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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政169彦根N『善利(せり)足軽長屋』と高崎から移った足軽

<<   作成日時 : 2018/02/06 09:19   >>

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平成28年(2016)2月25日(金)〜27日(日)、滋賀県彦根市に調
査に出かけた。善利組足軽組屋敷、城下の南部、外堀(現昭和新
道)と芹川とに挟まれた地区にある。言わば、4郭に相当する。
城下町の一番外側に住居を置き、城下を守る役割を果たしていた。
 『彦根城内の平山城部分本丸1郭』・『二の丸2郭』・『外堀内の城
下町の居住区と町人居住区』・『外堀の外の善利の足軽長屋・町
人居住区』を見たので、高崎城下町の下級武士・足軽が街道の門
の近くなどに置かれたことが推測できる。また、箕輪城下町の東明
屋地区や明治6年の「アキヤ(小字)」が下級武士・足軽の屋敷跡
であると確信を持てた★宮嶋さん、ありがとうございました。井伊
直政の箕輪時代・高崎時代の城下町構想を帰納的に類推解釈で
きました。
箕輪城・高崎城での井伊直政の家臣で彦
根に行けなかった関ヶ原の戦いの死亡者・行かなかった井伊直政
の家臣(帰農・町人となった武士)以外はほどんど彦根に行って
いるであろう。足軽も箕輪→高崎→彦根に移っていった。
画像




*************************
◆1日目・・・2月25日(木)
05:45箕郷支所→06:30高崎駅07:01→08:00東京駅08:33
→10:45米原駅
米原駅11:00→11:05彦根駅 
                  
11:30レンタカー・・ホテル荷物預け
12:00昼食:伊吹蕎麦「つる亀庵」

13:00
【1】彦根市役所観光企画課「彦根城まつり」

【2】大雲寺 小川良紘住職

【3】清涼寺・・・滋賀県彦根市古沢町1100
1)山門
2)清涼寺の客殿
3)本殿:位牌堂★通常は見せていただけない。
4)清涼寺本殿
 寺宝…歴代藩主の画像や狩野元信らの名画が所蔵されている。
5)清涼寺境内
6)清涼寺座禅所
7)井伊家代々の墓所
 ★公的な立場で行ったので、特別に見せてていただいた。
@井伊直政の墓
  ※清涼寺は一般公開していない。
A旧藩主の無縫塔の墓石6基
 井伊家一族の墓石の数は58基。

@箕輪・・・清涼寺はないが、龍門寺
A高崎・・・清涼寺はないが、龍広寺
B彦根・・・石田三成重臣:嶋左近の館→清涼寺
 ★平成29年9月に清涼寺の和尚様も龍門寺の行事に見えていた。
●開基:井伊直孝
・慶長7年(1602) 井伊直政が佐和山で死去。
  井伊直孝は徳川秀忠の近習として仕えた。
・慶長13年(1608) 上野刈宿(狩宿:長野原町)5,000石を与えられた。
・慶長15年(1608) 上野白井藩1万石の大名となった。
・慶長18年(1613) 伏見城番役となった。
・慶長19年(1614) 井伊直継は彦根藩から安中藩に分地が決まった。
井伊直孝が彦根城主になった。
・寛永8年(1631) 彦根藩2代藩主井伊直孝が父:井伊直政の
 墓所として、建立した。
旧領:上野国から愚明正察(ぐみょうしょうさつ)禅師を招いて
開山した。


【4】佐和山城での井伊直政の居住区&大手口
1)愛宕山
 石田氏滅亡の後、井伊直政が佐和山城に入城した。
 井伊直政は佐和山城の南東部の愛宕山に居住

2)大手口・・・東山道が近くを通る


【5】鳥居本宿
中山道69次の内、滋賀県の中山道宿場は東海道と交わる草津宿まで
9宿がある。
★中山道には62次程、見物しているので、紹介予定。
彦根には2つの中山道宿場街「鳥居本宿」「高宮宿」がある。
多賀大社の鳥居があったことからその名がついた(伝)。
鳥居本宿は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒があった。
江戸時代の面影を物語ってくれる。

【6】天寧寺遠望
 井伊直弼腹臣:長野主膳の夫妻の墓
 長野義言(よしとき)
 説@…上野国箕輪城主だった長野氏の末裔説
    群馬県人の信じている人が多い。

 説A…伊勢の長野氏の子孫説(2009年の野田浩子氏の話) 
 
説B… 伊勢国飯高郡滝村(たきのむら)の住人である長野次郎祐
  の弟で先祖は上州長野氏とされる。しかし、これは戸籍だけのことで
  出自、経歴とも25歳になるまでの一切はわかっていない。
(★ウィキペディア)



17:00 サンルート彦根
18:30 夕食
20:30 宿泊


***********************
◆2日目・・・2月26日
06:00  参加者2名が佐和山城登山

【7】彦根龍潭寺
・慶長6年(1601)
1月 大坂にいた。
1月 井伊直政は佐和山城に入った。
 (★木俣土佐武功紀年自記:井伊達夫氏所蔵)
2月 井伊直政は佐和山城に入った。(★井伊年譜)

?月 彦根龍潭寺の創設が始まった。
龍潭寺五世昊天禅師を招いて遠江国から分寺し、建立した。
  昊天禅師が方丈南庭と書院東庭はの作庭した。
  枯山水と池泉式庭園となっている。


3月18日 相良長毎(ながつね)に
     「佐和山で養生する。」(★相良家文書)

◆井伊軍志〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
井伊直政・・・愛宕山米蔵付属曲輪
木俣守勝・・・二の丸
中野直之・・・三の丸
広瀬将房・・・二の丸・三の丸(後、美濃丸と呼ばれた。)
  広瀬将房は中野直之の3男で武田旧臣:広瀬美濃守景房の養子である。
犬塚正長・・・愛宕下屋敷
本丸&5重天守は消失していたので、入れなかった。
(★「当城下近辺絵図附札写」)

井伊直政は石田三成の威光を払拭するべく、新たに彦根城築城を計画
した。しかし、直政は築城に着手できないまま、死去した。
計画は嫡子:井伊直継が引き継ぐこととなった。
彦根城は大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用し
つつ、天下普請によって彦根城を完成させている。

・慶長11年(1606) 完成した彦根城天守に井伊直継が移ったことに
 ともない佐和山城は廃城となった。

・慶長14年(1614) 井伊直孝が彦根城主になった。
  2代藩主:井伊直孝の代に彦根龍潭寺の諸堂が完成した。

・????年 蕉門十哲のひとり森川許六(1656~1715)が方丈の襖絵
  を描いた。(森川許六の墓が彦根長純寺)

【8】佐和山城
  佐和山城跡入り口
  龍潭寺が全山を所有で無料での入山を許可している。

【9】井伊神社
 ・天保13年(1842) 彦根藩12代藩主:井伊直亮が、井伊家の始祖
  井伊共保の750回忌にあたり、井伊谷八幡宮(現静岡県浜松市)か
  ら井伊大明神を分霊して神像を造り、龍潭寺の参道脇に祀ったのが
  はじめとされている。
 井伊直政・井伊直孝が祭られている神社である。

07:30 朝食
08:30 出発
09:00〜12:00 ボランティアガイドによる「彦根城」見学
:久々宮さん・宮嶋さん


【8】彦根城
0)全体的な縄張りについて
@箕輪城・・・北条の時代の改修
 ・本郭を御前曲輪側にさらに広げた。(★発掘調査より)
・郭馬出の出撃門を建造した。
 ・本丸西に高麗門と廊下橋(太鼓橋)を建造した。
 ・御前曲輪に高麗門と廊下橋(太鼓橋)を建造した。
 ・新曲輪を増設した。
 ・木俣曲輪・松下曲輪などを補修工事した。
 ※現在残っている箕輪城の遺構である。

A高崎城
 築城関係者は以下であった。
 木俣土佐守守勝・・・★殆どいなかった。
 鈴木石見守重好
 孕石備前守泰時・・・・・・・★実質的な縄張り担当者
 早川弥惣右衛門・・・・・・・★実質的な縄張り担当者
 らに任せていた。
 (★井伊軍志P181)
 川手良則・・・(井伊直政の姉:高瀬姫の夫)が留守を守っていた。
 (★井伊谷400年記念の歴史冊子:武藤全透著)

B彦根城
築城の関係者以下であった。
◎縄張り  
 :早川幸豊(山県昌景→井伊直政)150石だが、一番始めに記載されている。
:石原主膳(山県昌景鉄砲奉行→北条氏政鉄砲奉行→井伊直政の槍奉行)
  :横地吉晴
 :孕石泰時  
◎普請奉行 
  :富上喜太夫
  :伴加右衛門
  :加藤金左衛門
◎作事奉行 
:宇津木新九郎(由良国繁→北条氏政→井伊直政)
  :横内弥左衛門
C大工棟梁  
:浜野喜兵衛
★同じようなメンバーが起用された可能性が高い。

【10】玄宮園
「近江八景」に置き換えて作庭されたといわれる。天守を借景として、
中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、
鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。
(★彦根市HP)



【●】昼食
12:00 〜13:45 昼食 兼 情報交換会
歴代の5代彦根城ボランティアガイドさんがおみえになった。
*箱弁当

ガイドさんは家臣団の史料をを用意して下さった。


*****************************

14:00〜15:30 彦根城博物館の野田学芸員講義「彦根城」
野田浩子先生は「徳川家康天下掌握過程における井伊直政の役割」
(『彦根城博物館研究紀要』18号、2007年)の中で、出展史料:
「真田家武功口上之覚」(『真田家文書』中巻、1982年)から、
「井伊直政は東軍に味方した真田昌幸の長男:真田信之の懇請を
受け入れ真田昌幸と次男:信繁(幸村)の助命にも進退を懸けて
まで尽力した。真田信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考え
ての行動だった」とという考えを発表した偉大な学芸員である。
特に井伊家の儀礼の研究などに優れた先生である。
※個人1回目の個人旅行での野口先生
「井伊直弼の家老:長野主膳は伊勢の長野氏と教え
て下さった」先生である。

*井伊直政の歴史について、野口先生の講演のほか、井伊谷
400年記念の史料や井伊軍志などを参考に加筆した。


15:30〜17:00 彦根城博物館での調査・見学
・大坂の陣の彦根藩士資料の展示。
・井伊家伝来の甲冑・刀剣武具を展示。
・井伊家に伝来した美術品(絵画、能装束、茶道具、日本の楽器など)展示。
・彦根藩に関する古文書。
・特別公開・・・「井伊直弼の次女:弥千代の雛道具・婚礼調度」
弥千代は13歳で高松藩に嫁いだ。井伊直政の死後、高松松平家にも
  累が及ぶことを恐れて、弥千代は離縁して井伊家に戻った。
  明治維新後、井伊弥千代は再び松平頼聡に嫁いだ。
・紙本金地著色風俗図:彦根屏風(国宝)
・我宿蒔絵硯箱(重文)


18:30 〜20:30 夕食


21:00 宿泊



*****************************
3)●3日目・・・2月27日
07:30 朝食
08:30 出発
09:00〜12:00 見学調査
【1】金剛山長純寺・・・滋賀県彦根市佐和町5-49
@箕輪城時代:長純寺
・明応六年(1497)長野業政の父:長野信業が現高崎市箕郷町上芝
 (水草)に創建した(伝)。現箕郷町下芝の第五保育園付近である。
・明応7年(1498)長純寺が榛名白川の洪水で流出した。
・ 弘治3年(1557) 長野業政が菩提寺:長純寺(高崎市箕郷町
  原山)を再建した。(★長純寺文書)
   梁14丁、柱78本・・・
長野業氏の次男:長野業亮=大森別当:曇廊は和田山大雲寺に
 いた。
 
・永禄9年(1566)5月 鷹留城落城
曇廊は落城後に住職となった。
 鷹留長野業通の次男:業茂が仏門に入り、珠山玄宝となった。
 箕輪:和田山長純寺(高崎市箕郷町原山)の住職となった。
A高崎城時代・・・高崎城下にはない。
し明治8年(1876)廃寺となった。
B彦根城時代
・慶長8年(1603) 鷹留長野業通の次男:業茂=珠山玄宝は
 彦根長純寺を開いた。(★大雲寺記録)
・元和3年(1617) 開山説
※高瀬姫(春光院)の墓・・・井伊直政の姉:川手主水の妻
(ちなみに、川手主水良則の墓が彦根市南川瀬町にある。)

※森川許六の墓・・300石。
宮嶋さん(★長純寺総代だそうである。)
「松尾芭蕉の門下生「蕉門十哲」の1人である。
 俳句、武術、馬術、絵画、書、能、茶にも優れたいた。」
・平成26年(2014) 本堂など建物は全て喪失されてい
  たので、長純寺の本堂が再建された。
 大雲寺:井上良紘氏が新築記念の祝詞をあげた。
 箕輪長純寺の和尚様も来られた。
(★井上良紘)
 「米原の??寺が兼任住持? 」
・平成27年(2015) 句会が行われた。

【2】切通口・・・「ここで、下馬した。」


【3】俳遊館
大正時代の信用金庫を利用したレトロな外観である。
彦根ボランティアガイドの活動拠点である。
今日も広報会議が行われていた。

【4】蓮華寺
蓮華寺は俳遊館&城東小の間にある。
東の突き当たりにある。
蓮華寺・・・
@箕輪城時代・・・椿山法華堂
A高崎城時代・・・日蓮宗:西郷山法華寺
・第?世:日儀が開基した。
B彦根城時代・・・現彦根市中央町3−64
 本尊:十界曼荼羅・・・・
・慶長8年(1603) 妙法山蓮華寺第?世:日儀が開基した。
・江戸時代・・・朝鮮通信使宿所として活用された。


*********************
【5】大信寺
@箕輪城時代・・・箕郷町西明屋・・光徳寺の隣説。
鷹留城落城後、鷹留長野業氏の次男:業亮は和田山大雲寺の住職
 となった。大森別当:曇廊と名乗った。
A高崎城時代・・・北通町に移された。
B彦根城時代・・・大雲寺を開いた。
  

【6】善利(せり)足軽屋敷

@箕輪城時代・・・足軽は?
東明屋・明治6年の「アキヤ」の地名か?

A高崎城時代・・・足軽は高崎の7つの門の内側・外側に住み、木戸を
守った。
   間部時代の高崎に中級武士の居住区にも「足軽長屋」は
   2ヶ所あった。

  
井伊直政の時代の年貢と足軽への俸禄
 箕輪下柴・榛名神戸・高崎大類町の年貢を村役人(地方3役)と百姓
宛てに出した文書が出ている。井伊直政名で発給された文書、松下清
三郎・奥山六左衛門など連署の物がある。

一般的には村の名主 (庄屋・肝煎)・組頭 (年寄・脇百姓) ・百姓代
(長百姓) を村方三役と称した。井伊直政の場合、名主・組頭・百姓代
・百姓中に宛てている。
井伊直政は、田の場合には、上田・中田・下田として米納であった。
畑の場合には,現物・金銀銭などで納めさせることが多かったと思わ
れる。年貢は村に対して課せられ、地方3役が地主に割当てた。
町名主にも賦役を課した。

箕輪城には、勘定町があり、蔵が建てられていたと思われる。
また、箕輪城内に蔵屋敷と呼ばれる地名も残っている。
文書からして、当初は定免制(一定税率)であったと思われる。
もしかしたら、籾納の可能性もある。


井伊直政の時代、足軽には17石=150kg×17=
1500kg+1050kg=2550kgの米納であった
と思われる。数回に分けて支払われたと考えられる。
2550kgの米?
現代では10kgを5000円(私の家では玄米30kgの
美味しいコシヒカリを15000円で2俵分を親戚から購入)
としたら、・・・
5000円×255=1275000円程度に計算上はなる。



B彦根城時代・・・

◆彦根ボランティアガイド:宮嶋さんの説明と史料・看板などより
●彦根藩の足軽俸禄
・慶長11年(1606)中藪組6組・善利組12組が結成された。
彦根藩の足軽衆は、二十二俵三人扶持の禄高であった。
・元和3年(1617) 足軽の増強により、川原町裏手に8組が設置された。
・寛永6年(1629) 瓦焼町東側に切通上・下組、安清町南側にも大雲
寺組の組屋敷が設置された。
※中組・北組が設置された時期は不明である。


足軽1120人を鉄砲組と弓組に分けた。



物頭→鉄砲組手代→小屋頭→足軽
物頭→弓組手代→足軽
 彦根藩においては、足軽は足軽組に編入された。平時は各所の番人
や各種の雑用とをこなした。34〜36名の家老の家来にも足軽はい
た。

★物頭は 1000〜300石取りの家老・侍大将クラス
★手代は  300石以下の家臣
★小屋頭 足軽の代表
★足軽   扶は20俵2人扶とされた。
  1石=2俵半=60kg×2.5=150kg
  「20俵」=60kg×20俵=1200kg

江戸時代中期以後、一般的には幕府では5割、諸藩では6割〜7割
が普通であった。小作人が地主に納める小作米をも年貢と称した。
小作人は二重に払うことにある。彦根藩は知らないが、幕末期の
高崎藩(大河内松平家)は7公3民であったと書かれている。

※足軽の「20俵」が切米(きりまい)として年3回にわけて、米
の相場に合わせて「現金」で支給された。変動相場制を採用している。
平均的に考え、1石1両とすれば、20俵は8石なので8両の支給になる。

※「2人扶持」は毎月、玄米が現物支給された。
本人・家来の分である。つまり、足軽は家来を雇わなければならない
ということになる。家来は中間・小者と呼ばれている。
彦根藩は足軽屋敷を見る限り、武士と認めているようであるが、
「侍中由緒帳」にはかかれていないので、足軽は士分とはならず、
厳しく区別された可能性もある。
藩によっては、足軽は袴や足袋
を穿けない。俗に「やっこさん」の服装である。「したに〜、し
たに〜」と先頭を行く方々のように、
・・・さらに低い作られた身分によっては、服の色が茶・紺と決め
られていた藩もあった。おそらくは彦根藩も服装で分かるように義
務付けられたと思われる。
また、藩によっては士分の者と道で出く
わすと膝をついて礼をすることを義務付けた藩も多かった。

仙台藩では、足軽は「士分」ではなく、武士以外の身分であった。
天保期から、身分をめぐるトラブル文書上から多く見られる。
肝煎資格が教養も高く、訴えを起こしている。
「・・・樣は・・・殿よりランクが上であった。」
 「士と農工商・さらに低い身分(「えた・非人など」)
 
井伊直政の箕輪城時代、軍監・家老の岡本半助宣就・広瀬景房・
三科形秀・孕石泰時などを中心に井伊軍法は制定された。戦時の服
装・組織・規律も明示された。
高崎城時代の普請役、諸番役、江戸
詰めなどの役儀・虎口・木戸の輪番制も決められていた。井伊直政
の高崎城築城に際しては、7つの木戸があったので、外敵を防ぐた
めに、足軽が配置されたと思われる。「弓町」という名前は井伊直
政以降に作られたと江戸時代後期にかかれた『高崎志』にはかかれ
ているが、門番の必要性から井伊直政の時代に町割りが確定し、江
戸時代を通じて、継承されたと考える方がが妥当性がある。
 彦根藩は井伊軍法の内容を踏襲した。彦根藩の足軽組は足軽規定
により運営された。規定の下に物頭・手代・小屋頭により独自に統
率された。足軽は物頭を通じて家老支配の系列に位置づけられた。
 足軽は槍・弓・鉄砲などの「武役」稽古が義務づけられた。
井伊直継の時代には稲富流始祖や宇津木泰繁が鉄砲奉行になっている
ことから足軽鉄砲御覧があったり、慶長14年には、宇津木泰繁は大
砲の試し撃ちの披露も記録として残っている。
おそらくカルバリン砲
を打ったのあろう。そして、冬の陣で実際使用された。
 各組は物頭・手代・小屋頭に統率されながらも、各組員が負担を
分担した。槍組・弓組・鉄砲組によって微妙な仕事内容が
ことなる。次第に足軽の仕事も分業化が進み、藩主や家族の世話をす
る用人支配下の彦根城内の天守・御殿の門番:「御鎖前番」などは独
立していった。
 足軽の相続は、近世初期は一代限りを原則とし、世襲制・幼年相
続は認められていなかった。しかし、次第に足軽手代や譜代足軽など
で幼年相続・養子相続で「家」 を継承するようになっていった。


★奉行所役人の必殺仕事人の「中村主水」は「30俵2人扶持」であっ
た。岡っ引きを雇い、細々と暮らす。・・でも、裏稼業があるか?
彦根藩の足軽も副業を持っている者が多かったであろう。

・幕末期  戸数およそ700軒あった。
中居家住宅・太田家住宅などは善利組の足軽屋敷として
風情を残している。
 
画像

画像

1間半(約2.7m)の狭い道が続いている。
車が通りにくい。
 防御を目的とした町割りのため、「どんつき」や「食い違い」など、
 直線を避け意図的に曲げた小路となっている。

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・番所と「食い違い」の道
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 「間口5間(約9m)、奥行10間(約18m)
 敷地約50坪(約160u)」

※面積では、善利組が最も大きいので、町面積も広い。
 東西約750m×南北約300mある。

画像

 ★木戸門と木塀に囲まれた建物が軒を連ねていたのであろう。
 「建物内は玄関・台所・納戸・座敷の4部屋が「田」の字形
  になっている。8畳の座敷から庭を望むことができた。」


箕輪初心:生方井伊直虎・直政135『46話:悪女について』&二俣城
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政136『47話:決戦は高天神』&高天神城
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箕輪初心・生方井伊直虎・直政137【48話「信長、浜松に来たいってよ】
&浜松城初期
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第49話:本能寺が変】&伊賀越え
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第50話『石を継ぐ者』直虎の死】
&直虎の墓
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箕輪初心:井伊直政140『本能寺の変〜天正壬午の乱〜小牧長久手の戦い』
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箕輪初心:生方▲井伊直政141『天正13年(1585)第一次上田合戦〜天正17年』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直政142『天正18年山中城攻撃〜小田原城攻撃
〜箕輪城入城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_3.html

箕輪初心:生方▲井伊直政144【菩提寺:竜門寺縁起】松下3代の墓復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_4.html

箕輪初心:生方▲井伊直政145【箕輪:滝沢寺】中野直之の中興開基か?
http://53922401.at.webry.info/201801/article_5.html

箕輪初心:生方▲井伊直政146【万松寺→恵徳寺】中野直之の妻?母?
:恵徳院開基
http://53922401.at.webry.info/201801/article_6.html

箕輪初心:生方▲井伊直政147『箕輪城時代』:『井伊直政文書集』
大石泰史編を加味した2018年最新版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_7.html

箕輪初心:生方▲井伊直政148『箕輪城下町推定絵図』
&直虎・直政ブログ一覧
http://53922401.at.webry.info/201801/article_8.html

箕輪初心:生方▲井伊直政149『箕輪城から高崎城移城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_9.html

箕輪初心:生方◆井伊直政150『高崎の名前の由来』
と無理矢理井伊家関連
http://53922401.at.webry.info/201801/article_10.html

箕輪初心:生方▲井伊直政151『高崎城築城と長野堰・新井堰』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_11.html

箕輪初心:生方▲井伊直政152『箕輪城下町から高崎城下町への移動』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_12.html

箕輪初心:生方▲井伊直政153『箕輪白銀町・鍛冶町→高崎鍛冶町』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_13.html

箕輪初心:生方▲井伊直政153「箕輪から高崎に移った寺社』復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_14.html

箕輪初心:生方▲井伊直政154『高崎城と街道整備:中仙道・三国街道』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直政155『高崎城時代の外交』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊直政156『直政の外交と決戦:関ヶ原』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_17.html

箕輪初心:生方井伊直政157『彦根藩主:井伊直孝が6〜7年間?
過ごした安中北野寺』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_18.html

箕輪初心:生方▲井伊直政158『群馬県に残っている井伊直政関連の遺物』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直政159『雪の佐和山城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直政160『彦根城に入れなかった井伊直政』前編
http://53922401.at.webry.info/201801/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直政161『彦根城に入れなかった井伊直政』後編
http://53922401.at.webry.info/201801/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直政162『@彦根市役所「ひこね城まつり」の話』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_23.html

箕輪初心:生方▲彦根A『大雲寺』上野国出身の第3家老:長野一族開山
http://53922401.at.webry.info/201801/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直政163『清涼寺:上野国の愚明正察開山』直政公
の御位牌・墓で礼拝
http://53922401.at.webry.info/201801/article_25.html

箕輪初心:生方▲井伊直政165&彦根C『直政が住んだ愛宕→佐和山城
大手口→鳥居本宿』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_26.html

箕輪初心:生方▲彦根D『井伊直弼腹心:長野主膳義言の話→夕食』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_27.html

箕輪初心:生方▲彦根E『彦根龍潭寺と井伊神社』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_28.html

箕輪初心:生方▲井伊直政166&彦根F『箕輪城・高崎城・彦根城
の類似性』復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_30.html

箕輪初心:生方▲彦根G『楽々園→玄宮園→井伊直弼の像』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_31.html

箕輪初心:生方▲彦根I『彦根城博物館の展示品』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直政167&彦根J『長純寺』姉:高瀬姫の墓
http://53922401.at.webry.info/201802/article_3.html

箕輪初心:生方▲彦根K「旧鈴木家屋敷→俳遊館」と『蓮華寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_5.html

箕輪初心:生方▲井伊直政168&彦根L箕輪→高崎→彦根『大信寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_6.html

箕輪初心:生方▲彦根M箕輪→高崎→彦根に移った『紺屋町・鍛冶屋町
・蓮着町?』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_8.html

箕輪初心:生方▲彦根N『善利(せり)の足軽長屋』と箕輪・高崎類推足軽長屋
http://53922401.at.webry.info/201802/article_9.html

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