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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政171&彦根21『木俣守勝と木俣守安』

<<   作成日時 : 2018/02/12 07:16   >>

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弘治元年(1555) 松平家臣:木俣守時の子として三州岡崎で生まれた。
木俣家は三河譜代の家柄であった。19歳の時、徳川家康の元から
出奔したと言われている。明智光秀の家臣となったというが、足利
義昭・織田信長の情報を徳川家康が知りたいために潜りこませたと
も考えられる。
本能寺の前年、徳川家康の織田信長への願いで、帰
参できたと思われる。天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が亡
くなり、天正壬午の乱が起こって、徳川と北条で和議が結ばれた。
正使:井伊直政、副使:木俣守勝であった。その後、木俣守勝が井
伊直政に附けられた。天正18年(1590)甥の狩野主膳の子を養子
にした。木俣守勝の死後、養子:木俣守安が木俣家を継いだ。
木俣守勝は
・箕輪城時代…箕輪城「木俣」に住んだ。
・高崎城時代…不明?
・佐和山城時代…2の丸
・彦根城時代…彦根城1郭内:土佐曲輪

画像

(★彦根城1郭内の土佐曲輪→山崎曲輪:写真下)
画像

 (★後の木俣屋敷)
画像

 (★『主君 井伊の赤鬼・直政伝』高殿円著:文藝春秋)
★出版された3日後、アマゾンで購入した。
@木俣守勝は徳川家康の近習だったが、父の後妻との折り
 合いが悪く、 徳川家を離れて明智光秀に仕えることになった。」
 とあるが、私は、織田の動向を
探る密偵の役目である。井伊直政の「御附人」となったのと同様で
あると考えている。
A「父の死を契機に徳川家に帰参した。」とあるが、
 私は、明智の危機が迫ったので、徳川家康が帰参させる
 ことにしたと考えている。


「井伊の赤鬼・直政伝」となっているが、 井伊家の家老となった
木俣清左衛門守勝の視点で話が進む。





【0】侍中由緒帳
「壱万石當御知行
四代目清左衛門書出シ之趣
一右拙者曾祖父清三郎、後清左衛門、次ニ土佐与申候
 生国三州岡崎之者二而九歳之比より
大権現様江被召仕、拾九之歳細有之、京都江立退明智
 日向方二罷仕、廿七之比岡崎江被召帰、如元御近習二
 相勤罷在候中、
天正十年五月
 権現様和泉堺御見物之時、大事之長途御供仕、
 同十年之秋甲州若神子之台百日
 御対陣之砌、御噯(おくび)之御使
 直政様御勤被成候御副使土佐相勤
 御約諾相調
 権現様御馬被納候、次甲州侍
 直政様御与力御附被成、
 権現様上意二而土佐儀甲(きょう)侍之物頭二
 仰付、信高遠口一揆二被指置候、、其頃より
 御家中二相勤来候。甲州侍之物頭二御附被成候子細者(は)
 権現様甲御手二入候砌、木俣土佐甲州二被遣、…(略)」
 


【1】木俣守勝と木俣守安
・弘治元年(1555) 木俣守時の子として三州岡崎で生まれた。
幼名菊千代→清三郎
  
  父:木俣守時が徳川家康に仕えた。
 
  幼いころから徳川家康に出仕した。
  9歳で家康の小姓か?

・元亀元年(1570) 数え14歳で元服した。
  通称は木俣清左衛門尉となった。(→土佐守)

・永禄10年(1567) 明智光秀は足利義昭の命で足利将軍家と織田信長
  仲介者として織田信長の家臣となった。
  明智光秀は室町幕府の幕臣であり、織田信長の家臣でもあるという
 特殊な環境に身を置くことになった。
 (石川数正が豊臣秀吉の仲介役していたのよりは、すっと敵方に近い。)

・元亀4年?、天正元年 (1573) 19歳の時、三河を出奔した。
  @家族と仲違いした説
A刃傷事件を起こした説
 徳川家を出奔すると、
  @京で、織田信長の家臣:明智光秀に仕えた説。
  A織田信長に拝謁し50石で明智光秀に仕えた説。
 ★徳川家康直の命令でによる間諜=スパイとして織田の情報に
  上がった可能性も考えられる。
武田でも「近藤武助」が井伊直政に捕らえられた話がでてくる。

・天正元年(1573) 武田軍が遠江国から三河国に侵攻した。
 2月に野田城を攻略すると、足利義昭は織田信長に対して挙兵した。
 織田信長が京都に着陣すると幕臣たちの多くは織田信長についてし
 まった。明智光秀も足利義昭から織田信長の直臣となり、
 参戦した。
明智光秀の坂本城も完成し、居城とした。
 (安土城の前身:石垣・寺の礎石づくり・天守閣があった。)
 ★木俣守勝も坂本城に入ったのであろう。

・天正4年(1576)4月、織田信長が明智光秀、荒木村重、細川藤孝、
 原田直政に命じ、一向一揆の拠点である摂津の石山本願寺(大阪
 府大阪市)攻めを開始した。
 毛利元就は、淡路北端の岩屋城(兵庫県淡路市)を占拠し、本願
 寺に兵糧や弾薬を搬送するなどの救援に乗り出し、信長包囲網の
 一画に加わった。
そんな中で木俣守勝は戦さのたびに先駈、一番のり、一番槍を目指
 した。明智家の播磨攻め・石山本願寺攻などで軍功が目覚ましかっ
 たことから、功名手柄をあげ、光秀の推挙で信長に拝謁を許される
 までになった。
・天正7年(1579) 明智光秀は戦功により丹波一国をいただいた。

・天正9年(1581) 徳川家康は織田信長と明智光秀の間がおかしい
 という情況を掴んだ。
 徳川家康は織田信長に「守勝は本来わが家累代の
 家来だから戻してほしい。」と申し入れた。
 徳川家康は木俣守勝を復帰させた。家康の耳に入った。
守勝は27歳であった。
明智光秀から餞別に明智光秀着用の甲冑:緋威二枚胴具足や相州
 秋広の脇差をいただいた。(★井伊達夫氏所蔵)

●この頃、元長野業政の孫:長野業実が井伊直政の家臣になった。

・天正10年(1582)
3月11日 武田氏滅亡

5月 甲州討伐の祝勝会が行われた。
   明智光秀は徳川家康の接待を命じられた。
   しかし、明智光秀は織田信長から羽柴秀吉の毛利攻めの援軍に
   向かうため、接待の任務を解かれた。
5月29日 徳川家康は木俣守勝・井伊直政らと堺見物していた。

6月2日 明智光秀は秀吉の援軍に向かうために出陣した。
 しかし、途中、明智光秀は「森蘭丸から使いがあり、信長が
 明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ。」と告げ京都へ向か
 ったといいわれている。
 明智光秀は1万3000人ほどの軍を率いて、織田信長が宿泊してい
 た本能寺を急襲した。織田信長の配下はわずか100人程しかおらず
 奮戦するも最後は自ら火を放って織田信長は自害した。
▲本能寺の変
 織田信長の命令で徳川家康を暗殺する予定だった説
 明智光秀が徳川家康と組む考えがあった説

徳川家康は木俣守勝。井伊直政らと伊賀越を行った。
徳川家康や徳川家臣:井伊万千代など35人は堺にいた。徳川家康は
織田家臣:長谷川秀一・西尾吉次・穴山信君と堺を出た。長谷川秀一
の伊賀越え案を採用し、長谷川の取次で河内国〜山城国〜近江国・小山
・甲賀経て、岡崎に無事戻った。
木俣守勝は地理に明るく岡崎城への逃亡に貢献した。

明智光秀が「3日天下」をとった

6月13日 明智光秀は坂本城を目指して落ち延びる中、落ち武者狩り
 の百姓によって竹やりで刺され、深手を負った。
 明智光秀は自害した。

6月18日?19日 神流川の戦い
 滝川一益 VS 北条氏直
 ★滝川一益の味方に内藤昌明・和田信業がいた。
(内藤昌明の子・和田信業の子は天正18年に井伊直政の家臣に
   なっている。)
6月 天正壬午の乱
  徳川家康の甲州の討入った。

8月までには井伊万千代は「兵部少輔」と改称している。

8月8日、新府城:徳川家康と若神子城:北条氏直は対峙した。
木俣守勝は北条との百日対陣といわれる若神子陣に井伊直政の
 副将として出陣した。

8月9日から 井伊兵部少輔たちは徳川家康の奉者になって旧武田家臣
を味方に付け始めた。

8月26日、次郎法師が死んだ。井伊家の家督を継ぐことになった。
 井伊直政は井伊直虎に代わり、第24代井伊家当主になった。

10月29日、徳川と北条が和睦した。井伊万千代の活躍があった。
正使:井伊直政と副使:木俣守勝は北条氏直の伯父:北条氏規と交渉
に望み、和議を結んだ。講和の条件は
「@北条氏直に徳川家康の娘督姫を娶らせる。」
 A甲斐・信濃は徳川家康に、上野は北条氏直に。しかも、それぞ
れ切り取り次第とし、相互に干渉しない。」であった。

★場所は若神子城か小田原城かは不明である。
 @若神子城には北条氏直・北条氏房がいた。北条氏房と交渉したと
 言われている。
小田原城には、北条氏政がいた。
和議条件の細目をメモした自筆条書が現存している。
(★『井伊軍志』井伊達夫著)
井伊直政は和議不調の時、自決の覚悟を決めていた。

12月9日まで井伊直政はその後も奉者として武田旧臣を取り込んだ。
井伊直政の奉者数ははトータルで
『徳川文書の研究』中村孝也著では「井伊直政は40人に…」
『譜代大名の創出と幕藩体制』小宮山敏和著は「井伊直政が奉者の21%
(216通の内46通)を占める。」
『井伊直政』野田浩子著では「67通の奉者」
としている。
 
井伊直政は旧武田家臣:山県昌景・土屋昌恒・一条信龍・原昌胤など
の家臣を配下にすることを許可され、小姓から士大将=旗本先手衆と
なった。
旧山県昌景部隊の「赤備え」と呼ばれる赤武者隊の軍装を許された。
木俣守勝は井伊直政に附属され、後見の将となった。
時に直政は22才であった。
井伊直政が徳川家康から一条・山県・土屋・原の組に属していた旧臣
を傘下に組み入れて「甲州同心衆」として再編し、守勝にはその統率
を命じた。75名の武田遺臣とも110人とも言われたいる。

『寛政譜』井伊直政条には西郷正友(正員)・椋原正直(政直)が同時
に井伊直政直政に付けられたとされる

徳川家康から「御附人」が井伊直政の家臣になった。
●木俣清三郎守勝(後、妻は、新野左馬助親矩の娘)
  木俣守勝は功績によって2,000石を与えられた。
●西郷藤左衛門正員(正友)(母は井伊直政の叔母)
●椋原(むくはら)次右衛門政直
●三浦与三郎元貞(妻は、新野左馬助親矩の娘)
★彼らは徳川家康に井伊直政の行動を報告することを義務づけられて
いた。つまり、二重の支配下ということになりはしないだろうか?



・天正11年(1583)
1月11日井伊直政は徳川家康の養女:松平周防守康親の娘「花」
(後唐梅院)を正室に迎えた。
★徳川家と井伊家の関係を更に強化された。
 井伊直政は徳川一門ということになる。


・天正12年(1584)
2月27日、豊臣秀吉は井伊直政を「令外官修理大夫」に任命した。
(★実際は天正14年に、遡って、出した。「井伊直政」野田浩子著)

3月6日、織田信雄は親秀吉派の三家老を処刑した。
 豊臣秀吉は、織田信雄に対し出兵を決断した。

3月13日、徳川家康が清洲城に到着した。
井伊直政が山県昌景が使用していた旗・幟をはじめ武具・甲冑まで
赤一色の武装にした。山県昌景は旧武田の先鋒・別働隊をつとめて
いた。井伊直政が「赤備え」を踏襲することになった。
井伊直政は飯富兵部の甲冑を身につけて出陣したと言われている。
 (★井伊谷龍たん寺所蔵甲冑)
117人(『寛政譜』)とも170人(『井伊年譜』)とも言われる甲州武士
団こそ「井伊の赤備え」として井伊直政を徳川家の中での不動の地位
に押し上げる原動力となっていく。
井伊直政は3000の兵士を率いる別働隊として動くことになる。

長久手の戦い
池田恒興、森長可に徳川軍出現の報が伝わり、引き返しはじめた。
徳川家康は富士ヶ根より前山に陣を構えた。
右翼に家康3,300人、
左翼に井伊直政勢3,000人、
中央に織田信雄勢3,000人。

池田恒興・森長可軍は
右翼に池田恒興の嫡男:池田元助、次男:池田輝政勢4,000人、
左翼に森長可3,000人、
後方に池田恒興2,000人。

4月9日巳の刻(午前10時前後頃)
徳川家康・井伊直政・織田信雄 
VS
池田恒興・池田元助・池田輝政、森長可 
  両軍が激突した。
 戦闘は2時間余り続いた。
 戦況は一進一退の攻防が続いた。
森長可が討死した。
 徳川軍が有利となった。

箕輪初心●愛知【小牧山城】=織田信長D築城・家康陣城
http://53922401.at.webry.info/201206/article_5.html


木俣守勝は小牧長久手の戦い以後、井伊直政の補佐役となって
各所に転戦した。
・天正13年(1585) 第1次上田城の戦い
真田昌幸攻めの撤退指示のため小諸まで出陣した。


・天正18年(1590) 豊臣秀吉の命令で井伊直政が上野国
 箕輪に入ることになった。
8月 徳川家康は12万石で入城させた。
木俣守勝は3,000石を与えられた。
箕輪時代に井伊氏の家臣団は再編され、井伊直政の寄騎であった
徳川家臣は井伊家臣へと転属された。
木俣守勝・松下清景は筆頭として位置づけられた。

この頃、井伊直政の大恩人とも言える新野左馬助の娘が、木俣守勝に
再嫁したようである。
 連れ子も養子となって木俣守安と称した。
『井伊達夫氏所蔵系図』では、6女である。
『新野村史』では、5女が

大河ドラマ「おんな城主・直虎」(2017年)では、新野左馬助の娘
「桔梗」であった。
小野政次が北条家臣の狩野飛騨守一庵(狩野泰光。狩野一庵)の
息子:狩野主膳との縁談をまとめたと言う設定になっている。

天正14年(1586)新野左馬助の娘「桔梗」は狩野主膳との間に男子
を設けた。
・天正18年(1590)北国軍が八王子城を攻めた。
  八王子城主:北条氏照・石原主膳は小田原城に行っていた。
八王子城には、狩野一庵と中山備前守が守っていた。
  狩野一庵が討ち死にした。
  狩野一庵の子は母と守安は箕輪に一緒に来た?
木俣守勝に、新野左馬助の娘(桔梗)が再嫁したため、狩野主膳
  との間に生まれていた男子も養子となり、木俣守安と名を改めた。

  中山備前守は徳川水戸家に配属となった。
  水戸黄門では「爺」ととばれた。
 
『侍中由緒帳』で木俣家第四代木俣守長が筆記した。
 「初代土佐守守勝は井伊直政命の恩人である新野左馬助の娘を妻とし、
  2代守安の母もまた左馬助の娘の一人であった。」
@木俣守勝は箕輪城内の「木俣」に居住した。
現在、城址木俣といわれる場所である。
井伊達夫氏が高崎市箕郷町の西原氏・大塚氏・岡田氏に箕輪城を案内し
た時、「木俣曲輪」と指摘したらしい。
従来は、近藤義雄先生氏・山崎一先生が広島市立博物館から「木の股の
 ように築造された曲輪の跡」と解釈されていた。
A松下清景は「稲荷曲輪」に住んだ。
 頭陀寺城の稲荷神社を勧請して稲荷神社を創建した。
 岡本半助宣就の子孫と思われる岡本氏が「箕輪きつねの嫁入り」
 の創作劇をつくって16年続いている。
 金沢氏「山口薫の絵(高崎信用金庫所蔵)の絵にも白狐がいる。
・慶長3年(1598) 10月(3月説あり)
  高崎城が完成した。
  井伊直政は1年8カ月高崎城にはいなかった。
  留守居役は
@川手良則説 (『新編高崎市史など』)
  A川手良則・西郷正次説
    私見…西郷正次は西郷山法華寺を創建したので、
       高崎にいないと創建はできない。
  B木俣守勝説

・慶長5年(1600)
@木俣守勝が部隊を差配した説
木俣守勝の任務は井伊直政附属の部下というより、井伊直政の
  目付役であった。木俣守勝が井伊家の附家老といわれるのは
  徳川家康の直命と職掌であった。

A奥山六左衛門朝忠が部隊を差配した説
   『侍中由緒帳』では「初代六左衛門朝忠が総大将であった。」
   としている。

 井伊直政は関ヶ原の戦い後、近江国佐和山を与えられた。
 井伊直政は木俣守勝に長年の功労によって「村雨の壺」が与えた。

・慶長6年(1601) 井伊直政が佐和山に入った。
  井伊直政は現彦根駅の北の愛宕に住んだ。

・慶長7年(1602) 井伊直政が関ヶ原での鉄砲傷が元で亡くった。
  井伊直継13歳が家督を継いだ。

井伊直政は家老・木俣守勝に下記のような遺言を残した。
・井伊家は徳川殿のお取り立てによって今日があることを忘れてはならぬ。
・徳川家へのご奉公第一につとめること、忠節一筋を心掛けよ。
・代々、家を継ぐものに申し送って、違反の内容にさせよ。
・井伊家では将軍家や一門などとは婚姻を結ばないよう計らえ。

木俣守勝が徳川家康と相談した。
 井伊直勝は家督を継ぎ、佐和山藩主となり、名を井伊直継と改めた。
徳川家康から木俣守勝・鈴木重好は井伊直継の補佐を命じられた。
 また、佐和山城に代わる彦根城の築城を命じられた。
 木俣守勝は井伊直継から1000石加増を受けて合わせて
 4000石となった。
鈴木重好は5500石であった。70騎の組下を持っていた。
  (★『水戸鈴木家系譜』)
鈴木重好は木俣守勝とともに筆頭家老として政務を行った。

●10月9日 本多忠勝書状→木俣守勝宛て
「急ぎ申し入れ候、以来久しく書状で申し入れていません。
先日、右近太夫(井伊直継)が伏見に行かれ、御仕合よく御帰り
なったと聞き、目出度く存じます。…」
 (彦根城博物館企画展史料)


・慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍となった。
井伊直継が徳川家康の命を受け、西国に向けての防衛拠点として
彦根城の築城を開始した。
井伊直継が彦根藩の成立となる。
総元締めが鈴木重好と木俣守勝であった。
@縄張り 
:早川幸豊(山県昌景→井伊家侍大将) 
   分家:玉村の与六部の早川与六
:石原主膳(山県昌景鉄砲奉行→北条氏政→井伊直政・井伊家家老)
:横地吉晴 (今川家家臣→北条家家臣→井伊直政・井伊家家老)
:孕石泰時(今川氏真家臣→山県昌景→井伊直政・井伊家家老)  
A普請奉行: 富上喜太夫・伴加右衛門・加藤金左衛門
B作事奉行:宇津木新九郎(宇津木泰繁の子ども)・横内弥左衛門
C大工棟梁: 浜野喜兵衛
(★『井伊軍志』:井伊達夫著)
A公儀御奉行3名、尾張藩や越前藩など7か国12大名が手伝った。
天下普請であった。
江戸幕府が大名に普請させたのは、京・大坂に備える必要あった
からである。
※高崎城の「遠構え」を彦根城の「惣構え(総構え)」を継承し、
武田流巨大丸馬出「鐘の丸」を構築した。



・慶長10年(1605) 木俣守勝が病気がちになったため、鈴木重好が
政務の中心となった。
「彦根騒動」
鈴木石見守重好と西郷勘兵衛重員の対立が発生した。、
  (「彦根藩侍物語」)

鈴木重好と同じく付家老(★『御付人』)の椋原正直や西郷重員
(正員の子)らを注進とした家臣は鈴木重好・重辰父子の不正を
徳川家康に直接告発した。
鈴木重好・重辰父子が彦根藩の金銀や米を流用したり、鈴木に近
い者を優遇したりするなどの不正を行っているとする全15か条
の告発文が出した。
木俣守勝は重好父子を弁護をした。
徳川家康は井伊家中の混乱を鎮めるために、鈴木重好を隠居させ、
上野国(★飛び地の安中)に帰らせ、鈴木重辰に跡を継
がせた。
鈴木重辰が井伊家に留まれたのは、木俣守勝が政務復帰の条件とし
て重辰を許すことを挙げたからだとされている。
(「ただし、この騒動の詳しい史料が守勝の子孫である木俣守貞が編
纂した『木俣留』であるため、守勝の対応に関しては作為が含まれて
いる可能性もある。」:ウィキペディア)
 その上で、徳川家康は木俣守勝に政務を行わせ、鈴木重辰と椋原正
直・西郷重員らに起請文を書かせ、和解させた。

木俣守勝が病がちとなった。

・慶長11年(1606) 井伊直勝は彦根城が完成した。
  佐和山城から彦根城へ居城を移した。

 彦根城の内堀内に、当初は、鈴木・西郷・木俣・中野
が配置されていた。
1)土佐郭…木俣守勝は最初は土佐郭に住んだ。毎日、西櫓に通った
  そうである。
★類似性C・・・★箕輪城の木俣は大堀切南にある。

(★『彦根城の家臣配置図』@)
2)木俣家屋敷門は、彦根城2郭になった。
 (井伊家家老10000石)彦根城は内堀と中堀の間2郭にある。



(★『彦根城の家臣配置図』A)

・慶長13年(1608) 筒井家が改易となった。
  井伊直継軍・本多忠勝軍・松平忠政軍が派遣された。
  井伊直継と木俣守勝が伊賀上野城を受け取りにいった。
●8月29日 本が忠勝書状→木俣守勝宛
 「…今度、伊賀国の番を異議無く御勤めになり、殊に町人・百姓
  が静かであったとのこと、・・・・・」
 (彦根城博物館企画展史料)

・慶長12年(1612) 徳川家康はイギリス・オランダから新式大砲
 を購入した。
稲富流砲術:宇津木泰繁は徳川家康の前で長距離狙撃用鉄炮86挺
 の試し撃ちを行った。

・慶長14年(1614) 大坂冬の陣
木俣守安が大坂冬の陣では井伊勢の先鋒を務めた。
 
6月頃 イギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門
 を購入した。
 
12月 オランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲)が届いた。
@国友の鉄砲鍛冶69人  50匁の玉の大筒 射程距離は1500m以上
A堺の鉄砲鍛冶:芝辻理右衛門が製造した1貫目玉の大砲
Bオランダ・イギリス製「4〜5貫目巨砲」
 (★『真田幸村がよくわかる本』:押鐘太陽著)

12月16日 井伊直孝・藤堂高虎・松平忠直・佐竹義宣隊大筒200門
 と稲富宮内重次
 ・片桐且元らが備前島の大筒100門を指揮した。合計、約300門で
 砲撃した。
井伊直孝配下:稲富流宇津木泰繁がおそらくカルバリン砲を大坂城
 に打ち込んだ。
(★『真田太平記』:池波正太郎著の挿絵にも長距離砲が描かれて
 いる。)

・慶長15年(1615) 大坂夏の陣
 5月6日 ▲八尾・若江合戦
井伊直孝配下:第2家老庵原が槍で裾をつき安藤重勝が木村重成の
 首を討ち取った。
★通説では三河安藤家で安藤基次・後高崎藩主:安藤重信の甥の
 安藤重勝が木村重成の  首を討ち取ったことになっているが、
 安藤隊は若江にいないので、井伊直孝家臣:元長野 家重臣:安藤
 九右衛門勝道の子:安藤重勝が木村重成を討ち取ったと考えられる。
 ※木村重成の首塚が彦根宗安寺(元箕輪安国寺→高崎安国寺)に
 あるのも証拠である。
★井伊直継・直孝は毛利の参謀:安国寺恵瓊が嫌いであったので
 宗安寺と名付けた。

・慶長15年(1610)
●閏2月5日 井伊直孝書状→木俣守勝宛
「…井伊直継様がここ(駿河)に御見舞いに為されるがよいと
  仰せられました。…(直継様は)御煩気と申したところ、
  それでは来れないと仰せられ、…貴殿(木俣守勝)が御下り
 なさいと備中殿が申されたので

(彦根城博物館企画展史料)



?月 木俣守勝が病に倒れた。
 徳川家康は薬を贈った。

7月11日 木俣守勝が静養先の京都で死去した。享年56。
 金戒光明寺に葬られた。
  法名透「玄院摂誉光徹」
************************

 木俣守勝の養子:木俣守好が家督と知行4000石を継いだ。
(★・天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻撃後、叔母の夫
 :木俣守勝を頼り、木俣守勝の養子となった。
 木俣守勝の妻は新野親矩の娘である。
 木俣守安の母は新野親矩の娘である。父は狩野主膳)

『侍中由緒帳』
一、二代目右京(木俣守安)・・・・(中略)・・・・・・・
 廿五歳二而土佐跡職四千石被下置候、但し、土佐養子二而候、
 土佐女房為二甥二而候、土佐女房者御家忠節仕候新野左馬助
 娘二而候、但岡崎二而
 直政様御袋様宗徳様御子分二被成、土佐方江御在付被成候、
 右京実父ハ小田原北条家狩野主膳与申者二而候、
 右京実母ハ是茂新野左馬助娘二而候、後庵原古助右衛門(朝昌)
 方江縁付仕、主税(庵原朝真)二而候、小田原没之時、右京
 二歳二而、乳母抱キ土佐方江参候ヺ養育仕置候、大坂両陣御
 手組頭廿九歳二而相勤申候、大坂冬御陣相済候上、正月
 直孝様彦根之御城并捨八万石之内捨五万石被為進、安中三万石
 右近様(直継)江被為進、就夫
 直孝様二月彦根江御入部、右京山崎之屋鋪(敷)「=土佐郭」
 江御落着被遊、…(後略)」

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政39【新野左馬助親矩と娘婿】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_19.html



井伊直継は徳川家康の承認を得て鈴木重辰と椋原正直を家老に
  任じた。

木俣守安(父:狩野主膳、母:新野親矩娘)を第1家老(筆頭家老)
としなかった。
井伊家に動揺?波紋が広がった。

井伊直孝は徳川家康に木俣守安を筆頭家老にするように
願い出た。・・・却下となった。

・元和元年(1615)井伊直継は江戸幕府の命(徳川家康の命)で、
  弟:井伊掃部頭直孝に彦根藩主の座を譲った。
  18万石は2つに分けられた。

@井伊直勝(→直継)は井伊兵部少輔を継いだ。
 安中藩3万石の藩主となった。
徳川家康は井伊谷以来の家臣:松下・小野などは直継に
 配属することにした。
 上野安中出身の井伊直孝の養育者:萩原図書も付けた。

A井伊直孝は井伊掃部頭を継いだ。
 彦根藩15万石(後彦根35万石)の藩主となった。
 徳川家康は付家老:西郷重員・椋原正直を直孝に付けた。
(井伊直孝は)付家老:鈴木守安(母新野)を筆頭家老にした。
元北条家臣:三浦(母新野)・庵原(母新野)も家老と
して残した。
 井伊谷の中野・新野・奥山も家老として配置した。
 武田氏の遺臣:広瀬・三科・孕石などは異母弟:直孝に
 配属することにした。

・元和元年(1615) 木俣守安は家老となり、後、筆頭家老となった。

●木俣守安の死亡時期
@元和3年(1617)説
  11月24日 木俣守安が没した。(★『井伊軍志』)
A延宝元年(1673)説 

  法名「源閑」(★『木俣清左衛門家系図』侍中由緒帳)
  法名「良翁院明誉栄光」(★「井伊軍志」井伊達夫著)

箕輪初心:生方井伊直虎・直政135『46話:悪女について』&二俣城
http://53922401.at.webry.info/201712/article_18.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政136『47話:決戦は高天神』&高天神城
http://53922401.at.webry.info/201712/article_19.html

箕輪初心・生方井伊直虎・直政137【48話「信長、浜松に来たいってよ】
&浜松城初期
http://53922401.at.webry.info/201712/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第49話:本能寺が変】&伊賀越え
http://53922401.at.webry.info/201712/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第50話『石を継ぐ者』直虎の死】
&直虎の墓
http://53922401.at.webry.info/201712/article_22.html

箕輪初心:井伊直政140『本能寺の変〜天正壬午の乱〜小牧長久手の戦い』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直政141『天正13年(1585)第一次上田合戦〜天正17年』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直政142『天正18年山中城攻撃〜小田原城攻撃
〜箕輪城入城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_3.html

箕輪初心:生方▲井伊直政144【菩提寺:竜門寺縁起】松下3代の墓復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_4.html

箕輪初心:生方▲井伊直政145【箕輪:滝沢寺】中野直之の中興開基か?
http://53922401.at.webry.info/201801/article_5.html

箕輪初心:生方▲井伊直政146【万松寺→恵徳寺】中野直之の妻?母?
:恵徳院開基
http://53922401.at.webry.info/201801/article_6.html

箕輪初心:生方▲井伊直政147『箕輪城時代』:『井伊直政文書集』
大石泰史編を加味した2018年最新版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_7.html

箕輪初心:生方▲井伊直政148『箕輪城下町推定絵図』
&直虎・直政ブログ一覧
http://53922401.at.webry.info/201801/article_8.html

箕輪初心:生方▲井伊直政149『箕輪城から高崎城移城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_9.html

箕輪初心:生方◆井伊直政150『高崎の名前の由来』
と無理矢理井伊家関連
http://53922401.at.webry.info/201801/article_10.html

箕輪初心:生方▲井伊直政151『高崎城築城と長野堰・新井堰』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_11.html

箕輪初心:生方▲井伊直政152『箕輪城下町から高崎城下町への移動』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_12.html

箕輪初心:生方▲井伊直政153『箕輪白銀町・鍛冶町→高崎鍛冶町』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_13.html

箕輪初心:生方▲井伊直政153「箕輪から高崎に移った寺社』復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_14.html

箕輪初心:生方▲井伊直政154『高崎城と街道整備:中仙道・三国街道』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直政155『高崎城時代の外交』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊直政156『直政の外交と決戦:関ヶ原』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_17.html

箕輪初心:生方井伊直政157『彦根藩主:井伊直孝が6〜7年間?
過ごした安中北野寺』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_18.html

箕輪初心:生方▲井伊直政158『群馬県に残っている井伊直政関連の遺物』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直政159『雪の佐和山城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直政160『彦根城に入れなかった井伊直政』前編
http://53922401.at.webry.info/201801/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直政161『彦根城に入れなかった井伊直政』後編
http://53922401.at.webry.info/201801/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直政162『@彦根市役所「ひこね城まつり」の話』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_23.html

箕輪初心:生方▲彦根A『大雲寺』上野国出身の第3家老:長野一族開山
http://53922401.at.webry.info/201801/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直政163『清涼寺:上野国の愚明正察開山』直政公
の御位牌・墓で礼拝
http://53922401.at.webry.info/201801/article_25.html

箕輪初心:生方▲井伊直政165&彦根C『直政が住んだ愛宕→佐和山城
大手口→鳥居本宿』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_26.html

箕輪初心:生方▲彦根D『井伊直弼腹心:長野主膳義言の話→夕食』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_27.html

箕輪初心:生方▲彦根E『彦根龍潭寺と井伊神社』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_28.html

箕輪初心:生方▲井伊直政166&彦根F『箕輪城・高崎城・彦根城
の類似性』復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_30.html

箕輪初心:生方▲彦根G『楽々園→玄宮園→井伊直弼の像』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_31.html

箕輪初心:生方▲彦根I『彦根城博物館の展示品』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直政167&彦根J『長純寺』姉:高瀬姫の墓
http://53922401.at.webry.info/201802/article_3.html

箕輪初心:生方▲彦根K「旧鈴木家屋敷→俳遊館」と『蓮華寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_5.html

箕輪初心:生方▲井伊直政168&彦根L箕輪→高崎→彦根『大信寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_6.html

箕輪初心:生方▲彦根M箕輪→高崎→彦根に移った『紺屋町・鍛冶屋町
・蓮着町?』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_8.html

箕輪初心:生方▲彦根N『善利(せり)の足軽長屋』と箕輪
・高崎類推足軽長屋
http://53922401.at.webry.info/201802/article_9.html

箕輪初心:生方▲彦根O『箕輪安国寺→高崎安国寺→彦根宗安寺』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_10.html

箕輪初心:生方▲彦根P『近江牛』→『キリスト教会』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_11.html

箕輪初心:生方▲井伊直政170「直政の家臣団形成と彦根藩の家臣団」
http://53922401.at.webry.info/201802/article_12.html

箕輪初心:生方▲彦根Q『彦根城二の丸=2郭の井伊家家老』
http://53922401.at.webry.info/201802/article_14.html

箕輪初心:生方▲彦根S3郭『埋木舎』&「池田太右衛門家家」
・「鈴木権十郎家」
http://53922401.at.webry.info/201802/article_15.html





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