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zoom RSS 箕輪初心:生方▲長野堰:上並榎「長野堰改修紀功碑」⇒請地「長野堰功徳碑」

<<   作成日時 : 2018/04/10 13:58   >>

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平成28年(2016)11月8日 長野堰が世界かんがい施設遺産に認定
された。平成30年(2018) 4月6日(金)長野堰を上並榎「長野堰改修
紀功碑」⇒新井堰分流(井伊直政か開削させた)⇒請地「長野堰功徳
碑」⇒高崎文化会館の「高崎城下町ジオラマ」(長野堰を語りつぐ会:
中島氏・西山氏・井田氏・清塚氏作成)と案内・解説しながら見学した。
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 (中島宏氏の解説文)



【1】コース
 @上並榎の「長野堰改修紀功碑」
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 A高小田堰分流
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 B上並榎の余水放水門
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 Cポケットパーク(休憩)…葉桜堪能
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  資料の説明
 D長野堰をちんちん電車の鉄橋(北小・高崎商科短大前)
 E金井堰分流
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 F新井堰・・・・長野堰本流
         新井堰分流⇒高崎城(井伊直政の命で完成)
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 H請地堰
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 ○長野堰土地改良区の建物
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 ここからは長野堰の上が歩道になっている。
 I請地町「長野堰功徳碑」
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 J高崎市民文化会館(長野堰を語りつぐ会のジオラマ展示・説明)
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【2】資料@「ウィキペディア」より引用
928年(延長6年)に長野康業が長野堰の開発に着手したと伝えら
れている。
(★中島宏氏の「長野堰の水と光」より)
1551年(天文20年)長野康業の子孫である4代目箕輪城主の長野業正
は長野堰を整備し、現在の長野堰の原型を作った。当時、現在の頭首工
付近で烏川と合流していた榛名白川から取水して、榛名山南麓を中心に
灌漑していた。
 その後、支配者が後北条氏、井伊氏、松平氏などに変わったが、各時
代で用水路の延伸や整備が進められていった。
 (★「長野堰改修紀功碑」:上並榎町)
 (★「長野堰功徳碑」:請地町)
 1708年(宝永5年)高崎藩主・大河内輝貞は、榛名湖から隧道
(ずいどう)を掘ることで引水しようと試みたが頓挫した。
 1904年(明治37年)長野堰の水量を確保するために、榛名湖から
榛名川を経由して烏川に流すために榛名山天神峠に隧道が開削された。
(★「長野堰疏水紀功碑:榛名湖町※湖畔亭の横)
概要
烏川中流の町屋橋から300メートル上流の高崎市本郷町に長野堰頭首工
を設けて取水している。水路は概ね南東方向に進み高崎市街地北部を横
切る。この間、暗渠の部分もあるが主に地表の3面コンクリートの水路
を流れる。住吉町から一部分水し堰代町をへて高崎城の堀割に流してい
る。その先は高崎市東町で佐野分水が分岐し南の佐野地域を灌水する。
さらにその先の江木町の城東小学校南側の地点で地獄堰・上中居堰・矢
中堰・倉賀野堰の4水路に分流する。この分流の水量の多少をめぐって
争いが絶えなかったため、1962年(昭和37年)に円筒分水堰を建設し
た。これは、円筒形の施設でサイフォンの原理を利用して水量を公平に
分ける斬新な方法である。4水路は各地域に用水を供給した後、烏川や
井野川に注ぐ。
 2016年(平成28年)、国際かんがい排水委員会のかんがい施設遺産に
登録された。

*******************************




【3】資料A
箕輪初心:生方▲箕輪城239『長野業政・井伊直政』&3碑&世界かん
がい施設遺産『長野堰』より引用
http://53922401.at.webry.info/201701/article_3.html

平成28年(2016)11月8日 長野堰が世界かんがい施設遺産に認定
された。『長野堰を語りつぐ会』会長:中嶋宏氏・副会長:西山氏・
井田氏・清塚氏など『長野堰を語りつぐ会』・『土地改良区』の皆さん
などの努力があった。高崎市のHpには「長野堰用水の開削が始まっ
たのは約1000年前と言われています。」とあるが、疑問である。
 古墳時代から長野堰に相当する大用水があった。若狭徹博士に確
認した。長野業政は@祭戸用水、A十二堰、B早瀬川、C長野堰の大
改修工事、D本郷堰(黒沢川)+長純寺用水などの用水路を開発した。
最も有名なのが「長野堰」である。長野業政の時は楽間か沖の榛名
白川の取水口であった。戦国時代、井伊直政が長野堰のから「新井
堰」を造らせ、高崎城の内堀・遠構え(外堀)、城内の生活用水、
工業用水、農業用水として活用させた。江戸時代に高崎市榛名町本
郷で烏川の取水口となった。現在は沖町→我峰町→並榎町→住吉町
・・高崎市のほぼ中央を流れる。江木町の円筒分水で4筋の堰に分
離され、最終的には再び烏川に流れこむ。

≪高崎の用水路の歴史≫
・弥生時代中期
 ・新保遺跡(高崎市神保町)
 ・並榎北遺跡(高崎市並榎町)・・・水田跡
  群馬県内で二番目に古い水田である。(高崎市教委調査報告書)
 ・日高遺跡(高崎市日高町:日高病院北200m線路脇)

・古墳時代 
 @萩原団地遺跡&元島名将軍塚古墳(前方後方墳…高崎市で一番古い。)  
   ★元島名古墳の主が水田開発をしたのであろう。
 若狭徹氏の「濃尾平野からの移民説」
 ※高崎市立歴史民俗資料館:学芸員:大工原美智子先生は鑑定中。
 A三ツ寺遺跡&御風呂遺跡&保渡田古墳群「千枚田」がある。
 稲作の推進者は、三ツ寺の館に住む大王である。
  (高崎千年物語:若狭徹著・遺跡調査報告を参考に編集)
 B北谷(きたやつ)遺跡(群馬県高崎市旧群馬町引間)
 C倉賀野古墳群
  ・浅間山古墳 (墳丘長:171.5m国史跡)
   ・大鶴巻古墳(墳丘長122m、国史跡)
  ・小鶴巻古墳(墳丘長80m)
 D綿貫観音山古墳&不動山古墳
  井野川西岸に築造されている。
 綿貫観音山古墳(墳丘長97m)

E佐野古墳群・・・80基あまりあった漆山古墳(墳丘長70m)

★古墳を造った人々(韓国系)の田畑が必要で、当然、用水路が築か
 れていた。
  (★若狭徹博士に確認済)

・7C後半頃 漆山古墳が造られた。
 ヤマト王権の直轄地「佐野屯倉(三家)=さののみやけ」の推定地
  である。

・平安時代初期
 ※矢中中学校建設の前に行われた発掘調査。 
  @水田をつなぐ大型の水路の発掘(幅10m)
  A鋳銅製「物部私印」高さが4cm2mm
 水田で行っていた祭祀の様子や古代豪族:物部氏の勢力を持っていた。

・平安時代中期〜後期
 高崎台地にも水田跡が発掘されている。


・延長6年(928) 長野康業が長野堰の開発に着手した。(伝)

  @「長野堰功徳碑」(請地町)
  A「長野堰疏水紀功碑」(榛名湖町)
  B「長野堰改修紀功碑」(上並榎町)
などにも、明治時代〜昭和時代、大河内松平輝耕子爵は
「長野康業が長野堰の開発」したことが記載されている。
 (★長野弾正・正弘氏系図・大河内松平輝耕公認)
 C 「長野堰の水と光」中嶋宏著
    (★出典:長野弾正・正弘氏所蔵系図:浜川町)
D2017年、世界かんがい遺産の認定理由にも掲載されている。
  E2018年「長野堰土地改良区・群馬県西部農業事務所」発行
  の長野堰用水マップにも「長野堰用水は上野国主の長野康業によ
   って開削された。」とある。
★但し、長野弾正・正弘氏所蔵系図は江戸時代に作られた系図である。
最近の歴史学者は系図を半信半疑で信憑性を疑っている。
 「長野氏」の姓は今のところ、鎌倉時代から史料に出てくる。

長野堰伝える3碑 碑文知り史実を後世へ
長野堰を語りつぐ会会長 中嶋宏 
http://www.jomo-news.co.jp/ns/series/8114222530946772/opinion_detail.html

・延長6年(928) 長野康業が長野堰を開削した。
  
・長元4年(1031) 平忠常の乱  源頼信は平定した。
源頼信が八幡荘を切り開いた。→源頼義→源義家→源義国→新田義重
 ・・・5代目が新田義重である。
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国:八幡荘』前編
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html

・天喜2年(1054)「上野権介石上兼親」が登場する。
   (★除目大成抄)(近藤著・峰岸著)
  ★文献上、初めての石上である。

・治暦年間(1065〜1069) 浅間山が大噴火を起こした。
  噴出物は上野の国一帯に及び、田畑が埋まってしまった。

・天仁元年(1108) 浅間山の天仁の大噴火があった。
(嬬恋村の「浅間火山博物館」・長野県御代田町「浅間縄文ミュージアム」)
★長野郷は甚大な被害を受け、壊滅状態だったはずである。
長野郷を誰が復興をしたか?
推定:在庁官人・・・藤原氏・石上氏・源氏の誰かであろうか?

・建久元年(1190) 在庁官人:石上氏2名が登場する。(★榛名神社文書)

・正嘉2年(1258) 永野刑部丞跡子孫の永野次郎太郎は宗尊将軍の奉公人
   であった。(★吾妻鏡)
  と「長野氏」の記述が初めて登場する。
 ★私見「長野氏は、長野郷長野氏である。」 

・南北朝時代

・室町時代

・戦国時代
・天文20年(1551) 長野業政が長野堰を整備した。
  (★中嶋宏氏資料)
長野康業の子孫である4代目箕輪城主の長野業正は長野堰を整備し、
現在の長野堰の原型を作った。当時、現在の頭首工付近で烏川と合流
していた榛名白川から取水して、榛名山南麓を中心に灌漑していた。
(★ウィキペディア)
★長野康業の子孫である長野業正(長野弾正・正弘系図のみである。)
 4代目箕輪城主の長野業正と断定しているが、長野系図は19あり、
 系図をあまり信用していない歴史学者:山田邦明先生・飯森康広先生
 ・黒田基樹先生・久保田順一先生から「長野方業」が箕輪城主である
 ため、4代目と決められないとしている。
 私見では箕輪城主7代目?である。
★系図では、長野氏は近在の土豪:倉賀野氏・和田氏に娘をくれ、親戚衆
 ・・・同心衆になっている。1530年〜和田氏の有力同心
 :反町氏(現高崎駅東300m付近)、天田氏・島野氏などと協力
  して用水路・水田開発をした可能性がある。
長野業正も手伝った可能性が大きい。長野堰の水を使った和田氏
 ・倉賀野氏の家臣団の環濠屋敷の遺構が長野堰近くに多く点在している。
  当時、榛名白川は高崎市沖町の繁華街の北:現在の取水口付近
 で烏川に合流していたため、本来の取水口は、高崎市沖町上沖の
  諏訪神社北付近だと想像できる。

 @榛名白川からの取水
長野堰は楽間130m→上沖120m→我峰110m→上並榎町100m
 →現高崎城の堀&城下町95m〜90mに水路に流れていった。  
 A箕輪城祭戸用水と十二堰・早P川の用水路の余った水は長野堰に
  流れ込むシステムになっている。
 
・永禄7年 (1567) 武田信玄が馬場信房に命じて、和田城の大規模改修
  をした。当然、用水路を整備したと考えられる。
 既に、信濃の飯嶋一族が和田の城下町に水が必要な味噌作りをした。

・その後、後北条氏、井伊氏と変わった。
  用水路の延伸や整備が進められていった。

・慶長3年(1598)井伊直政が本城を箕輪城から高崎城に移す際、
長野堰から現住吉町の新井堰の工事をし、高崎城のお堀=城の
 防御用水・防火用水・生活用水・農業用水の役割を担った。
 また、鍛冶町に武器製造業、紺屋町(こうや)に染め物業などの
 工業用水に利用された。

●長野堰からの分流『新井堰』
   ⇒新井堰の高崎城二の丸堀出口
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元武田家臣:新井喜左衛門と元北条家臣:秋元長朝・泰朝父子(元深谷城代)
が『新井堰』や高崎城の内堀や遠構えの外堀や城下町内の用水路を造った。
★武川衆:江原源左衛門・武川衆:裄V諸左衛門・市川五郎兵衛真親、
伴野一族も手伝ったと思われる。でなければ、その後の天狗岩用水
・滝川用水・佐久五郎兵衛用水・高遠原新田用水・甲州都留の谷村大堰、
小幡雄川堰、箱根用水と結びつかない。
(旧武田家臣:大久保長安・伊奈忠次の許可・支援もあった。)
※高崎城と城下町の管理は川手良則(井伊直政の姉:高瀬姫の夫)・
 西郷重員(井伊直政従兄弟:法華寺開基)・早川弥惣右衛門
 (元武田家臣の土屋昌恒家臣)がしていた。
 
・文禄5年(1596) 井伊直政が箕輪12万石の検地を実施した。
*榛名町神戸(高浜北の新幹線出口の上)を検地した。
*4月18日井伊直政が中大類・下大類のきもいり、百姓中に命じた
 3ヶ状文書
 「今度のなはうち(縄打)、扶20万貫都合、あらたむべきため、
  うたせ候。・・・(後略)」
  (★天王社(進雄神社):高井家文書)
★検地をしたのであるから、用水路関係として「上田・中田・下田」と
 区別し、新しく年貢制度を村ごとに地方三役(名主・組頭・百姓代)
 に命じた。

・慶安2年(1649) 安藤対馬守重信が三ツ寺に用水路建設に協力。
 高崎藩第5代藩主・安藤重信の計らいにより、領内の農民多数
 動員し、乗附山(観音山山系)から粘土を馬で運んで堤を築き、
 唐沢川と中島川から取水して水を貯めた(伝)。
    (★三ツ寺堤由来碑より)

・宝永5年(1708) 高崎藩主:大河内輝貞は、榛名湖からスルス岩下に
 隧道(ずいどう)を掘ることで引水しようと試みたが挫折した。
 東吾妻の箱島用水(岡上景親・岡上景能が開削)の水量減少に
 なると対立した。
 「右京の泣き堀」「右京の馬鹿堀」と呼ばれた。
 老中で金かかるため?領民のため?かどうかは分からないが、高崎藩
  領内は水論が堪えなかった。

箕輪初心:生方▲松平輝貞の『榛名するす岩下:右京の泣き堀』
3回目・榛名湖畔
http://53922401.at.webry.info/201604/article_25.html

箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html

◎文化11年(1814) 烏川からサイホンを新設して、榛名白川を横断した。
という記録が残っており、当時から高い土木技術と知識があったことが
明らかになっています。
 (★高崎市史・高崎新聞)

・文政年間(1818〜)長野堰をめぐる水争い
・天保年間(1830〜)長野堰をめぐる水争い
・嘉永年間(1848)  長野堰をめぐる水争い
 
●慶応2年(1868) 埋樋の工事
1月28日 藩役人:山崎只左衞門から普請のお達しがあった。
2月    888両の費用の見積もりが出された。
2月3日〜 名主達が呼ばれた。
「西新波堰埋樋御普請仕様帳」・・・
40間の埋樋のうち、30間を新規に作り直し、10間を造り直した。・・・」
(★高崎市史:近世p238)
★江戸時代のいつかは分からないが、既に、榛名白川の埋樋があった
 ことになる。

●明治13年(1880)「西新波堰取り入れ口絵図」
取水口は群馬郡本郷村の標高120mの所にあった。
 「烏川本流に杭木を立て、それに横木を結び、蛇籠を積み上げて
  堰を作り、水を水門に向ける。・・・中略・・・・
  榛名白川と西新波村(現高崎市沖町)あたりで直交する。そのため、
榛名白川の底に埋樋を造り、流水を通過させた。埋樋は長さ40間
横幅25間、縦5尺であった。・・・・中略・・我峰村で開口し、高崎
 藩領内を流れた。
(★高崎市史:近世p238)

・明治23年(1890) 長野堰組合が発足
 
・明治26年(1893) 上並榎に佐賀野川用水が開設。・・・水車4基。

@明治34年(1901) 「長野堰功徳碑」(請地町)が建立された。
長野堰用水を開削した先人の労をねぎらう石碑である。
「本堰烏川の水を引き、獲るところの稲の量は五万石に満ち、また、
 これを飲みて生ける民は高崎を始めおよそ十万人に余る」と刻まれている。  

A明治37年(1904)「長野堰疏水紀功碑」(榛名湖町)が建立された。
 (★湖畔亭の横に水路・駐車場上に碑がある。)
 長野堰の水量を確保するために、榛名湖より天神峠
 トンネルから引水し榛名川を経由して烏川に流そ、長野堰
  へ補助用水を開設した。榛名湖から榛名山天神峠に隧道が
  開削された。


B昭和9年(1934) 「長野堰改修紀功碑」(上並榎町)が建てられた。
 大正時代、3度の干ばつで農作物に被害がでた。
 大正14年(1925)から漏水等の工事をした。
◆参考サイト「高崎市の用水路」

箕輪初心:生方▲2016【高崎の用水路開発&長野堰の歴史】大修正版
http://53922401.at.webry.info/201607/article_1.html

〜〜〜高崎市の用水路シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心◆「群馬:高崎の稲作と用水路@」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_34.html

箕輪初心◆群馬:高崎市の稲作と用水路A「長野氏の開発@」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201104/article_5.html

箕輪初心◆群馬:高崎の用水路B「長野氏の用水路編A」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_6.html

箕輪初心◆群馬:高崎の稲作と用水路C「江戸時代」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_7.html

箕輪初心★江原源左衛門&滝川用水20131010
http://53922401.at.webry.info/201310/article_11.html

箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html

箕輪初心◆高崎の長野堰=西新波堰の歴史
http://53922401.at.webry.info/201310/article_12.html

箕輪初心●箕輪城シリーズK「長野・井伊時代の用水路開発」と現在
http://53922401.at.webry.info/201010/article_17.html

箕輪初心:生方★高崎城&長野堰【井伊直政&秋元長朝&新井喜左衛門】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_10.html
★秋元長朝は高崎城の内堀・用水路・遠構え建築に貢献したのだ。

箕輪初心◆長野堰B「染色のまち高崎に流れる長野堰:高崎広報」
http://53922401.at.webry.info/201410/article_13.html

箕輪初心:生方▲主に群馬・長野の【戦国〜江戸の用水新田開発】
http://53922401.at.webry.info/201605/article_34.html



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