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zoom RSS 箕輪初心:生方▲高崎学検定講座:和田健一先生講演会「多胡碑の江戸時代」

<<   作成日時 : 2018/03/06 07:58   >>

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平成29年(2017)10月高崎市にある山上碑・多胡碑・金井沢碑
の3つの石碑「上野三碑」が「世界の記憶」に登録された。
誕生日3月2日に高崎学検定講座講演会「多胡碑の江戸時代」:
多胡碑記念館学芸員:和田健一先生の講演会を拝聴した。
Hpにはユネスコ「世界の記憶」に登録された「上野三碑」の
一つ『多胡碑』について、江戸時代の史料を中心に、当時の多
胡碑の旧状の復元を試みるとともに、多胡碑を介した高崎・上
州と江戸・京都などの学者・文人との文化交流や、さらに朝鮮
通信使とのかかわりも紹介します。」とあった。
和田先生のレジュメの書き方が新鮮でした。大変分かりや
すかったです。和田先生、ありがとうございました。

画像


画像






【1】和田健一先生のレジュメ要約+史料+画像

はじめに
  ユネスコ記憶遺産に登録されて、客もふえた。
  質問は「何故、長い間、放置されていたんですか?」
  などの質問がでる。

講座の目的
 @江戸時代の史料から多胡碑の旧状を復元
 A多胡碑を介した高崎・上州と中央との交流文化
 B朝鮮使節と多胡碑


第T章 変転する近現代の多胡碑周辺

・明治9年(1876) 熊谷県改変に伴って新設された群馬県の県令と
なった。
画像

★楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と
 決定し、楫取は高崎の住民から反感を買っている。
⇒画像@「楫取素彦画像」 群馬の文化財の一覧調査と庇護
★群馬の寺社一覧提出も行い、群馬文化の発掘に貢献した。

・明治14年(1881)「多胡碑之図」
  (★杉山義利『上野地誌略』)
⇒画像A ※覆い(屋根)がない。
画像

・大正15年(1926) 第1次木製覆屋(屋根)があった。

⇒画像B−@T15年(1926)「旧木製覆屋」+境内写真』
   黒坂勝美『史跡精査報告』
画像

  「ケヤキ2本・灯籠2本・木製の覆い・・・」

   B−A「境内」…井戸・碑がある。

・昭和10年(1935) には、第2次木製覆屋が建設されていたた。
⇒画像CS10年(1935)新築された木製覆屋

・昭和41年(1966)には、第3次木製覆屋が建設されていた。
⇒画像D

・昭和43年(1968)には、鉄筋コンクリート製の覆屋
⇒画像E

・平成29年(2017) 現在の鉄製コンクリート製の覆屋

第U章 多胡碑の旧状に復元
第1節 台石と笠石の問題
・大正15年(1926)『史跡精査報告』 

・昭和3年(1928) 『群馬の史跡名勝』:柴田常恵著

・昭和初期
「昭和10年には台座が摩耗している。」

・昭和初期

・昭和21年〜42年

・現在

第2節 近世史料との照合
・安永2年(1773) 『俳諧多胡碑集』:高桑蘭更著

・安永3年(1774) 『上野國志』毛呂権三著
⇒史料提示

・明和3年(1766)『続昆陽漫録』青木昆陽著
「・・・今ハ九尺四方ニ石ヺシキ・・・」

・大正15年(1926)『史跡精査報告』



第3節 碑面の問題 
・安永2年(1773)『俳諧多胡碑集』高桑蘭更篇
 「碑の苔も 薫りて 梅の花」 宗徳
 「多胡の碑の 石も緑や 春の雨」 ??

和田先生「多胡碑は保全のため保護されていた。」

◆参考付帯史料提示『多胡碑主要文献一覧』


第4節 史跡地の問題


第U章 多胡碑をめぐる人々の文化交流
第1節 近世多胡碑再発見
1)伊藤東涯

2)青木昆陽

3)高橋道斎
 ★私も墓参りした。
 系図・・高橋家は市河寛斎・米庵に繋がる家系であった。

4)沢田東江



5)藤原貞幹(さどもと)と上野三碑




*和田先生作の一覧表*******************
・永正5年(1509) 宗長『東路の津登』(★『群馬大学新田文庫』)

・享保年間(1716~36)伊藤東涯
   (★『内閣文書』)
本郷村 碑・覆石・台 左右に石灯籠・石垣
 「羊」・「尊」が欠字

・延享2年(1745) 「羊大夫」『夜話小録』
  下池村 碑・覆石・敷石 ※伝聞の記述
(★『内閣文書』)

・宝暦7年(1757) 高橋道斎・沢田東江『上毛多胡郡碑帖』
池村 碑・笠石・円盤型台石 
  井上蘭台序
(★『内閣文書』)

・宝暦13年(1763)安原貞平『輿窓随筆』
※「盍簪録(こうしんろく)」の写しか?

・安永3年(1774)高桑蘭更 「俳諧多胡碑集」(記念館蔵)

・安永3年(1774)泰亮(愚海)『上毛傳説雑記拾遺』
  池村 
(★『上野志料集成』)

・安永3年(1774)毛呂権蔵『上野國志』
下池村  碑・蓋石・碑石□など

・安永4年(1775) 高山彦九郎『乙末の春旅』
池村 石垣・旗本:長崎半左衛門・・・実見

・江戸中期? 作者不詳『上毛国風土記』
池田村 「田子の碑」

・天明6年(1786)奈佐勝たか『山吹日記』

・文化11年(1814)伊能忠敬『測量日記二十六』
吉井宿川内村より碑まで十四町五十七間

・文政4年(1822) 市河寛斎『金石私志』
池村 宝暦9年には倒れていた。
      安永4年再訪には復旧していた。
(★『内閣文書』)

・嘉永6年(1853) 富田永世『上野名跡誌』
 下池村小字三門稲荷神社



第三章 朝鮮使節と多胡碑
@朝鮮使節一覧表
朝鮮通信使は朝鮮王朝から日本に派遣された外交使節団である。
豊臣秀吉の朝鮮出兵で両国の交流は途絶えていた。
慶長17年(1607) 江戸幕府が対馬藩を介して交渉し、朝鮮国王が
使節団を再派遣した。
以降の約200年にわたる交流の記録が始まった。


・寛延元年(1748) 朝鮮通信使477名
 伊藤蘭台が担当

・宝暦14年(1764) 朝鮮通信使477名
 伊藤蘭台が正式対応。
※和田健一氏「多胡碑の関係史料を渡したのではないか?」
「朝鮮⇒中国へ」


A成大中⇒趙寅永・金阮堂など⇒劉燕庭など⇒楊守敬など
 ⇒日下部鳴鶴など

B朝鮮より中国へ伝達
和田先生
 ※「多胡碑」は手本になるほどではなかったと思われる。
 ※「楊守敬」は中国ではたいした書家ではなかった。
  日本との関係で有名になった。



まとめ
@膨大な文献史料⇒多くの人々が関心を持った証拠
A旧状の復元・近世以前の台石・敷石は消耗の可能性がある。
B石碑を見る人々の文化交流⇒身近な石碑をもっと大切にしよう。





【2】私の多胡碑ブログ****************
箕輪初心★多胡碑&「多胡碑研究の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201403/article_19.html

箕輪初心■群馬「多胡碑シンポジウム」3月6日
http://53922401.at.webry.info/201103/article_8.html

箕輪初心■山上碑・多胡碑・金井沢碑+山上多重塔
http://53922401.at.webry.info/201310/article_4.html



【1】多胡碑
【銘文】
弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

【読み方】
弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘
良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅
に宣る。左中弁・正五位下多治比真人。
太政官・二品穂積親王、左太臣正二
位石上尊、右太臣正二位藤原尊。

【現代語訳】
朝廷の弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
上野国の片岡郡・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡
(かむらぐん)の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡を
つくり、羊(ひつじ)という人に支配を任せる。
郡の名前は多胡郡としなさい。
和銅4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日
に宣(の)べられた。
左中弁正五位下:多治比真人(たじひのまひと)の宣旨である。
また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)、
左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。

  (★多胡碑博物館の説明書き)
【2】周辺遺跡


【3】多胡碑博物館
※高句麗の広開土王の碑文の拓本がある。
 撮影禁止であった。



【4】「多胡碑の江戸時代」
・和銅4年(711)多胡碑が多胡郡が設置された。
・8C後半 多胡碑が建碑されたと考えられる。
・9C後半 郡衙の衰退・・・律令制の崩壊
   多胡碑も忘れ去られた。


●連歌師:島田宗長
・建久6年(1509) 連歌師:宗長の「東路の津登」で
  紹介された。約700年後のことである。
  約700年間、多胡碑が残在したのかを伝える資料は
  ない。

「その日、九月儘なるべし。神無月朔日になりぬ。
 又発句、
神無月 里やふりにし 花の春

此別当俗長野姓石上也並松上野國多胡郡
 弁官府碑文銘曰太政官二品穂積親王左大臣
 正二位石上尊此文系図(★古い字)有布留社あり
布留今道
ひの光や ふしわかねは 石上 ふりにし里に
花咲にけり。
当月異名小春にそよへて過にし花の春に
 やと申計也。武州成田下総守顕泰亭にして
あしかもの みきはゝ雁の 常世かな 
水郷也。舘のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆の露
枯れ廿余町四方へかけて水鳥おほく見えわたり
 たるさまなるべし。同千句興行第一句発句に・・・
 ・・・(略)・・・

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html


●伊藤東涯:伊藤仁斎の子ども
・享保元年(1716)〜元文元年(1736)
 京都の儒学者:伊藤東涯が執筆した随筆、「ゆう軒小録
 (ゆうけん)」の二書に多胡碑のことが書かれている。
@「盍簪録」・・碑の図説&解説
石上・・石上麻呂、藤原・・藤原不比等
A「輶軒小録」・・「壺碑」について
 約200年の間を空けた後・・・
 多胡碑は全国に知れ渡っていく。


●青木昆陽
・延享2年(1745) 「夜話小録」
・明和3年(1766) 「続昆陽漫録」
碑文が載っている。
小幡羊太夫勝宗の墓と伝えられている。


●高橋道斎・・・江戸中期、多胡碑を世間に広めた人物
享保3年(1718)下仁田で生まれた。
陽明学者、書道家、俳人である。
陽明学を中根東里・井上蘭台に学んだ。
書は唐様の書家:高頤斎に学んだ。
俳人・・西毛俳壇の中心人物。芭蕉句碑を建てた。
高橋道斎が興味を持ったのは多胡碑の書体=丸みを帯びた
楷書である。 六朝?中国北魏?ではないかと考えたそうだ。
そして、上野国に何故こんな文字を書く人がいたかという
疑問を持った。道斎は帰化人の文化ではないかと考えた。
多胡碑(高崎市吉井町)の歴史的・書的価値を見出し広く世
に紹介し、多胡碑研究の出発点となった。道斎の功績は
大きい。   (★下仁田町教育委員会)
★高橋道斎の墓下仁田町下仁田の西山常住寺境内にある。
高橋道斎の弟子の市河寛斎は南牧出身で、
子の市河米庵は「幕末三筆」と呼ばれた。
  

●沢田東江
・享保17年(1732)生まれ。
・宝暦3年(1753)〜4年(1754) 多胡碑の拓本を配った。
(★『内閣文書』)
→岡村良通(林子平の実父)は「上毛多胡碑碑帳」を読んで
 ・・・・仙台の多賀城碑を調べた・

→山岡まつ明・・・碑の重要さを説いた。

→滝沢馬琴・・・「兎園小説外集」
伊勢平蔵貞丈説を採った。「羊太夫説を否定。」

→大田南畝・・・沢田東江と親しかった。
    「半日閑話」で多胡碑の寸法を書き表した。


●高桑蘭更
・安永2年(1773)多胡碑を訪れ、吉井連の入集句「俳諧
  多胡碑集」を編集し、翌年出版した。


★羽鳥一紅(下仁田から高崎に嫁にきた。高橋道斎弟子)
・宝暦5年(1758) 「あやにしき」を著した。
  『くさまくら』(1764〜72)がある。
・天明3年(1783)『文月浅間記』浅間の大噴火の惨状を描いた。
・多胡碑の句を詠んだ。  
*****************************************************
箕輪初心★「高崎の文化人19+α」江戸時代編
http://53922401.at.webry.info/201310/article_19.html
*****************************************************


●高山彦九郎
 ・安永4年(1775)太田細谷から多胡碑を実際に見た。
  「乙末の春旅」に多胡碑を記した。
******************************************************
箕輪初心★★群馬の偉人:高山彦九郎C現代版「旅日記」
http://53922401.at.webry.info/201106/article_23.html

箕輪初心■大分:【日田豆田町】&【高山彦九郎&広瀬淡窓】
http://53922401.at.webry.info/201110/article_15.html
*******************************************************

●富岡正美1774~1859
「上野国名跡考」=地名研究
小泉城主:富岡秀高の8代の孫・・・
 高崎藩主大河内氏に70余年、仕えた。
 ※宮部義正の弟子である。
・文化6年(1809)「上野国名跡考」を著した。 
 @安蘇・・の地名とは
  万葉集には「上野の安蘇の・・・」
 箕輪軍記「北は安蘇山相摩の麓・・・箕輪・・」
 高崎市赤坂の「恵徳寺」に墓がある。


●作者不詳
  ■「上野誌」
池村にあり。・・・

●作者不詳
■「上州風土記」
多胡碑池田村にあり。


●神沢杜口
・明和年間(1772〜) 〜「翁草」
の中で、多胡碑を紹介している。
★箕郷町誌か安中市史で、
 「高崎市箕郷町出身で、安中藩剣術指南役→
   京都奉行所与力。」とあった気がするが・・・
記憶違いかなあ?


●鹿沼政み(まさきみ)
・天正期の宇都宮城主:宇都宮国綱の家臣で
鹿沼城主の子孫・・・川越藩→前橋藩:酒井家側近
「閑窓秘話」で上毛3碑を記述した。

●奈佐勝皐(かつたか)
・天明6年(1787)「山吹日記」
江戸〜旧鎌倉上道〜〜高崎・・吉岡の華蔵寺滞在
多胡碑に行った。

箕輪初心★箕輪城126【奈佐勝皐の「山吹日記」の中の箕輪城】
http://53922401.at.webry.info/201404/article_28.html





●清水浜臣
・文政2年(1819) 「上信日記」
木部白満(つくもまろ)に聞いて、3碑に行った。
拓本をとった。

●木部白満(つくもまろ)( 1775~1841 )上毛三碑の研究
・ 高崎山名の葉タバコの豪農:木部善蔵の子として生まれた
・文政2年(1819)「 上野三碑考」を出版した。
上野三碑として有名な多胡碑、山上碑、金井沢碑
の研究論文集で、三碑の研究書としては最初のものである。
本居宣長門下で常陸の古学者:岡庭真垣と木部白満の
共著である。
*****************************************************
箕輪初心★「高崎の文化人19+α」江戸時代編
http://53922401.at.webry.info/201310/article_19.html
*****************************************************

●市河寛斎
・下仁田出身。高橋道斎に学んで、江戸林家門下・・
・文化8年(1811)「金石私誌」
   多胡碑を調査した。・・石材が粗い。


●狩谷棭斎(かりやえきさい)
・考証学者である。『倭名類聚抄箋注』を著した。
・文政8年(1818)『古京遺文』
多胡碑などの金石文を集めた。

●伴信友
・天保7年(1836)「上野三碑考」
 宗長の「東路の津登」&拓本?からの考察が出て来る。


●小島成斎
・市河寛斎の子:市河米庵(下仁田の幕末三筆)&狩谷棭斎
  の弟子→老中:阿波正弘の右筆
・『酣中清話』・・・多胡碑が出て来る。

●栗原信充(のぶみつ)
・柴野栗山&屋代弘賢の弟子→島津久光の家臣
・文政2年(1819)『柳庵随筆』
宗長の「東路の津登」から多胡碑を説明した。

●飯塚久敏
・高崎倉賀野→橘守部に師事。
・文久2年(1862)「上野國古碑考」

●富田永世
・埼玉吉田村→清水浜臣の友達→飛脚屋藤岡支店長
・嘉永6年(1853)「上野国名跡考」
上州の地誌研究

●朝鮮通信使と多胡碑
★朝鮮国王の名前が出てくると、韓国歴史ドラマ大好き
  人間の俺には分かる。「光海君ってかんへぐん」って読むんだぜ。」

※「火の女神ジョンイ」※「華政」※「六龍が飛ぶ」
主「李イ・バンウォン」が「光海君」になるはずだ。

韓国ドラマ-火の女神ジョンイ-あらすじ全話一覧-最終回まで
http://www.韓国ドラマあらすじおすすめ.jp/article/416918380.html

箕輪初心:生方▲真田丸104【第30回「黄昏」】秀吉のボ
&韓国D「火の女神ジョンイ」
http://53922401.at.webry.info/201608/article_5.html

箕輪初心:生方▲「全46話火の女神ジョンイ」のあらすじ1〜15&
「ちょっと自分の陶芸作品」
http://53922401.at.webry.info/201608/article_36.html

箕輪初心:生方▲「火の女神ジョンイ全46話」3−Aあらすじ16話〜32話
http://53922401.at.webry.info/201608/article_37.html

箕輪初心:生方▲「火の女神ジョンイ全46話」3−B30話〜46話&
「豊臣秀吉関連」
http://53922401.at.webry.info/201608/article_38.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201608/article_38.html




●楫取素彦
・明治9年(1876) 熊谷県→群馬県が新設された。
楫取素彦が初代県令として就任した。
 楫取素彦は多胡碑を訪れ保護の重要さを政府に訴え、多胡碑周辺
 の土地を買い上げた。
***************************************************
箕輪初心★吉田松陰=高杉晋作・桂小五郎・楫取素彦などを育てた男
http://53922401.at.webry.info/201402/article_1.html
箕輪初心★梶取素彦=群馬県令。吉田松陰の2人の妹:寿&文が妻。
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201401/article_31.html
*****************************************************

・明治27年(1995)『上野史談』


・昭和20年(1945) 文部省通達により多胡碑は桑畑に
埋められた。アメリカ軍からの隠匿であった?

・昭和29年(1954) 国の特別史跡に指定。

・昭和時代・・・群馬県の元総理大臣:福田赳夫、
  福田康夫の訪問
  ノーベル賞受賞者の湯川秀樹の訪問。

・昭和50年(1975) 皇太子:徳仁親王の訪問。

・平成8年(1996) 多胡碑記念館が設立。

・平成時代・・・多胡碑研究の進展

・平成23年(2011) 2月 多胡碑シンポジウム

・平成23年(2011)?? 多胡碑周辺遺跡の発掘調査




◆参考文献
・多胡碑の江戸時代:多胡碑博物館
 ★実に素晴らしい研究であった。




★明日は箕輪城かな?

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