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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政146【万松寺→恵徳寺】中野直之の妻?母?:恵徳院開基

<<   作成日時 : 2018/01/05 06:22   >>

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天正18年(1590井伊直政が箕輪城主となった。井伊直政の伯母:
宗貞尼(そうていに=中野直之の妻:伯母でなく、叔母)のために、
箕輪の日向峯(ひゅうがのみね)に一宇を建て、『恵徳院』と号し
た。
その後、大獄山瀧澤寺4世大光普照禅師竜山永潭大和尚が万
松寺(元は北条氏邦の鬼門の寺であるはずの寺)を開山した。

長3年(1598)井伊直政が高崎城を築城し、「松隆山恵徳院」を
建立した。瀧澤寺4世大光普照禅師が開山した。井伊直政は「松
隆山恵徳院」を入城の折に寺に格上げし『松隆山東向院恵徳寺』と
改めた。
でも、不思議なんだよね。元和元年(1615)恵徳院と思われ
る方が安中藩の家老:孫の松下一定に安中龍譚寺の建立をさせたの
だから。そうすると、恵徳院は生きていることになるし、恵徳院は
中野直之の母=中野直由の妻ということになる。井伊直政の伯母で
はないことになる。系図でも奥山朝利の娘が中野直由に嫁いでいる
系図と中野直由に嫁いだ文章がある。


箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第49話:本能寺が変】&伊賀越え
http://53922401.at.webry.info/201712/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第50話『石を継ぐ者』直虎の死】
&直虎の墓
http://53922401.at.webry.info/201712/article_22.html

箕輪初心:井伊直政140『本能寺の変〜天正壬午の乱〜小牧長久手の戦い』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直政141『天正13年(1585)第一次上田合戦〜天正17年』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直政142『天正18年山中城攻撃〜小田原城攻撃
〜箕輪城入城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_3.html

箕輪初心:生方▲井伊直政144【菩提寺:竜門寺縁起】松下3代の墓復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_4.html

箕輪初心:生方▲井伊直政145【箕輪:滝沢寺】中野直之の中興開基か?
http://53922401.at.webry.info/201801/article_5.html





【0】大獄山滝沢寺
中野越後守直之が滝沢寺を庇護したと思われる。
由来「・・・井伊直政の叔父某が中興した。」とある。

【1】日向峯恵徳院
井伊直政が箕輪城主であった時、伯母宗貞尼(そうていに)のために、
箕輪の日向峯(ひゅうがのみね)に一宇を建て、「恵徳院」と号していた。
現在、小字名の日向峯は箕輪松之沢にしかない。
日向峯恵徳院は松之沢寺(清水寺)であると思われる。
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【2】万松寺・・・・惠徳寺? 
大永年間、滝沢寺4世大光普照禅師が創建?
現在、滝沢寺の末寺から格上げ
 ★これは間違っていると思われる。示寂は慶長13年だから。
★元々は北条氏邦の鬼門の寺と思われる。

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万松寺の石碑
恵徳院殿利済宗貞尼大永元年(1521)3月26日
示寂 井伊直政伯母
」とある。
母の姉妹には「伯母」の使い方をするので、母方である
ならば、
中野直由の妻か中野直之の妻
小野亥之助(源造→朝之)の母
鈴木重好の母
西郷重員の母
菅沼某の母
橋本某の母
平田某の母となる。

父方の叔母ならば、井伊直政には、養子の叔父は
松下常慶の妻となり、井伊直政の家臣ではないので
ついてこない。
養母:井伊直虎には姉妹はいない。

★中野直之の母?…滝沢寺も万松寺も年代がズレている。
 井伊直政が箕輪城に入ったのは天正18年(1590)年
 である。

・天正年間(1573〜1592)井伊直政公の伯母となる恵徳院宗貞
尼菩提の為に創立され、「松隆山恵徳院」と号された。

*高橋簡斉の墓=関流の和算・漢学
*馬庭佐平の墓=高崎藩の一刀流達人・教育者



【3】松隆山恵徳寺(えとくじ)寺…高崎市赤坂町77
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○案内板
天正年間(1573〜1592)井伊直政公が伯母である恵徳院
宗貞尼菩提の為、箕輪日向峰に一宇を創立し松隆山恵徳院と号した。
慶長3年(1598)直政公和田城入城の折に此の寺を城北榎森に
移し、松隆山東向院恵徳寺と改めた。当時寺領二拾石五斗の御朱印地
であった。後の城主酒井家次公の時、慶長9年(1604)〜元和2年
(1606)の間に現在地「赤坂」に移る。

○由緒記
「井伊直政殿其伯母慧徳院宗貞尼ノ為、箕輪日向峯於テ創ス。
 初ハ忠徳院ト号ス。璣長三年直政高崎一遷ラレシ」

○高崎志
「忠徳寺ハ南側二ァリ。白河村淹沢寺ノ末寺也。寺領十五石五斗.
 付御朱印ァリ。当寺ハ天正ノ太、井所へ引、寺造立…略」

・慶長3年(1598)井伊直政が和田城から高崎城を築城し入城の折に
 寺に格上げし『松隆山東向院恵徳寺』と改めた。
大獄山瀧澤寺4世大光普照禅師竜山永潭大和尚(慶長13年12
 月5日示寂)が開山した。
  門前は竹林になっていたといわれている。
井伊直政が、箕輪から高崎に城を移し、城下町をつくりだした。
 和田時代の赤坂村から本町をはじめとする多くの町を分立させた。
 残りは「赤坂村」のまま残っていた。
・慶長5年(1600) 井伊直政が近江国佐和山に移封された。
・慶長9年(1604)酒井家次が高崎藩主になり、恵徳寺を現在の地
 「赤坂」に移した。
酒井忠次の子ども:酒井家次は箕輪滝沢寺を庇護した。
 箕輪の滝澤寺を中興開基する。滝澤寺の屋根瓦の家紋は酒井家の
 紋である。

・慶長13年12月5日瀧澤寺4世大光普照禅師が(示寂)亡くなった。

・安永2年(1773)本町名主:落合七兵衛の願いにより、「赤坂村」
 が成立した。

・天保年間(1830〜44)には、民家が建てられるようになった。

・明治時代 町人にも墓を許可した。

・現在
  境内の墓地入口には、「だつえばば」(=三途河老婆石)
  民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に
子供の咳止めに効き目があるといわれる。
   治るとお礼に麦のこうせん(棒)を供える。

 ★江戸時代初期 十王様信仰「地獄の閻魔様・脱衣婆など」は盛んに
 なった。十王堂なども造られるようになった。
 特に曹洞宗と結びついた感もある。石像が多い。
 長野家菩提寺・箕輪長純寺の閻魔様と脱衣婆も凄い。
  
  奪衣婆は三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた死者の
 衣服を剥ぎ取る老婆である。死者が仏になる前の49日までの間で
 彷徨う時に地獄の閻魔様と脱衣婆が登場する。
 生前に死後の裁きを軽くしてもらうため、また、身内で不幸があ
 った時など、良い判決がくだされるよう六文銭を持って行く。
  今が高崎の葬儀場では金属の6文は禁止令が出ている。
 従って、葬儀屋さんが紙の印刷物の六文を用意してくれる。
 私は父の葬儀のついでに真田家の六文銭の紙も連れて行って
 やった。
 





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