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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政166&彦根F『箕輪城・高崎城・彦根城の類似性』復刻版

<<   作成日時 : 2018/01/30 06:36   >>

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平成28年(2016)2月25日(金)〜27日(日)、滋賀県彦根市
に調査に出かけた。彦根城は箕輪城・高崎城の長所を継承した城
である。箕輪城は基本的には井伊直政が破城にしたので、井伊
直政時代の遺構である。高崎城は井伊直政が築城させた城で
ある。井伊直政時代の原型はその後の大名に武家居住区、町人
居住区の町割りが継承されたと考えられる。彦根城は箕輪城と
同じくらいの規模の一城別郭型の平山城であり、高崎城の同様の
「総郭型」の城と城下町一体型プランを継承している。と同時に、
天下普請ということから、武田流・今川流・北条流・徳川流などの
粋を集めた近世城郭であるとも言える。特に、鐘の丸の基壇部の
石積みは現代建築にも通ずる構造である。湖城の性格も持って
いて、ユニークな城である。

画像




*************************
◆1日目・・・2月25日(木)
05:45箕郷支所→06:30高崎駅07:01→08:00東京駅08:33
→10:45米原駅
米原駅11:00→11:05彦根駅 
                  
11:30レンタカー・・ホテル荷物預け
12:00昼食:伊吹蕎麦「つる亀庵」

13:00
【1】彦根市役所観光企画課「彦根城まつり」

【2】大雲寺 小川良紘住職

【3】清涼寺・・・滋賀県彦根市古沢町1100
1)山門
2)清涼寺の客殿
3)本殿:位牌堂★通常は見せていただけない。
4)清涼寺本殿
 寺宝…歴代藩主の画像や狩野元信らの名画が所蔵されている。
5)清涼寺境内
6)清涼寺座禅所
7)井伊家代々の墓所
 ★公的な立場で行ったので、特別に見せてていただいた。
@井伊直政の墓
  ※清涼寺は一般公開していない。
A旧藩主の無縫塔の墓石6基
 井伊家一族の墓石の数は58基。

@箕輪・・・清涼寺はないが、龍門寺
A高崎・・・清涼寺はないが、龍広寺
B彦根・・・石田三成重臣:嶋左近の館→清涼寺
 ★平成29年9月に清涼寺の和尚様も龍門寺の行事に見えていた。
●開基:井伊直孝
・慶長7年(1602) 井伊直政が佐和山で死去。
  井伊直孝は徳川秀忠の近習として仕えた。
・慶長13年(1608) 上野刈宿(狩宿:長野原町)5,000石を与えられた。
・慶長15年(1608) 上野白井藩1万石の大名となった。
・慶長18年(1613) 伏見城番役となった。
・慶長19年(1614) 井伊直継は彦根藩から安中藩に分地が決まった。
井伊直孝が彦根城主になった。
・寛永8年(1631) 彦根藩2代藩主井伊直孝が父:井伊直政の
 墓所として、建立した。
旧領:上野国から愚明正察(ぐみょうしょうさつ)禅師を招いて
開山した。



【4】佐和山城での井伊直政の居住区&大手口
1)愛宕山
 石田氏滅亡の後、井伊直政が佐和山城に入城した。
 井伊直政は佐和山城の南東部の愛宕山に居住

2)大手口・・・東山道が近くを通る
3)鳥居本宿

◆佐和山城の歴史(佐和山城跡解説シート等)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・鎌倉時代
近江源氏の近江守護職:佐々木荘地頭であった佐々木定綱の
 六男:佐保時綱が築いた砦が始まりとされる(伝)
・建久年間(1190〜 1198) 佐保時綱の名が見える。
(★吾妻鏡)
・室町時代
 応仁年間(1467〜1468)年
湖南六角氏と湖北京極氏が対立した。
 佐和山城は境目の城であった。
六角氏家臣:小川祐忠が在城した。

・戦国時代
湖北では京極氏の勢力が衰え、浅井氏が勢力を持った。
  
  近江:観音寺城の六角氏の勢力も衰退した。
浅井氏が覇権を握ると、湖南六角氏と争った。
佐和山城争奪戦が行われた。

  結果・・・佐和山城は新興勢力である浅井氏の支城となった。


・慶長3年(1600) 関ヶ原の戦い
7月25日 小山評定
 井伊直政は小山軍議の直後、本多忠勝とともに徳川家康
 に対して
「秀吉の遺臣ばかりが敵を討てば、関ヶ原の勝利は徳川のもので
 なくなる。是非とも我らが馳せ向って勝負を決したい。」
 と進言したという。 
3600の兵で徳川家康本軍に随行した。
 合戦地においても家康の四男松平忠吉を後見する。
黒田官兵衛など諸大名を東軍につける工作を行った。
 徳川家康から岐阜在陣の諸将に宛てた書状に
 「直政をそちらに遣わすから、何事も彼の指示を仰いでほしい。」
 と記されている。
 井伊直政はとにかく徳川家康から信頼されていた。

 関ヶ原合戦に際して、福島正則が先鋒の役を得していた。
 
9月15日(10月21日)
しかし、福島正則軍の脇を抜け駆けしようとした。
福島正則の家臣:可児才蔵に、
「先陣の指名は井伊勢ではない・」
と牽制されるが、井伊直政は
「忠吉様の物見なり。」
と返答して敵陣に突撃したといわれている。

 敵陣に放つ銃声が関ヶ原の合戦開始の合図となった。
 激戦が繰り広げられた。
井伊直政は決戦後に退却する島津義弘勢を猛追して島津豊久を討ち
取った。
しかし、島津軍の決死の奮戦で、井伊直政は肩に銃弾を受けて
落馬してしまった。

◆彦根市史より〜〜〜〜〜〜〜〜
9月15日
合戦後の徳川家康との謁見では、
井伊直政は徳川忠吉の活躍をつぶさに報告した。
徳川家康は自ら深手を負った井伊直政に薬をつけ与えた。
徳川家康は軍規を破った大罪であったが、徳川忠吉の殊勲の
機会を作った井伊直政の行動を咎めるわけにはいかなかった。

9月16日
 徳川家康は西軍から裏切った家康に味方した小早川秀秋・田中
 吉政・宮部長煕(ながひろ)に石田正継らの佐和山城攻撃を命
 じた。
 井伊直政は軍監であった。
追手・・・小早川秀秋
 搦め手・・田中吉政
 水の手・・高宮
 徳川家康は平手山に陣取った。
9月18日 田中吉政の急襲に、小早川勢が動いた。
 さらに、石田方に内通者を出させた。

9月20日 井伊直政は大津に入った。

9月23日 井伊直政は高野山で京極高次の下山を促した。

9月24日 井伊直政は小早川秀秋の論功行賞の取り次ぎをした。


9月26日 本多正信は
 石川康通・真田信之・堀直次に佐和山城番をお願いした。


9月27日 井伊直政は大坂に入った。
本多忠勝らと論功行賞会議に加わった。
(★彦根市史)

◆井伊達夫氏所蔵文書「木俣守勝らに渡した書き付け」
@島津忠恒の上洛
A長宗我部元親・太田一吉の出仕
B毛利輝元の先納
C輝元の下向 ・・・
井伊直政は吉川広家を通じて毛利輝元との講和した。(★吉川家文書)
D鍋島直茂の弟:勝茂の江戸下向
E福島正則の娘を徳川忠吉に預けること
F宇喜多秀家の処置を徳永に聞くこと
G黒田長政の息女または老婆を江戸に下向・・・など

・・や山内一豊の土佐入国援助をして


10月 井伊直政は功績により、石田三成の所領15万石と
 上野国(安中)3万石となった。
★しかし、実際には戦後処理に奔走していた。
関ヶ原の合戦の戦後処理にも尽力した。

・慶長4年(1601)
1月 大坂にいた。
1月 井伊直政は佐和山城に入った。
 (★木俣土佐武功紀年自記:井伊達夫氏所蔵)
2月 井伊直政は佐和山城に入った。(★井伊年譜)

3月18日 相良長毎(ながつね)に
     「佐和山で養生する。」(★相良家文書)

◆井伊軍志〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
井伊直政・・・愛宕山米蔵付属曲輪
木俣守勝・・・二の丸
中野直之・・・三の丸
広瀬将房・・・二の丸・三の丸(後、美濃丸と呼ばれた。)
  広瀬将房は中野直之の3男で武田旧臣:広瀬美濃守景房の養子である。
犬塚正長・・・愛宕下屋敷
本丸&5重天守は消失していたので、入れなかった。
(★「当城下近辺絵図附札写」)


7月 鉄砲傷が癒えていなかったが、伏見入りした。

7月8日 大久保新右衛門に「関東に残る家中・小者らを
     佐和山に来るように」指示した。

8月上旬 佐和山に病気のため戻った。

11月15日 井伊直政の本格的な佐和山の統治政策が開始された。
「井伊直政佐和山仕置状・・・」
しかし、実際は鈴木・西郷・中野・大久保のの連署で
あった。

12月 有馬温泉に湯治に行った。

・慶長7年(1602)
1月13日 伏見に徳川家康に会いに行った。

1月15日 署名ができない程になっていた(★相良家文書)

1月末  娘婿:徳川忠吉も病状を知った。
 忠吉は稲富一夢に「直継が幼少なので、わしの元に来るように」
 井伊直継に伝えさせた。
 松平忠吉の生母:西郷局は「直継ぐに縁者:西郷正員に相談せよ。」
 と伝えた。

2月1日 井伊直政は関ヶ原で受けた鉄砲傷が原因で死去した。
   歿42歳。
  墓所は彦根の清涼寺にある。

石田三成は領地にて善政を敷き、領民からも大変慕われていた。
宮嶋さん
「地元では今でも、お殿様と石田三成を呼び、井伊さんと呼ぶ人が
多い。」
とおっしゃっていた。

井伊直政は石田三成の威光を払拭するべく、新たに彦根城築城を計画
した。しかし、直政は築城に着手できないまま、死去した。
計画は嫡子:井伊直継が引き継ぐこととなった。
彦根城は大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用し
つつ、天下普請によって彦根城を完成させている。
・慶長11年(1606) 完成した彦根城天守に井伊直継が移ったことに
 ともない佐和山城は廃城となった。

【●】中仙道:鳥居本宿


【●】天寧寺遠望
 井伊直弼腹臣:長野主膳の夫妻の墓
 長野義言(よしとき)
 説@…上野国箕輪城主だった長野氏の末裔説
    群馬県人の信じている人が多い。

 説A…伊勢の長野氏の子孫説(2009年の野田浩子氏の話) 
 説B… 伊勢国飯高郡滝村(たきのむら)の住人である長野次郎祐
  の弟で先祖は上州長野氏とされる。しかし、これは戸籍だけのことで
  出自、経歴とも25歳になるまでの一切はわかっていない。
  (★ウィキペディア)

17:00 サンルート彦根
18:30 夕食
20:30 宿泊


***********************
◆2日目・・・2月26日
06:00  参加者2名が佐和山城登山

07:30 朝食
08:30 出発
09:00〜12:00 ボランティアガイドによる「彦根城」見学
:久々宮さん・宮嶋さん

【5】彦根城


0)全体的な縄張りについて
@箕輪城・・・北条の時代の改修
 ・本郭を御前曲輪側にさらに広げた。(★発掘調査より)
・郭馬出の出撃門を建造した。
 ・本丸西に高麗門と廊下橋(太鼓橋)を建造した。
 ・御前曲輪に高麗門と廊下橋(太鼓橋)を建造した。
 ・新曲輪を増設した。
 ・木俣曲輪・松下曲輪などを補修工事した。
 ※現在残っている箕輪城の遺構である。
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 ★写真左が大堀切の畝堀である。(一城別城)
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・自作の鳥瞰図
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A高崎城
 築城関係者は以下であった。
 木俣土佐守守勝・・・・・・・★殆どいなかったと思われる。
 鈴木石見守重好・・・・・・・★
 孕石備前守泰時・・・・・・・★実質的な縄張り担当者か?
 早川弥惣右衛門・・・・・・・★実質的な縄張り担当者
 らに任せていた。
 (★井伊軍志P181)
 川手良則・・・(井伊直政の姉:高瀬姫の夫)が留守を守っ
 ていた。
  (★井伊谷400年記念の歴史冊子:武藤全透著)
 西郷正次・・・(井伊直政の義理の兄弟=妻が井伊直政
  の母の妹)西郷山法華寺の建立。

  関ヶ原の戦い…木俣守勝が行っている。
    「奥山六左衛門朝忠が総大将と書かれている。
     (★『侍中由緒帳:奥山六左衛門の項』)
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・安藤時代の高崎城下町絵図(井伊直政の30〜50年後)
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 (『国立国会図書館蔵』)

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(★高崎市教委作成地図に加筆した自作地図)


B彦根城
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築城の関係者以下であった。
◎縄張り  
 :早川幸豊(山県昌景→井伊直政)150石だが、一番始めに
   記載されている。
:石原主膳(山県昌景鉄砲奉行→北条氏照鉄砲奉行
         →井伊直政の槍奉行)
  :横地吉晴(今川家家臣→徳川家康家臣→井伊直政への御付人)
 :孕石泰時(今川家家臣→武田山県隊→井伊直政への御付人) 
◎普請奉行 
  :富上喜太夫
  :伴加右衛門
  :加藤金左衛門
◎作事奉行 
:宇津木新九郎(由良国繁→武田家臣→北条氏政家臣→井伊直政)
  :横内弥左衛門
A大工棟梁  
:浜野喜兵衛(高崎の大工頭)
★箕輪城・高崎城と同じようなメンバーが起用された
  可能性が高い。

●縄張りの中心人物は甲州流軍学者:早川弥惣右衛門
 旧土屋昌恒家臣:早川弥惣右衛門は山本勘助→馬場美濃守→
 山県昌景の基で甲州流築城術をマスターした。
 徳川の城・北条の城(例:小田原城)を見てさらに研究した。
 箕輪城で北条流の築城法をマスターした。
 高崎城の二の丸出枡=郭馬出&畝堀・障子堀がその証拠である。
 (★後の彦根城の鐘の丸は甲州流の巨大丸馬出であり、
 箕輪城の一城別郭方式や廊下橋=太鼓橋は彦根城に継続されている。)
 高崎城の東は平地であるので、大きな堀を築かなければならな
 かった。  
 郭=曲輪という城を構成する区画をどのように配置するか決めた。
 ちなみに郭→曲輪→「丸」というようになった。

★個人的には、彦根城は武田の城+北条の城+(上杉の城)+徳川の城の
いいとこ取りをしていると考えている。
湖城構造+山城・平山城のミックス形式である。
◎小田原城・・・・「総構え」で30000人収容。
@箕輪城・・・・・用水路計画…
          祭戸用水を町人居住区に引いた。
          湧き水・井野川からの龍門寺用水を武士居住区に
          引いた。
A高崎城・・・・・「遠構え」。井伊直政も20000人?規模を想定した。
          長野堰からの分水「新井堰の開削。
★事実、徳川家忠は20000人規模で3日間、城&寺に宿泊した。
B彦根城・・・・・「総構え」。井伊直継配下はも20000人以上の
  規模を想定したのかもしれない。

湖城3城で有名ななのは
@松江城は宍道湖 ・・・松江城には天守が現存。国宝になった。
A膳所城は琵琶湖・・・・天守が残っていない。膳所城跡公園。
B高島城は諏訪湖・・・復興天守。天守最上階からの眺望は見事。

「何故、彦根城は湖城であったのであろうか?」
★井伊家臣団が触れた城は、膳所城&高島城であった。
 旧武田家臣:石原主膳や早川弥惣右衛門は、高島城
 の湖城を見た可能性が高い。高島城に入城した諏訪頼水を
 井伊直政が可愛がったはずである。井伊直政が高崎城を
 出た後、3年間は諏訪頼水が高崎城代であった。




1)外堀一部・・・「かつて、松原湖まで続いていた。」

2)中堀・・・・・「井伊直政同時、有力家臣が中堀の内側にあった。」

3)いろは松・・「当時、47本あった。」

4)佐波口門跡・・「鉄のさびが黒金門跡を示している。」

5)木俣屋敷・・・「木俣守勝は初期は山崎郭にいた
  が、表門の隣に移った。
    現在、中は別のお宅で入れない。」

※開国記念館&馬屋&二の丸佐波口多聞櫓はPASS。

6)表門橋

7)竪堀&落ち石垣(主要部分の内側の斜面に積み上げた石垣)

●)管理事務所・・・御殿前で、記念撮影。

8)表門山道・・・「上に行く程、幅が狭くなる。」
 ★個人的には、箕輪城と同じ「一城別郭」の大堀切の
   変形であると考えている。
 @箕輪城・・・北条流の7段畝堀の大堀切
 A高崎城・・・本丸堀=畝堀
          二の丸堀=障子堀
 B彦根城・・・箕輪城の一城別郭の応用。
縄張りの中心人物は早川弥惣右衛門幸豊であった。
山本勘助流の築城術を持った人物である。
孕石泰時・宇津木泰繁・石原主膳などのアイデアが
 生かされている。


●)天秤櫓下を通ると、大手山道に出る。枡形を左に回りこむ。
 
8)鐘の丸
★個人的には、箕輪城と同じ一城別郭の南側と考えている。
 @箕輪城・・・丸馬出と三日月堀は武田時代に造られたと考えられる。
   井伊直政時代に新曲輪を増築したため、丸馬出機能がなくなって
   いる。新曲輪に中級家臣が入った可能性が高い。
※永禄6年(1566)馬場信春は和田城の大改修工事をしている
※永禄9年(1569)以降、馬場信春は箕輪城の改修に関わった
   と考えられる。
馬場信春・山県昌景と配下:石原主膳、土屋昌恒の配下
  の早川幸豊も関わった可能性がある。
  ※永禄10年(1570)3月8日、武田信玄の命令で真田一徳斎
    (真田幸綱=真田幸村の祖父)が改修工事を命じられた。
郭馬出は北条時代のものかも知れないが、2層の出撃門
   は井伊直政の時代である。
   従って、箕輪城には、丸馬出、本丸曲尺馬出、郭馬出の3つ
   がある。
 A高崎城・・・高崎城の北西部:赤坂門(現高松中学校テニスコート)
  に5角形型の馬出(郭馬出)と三日月堀かある。
二の丸出枡は巨大郭馬出兼横矢掛かりである。

B彦根城・・・鐘の丸は武田流丸馬出の最終形の巨大馬出と言いざるを得ない。
天下普請で、大坂城の豊臣方や朝廷の反撃等有事の際の施設ということに
なる。現地を訪れた者のみが実感できる真実である。
また、外から見ると、堀・・石垣・・土・・・石垣・・土塁・・鐘の丸と
効率よく建造されている。



9)廊下橋=太鼓橋
◎武田信玄の:躑躅ヶ崎城にも太鼓橋が架かっている。
 孕石泰時・早川弥惣衛門の原点かもしれない。
@箕輪城・・・・本丸(本郭)西に平成28年4月〜の高麗門
 &木橋(太鼓橋)が復元される予定である。彦根城の廊下橋
 (掛橋)を想定し、逆輸入した形での復元となる。
 御前曲輪にもあった可能性が大きい。 
A高崎城・・・不明。
B彦根城・・・非常時の落とし橋である。橋を壊すとここからは
       本丸方面に行けない。


10)天秤櫓・・・左右対称の櫓は彦根城だけである。
@箕輪城・・・木の柵状の狭間があったらしい。
A高崎城・・・白壁には鉄砲狭間があった。
B彦根城・・・櫓の中は武器庫(弓・槍・鉄砲)で、鉄砲狭間も多い。
門の下は蹴ると抜ける。
 門を壊されない仕組みである。

11)時の鐘
@箕輪城・・・不明。
A高崎城・・・初めは西の丸(烏川右岸しか聞こえない)
       →次に鞘町大手門前の慈上寺一角
       →そして、慈上寺&玉田寺の間
B彦根城・・・鐘の丸にあった。
  「時報鐘」城全体に響くように主郭下に移動させた。
  幕末期、小判を使った鐘に造り替えられた。
現在、市役所職員が鐘を打っている。


○)岩石・・・チャート。自然石を利用した枡形である。


12)太鼓門櫓(重文)
@箕輪城・・・不明。あったであろうが発掘されていない。
       槻の木門の木材が解体して運ばれた。
★私見・・・木俣には櫓台か太鼓門櫓があった可能性が高い。
A高崎城・・・7つの木戸門があった。
城内に梅の木門などがあった。
    槻の木門は石垣付きの4倍近い大きさになった。
B太鼓門櫓・・豊臣の香りのする城を壊し、廃材利用した。
  リサイクルの材木を使用している。左右の違いがある。


13)本丸枡形門・・・現在は門の建築物はない。
@箕輪城・・・・三の丸の枡形・二の丸の搦め手口からの枡形・本丸
         食い違い虎口南門
A高崎城・・・・二の丸門の枡形
B彦根城・・・・本丸枡形門


14)本丸
@箕輪城・・・・御殿があった。会議は行われた。
A高崎城・・・・御殿は初め本丸内にあった。
  湿り気多いので、二の丸(現市役所付近)に移った。
B彦根城・・・・御殿が初めは本丸にあり、会議が行われた。
しかし、御殿は表御殿として、下に移動させた。


15)本丸櫓台跡・・・佐和口の様子を見晴る櫓台
@箕輪城・・・櫓台は椿山・木俣・御前曲輪などにあった可能性がある。
A高崎城・・・乾櫓など
B彦根城・・・本丸櫓台
★佐和山城はよく見える。野球場などはかつての
    松原湖であった。

16)天守閣(国宝)三層三重の天守
@箕輪城・・・平屋の御殿であった。楽茶碗出土
  (豊臣秀吉の寄贈?)
A高崎城・・・井伊直政は2年しかいないので、
        天守閣はなかった。
  御殿を本丸から二の丸に移した。
B彦根城・・・慶長12年(1607)完成。


17)西の丸
@箕輪城・・・通仲曲輪に相当する。
A高崎城・・・西の丸:武田時代に馬場信房が改修工事した場所
     (現学芸館高校と医療センター体育館の間)
B彦根城・・・西の丸

18)西の丸三重櫓(重文)
10m以上の石垣の上に築かれた。


19)大堀切〜竪堀〜本丸を防ぐ石垣
@箕輪城・・・大堀切1つ
A高崎城・・・北条流?障子堀に早川がした。
B彦根城・・・大堀切〜竪堀〜本丸を防ぐ片側だけ石垣の
   セットになっている。
本丸を防ぐ片側だけ石垣は彦根城だけしかないオリジナル
   かもしれない。


20)山崎山道

21)観音台・・・かつて漢音様があった。信仰の山だった。


22)土佐郭→山崎郭
 @箕輪城・・・木俣(郭)は郭馬出の南にあって展望がきく
        場所であった。
 A高崎城・・・木俣屋敷不明。二の丸付近か?
        重臣達は二の丸・三の丸の内堀の西に住んだ。
 B彦根城
  4人の重臣も内堀内から内堀と中堀の間に移住し、
  内堀内は井伊家しかいない状態になった。
初めは木俣土佐守守勝は土佐郭に住んでいた。
後、表門〜佐和口(表門)の内側に陣取った。

23)「石垣文化」・・・
@箕輪城・・・群馬では少ない石垣が数ヶ所ある。
         榛名白川からの石を運んだ。
         三の丸石垣は高さ4、1mある。
A高崎城・・・門下や狭間下に石垣が多用されている。
C彦根城・・・丸馬出部分の耐震構造が凄い。
算木積みも多い。
   石垣文化で世界遺産を目指している。
ガイド宮嶋さん「穴太衆ではなく、箕輪衆・高崎衆が造った
   のであろう。」


12:00 〜13:45 昼食 兼 情報交換会
歴代の5代彦根城ボランティアガイドさんがおみえになった。
*箱弁当

ガイドさんは家臣団の史料をを用意して下さった。

箕輪初心・生方井伊直虎・直政137【48話「信長、浜松に来たいってよ】
&浜松城初期
http://53922401.at.webry.info/201712/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第49話:本能寺が変】&伊賀越え
http://53922401.at.webry.info/201712/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第50話『石を継ぐ者』直虎の死】
&直虎の墓
http://53922401.at.webry.info/201712/article_22.html

箕輪初心:井伊直政140『本能寺の変〜天正壬午の乱〜小牧長久手の戦い』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直政141『天正13年(1585)第一次上田合戦〜天正17年』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直政142『天正18年山中城攻撃〜小田原城攻撃
〜箕輪城入城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_3.html

箕輪初心:生方▲井伊直政144【菩提寺:竜門寺縁起】松下3代の墓復刻版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_4.html

箕輪初心:生方▲井伊直政145【箕輪:滝沢寺】中野直之の中興開基か?
http://53922401.at.webry.info/201801/article_5.html

箕輪初心:生方▲井伊直政146【万松寺→恵徳寺】中野直之の妻?母?
:恵徳院開基
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箕輪初心:生方▲井伊直政147『箕輪城時代』:『井伊直政文書集』
大石泰史編を加味した2018年最新版
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箕輪初心:生方▲井伊直政148『箕輪城下町推定絵図』
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箕輪初心:生方▲井伊直政149『箕輪城から高崎城移城』
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箕輪初心:生方◆井伊直政150『高崎の名前の由来』
と無理矢理井伊家関連
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箕輪初心:生方▲井伊直政151『高崎城築城と長野堰・新井堰』
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箕輪初心:生方▲井伊直政152『箕輪城下町から高崎城下町への移動』
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箕輪初心:生方▲井伊直政153『箕輪白銀町・鍛冶町→高崎鍛冶町』
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箕輪初心:生方▲井伊直政153「箕輪から高崎に移った寺社』復刻版
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箕輪初心:生方▲井伊直政154『高崎城と街道整備:中仙道・三国街道』
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箕輪初心:生方▲井伊直政155『高崎城時代の外交』
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箕輪初心:生方▲井伊直政156『直政の外交と決戦:関ヶ原』
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箕輪初心:生方井伊直政157『彦根藩主:井伊直孝が6〜7年間?
過ごした安中北野寺』
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箕輪初心:生方▲井伊直政158『群馬県に残っている井伊直政関連の遺物』
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箕輪初心:生方▲井伊直政159『雪の佐和山城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直政160『彦根城に入れなかった井伊直政』前編
http://53922401.at.webry.info/201801/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直政161『彦根城に入れなかった井伊直政』後編
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箕輪初心:生方▲井伊直政162『@彦根市役所「ひこね城まつり」の話』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_23.html

箕輪初心:生方▲彦根A『大雲寺』上野国出身の第3家老:長野一族開山
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箕輪初心:生方▲彦根D『井伊直弼腹心:長野主膳義言の話→夕食』
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