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zoom RSS 箕輪初心:生方▲草津100人『21:前田利家』死の予感?

<<   作成日時 : 2018/03/13 09:29   >>

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木下藤吉郎(豊臣秀吉)は松下之綱の家臣から織田信長の家臣にな
った時、前田犬千代(利家)と屋敷が隣同士で仲良しであった。
五大老の一人であったが、豊臣政権の重鎮として、老齢にもかかわ
らず隠居をすることも許されなかった。やっと、前田利家は隠居し
て身軽になった。前田利家は病状悪化は徳川家康と石田三成の対立
より、心配の種だったのかもしれない。慶長3年(1598)健康を回復する
ために、一族を引き連れて天下の名湯:草津温泉へ向かった。一行
には、謡曲師や楽師も含まれており、盛大な草津温泉の来訪となった。
前田利家が亡くなる一年前のことであった。
画像




箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政66番外編【前田利家の正室:まつ】
http://53922401.at.webry.info/201704/article_15.html

箕輪初心:生方▲富山24の2【前田慶次郎】阿尾城代4説
→長谷堂城の戦い3説
http://53922401.at.webry.info/201706/article_5.html

箕輪初心★松尾芭蕉33『奧の細道22』【金沢・小松】
   &My金沢城登城
http://53922401.at.webry.info/201208/article_17.html

箕輪初心◆青木ツアーA2014石川『九谷焼の博物館』&金沢城
http://53922401.at.webry.info/201404/article_23.html


★説明がちがっているかもしれません。
 巴御前と静御前を勘違いしています。











・戦国時代**************************
戦国時代以降、草津温泉は、各地の武将が湯治に訪れた。
記録が残っている。
06●文明4年(1472)−蓮如(本願寺・吉崎御坊住職)
○○○文明18年(1486)−堯恵(二条家歌学を継ぐ天台宗常光院流の歌僧)
○○○長禄2年(1488) 万里集九は草津には来ていないようである。
  詩文集『梅花無尽蔵』の中で
 「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、
 飛州之湯島三処也」
 意味…我が国の六十余州毎に霊湯:名湯がある。其の内最もよい
 のは下野(上野国の誤り)の草津、摂津の有馬、飛騨の湯之島の
 三か所である。
 「日本三名泉」は、万里集九 → 林羅山によって言葉が生まれた。

07▲延徳2年 (1490) −長野業尚 (榛名鷹留城主)
   ★文亀3年(1503) 長野業尚が死亡なので草津の大永6年(1526)
  の年号は間違っている。     
08▲延徳2年(1490)−長尾為景 (越後国守護代)
   ★長尾為景が2歳?
09▲延徳2年(1490)−大光宗猷禅師(曇英恵応:越後林泉寺&榛名長年寺)
   ★大永6年(1526)まで生きていなかった。
10●明応4年(1495)−横瀬成繁(太田金山城主)
11●文亀4年(1502)−飯尾宗祇(連歌師)
★宗祇は越後の帰りに伊香保に行っちゃったので来ていない。
○○○文亀 2年 (1502) 3月 連歌師:宗長が越後より草津に来る。
○○○永正 6年 (1509) 9月 連歌師宗長、駿河より草津に来る。
※永正6年(1509)の「東路の津登」が有名である。
◆◆◆戦国時代     湯本善太夫は草津温泉を支配していた。
12●永禄 3年 (1560)−小幡重貞(→信貞→信実:国峰城主)
 ★「関東古戦録」がベースなので、信憑性は疑わしい。
13●天正10年(1582)−丹羽長秀(織田信長家臣)
14●天正10年(1582)−堀秀政(織田信長家臣)
15●天正10年(1582)−多賀新左衛門常則(織田信長家臣)
○○○天正15年(1587)−光佐・光寿・佐起(本願寺座主と2人の息子)
16●天正15年(1587)−朝日姫(豊臣秀吉の妹:徳川家康の正室)
  豊臣秀吉の妹である朝日姫は、徳川家康の正室であり病気療養
 のために草津を訪れたとされている。
17●天正16年(1588)−豊臣秀次(関白:豊臣秀吉の甥:養子)
   豊臣秀吉の異父兄弟:豊臣秀次も来ている。
18●天正16年(1588)−松平(依田)康国(小諸城主)
19●文禄3年(1594)−大谷吉継(豊臣秀吉家臣:石田三成親友)
20●慶長3年(1598)−前田利家(豊臣秀吉親友:加賀100万石)
  前田利家なども遠路はるばる草津の地を訪れて、温泉に入湯した
という記録が残っている。
△△△徳川家康は、草津を訪れたことはないものの、草津の湯を江戸城へ
 運ばせて入浴していた。

********************************



◆前田利家とまつ
前田犬千代(利家)は木下藤吉郎(豊臣秀吉)とは松下之綱の家臣から
織田信長の家臣になった時、屋敷が隣同士で仲良しの間柄であった。

・永禄元年(1558) 前田利家は従妹:まつ(芳春院)を室に迎えた。
まつの母は前田利家の母の姉であった。
まつは12歳・前田利家は21歳であった。
同じ家で育っていた。
・永禄2年(1559)長女:幸が生まれた。
・永禄2年(1559) 織田信長の寵愛を受けた同朋衆の拾阿弥を斬殺し
  たまま出奔した。出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしをする。
・永禄3年(1560) 前田利家は内書で織田信長軍にいたが、出仕停止
はとけなかった。
まつは浪人生活でも小言を言わなかった。

・永禄4年(1561)8月 木下藤吉郎は浅野長勝の養女で杉原定利の娘
  :おねと結婚した。
★多くの本で、TVで木下藤吉郎とおねの結婚の仲人は
 は前田犬千代(利家)とまつになっているが、
 年号に不都合がありはしないだろうか?
・永禄5年(1562) 前田利家の帰参が許された。
清洲に住んだ。
隣には木下藤吉郎が住んでいて仲良しであった。
・永禄12年(1569) 織田信長から突如、前田家の家督を継ぐように
  命じられた。
・天正2年(1574) 前田利家は柴田勝家の与力となり、越前一向一揆
  の鎮圧に従事した。府中2万3000石の大名になった。
・天正3年(1575)) 織田信長の指示により越前国府中城10万石の
領主となった。

・天正9年(1581) 前田利家は能登一国の国主となった。
   前田利家は七尾城に入城した。23万石の大名になった。
2男6女が生まれている。
   七尾城は要害ではあったが防御上は利点があったが、港から
   離れていて治世・経済上の難点があった。

箕輪初心◆2013年GW:能登の城&ダイビング&志賀スキー他
http://53922401.at.webry.info/201305/article_1.html

・天正9年(1579) 瑞泉寺7代顕秀の時、織田信長揮下の佐々成政に
攻められて井波城(現瑞泉寺北隣)落城した。城下も焼亡した。
  笹成政は配下の前野勝長を配置して守らせた。
  井波城の大改修で、阿弥陀堂跡が本丸となり、祖師堂跡が二の丸、
  太鼓堂跡が三の丸になった(伝)。


・天正10年 (1582) 小丸山城を築城した。
   前田利家は七尾港に近い所口村の小丸山に平山城を築くことを
   決定し七尾城から移り住んだ。
   河川と海が堀の役割を果たす水城でもあった。
   小丸山城は能登水軍の本部の役割も成していた。
   前田利家は29の寺院(山の寺寺院群)を建立し、能登半島
   方面からの敵襲の守りを補った。


 
6月2日 本能寺の変

・天正11年(1583)4月 ▲近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の
  賤ヶ岳の戦い
   羽柴秀吉 VS 柴田勝家
前田利家はどちらも義理があり、どちらも味方しないことに決めた。
結局、前田利家は柴田勝家方に与して、敗走した。
まつは越前府中で羽柴秀吉に会って和議を講じて利家の危機を救った。
勝った羽柴秀吉は前田利家に旧領を安堵し、加賀2郡を与えた。
  前田利家は尾山城(金沢城)へ本拠を移した。
   兄:前田安勝が七尾城代として居住した。
3女:摩阿は羽柴秀吉の側室になった。
4女:豪は羽柴秀吉とねねの養女になった。

前田利家が能登を支配すると、実兄:前田利久に7000石が与えら
  れた。(後、前田利久は金沢城代)
  内、前田慶次郎は5000石であった。
  前田慶郎次は対佐々成政の最前線である阿尾城代となった。

画像

 ※前田利家と前田慶次郎の関係
 @滝川一益の弟:滝川益氏と妻は前田慶次(郎)利益を産んだ・
A前田慶次(郎)利益の母は前田利久の妻となった。
 B前田慶次(郎)利益は前田利久の養子になった。
前田慶次(郎)利益は前田利家の年上の義理の叔父になった。
C前田利久の弟:前田利春(利昌?)の4男が前田利家であった。

・天正12年(1584) ▲小牧・長久手の戦い
  3月頃? 豊臣秀吉方につく姿勢をみせていた。
  夏頃   徳川家康および織田信雄方についた。
 
 ▲末森城の戦い
  豊臣秀吉方に立った前田利家の末森城を攻撃した。
前田慶次郎は阿尾城から出撃した。

  越後国の上杉景勝もとも敵対していたため、苦戦が続いた。

井伊直政の活躍で徳川家康が有利になった。
  
  豊臣秀吉と織田信雄との間で和議が成立して、徳川家康が停戦
  した。
  佐々成政は厳冬のザラ峠(北アルプス立山山系)を越えて浜松
  へと踏破し、徳川家康に再挙を促した。
  しかし、徳川家康は佐々成政の説得を断った。
  織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかった。



・天正13年(1585) 富山の役
4月 丹羽長秀が没し。丹羽家は国替えとなった。
   豊臣秀吉が越中に乗り出した。
 佐々成政は兵力を集中させる策を採ったため、前野勝長は
   井波城を出て富山城へ参集した。
  8月 前田利家が先導し、富山城を10万の大軍で包囲した。

  佐々成政が織田信雄の仲介により降伏した。
  佐々成政は豊臣秀吉の裁定により、一命は助けられた。
  越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住
  させられ、以後御伽衆として豊臣秀吉に仕えた。

  前田利家の嫡子:前田利長が越中国の4郡のうち砺波・射水・婦負の
  3郡を加増された。
  前田利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上った。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原城攻撃
@前田慶次郎は北国軍として、出撃した説
  前田利家と上杉景勝(含真田昌幸・信幸・幸繁)は進軍した。
松井田城→・・箕輪城・・・鉢形城・・・小田原城
※前田慶次郎も出撃した。
前田利家と前田慶次郎は奥州の仕置きに行った。
※前田慶次郎は不明・・・・

A直江兼続の家臣として、長谷堂城の戦いで戦死した説

・慶長3年(1598) 豊臣秀吉がなくなった。
徳川家康の台頭・・・
前田利家が仲裁役
五大老の一人であったが、豊臣政権の重鎮として、老齢にもかかわ
らず隠居をすることも許されなかった。やっと、前田利家は隠居し
て身軽になった。前田利家は病状悪化は徳川家康と石田三成の対立
より、心配の種だったのかもしれない。


●慶長3年(1598)
3月下旬 草津温泉に行った。
   (★『前田家雑事』)
4月前田利家は家督を嫡男:利長に譲った。
5月 前田利家は上杉景勝に書状を送った。
 「草津温泉で湯治をする。」
 (★『上杉家文書』)
 前田利家は健康を回復するために、一族を引き
 連れて天下の名湯:草津温泉へ向かった。
布団・酒肴などが準備された。
 (★『陳善禄』)

一行には、謡曲師や楽師も含まれており、盛大な草津温泉の来訪
となった。
隠居後は15000石であったが、「加賀百万石」といわれた前田家
の経済力を伝えるエピソードである。


●まつの産んだ子ども
 永禄2年(1559) 長女・幸姫(前田長種室)
永禄5年(1562) 長男・利長(初代加賀藩主)
永禄6年(1563) 次女・蕭姫(中川光重室)
元亀3年(1573) 三女・摩阿姫(豊臣秀吉側室、後万里小路充房室)
天正2年(1574) 四女・豪姫(秀吉養女、宇喜多秀家室)
天正5年(1577) 五女・与免(浅野幸長婚約者、夭折)
天正6年(1578) 次男・利政
天正8年(1580) 六女・千世(細川忠隆室、のち村井長次室)
など2男9女を産んだ。戦国女性1人が産む子供の数が非常に多かった。
 ★前田利長は草津には来なかったであろう。
   前田利政・前田慶次郎や一族:前田長種・


・慶長4年(1599) 3月 前田利家がなくなった。
   まつは出家し、芳春院と号する。
徳川家康は5大老の切り崩しにかかった。
まず、前田利長を狙った。
「前田殿は大坂でわしの命を狙ったという噂を聞いたのだが、・・・」
(★火坂雅志著)
徳川家康は前田家を許す条件として、
@前田利家の隠居
A妾腹:前田利常の家督相続
Bまつを人質に出すこと
前田利長は激怒した。前田利長は交戦を主張した。
まつ「意地は捨てなさい。家を存続させることが大事です。
   ・・・母を案じて、家を潰すようでは本末転倒。
   当主なら、母を捨てなさい。」
 まつ59歳、利長39歳であった。


まつは前田利長を宥め、自ら人質となって江戸に下り、14年間
を江戸で過ごした。


・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
   徳川家康派 VS  石田三成派

7月14日 大谷吉継は敦賀城に帰還した。

・前田利家嫡男:前田利長は五大老の一人であったが、生母の芳春院
 (まつ)を人質として江戸に差し出していたため、東軍に与した。
 そこで、大谷吉継は前田利長の動きを封じるため、越前や加賀南部
 における諸大名に対して勧誘工作を行なった。
  その結果、越前の諸大名の多くが西軍に加わった。
青木一矩(北之庄城21万石)
青山宗勝(越前丸岡4万6000石)
織田秀雄(大野5万石。織田信長の次男・織田信雄の子)
木下頼継(2万5000石)
丹羽長重(加賀小松12万5000石。丹羽長秀の子)
丹羽長正(越前東郷5万石。丹羽長重の弟)
戸田重政(越前安居1万石)
奥山正之(1万1000石)
赤座直保(1万石)
上田重安(1万石)
溝江長晴(1万石)
山口宗永(加賀大聖寺5万石)
山口修弘(1万3000石。宗永の長男)。
 (★ウィキペディア)

7月26日
これに対して、前田利長は加賀南部や越前を制圧すべく、2万5000人
を率いて丹羽長重が守る小松城を包囲攻撃した。
 小松城の守備兵は丹羽長重以下約3000名ほどに過ぎなかったが、
堅城であった。前田軍は城を落とすことができなかった。前田利長は
西軍の山口宗永が守る大聖寺城に向かった。

8月2日 前田利家は包囲攻撃を開始したのである。
 山口軍の兵力はおよそ2000人ほどに過ぎず、前田軍の前に遂に敗れて、
 山口宗永・修弘親子は自害した。

8月3日 大谷吉継は伏見城攻防戦などを戦い後、越前敦賀に戻った。
 大谷吉継の率いる兵力はおよそ6000人ほどに過ぎなかった。

大谷吉継は前田軍に対して、
「上杉景勝が越後を制圧して加賀をうかがっている」
・「西軍が伏見城を落とした」
・「西軍が上方を全て制圧した」
・「大谷吉継が越前北部に援軍に向かっている」
・「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している」
など、虚虚実実の流言を流したのである。
 前田利長は偽情報に動揺した。

・8月5日付の三成の書状「備えの人数書」
  北国口の兵3万100の大将とされた。




8月5日付の石田三成の書状
 北国口の抑えとして30人の大将に大谷吉継の名がある。

・大谷吉継の母:東殿は高台院の代理として宇喜多秀家が行った
 出陣式に出席した。


8月8日、前田利長は軍勢を金沢に戻すことにした。

▲浅井畷の戦い
丹羽長重は前田軍の金沢撤退を知って、軍勢を率いて小松城から
出撃した。
丹羽長重は浅井畷で兵を率いて前田軍を待ち伏せた。

8月9日、丹羽軍が前田軍を攻撃した。
 畷のために道幅が狭く、大軍の威力を発揮することができない。
 前田軍は被害を受けたが、丹羽軍を撃退し、何とか金沢に撤退した。

●浅井畷古戦場(石川県史跡)…1回見学


前田利長  VS  次男:前田利政

 前田利長は金沢城へ引き返したあと再出陣するが、弟:前田利政
 は動かなかった。原因は妻子が石田三成の人質となっていたため
 ともいわれている。

9月11日、前田利長は弟:前田利政の軍務放棄に悩まされながら
 も再び西上した。

9月18日 前田利長は丹羽長重と和議を結ぶ。
      前田利政は西軍に妻子を人質を取られたと知った。

結果、25000の前田利長軍は関ヶ原の決戦に間に合わなかった。
  大谷吉継の戦術が優れていた。


次男・前田利政の赦免を願い出た。
 
まつは角倉了以に匿われていた前田利政を訪ねた。
 孫の顔を見るためでもあった。
 幕府かた疑惑をかけられ、江戸に返された。
 養育していた前田利孝の大名取り立てを直訴した。
※まつは前田家のために奔走していたのである。

・慶長19年(1614)
▲大坂の陣
  前田利政が両陣営から誘いを受けたが中立を決めた。
  戦後、徳川家康は前田利政を10万石の大名取り立てる打診を
  したが、「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、
  関東方(徳川氏)への忠節を尽くす行動ではない。」と辞退した。
前田利政の赦免の約束は土壇場で反故になった。
まつは幕府の命により伊勢・京で保養することになった。
しかし、まつは金沢へは立ち寄りは認められなかった。
石動山寺に前田利長復帰を祈祷を依頼した。

  長男:前田利長が死去した。
  ようやく金沢へ帰国できた。
  まつは江戸幕藩体制における参勤交代・諸大名妻子の江戸居住制が
  確立の第一号であった。
代わりに、2代藩主:前田利常の生母:千代(文禄の役で次女と
 して、名護屋城に行かせたら、お手つきになっちゃった。)
江戸に住むことになった。

・元和元年(1615) 一国一城令に従い七尾城・小丸山城を廃城にした。
まつは京の「ねね」を訪ねた。


・元和3年(1617) まつが金沢城内で死んだ。享年71。


『草津に歩みし100人』のブログ一覧**************

◆1)草津温泉・・・・20回以上?
箕輪初心◆2014スキーbX【草津】& 『草津温泉:望雲』
http://53922401.at.webry.info/201402/article_13.html

箕輪初心▲群馬:日本百名山:草津白根山&草津温泉
http://53922401.at.webry.info/201107/article_4.html

箕輪初心▲群馬百名山A26〜50草津白根山・皇海山など
http://53922401.at.webry.info/201206/article_29.html

箕輪初心■群馬草津の松尾芭蕉句碑:ゴリラ50ccでGo
http://53922401.at.webry.info/201209/article_4.html

箕輪初心■プラドでGo【群馬の4湯巡り】 
http://53922401.at.webry.info/201206/article_26.html

箕輪初心:生方▲2018スキーbV『草津コース動画&昼食:月乃井
&温泉:山本館』
http://53922401.at.webry.info/201803/article_7.html




●草津温泉に来た有名人シリーズ*****************
箕輪初心:生方▲『草津温泉に歩みし百人』@「日本武尊:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_23.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』A「行基:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_24.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』B「源頼朝:開湯伝説」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_25.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』C木曾義仲・D巴御前
http://53922401.at.webry.info/201709/article_26.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』E蓮如と番外編「孫:顕如」
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箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』「番外編:堯恵」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_28.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』F「長野業尚:榛名鷹留城主」
http://53922401.at.webry.info/201709/article_30.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人G長尾為景:上杉謙信の父
http://53922401.at.webry.info/201710/article_1.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人H大光宗猷禅師=曇英恵応:林泉寺創建
http://53922401.at.webry.info/201710/article_2.html

箕輪初心:生方▲『草津に歩みし100人』番外編:万里集九『梅花無尽蔵』
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http://53922401.at.webry.info/201710/article_8.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人:連歌師『J宗祇』&番外編『宗長』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_9.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人『草津管理人:湯本善太夫』
と『真田ブログ一覧』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_10.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人ー12『甘楽国峰城主:小幡信貞』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_11.html

箕輪初心:生方:▲草津に歩みし100人:『戦国時代の草津温泉ブーム創作編』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_12.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人【織田信長家臣→豊臣秀吉家臣L丹鋳キ秀】
http://53922401.at.webry.info/201710/article_13.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人【織田信長家臣→豊臣秀吉家臣M堀秀政】
http://53922401.at.webry.info/201710/article_14.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人【織田信長家臣→豊臣秀吉家臣N多賀常則】
http://53922401.at.webry.info/201710/article_15.html

箕輪初心:生方▲草津100人『16(近衛晴嗣→前嗣→前久→)近衛龍山
http://53922401.at.webry.info/201803/article_9.html

箕輪初心:生方▲草津100人『17朝日姫・18豊臣秀次・
幻の豊臣秀吉&井伊直政』
http://53922401.at.webry.info/201803/article_10.html

箕輪初心:生方▲草津に歩みし100人19『依田(松平)康国』
:豊臣秀次の饗応役
http://53922401.at.webry.info/201803/article_11.html

箕輪初心:生方▲草津温泉100人20『真田幸繁親戚:大谷吉継
とハンセン氏病療養』
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