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zoom RSS 箕輪初心:生方▲草津100ー29『高野長英と上州の弟子たち』

<<   作成日時 : 2018/04/02 06:43   >>

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草津に歩みし百人 | 湯Love草津(草津温泉観光協会ホームページ)
https://www.kusatsu-onsen.ne.jp/youkoso/hyakunin02.php
では、「21.高野長英:シーボルト、華山に学んだ思想家。蛮社の獄
で弾圧。が「いつ草津に訪れたか」を示す資料はない。しかし、白根
へ登る途中の「毒水沢」伝説が「高野長英が立ち寄った際に沢の水を
分析し、毒が含まれていたので『この水飲むべからず』と碑に刻んで、
旅人の危害を防いだ。」とあった。
高野長英と群馬県は深い関係にあり、数多くの門人と交友がいた。
天保2年(1831)、福田宗禎を中心とする吾妻の医師達が、漢方医
学に行き詰まりを感じ西洋医学を取り入れる為、師として高野長
英を吾妻郡沢渡に招きいれた。吾妻の蘭学は沢渡温泉に起こり、
高橋景作、柳田鼎蔵などの門下生を輩出した。その後、天保7年
(1836)再び沢渡へ来遊した。天保10年(1839)5月、蛮社の
獄が起きた。高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸
幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど
の罰を受けた。弘化元年(1844)水村玄洞宅を出た後、高野長英の
逃亡経路はどこであろうか?中山道⇒高崎宿⇒三国街道⇒野田
宿(吉岡町)⇒中之条⇒沢渡温泉⇒旧六合村湯本家?に来た?
のであろうか?約5年間の逃亡期間、高野長英は、多くの人の支
援を受けながら、いろいろな所に隠れていたらしい。
高野長英は草津温泉に来たのは天保2年(1831)か、天保7年(1836)
であろう。
画像

◆高野長英と中之条・草津温泉
・文化元年(1804)5月5日 陸奥国仙台藩の一門で水沢領主水沢伊達
氏家臣・後藤実慶の3男として生まれる。

・????年 叔父の高野玄斎の養子になった。
 江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことから家には蘭書が多かった。
 高野長英は新しい学問に強い関心を持つようになった。

・文政3年(1820)、江戸で杉田玄白の子:杉田伯元に師事した。
  やがて吉田長淑の内弟子になった。
  吉田長淑に才能を認められ、師の「長」の文字を貰い受けて
  「長英」を名乗った。

父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾
 で医学・蘭学を学んだ。
 鯨の研究で「ドクトル」と呼ばれた。
 やがて塾頭となった。

・文政11年(1828) シーボルト事件
シーボルトが天文方:高橋景保にクルーゼンシュテルンの『世界
  周航記』などを贈り、高橋景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地
  全図』の縮図の写しをシーボルトに贈った。シーボルトが縮図
 の写しを国外に持ち出そうとした。
弟子の二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳
  しい詮議を受けた。
  高野長英は逃れている。

・天保元年(1830) 江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾を開業
した。「大観堂」であった。
 まもなく三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、田原藩のお雇い蘭学
 者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。
 ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロック、ヴォルフ
 に至る西洋哲学史を要約した。



天保2年(1831)  沢渡の医師福田宗禎らの招きにより高野
 長英が来訪した。
 蘭学者高野長英と中之条のつながりは、この時より始まった。
 記録よると中之条の蘭医たちは度々高野長英を招いていたらしい。
 入門者も増え、高野長英と吾妻の結びつきは強くなっていった。


◆吾妻方面の主な入門者
中之条沢渡の福田宗禎(漢方医⇒蘭方医)
中之条折田?の町田明七(名主総代:蘭学者)
中之条伊勢町の柳田鼎蔵(大地主:蘭学者)
中之条??の望月俊斎(滋野系望月⇒真田同族)
中之条横尾の高橋景作
原町の矢島俊同
三島の高橋元貞
赤岩(現中之条町・旧六合村赤岩)の湯本
渋川の木暮足翁 など

★俺って、渋川高校卒だったので、これらの姓の同級生が
 数名いた、おそらくこの方達の親戚縁者・関係者の子孫
絶対にいるのであろう。
 地侍⇒真田昌幸の家臣・・真田信之の家臣⇒
 ・・・・・・わしにはわからん。


・天保3年(1832)、高野長英は紀州藩儒官遠藤勝助の主宰する「尚歯会」
 に入った。尚歯会は天保の大飢饉の対策会であった。
構成員は高野長英、小関三英、渡辺崋山、江川英龍、川路聖謨など
 で、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や江戸で吉田長淑に学んだ
 者などが中心となって結成された。渡辺崋山や藤田東湖も中心的役
 割を担った。
尚歯会で議論される内容は次第に蘭学の主流であった医学・語学・
 数学・天文学・政治・経済・国防など多岐にわたるとうになった。

・天保5年(1834) 2月7日  江戸大火
  高野長英の家が類焼した。
中之条の門人は再建のため材木を送るなど多大な援助を行っている。


天保7年(1836) 高野長英が中之条に来た。
「救荒ニ物考」は沢渡の福田宗禎、伊勢町の柳田
 鼎蔵著された。一説には、一般的には高野長英が「救荒ニ物考」が
 著したことになっている。
  「避疫要法」を横尾の高橋景作が編集を行った。

高野長英と上州(群馬県)に数多くの門人と交友があった。
「いつ草津に訪れたか」を示す資料は不明である。
高野長英の白根へ登る途中の「毒水沢」の言い伝えが残っている。
「彼が立ち寄った際に沢の水を分析し、毒が含まれていたので
『この水飲むべからず』と碑に刻んで、旅人の危害を防いだ」
というものである。
 (★草津観光協会Hp)
.高野長英が天保2年か天保7年に草津に行ったと確立が高い。

・天保8年(1837) モリソン号事件
 薩摩藩と浦賀奉行が外国船打払令を受けて、日本人漂流民(音吉ら7人)
 を乗せたアメリカ合衆国の非武装の商船:モリソン号を砲撃した。

11代将軍徳川家斉は西丸で退隠し大御所となり、家慶が12代
 将軍職となる。老中首座の水野忠邦は農村復興を目的とした人返令
 や奢侈禁止を諮問している。

・天保9年(1838)
10月15日 尚歯会の例会が開かれた。
 勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎が、評定所において現在進行中
 のモリソン号再来に関する答申案をひそかに示した。
 幕議の決定は、モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し漂流民
 はオランダ船による送還のみ認めるというものだったが、芳賀は
 「却下された。」ろ紹介された。
 渡辺崋山・高野長英ら一同は幕府の意向は打ち払いにあり、また、
 モリソン号はこれからも来航すると誤解してしまった。
 高野長英は打ち払いに婉曲に反対する書『戊戌夢物語』を匿名で書
 きあげた。幕府の対外政策を批判する危険性を考慮した。
 
目付:鳥居耀蔵と江川英龍に江戸湾巡視の命が下った。
 渡辺崋山は儒学者:安積艮斎宅に世界地図を広げ海外の様子を説い
 ている。
江川太郎左衛門は渡辺崋山の知恵を借りて、江戸湾の国防を考えていた。

水野忠邦の天保の改革の下、鳥居耀蔵は南町奉行として市中の
取締りを行ことになった。
 鳥居耀蔵の実父:林述斎(大学頭)は儒者と蘭学者との交流に干渉せ
 ず寛容であった。しかし、3男:鳥居耀蔵は儒学・朱子学を重んじ、
儒者を蘭学に引き込む恐れのある高野長英・渡辺崋山を警戒していた。

 鳥居耀蔵は幕府内の開明派の蘭学を嫌う保守勢力の中心であった。
 また、幕府も開国の考えの影響力を恐れた。

★高野長英の「戊戌夢物語」が気になってしかたなかった。

後、渡辺崋山の「慎機論」が自宅で発見され、
  幕府にとっての逮捕理由となっていく。
 

・天保10年(1839) 蛮社の獄
5月 高野長英は鳥居耀蔵の弾圧を受け入牢した。
5月14日 渡辺崋山・無人島(小笠原諸島)渡航計画のメンバーに
   出頭命令が下された。全員が伝馬町の獄に入れられた。
5月17日 キリストの伝記を翻訳していた小関三英は逮捕を免れぬも
  のと思い込み、自殺した。
5月18日 高野長英が自首して出た。  
 ★単純にでっち上げであったかもしれない。
  まあ、鳥居耀蔵の先制パンチ的な要素があった。
兎に角、外部と遮断することがねらいだったかもしれない。
  蛮社の獄の狙いは、大局的には開明派の弾圧である。
  
@高野の視点から見れば、欧米と仲良くすべしという開明派であった。
A渡辺の視点から見れば、慎機論は中途半端であったが、開明派であった。
B江川の視点から見れば、崋山を使って海防を強化することが狙いであった。
江川太郎左衛門が渡辺崋山に求めたものは、西洋の危険性を明らか
  にし日本が早急に海防を強化しなければならないという考えであった。
C鳥居の視点から見れば、西洋による文化侵略から日本を守る考えであった。
鳥居耀蔵は渡辺崋山をとらえて江川が出す『外国事情書』上申を
  阻むことにあった。
4人の思惑は異なっていたが、江川と鳥居は仲良しだった。


12月18日  判決下った。  
渡辺崋山 …幕政批判のかどで、田原で蟄居。
高野長英 … 永牢(終身刑)。⇒終身禁固と刑が決まった。

・弘化元年(1844) 
6月
高野長英は密かに乞食に20両を渡し、牢の放火を頼んだ。
 高野長英が牢で働いていた非人:栄蔵に放火させた説が有力である。
6月30日、高野長英は5年間2か月入牢した牢の火災により
 解き放しで、3日内に牢に戻る命令を破って、そのまま逃亡した。
  江戸に高野長英の人相書きが出た。
  
  高野長英は放火脱獄犯として全国に手配される。

 
【高野長英の逃亡経路】
7月
●江戸  大槻俊斎(シーボルトの門人の蘭方医で仙台藩関係)
●江戸牛込赤城明神社 加藤宗俊(獄内の長英を助けた門人)
●四ッ谷相之馬場(現紀尾井坂下)遠藤勝助(紀州藩儒者)

7月下旬
●板橋の水村玄銅宅  1、2日滞在した。


・7月晦日
●水村玄洞は兄、高野隆仙のもとに長英を送り届けた。
  
○浦和大間木(現さいたま市緑区)   高野隆仙宅(門人:蘭方医)
  (★長英が隠れたと伝えられる離れが残されている。)

○大宮土呂(現さいたま市)   小島平兵衛(名主)

※高野長英の逃亡経路はどこであろうか?
 どのような経路を辿ったかは明らかになっていない。
 @直接、生まれ故郷の水沢(岩手県)に向かった説もある。
  米沢藩庁日記の弘化元年8月23日には、
  「8月17日の夜に堀内忠竜を尋ねてきた。江戸から長英の
   詮議を命じられたので領内を捜索した。」と記録されている
  そうである。
  
 A利根川沿いに上州へ向かったとの説が有力である。
  高野長英脱獄の報は中之条にも伝わっていた。

○7月16日〜17日 
 米沢の堀内忠竜宅?

※米沢から故郷へ?

******************************* 
○大宮から中山道?・・・5〜6日、
  こっそり何かを買って?こっそり野菜泥棒をしながら?
○高崎から三国街道・・・金古宿⇒野田宿(吉岡町)⇒
△渋川横町の木暮足翁宅? ※寄ったか不明?
  木暮足翁は天然痘の予防接種も行った。
  高野長英の従兄弟も出入りしていたという。
△寄ったとすれば、吾妻川右岸コース(日陰道)が有力か?
再び高野長英は中之条にやって来たらしい。
中之条の門人たちは脱獄した高野長英を助けたのだろう。
吾妻の門人は露見すれば間違いなく死罪となるが匿った。

★中之条での逃亡コースは不明であるが、地理的な場所を考慮すると
2コース考えられる。
@中之条から若山牧水逆コース(ロマンチック街道)⇒赤岩⇒大笹
 コース⇒信州中野⇒越後直江津コース
A中之条から吾妻道⇒赤岩⇒大笹⇒戻って中之条⇒横尾⇒尻高
 ⇒月夜野⇒三国街道を横切り⇒水上⇒清水峠⇒越後謙信尾根⇒
 六日町⇒直江津コース

◆吾妻で寄ったとされたいる人の家
10月 高野長英は沢渡の福田宗禎を頼った。
●中之条沢渡の福田宗禎(漢方医⇒門人蘭方医)
晩釣橋…高野長英が逃亡中、夜釣りをしたとの言い伝えがある。
 共同浴場によく入ったという。
 
●中之条伊勢町の柳田鼎蔵(大地主:蘭学者)宅
  高野長英は変装して、医者の仕事を手伝った。
  高野長英は鍋屋(鍋屋旅館)に夜、こっそり「吾妻蕎麦」
  ・「すいとん(おっきりこみ)を食べに通った。
  (★高野長英の遺品があるそうである。)
●中之条??の町田明七宅 (名主総代:蘭学)
△中之条??の望月俊斎宅(滋野系望月⇒真田同族の子孫⇒門人)不明
●中之条横尾の高橋景作(門人の蘭方医)
△原町の矢島俊同・・・※匿ったか不明
△三島(東吾妻町)の高橋元貞宅・・・※匿ったか不明
●赤岩(現中之条町・旧六合村赤岩)の湯本俊斉宅(漢方医)
玄関を入ったとことに天上から紐がぶら下がっていて、
  2階の隠し部屋にいける。」
 (★現在も「長英の間」として現存している。)
   公開日は月1回だっけ?)
画像

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 ※高野長英の隠れ湯もできたよ。
  1回、入ったよ。

●嬬恋村大笹の栃原家(大笹の関所の関守・名主?)
  大笹の信号の所の栃原家(現酒屋・山崎パン屋)だと思われる。
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●高山村尻高の都築家
 (★『群馬県を築いた人びと』)
 ★中之条の「ミュゼ」で調べないとこれ以上は不明である。


箕輪初心 高野長英
箕輪初心◆群馬「沢渡温泉」&頼朝・長英・牧水
http://53922401.at.webry.info/201309/article_11.html

箕輪初心◆群馬の名湯巡り【草津→尻焼→四万→伊香保】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_26.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201206/article_26.html



******************************

●直江津  
  小林百哺宅 (和算家)
 福永七兵衛宅 (大肝煎)


・弘化2年(1845) 10月頃
●前沢(水沢の南)
 郷里で雪の中、母に再会した。
 (★記録はない)

●名取郡玉浦村字早股の仙台藩士斎藤徳蔵宅

●福島   油屋藤兵衛(薬種商)

●米沢   堀内忠亮(忠龍:米沢藩医)
    伊東昇迪(しょうてき)(堀内門人の医師)
     高橋嘉膳(堀内門人の医師)

・弘化3年(1846) 晩春 江戸に再潜伏した。
●江戸   麻布六本木の宮野信四郎(高弟内田弥太郎の甥)宅に潜む。
      その後、麻布宮下町で妻子と一緒に住んだ。
●足柄上郡山田村  江川英龍の支配地に潜む。

●江戸    麻布宮下町の自宅に戻る。

●宇和郡卯之町(愛媛県)   二宮敬作(鳴滝塾同門)
●宇和島 二宮が伊達宗城に紹介した。
      兵書翻訳を行うが、 幕府に探知され脱出した。

●宇和分卯之町   二宮敬作(鳴滝塾同門)
●広島    後藤松軒(広島藩医)
●宇和郡 卯之町   二宮敬作
●名古屋  山崎玄庵(医師)
      秋田岱玄(医師)

・嘉永2年(1849)8月 名古屋を離れ江戸に戻り、妻子と一緒にくらした。 
 「沢三伯」の偽名を使って町医者を開業した。
 医者になれば人と対面する機会が多くなるため、硝酸で顔を焼いて
 人相を変えていたとされている。

・ 嘉永3年(1850) 10月30日(太陽暦12月3日)
江戸の青山百人町(現東京南青山)に潜伏していたところを何者か
 に密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。
 何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生
 だった。駕籠で護送する最中に絶命したという。


◆参考サイト
「長英逃亡」 (高野長英の史跡 C)
https://wheatbaku.exblog.jp/12651385/

http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/jinsei/09.html


★今日はこれから、川場スキー場から武尊山登山である。
 明日は?梅の消毒か?

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