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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政149『箕輪城から高崎城移城』

<<   作成日時 : 2018/01/08 07:00   >>

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・慶長2年(1597) 4月頃、高崎城の築城計画を開始した。
※徳川家康は、豊臣秀吉が老衰していることが分かっていた。豊臣
秀吉が死んだら、混乱が起こると予想していた。自分が天下を狙える
位置にあると考え始めたと思われる。そのため、街道の整備をしてお
く必要があった。つまり、京・大坂方面への軍事上、街道の整備を井
伊直政に命じ、北関東の守備を固めようとしたと考えられる。そのた
め、井伊直政に箕輪城よりも交通の良い場所に新城を築くように指示
した。そして、「大軍が宿泊できる場所」が条件となったようである。
高崎城と城下町の選定基準は平地で長野堰・新井堰の「水」
を利用した用水路開発ができることがその条件となったと考えられる。

江戸時代の酒井家次時代、間部詮房時代、大河内時代を通し
て『遠構え』内の町割りは殆ど変わっていないようである。従って、井伊
直政は高崎の発展の基礎を造った偉大な人物として評価されるべき
であろうと思われる。

画像

 (私の作成したオリジナル作品)
後2つ作成した地図はあるけれど、論文用なので掲載しない。
外で使われると今は困るので・・・・。この文章も没論文の
一部である。
 
・高崎城本丸堀の発掘調査
画像

画像

画像


箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第49話:本能寺が変】&伊賀越え
http://53922401.at.webry.info/201712/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政139【第50話『石を継ぐ者』直虎の死】
&直虎の墓
http://53922401.at.webry.info/201712/article_22.html

箕輪初心:井伊直政140『本能寺の変〜天正壬午の乱〜小牧長久手の戦い』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直政141『天正13年(1585)第一次上田合戦〜天正17年』
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箕輪初心:生方▲井伊直政142『天正18年山中城攻撃〜小田原城攻撃
〜箕輪城入城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_3.html

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箕輪初心:生方▲井伊直政145【箕輪:滝沢寺】中野直之の中興開基か?
http://53922401.at.webry.info/201801/article_5.html

箕輪初心:生方▲井伊直政146【万松寺→恵徳寺】中野直之の妻?母?
:恵徳院開基
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箕輪初心:生方▲井伊直政147『箕輪城時代』:『井伊直政文書集』
大石泰史編を加味した2018年最新版
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箕輪初心:生方▲井伊直政148『箕輪城下町推定絵図』
&直虎・直政ブログ一覧
http://53922401.at.webry.info/201801/article_8.html

1)築城理由
 ※徳川家康は井伊直政に北関東の守備を固め・出陣用の城造りを
命じた。天下とり構想が始まったと考えるべきであろう。徳川家康は朝
鮮にいっていないので、余力があった。井伊直政の家臣:三浦安久(
新野親矩の娘婿の子ども)などは朝鮮に行った。


2)築城場所の選定
・慶長3年(1598) 井伊直政は、所領の中で、松枝・安中・和田・倉賀野
を検討した結果、 和田の地を選んだ。(★『高崎志』川野辺寛著)

3)和田が選定場所に決まった理由
@「高崎市史通史編3近世」によると、
「@徳川家康は江戸からの交通網5街道の早急に 整備を考えていた。
 箕輪より交通の良い場所を考えていた。」筆者は中島先生か?
「A大軍が移動する場合、そ れを受け入れられる広大な城下町を備え、
 しかも守りが強固な城を求めていた。井伊直政は、松井田・安中・
 和田・倉賀野が候補地となっていたが、和田が信濃・越後に行く 
  道筋の分岐点に位置していた。」とある。
  
 確かに交通の分岐点ということには納得できる。中仙道・三国街道
 の分岐点に当たる という構想にからすれば、確かに東山道が通って
  いる道を利用できる部分も多かった。
  箕輪は奥まっている。 
 しかし、私は「和田の地」選んだ大きな理由として、交通の利便性の
 ほかに、城を守りとしての「水堀」の必要性と城内・城下町の生活する
 ための「水」が必要性という観点から、平地であって、水が使えそうなる
 場所必要となると考えた。
 それが「和田の地」であった。つまり、長野堰の「水」を有効活用できる
  ということが場所選定の大きな理由の一つであると考えている。

 和田には和田義盛の子孫:和田氏は赤坂荘にいた。和田城は中世の城
 である。和田城の 位置は、県音楽センターから観音山に向かって行く
 と、和田橋の手前に出る。和田橋のたもとが和田城である。烏川の淵を
 自然の守りとした要害である。北西と西は烏川に沿って崖がある。今は
 立体交差になっている場所である。
 発掘の結果では遺構は残されている。
 戦国時代、和田業繁(長野業政の娘婿)や和田信業(武田家臣:跡部
 勝資の子)がいた城である。12万石を支えるのは、和田城の規模で小
 さかった。従って、東に城を拡大して、さらに『遠構え』を造ることに
 した。城と城下町一体型の構造であった。

4)縄張りの推進者   
★井伊直政が長く伏見・大阪・京に行っていていないので川出良則が高崎
 城留守居役であった。
★高崎城築城の関係者は彦根城の築城関係者に準ずると考える。
 縄張りの中心人物は甲州流軍学者:早川弥総左衛門であった。
 早川幸豊は旧武田家臣:土屋昌恒家臣→井伊家臣となった。早川幸豊
 は山本勘助や馬場 信春や山県昌景から甲州流の築城術を伝授された。
 徳川の城を見てさらに研究し、山中城・小田原城・箕輪城で北条流
 の築城法をマスターしたと考えられる。箕輪城の畝堀の大堀切・高崎
 城の二の丸出枡=郭馬出と畝堀・障子堀がその根拠である。後の彦根
 城の鐘の丸は甲州流の巨大丸馬出であり、箕輪城の一城別郭方式や太
 鼓橋は彦根城に継続されている。高崎城の東は平地であるので、大き
 な堀を築かなければならなかった。それが『遠構え』ある。「総郭型」
 の城と城下町一体型のプランであった。
 ほか、旧武田家臣:孕石備前守泰時(徳川家康の幼少時、駿河城下で
 家が隣だった)などもいた。
   
★高崎城&城下町の縄張り全体計画は高崎城・城下町・長野堰からの用
 水路・中山道の工 事が同時に進行して行ったも思われる。何故なら、
 完成までに約1年半という期間であろうから、突貫工事であった。

5)長野堰からの分流『新井堰』の開削
○長野堰は生活用水・農業用水・工業用水・防火用水としても利用価値
 があった。
 高崎城下は平地ではあるが、北西から東南に向けて下っている。
 ★現在の長野堰の取水口は烏川であるが、戦国時代には、榛名白川
 は現在の沖町の所を流れていたのではないだろうか。何故なら、
 住吉城は沖町郵便局の裏であるからである。早P川も箕郷町のふるさ
 と公園&箕輪城祭戸用水から流れてきている用水路である。 
 長野堰は楽間130m→上沖120m→我峰110m→上並榎町100m→高崎
 城の堀&城下  町95m〜90mに水路に流れていった。
○新井堰の取水口からの高崎城へへの水路・外堀・内堀・城下町の用水
 路の工事となった
★長野堰の取り入れ口:新井堀(三国街道の住吉町&大橋町の境界)か
 らの用水路を構築した。高崎城下町の外堀・高崎城の内堀・城下の用
 水路となった。
@「新井堰」の水は高崎城の防御施設として造られた。
三の丸の内堀は幅10m程あり、掘った土は土塁として使われた。一定
 幅で水堀が続き、現高崎公園の南端を高くして、水を貯めるようになっ
 ている。余った水は滝となり、烏川に流れ込む。また、三の丸から二の
 丸・本丸にも水堀が築かれ、守りに徹した縄張りになっている。
A「新井堰」の水は「遠構え」の外堀の水ととなった。
 城下町の一番外側の外堀も幅10m程あり、掘った土は土塁として使わ
 れた。一定幅で 水堀が続き、城下町を取り囲むように造られた。鉄砲
 の有効性を考えた構造である。
B「新井堰」の水は城下町の縦・横に碁盤の目のように張りり廻らされた。
 城下町の飲料水として明治時代末期に剣崎浄水場ができる簡易水道がで
 きるまで使われ ていた。新井堰からの水が井戸にも染みこんだであろ
 う。
C「新井堰」の水は生活用水として家臣・領民の生活用水となった。米研
 ぎ水・食器洗い水・洗濯水・おしめ洗い水としてとしていた。
D工業用水としては特に紺屋町の染め物業に使われた。
E「新井堰」の水は城下町の農業用水・城外の農業用水として南東部の田
 畑の水として使 用された。
このように、高崎城の「新井堰」の用水路開発での「水との関わり」は
 高崎城と高崎城下町を造る上で重要な役割をしていたと考えられる。
 ★長野堰からの「新井堰」は、旧武田家臣:新井喜左衛門の名前にちな
 んで「新井堰」と名付けられた。井伊直政が元後北条氏家臣で深谷城代
 :秋元長朝・泰朝父子(松井田500石)と新井喜左衛門などに命じて造
 らせたのでないかと考えられる。
秋元長朝は諏訪頼水のいた惣社城(前橋総社)に入るが、「天狗岩用水」
 ・「五千石用水」を造る計画をした。利根川の取水口が子持の本多であ
 ったため、井伊直政に取水口を造る許可を依頼している。工事には新
井喜左衛門が中心となった。
★旧長野氏の家臣や旧和田信業の家臣や旧武田勝頼の家臣の中にも用
 水技術を持っていた者はたくさんいた。井伊直政の家臣団が協力して
 して造ったことが分かる。後、旧武田の家臣としては滝川用水を造っ
 た武川衆:江原源左衛門、高遠原新田用水を造った武川衆:裄V諸左
 衛門、佐久の五郎兵衛新田・小幡の雄川堰を造った市川五郎兵衛真親、
 箱根用水に関わった伴野一族も関係していたと思われる。新井堰の工
 事を手伝わなければ、数年後の大きな用水路計画ができなかったもの
 と考えられる。しかも、手伝った者たちは旧武田の鉱山関係者から徳
 川家康の使えた大久保長安からの許可も貰っていた者もいる。滝川用
 水を造った武川衆:江原源左衛門は伊奈忠次に管理地:玉村に延長す
 ることを条件に工事した。


6)高崎城下町
1)「遠構え」と縄張りのポイント
@地理的環境 
井伊直政は和田城のあった所から東に広大な城&城下町を築く
 ことにした。つまり、現国立の病院・現高崎市役所・現音楽センタ
 ーとかある場所に高崎城を建設し、東に城下町を設定することにし
 た。大規模な縄張の必要性があった。武士の家族や町人を想定す
 ると、高崎には5000人以上の家臣の中で、既に箕輪・安中方面
 にいた旧長野氏家臣→武田氏家臣→北条氏家臣以外の家臣は家族
 と町人・職人・寺社が集まる居城&城下町が必要であった。しか
 し、武家屋敷と町人屋敷をどう置くかが問題となる。
箕輪城にあった武家屋敷と町人屋敷を引っ越すことになるのである。
 高崎城の安藤時代や間部時代や大河内時代の高崎城・城下町絵図か
 らも武家屋敷地区はほぼ固定されている。   
A交通の便利性
 交通の要の土地が必要となる。古くは藤岡方面から和田(高崎)は
 鎌倉上道が通っていた。また、東山道・奥大道にも出やすかった。新
 たに中仙道・三国街道・厩橋(前橋)への真政(さねまさ)道、富岡
 道をどう結ぶかの問題点があった。
 門の出入口は7ヶ所とし、主要方面に行けるように工夫した。
B寺社の配置と城下町の設定
  寺社は有事の際の要害で、兵の集結場所や防御の場所となる。また、
  井伊直政の菩提 寺・家臣・領民の宗教心の拠り所である。さらに
 は領民の避難場所となる。
関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠が関ヶ原に向かった時、烏川の大水で
  3日間高崎に足止めになった。高崎城&城下の寺院も宿舎となっ
  た。水もあった。飯も食えた。
C箕輪→高崎に建設に必要な道具・持って行く物
 ・建物資材・建築道具が必要になったであろう。
D役割分担
 縄張り担当・作事奉行・普請奉行・・現場監督・連絡係・鍛冶屋・
 大工などの職人・食事係などの配置・場所設定したり。長野堰からの
 取水口:新井堰〜水路工事担当がいた。

E木材のリサイクルと木材の調達
 箕輪城から高崎城の槻木(つきのき)門 など多くの木材の移動
 させた。(★桜井家文書)井伊氏は彦根城においても、佐和山城
 ・大津城の城門などをリサイクルしている。
木材の切り出し作業は観音山や箕輪、榛名、倉渕の山から切り出
 し、烏川を使ったと考 えられる。箕輪の場合、井伊直政は箕輪城
 の北や菩提寺:龍門寺の回りに植林させた記録がある。(龍門寺文書)

7)道具・器具の調達
 ★職人が現地で造ったのであろう。箕輪から白銀職人・鍛冶職人な
  どが来て、町を形成している。また、同時に戦うための武器が必
 要であった。

8)高崎城と城下町
縄張りは長方形をしている。
南は烏川の崖である。北側の東西のライン950m〜東の南北の
ライン1200mから南の東西のライン500m&竜広寺前の斜
めライン300mは外堀である。城の回りは長野堰の取り入れ口
:新井堀(三国街道の住吉町&大橋町の境界)からの用水路を構
築して外堀とした。
堀は水を入れることで敵の侵入を防げるからである。
Aそして、遠構え=土塁を外堀の内側に沿って一直線に巡らせた。
用水路を掘った土で土塁を築いたのである。
B遠構え7つの門と寺の位置については、常盤口(中山道西口)
・羅漢町口(大類口)などの入り口に大きな寺を配置し、非常時
に備える構造になっている。

  三国街道 外堀
恵徳寺 ・ 相生口 椿町 ● 法華寺
● 本町 ● 大雲寺
・常盤口(中山道西口) ・江木新田口
(新紺屋町)
北通町
  田町
内堀 ・羅漢町口
●玉田寺 ●大信寺
    ●石上寺 (中紺屋)元紺屋町
二の丸 ●慈上寺? 連雀町
  鞘町 ●安国寺
本丸 通町口
通町

三の丸 井伊の中山道
●延養寺

前裁町口 ??口

新中山道
●竜広寺


9)高崎の城下町名
 箕輪城内と城下にあった武士を移動させた。町人居住区には町名と町人
 の多くを移住させた。
 高崎の武家屋敷と町人屋敷の地域に分けられた。

10)高崎宿&交通網の整備          
A中仙道は東山道に即して造られた。宿駅制として各駅に伝馬を設置した。
 宿駅は北条時代には高崎〜鎌倉〜小田原まで鎌倉上道に造られた。
井伊直政は中仙道・三国街道宿も造らせた。
 ★徳川家康は北条氏の宿駅制を採用したのであろう。
@中仙道:倉賀野宿〜新しく高崎宿〜豊岡の一里塚・豊岡宿〜板鼻宿
 〜新しく安中宿〜原 市〜新松井田宿〜碓氷峠まで支配地であった。
 ※井伊時代の中山道は現通町・北通町である。
A三国街道:金古宿・白井宿を整備としては範囲は現渋川市金島の関ま
 で担当であった。

B、高崎城下町の中仙道の設定
※遠構えの内側に中仙道を通した。
烏川には船橋・・・現赤坂町の長松寺(○当時恵徳寺?)&現恵徳寺
の間の道〜熊野神社(現高崎神社)北〜○本町(もとまち):現本町
3丁目・2丁目・1丁目馬上宿(二の丸南中門付近)と金井宿(二の
丸赤坂中門付近)の移動し城下町の最北端に南北に長くした。本町と
した。〜(★酒井家次の変更した新中山道=現バス通りを越えて)
〜○椿町・・・ここには椿山権現を鬼門の寺として建てる計画であっ
たが、実行できなかった。佐和山城に行ってしまった。〜正面に
○法華寺〜奧には○大雲寺〜右折する〜北通町〜○正法寺を右に見な
がら〜本願寺〜通町で左に大信寺〜安国寺〜延養寺東?〜職人町?〜
現南町・・・
※高崎宿は中仙道と三国街道の宿であったが、本陣がなかった。旅籠も
町の大きさの割には少なかった。
C、「遠構え」と街道街道への門
・旧中仙道の西口…常磐口     安中・富岡→京都
・三国街道口…後の相生町口   沼田→越後方面
・真政(さねまさ)道口…江木新田口   厩橋(前橋)→下野方面
・大類道口…羅漢町口:法輪寺裏  大類→玉村→例幣使街道合流
・旧倉賀野街道口…安国寺裏   倉賀野→中山道合流→江戸
・旧中仙道の東口…延養寺東      中山道→江戸
・旧鎌倉上道口…向雲寺・興禅寺東付近 烏川渡河→藤岡→鎌倉 


慶長3年(1598) 8月16日 豊臣秀吉が死んだ。

慶長3年(1598)10月頃 高崎城が完成した。(3月説有り)
 井伊直政はその時入城したか不明である。
 1年6カ月は上野国にはいなかったようである。

★明日は高崎の名前の由来かな?

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