙信の6度目の越山関東出兵中に、武田信玄は野尻湖城を奪取したが、取り戻された。    
   川中島で対峙したが、衝突することなく終了。
  足かけ十二年にわたってくりひろげられた川中島の合戦・・・決着着かず。
  武田は飛弾に侵攻・高山の三仏寺・神岡の江馬館・下呂の城などに侵攻 
  「武田信玄は、第5次川中島や岐阜攻めで、箕輪城攻めはちょっとお休み?」 

■永禄8年(1565) 信玄の箕輪城攻撃
 6月・倉賀野城落城→信玄の家臣。倉賀野秀景→金井淡路守秀景と信玄が命名。
               (子孫の会・高崎市の街巡りパンフレットを参考)

 8月 信州佐久の臼田の新海三社神社に戦勝祈願 (新海三社神社の案内板より)
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  →田口峠→築城していた砥沢城(群馬の南牧村磐戸)→下仁田→富岡宮崎城→
  (1562年築城の安中の磯部城・八幡陣城)+国峯城(富岡)の小幡信貞→
  ・富岡・吉井の城を次々に攻略し傘下に。
  ・奥平城(徳川家臣奥平信昌の父)・庭谷城など吉井の約20城に侵攻
  ・一郷山城の侵攻・・・藤岡の牛伏山の東250m
    安部中務尉之友は、武田の攻撃を受け、戦死。落城。(一郷山城の資料)
 ★箕輪初心私見
   ①武田本隊・倉賀野城金井氏・和田城和田氏・国峯城小幡氏
    →南ルートからの侵攻。  
  ②岩櫃城の真田幸隆+大戸城の浦野氏→北ルートからの侵攻
    ・・・「箕輪城に詳しい元長野業政の娘婿を味方に抱き込んでの出陣計画。
    ・箕輪城1500 VS  武田35000人の兵。(ほとんどの小説)
   私見「攻撃数は資料がないからわからないが、甲州+信濃勢のメンバー全員。
   @武田軍が金敷平(大手虎蹈門西の岸)に在陣し箕輪城を攻撃。(秋本先生)

■永禄9年(1566) 箕輪城落城
  *信玄は箕輪城攻撃のため、降伏した倉賀野氏(=金井淡路守)に剣崎城主を命令。
   しかし、現地案内板は別の人  (高崎市の「街巡りパンフレット」を参考)
 ①城主である業政の子業盛は19歳。最後、突撃した業盛は自ら薙刀を揮って28人の敵兵を切り
  伏せた.。業盛はひと反撃して帰城し、一族とともに自刃して落城した。(『箕輪軍記』)
 ②武田信玄の椿山入り口(箕輪小東から侵攻に対し、伊勢守が奮戦。
  信玄は「上泉伊勢守を大胡に帰れ。殺すには惜しい。」と許した。
  そして、上泉伊勢守は信玄の一字をもらって、「信綱」となった。(小説:)  
  ★箕輪初心私見「上泉伊勢守は武田家滅亡後に柳生に行った可能性が高い。」
 ③永禄9年(1566年)9月 信玄は15000の兵で箕輪城を囲んだ。
   城兵は城主長野業盛以下1500人。
   大手口は山県昌景、馬場信房。搦手口は武田勝頼、原胤元、内藤昌豊といった信玄旗下の猛将
   達。この時、長野家の家臣藤井友忠という武将がわずかな兵を率いて城外に打って出て、搦手
   攻撃軍を襲い、一時は武田勝頼を討ち取る寸前まで行ったが、多勢に無勢。背後に回った原胤
   元に斬られてしまった。箕輪城の曲輪が落とされた。これまでと観念した城主長野業盛は御前
   曲輪に入ると、業政の位牌を拝み自刃した。
   「春風に梅も桜も散り果てて 名のみ残れる箕輪の山里」(長野業盛辞世の句)
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   長野家は滅亡した。しかし、落城直前に長野業盛の一子亀寿丸は家臣に連れられて城を脱出し、
   和田山(箕輪城の南南西約3km)に極楽院で匿われた。
   現在の長野家の当主は、亀寿丸の子孫である。 (箕輪軍記→群馬よいとこHP)
  ④上泉伊勢守は笠置山を守っていたが、業政の自刃の知らせを聞き、・・・                            (野口先生の「小説箕輪城」より) 
  ⑤箕輪の城に飯富(おぶ)兵衛・馬場信房・小山田信有らが・・(中略)・
   一隊は搦め手口、自身は法峰寺の一の門に押し寄せた。
   城主左衛門太夫業政(本当は1561年死去)は「吾は・・・関東管領の
   上杉様を再び関東にお迎えしたい。・・・・・・・・。」と業盛に語った。
   大熊は越後の譜代の武士で、輝虎(謙信)に背いて、飯富の手下になった。 
     (*大熊備前守は元上杉謙信家臣で箕冠城主(春日山城の南東部)。)
   大勢の中かに割って入り、5人の突き伏せた。その首を取って引き上げたが、指物を落とし、   
     城兵に奪われてしまった。・・・・(中略)・・・
   後日、信玄はこの働きに感じて、備前守と改名させ、同心30名、足軽5名を預け、
   小畑山城入道日意の娘・・・と娶らせ、遠州小山の城代に据えた。・・(後略)・・                                                              (関東古戦録より久保田訳)
★箕輪初心私見・・・「長野氏時代の箕輪城は、小規模な平山城と考えられるので、
        箕輪城を攻めるには東から入るのが一番手っ取り早いのでは?
        そして、武田信玄との攻防戦における最大の激戦地だったのでは?」
 
@武田信玄書状写 
   ・・・(略)・・・ 騎馬30騎と足軽75騎を預け置かれた。
   大態(本当は熊)備前守殿  永禄6年2月(これはちがう。本当は永禄9年)
  (「関東古戦録」久保田順一訳と「高崎市1994新編高碕市史」の信憑性はOK(秋本氏)

@長年寺受連覚書(旧榛名町)9月29日に箕輪城落城後、信玄に直接会っ寺領安堵。                (まんが箕郷の歴史/秋本氏)
  *長野業盛の子亀寿丸は和田山の極楽院(箕郷町西部病院南西1km)に避難?
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   秋本氏「長野氏の遺構は基本的には本丸・御前曲輪付近だが、木俣にも遺構が発見。」


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